酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

ジャン・ルノワール~醒めた目の観察者

2005-07-23 05:02:00 | 映画、ドラマ

 ジャン・ルノワールの「ゲ-ムの規則」(39年)と「草の上の昼食」(59年)をシネフィル・イマジカで見た。感想を以下に記してみる。

 「ゲ-ムの規則」は映画史上ベストテンで上位にランクされているが、公開当時は評論家にも観客にも無視されたという。同時代のカルネやデュヴィヴィエの宿命に彩られた作品群と比べると、本作は明らかに異質だ。ラ・シェネイ侯爵の別荘を舞台にしたソープオペラ風群像劇で、その手法がアルトマンらに影響を与えたことは想像に難くない。ルノワール自身が挫折した芸術家役で出演している点も興味深い。

 侯爵夫人のクリスチーヌは、物憂げな佇まいで男たちに色目を流し続ける。彼女への思いを胸に大西洋横断飛行に挑んだアンドレに対しても、その一途さに危険を感じた途端、冷たく振る舞う。クリスチーヌに限らず、登場人物たちが望んでいるのは、<崇高な愛>ではなく、<一夜のアバンチュール>なのだ。「ラ・シェネイは(貴族という)階級を守った」というラストの将軍の述懐が、体裁を繕い、傷つかないで生きるための<規則>を雄弁に物語っている。上流階級は自らを守るために罪を共有し、いかなる犠牲も顧みない。支配層のモラルの紊乱を暴くことは、第2次大戦を控えた時期、寛容なフランスにおいても御法度であったはずだ。ルノワールの不遇は、虎の尾を踏んだせいと推測するしかない。

 本作で思い出すのがフィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」だ。「ゲーム――」はフランス、「華麗なる――」はアメリカと国は違えど、20~30年代の上流階級の堕落を描いている。ブルジョア出身ではないロマンチストの男が、愛と夢を追いながら非業の死を遂げる結末も、不思議なほど似ている。

 「草の上の昼食」は設定に妙のある社会派コメディーだ。アレクシ教授は人工受精の適用を掲げ、「ヨーロッパ連合」の初代大統領選挙に立候補する。その考えに共鳴した田舎娘ネネットは、召使としてアレクシ家に潜り込んだ。アレクシの理論たるやナチスの優生学そのまま、婚約者のいでたちもヒトラー・ユーゲントと、ブラックユーモアに満ちている。森の中で催された婚約パーティーは、羊飼いの笛が招来した嵐で大混乱に陥り、アレクシとネネットが置き去りにされる。水浴びするネネットの裸体を覗き見たアレクシは、本能の赴くまま、主義に反する行為に走ってしまう。ネネットと恋に落ち、その実家に居候するアレクシだが、彼を利用せんと企む者に連れ戻され、二人は引き離された。すべて旧に復したかに思えた刹那、意外な方向に急転回する。

 本作は父オーギュスト(印象画の巨匠)に捧げられた自然賛歌だ。豊満で開放的なネネットは、父の絵から抜け出た裸婦そのもののイメージである。ルノワールは孤高の巨匠という先入観があったが、いい意味で肩透かしを食らった。作品はユーモアと皮肉に満ち、自嘲的で逸脱している。<醒めた観察者>が実像ではなかろうか。


コメント
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