酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

自由からの逃走?~閉塞感が漂う中で

2005-07-29 04:12:39 | 社会、政治

 高校1年の時、<自由>について初めてまじめに考えた。きっかけは国語の教科書に掲載された小林秀雄の評論である。<自由>は<自由な制度>ではなく、<自由を願う精神>の中に存在する……。論旨はこんな感じで、妙に納得した記憶がある。

 10代の頃、<自由>について思い巡らす格好の題材は、お隣の韓国だった。1973年に金大中事件が起き、翌年には「民青学連」のでっち上げで、金芝河氏が逮捕される。民主化のシンボルだった<二人の金>の生命は、風前の灯になっていた。騒然とする<不自由な韓国>を、<自由な日本>からを訪れた人がいた。日本ペンクラブの理事、藤島泰輔氏と白井浩司氏である。74年のこの日(29日)、ペンクラブは大混乱に陥った。藤島氏らが「金芝河氏の逮捕は言論弾圧ではない」「韓国には<一定の自由>がある」と報告したからで、司馬遼太郎、有吉佐和子氏ら、抗議の脱会者が相次いだ。

 俺は早速、小林秀雄の一文を下敷きに、軸が定まらぬ青い頭脳を回転させてみた。藤島氏らの発言は明らかにピンボケだったが、ある考えが、浮かんでは消える。即ち、<自由>を求める精神が横溢する韓国の方が、<自由>を持て余す日本より<自由>かもしれない……。日韓問題に真剣に取り組む人たちにとり、唾棄すべき戯言に相違なかった。

 あれから30年、<自由>に関する限り、日韓の立場は逆転したのではなかろうか。光州事件の痛みを経て、復権した金大中氏が大統領に就任するなど、韓国民衆は変革のダイナミズムを体感した。先日の反米デモに見られるように、エキセントリックな傾向はあるが、<自由国家>として地歩を固めているように映る。

 一方の日本はといえば、「ヒッキー」、「ニート」と若者のベクトルは内側に向かった。大人たちも元気がない。森永卓郎氏は「TVタックル」で、「(サラリーマン増税のような方針に対し)フランスなら全土でデモが起き、韓国なら労働者が火炎瓶を投げている」とコメントしていたが、日本では抗議の声は上がらない。「物言えば唇寒し秋の風」的状況である。

 俺が学生の頃(70年代後半)、大学は既に閉塞感が漂っていた。大半の学生は、環境保護のような穏当なアピールに対しても署名を拒否していた。自分の名が企業に流れたら就職出来なくなるというのが言い分である。「アホな」と思ったが、彼らの不安が的外れではなかったことが明らかになる。早大で江沢民中国主席が講演を行った時(98年)のこと、大学当局は参加した学生の名前と住所のリストを警察に渡していた。戦前の治安維持法下でも、「学の独立」を謳う以上、こんな情けない事態は起きなかったと思う。この事件が氷山の一角だとしたら、日本はかなり高度な<警察国家>ということになる。

 20年近く前、俺が勤め人になって間もない時期の話である。全社的な講習会が近くの区民館で開かれた。平均年齢が低く、10分足らずの会場まで徒歩で向かう若者の群れに、不審の目を光らせていたのが公安担当者だった。後日、区民館や会社に問い合わせがあったという。これが<集会の自由>を憲法で保障している日本の現実だとしたら、北朝鮮の<不自由>を嗤うわけにもいかなくなる。<与えられた自由>は、いまだ血肉化に至らずなのだろうか。

 最後に、気になっていることを。その一。CMで頻繁に流れている「永谷園ウーロン茶漬け」の実物が見つからない。どこで売っているのだろう。その二。世界水泳でフライングする選手がいない。ミュンヘン五輪で田口選手は、確信犯的にフライングして、不敵な笑みを浮かべていた。ルールが厳しくなったのだろうか。

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