1日深夜、「朝まで生テレビ」を見た。13人の元帝国軍人が自らの体験を語るという趣向である。番組の内容や感想を織り交ぜながら、論を進めたい。
1942年のこの日(5日)、タイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の測量が始まった。「戦場にかける橋」(デビッド・リーン監督)の舞台でもある。映画では戦時下の友情が描かれていたが、現実は遥かに酷かった。
連合国軍の反撃でインド洋の海路輸送が困難になるや、大本営はインパール作戦に向け、軍事鉄道の建設を決めた。「20世紀全記録」(講談社刊)によると、日本兵1万4000人、連合国捕虜5万5000人が工事に従事した。徴用されたアジア人労働者について、「20世紀――」は6~9万人と記しているが、ビルマ人、タイ人にインドネシア、マレーシアから連行された者を合わせ、20万人以上という統計もある。ジャングルを切り開き、岩盤を粉砕する難工事が続いたが、わずか1年3カ月で416㌔の鉄路にレールを敷設する。
世界を瞠目させた奇跡の陰に多くの犠牲があった。1000人の日本兵、1万3000人の捕虜、3万3000人のアジア人労働者が命を落とした。まさに「死の鉄道」だが、日本は捕虜の扱いを規定したジュネーブ条約(29年)に批准しておらず、戦後になって虐待が表面化する。当地での捕虜の扱いに問題があったことは言を待たないが、讒言や復讐心により、無実の者が戦犯に認定されたケースは少なくなかった。
上記の労働者の犠牲だけでなく、日本軍の強引な物資調達により、アジア各国で多くの死者が出たことは、別項(5月30日)に記した通りだ。日本が掲げた「八紘一宇」のスローガンにどれほど実体が伴っていたのか、疑問符を付けざるをえない。広大な中国を転戦していた池部良さん(俳優)は、自分が何をしているのかわからなくなったと話していた。戦った当事者にとっても「大義」が見えない戦争だったのである。
当時の日本では、自国民の命の値段も安かった。ガダルガナルで死線をさ迷った兵士は、回復半ばでインパールに送られた。ソ連軍は45年8月8日の参戦後、暴虐の限りを尽くしたが、<日中戦争→太平洋戦争>の道筋を作った関東軍は、満州開拓民を守るどころか、猛スピードで敵に背を向け帰国を目指した。「大地の子」(山崎豊子著)にその辺りの事情は詳述されているが、中国残留孤児は官と軍による棄民政策(作戦?)の結果だったのである。
「朝生」の証言中、特に印象に残ったのは、慰霊事業協力団体連合会の責任者として遺骨収集に尽力している寺嶋さんの証言だった。寺嶋さんは南京大虐殺当時、当地に従軍していたが、日本軍が女子供を含む民間人を数珠繋ぎにして揚子江に放り込む場面を目撃している。川面には夥しい数の死体が浮かんでいたという。
番組の最後、田原氏が出演者に小泉首相の靖国参拝の是非を問うたところ、公人としての参拝に賛成したのは13人中2人だった。田原氏のみならず、全国の視聴者も驚いたに違いない。戦後60年、加害も被害も、その記憶は薄れつつある。今回の「朝生」は年齢層を問わず、戦争を知るための絶好の機会だったと思う。