酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「黒地の絵」~松本清張という坩堝

2005-07-11 02:46:15 | 読書

 1950年のこの日(11日)、祇園祭で賑わう小倉で事件が起きた。「20世紀全記録」(講談社刊)によると、朝鮮への出兵を控え、日々密度が増していた米軍キャンプから、250人の武装黒人兵が脱走する。2個中隊が出動し、市街戦を経て4日後に鎮圧されたが、強盗、婦女暴行などの被害の実態は、米軍の報道管制、世間体を気にした泣き寝入りもあり、詳らかにされることはなかった。

 小倉市民だった松本清張は58年、事件をテーマに「黒地の絵」を書き上げる。妻が暴行されたことで家庭と正気を失くした男が、屈折した復讐を果たすというストーリーである。黒人兵は加害の側だが、彼らが差別によって「死の戦線」に送られる仕組みを描くことも忘れていない。平野謙氏は解説で、<独特の切り込み方は発揮されているが、題材の衝撃的な重さは十全に処理されていない>と、本作を否定的に評していた。消化不良は否めないが、後半部分で主観(語り手)を変えたり、新聞記事を挿入したりと、小説の斬新な形に挑んだともいえる。「理由」(宮部みゆき著)で示された手法の先駆けかもしれない。

 伊藤整は<プロレタリア文学が表現し切れなかった民衆の心理や生き様を抽出したことが、松本清張の功績である>と記していた。プロレタリア文学の正統な継承者としてキャリアをスタートさせた清張だが、50年代の週刊誌創刊ブームに乗り、社会派推理作家としての地位を確立した。清張は小説のみならず、ノンフィクション、歴史物と幅広い分野で作品を発表し続けた。質を伴った多作ぶりに、「自動タイプライター」と揶揄する声もあったという。

 冷徹、精緻というのが清張のイメ-ジで、作風を色に喩えれば青だったが、「黒地の絵」を表題にする短編集(新潮文庫)を二十数年ぶりに読み返して、全く別の清張像に気付いた。主調は決して青ではない。白でも緑でもない。燃えたぎる赤と薄汚れた黒が坩堝で混ざり合い、ブクブク悪臭を放っている。作品が書き手の心象世界の反映であるなら、清張の内面は煩悩、我執、劣等感に覆われており、執筆という行為によって自らを濾過していたのではなかろうか。

 他の掲載作について簡単に触れる。「装飾評伝」と「真贋の森」は、敗残した男の怨嗟が、美術への深い造詣を背景に描かれている。嫉妬が生んだ「二階」の凄まじい結末には、思わず息を呑んだ。「紙の牙」はペンの暴力を、「空白の意匠」はマスコミの病巣を描いているが、主人公の最後はともに哀れである。興味深いのが「確証」だ。妻と同僚との浮気を疑った男は、証拠を掴むため避妊具なしで娼婦と関係を持ち、進んで性病に罹る。病気が遡及する様子を楽しむ男に、ドンデン返しが待ち受けていた。反倫理的、ブラックユーモア風の作品である。実証を是とする清張のこと、作品を読む限り、淋病の経験があるとしか思えないが……。

 ある考えが脳裏をよぎる。ページに映るのは、書き手だけでなく、読み手の心的風景でもあると。清張作品との再会で見つけた<毒>や<負の感情>は、俺の心に巣食った<荒み>を等身大に写しただけかもしれない。

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「ベンゴ」の彼方に見えるもの

2005-07-09 05:46:56 | 映画、ドラマ

 映画には作り手の意志が反映する。人種や時代を超え、普遍的な人間の感情をくすぐる作品がある。ワイルダーや黒沢が礎を築き、ハリウッドに継承された方法論だ。一方で、アンゲロプロスやマフバルバフのように、自ら立脚するものに執着する監督もいる。トニー・ガトリフも同様の志向を保持し、ロマをテーマにフィルムを回し続けている。

 「モンド」と「僕のスウィング」の感想は別項(6月27日)に記したが、今回は「ベンゴ」を軸に、ロマの音楽について述べたい。「ベンゴ」の舞台は、スペインのアンダルシアである。主人公のカコは一家の大立て者だが、最愛の娘ペパを亡くし、酒浸りのすさんだ日々を送っている。兄マリオがカラバカ一家の長男を殺したことで、体に障害を持つ甥のディエゴの命が危うくなる。ディエゴと強い絆で結ばれるカコは、「予告された殺人の記録」の結末のように、祝祭と宿命のドラマに身を委ねる。

 ガトリフ作品で印象的なのがロマの音楽だ。「ガッジョ・ディーロ」では、苦難の歴史から生まれた曲の数々が胸を打つ。「モンド」は精霊の囁きのような癒しの音で彩られていた。「僕のスウィング」では、ジャズとロマの伝統音楽が融合したマヌーシュが全編に流れていた。そして本作「ベンゴ」では、情熱的なフラメンコの演奏シーンが作品中にちりばめられている。フラメンコはスペイン一国というより、<南欧―中近東―北アフリカ>に広がるロマのネットワークが醸成した音楽かもしれない。ちなみに、カコを演じたアントニオ・カナーレスはスペインを代表するダンサーという。
 
 酒場でグラマーな熟女が、♪七色の虹が消えてしまったの シャボン玉のようなあたしの涙……と「ラブユー・東京」を日本語で歌う場面も印象的だった。小節の利かせ方など、演歌とロマの歌に共通する部分がある。演歌の発祥は朝鮮半島といわれているし、源流を遡ればロマに行き着くかもしれない。

 昨日(8日付)の朝日新聞夕刊にジェフ・ベックのインタビューが掲載されていた。ベックは最も尊敬するギタリストにロマのマヌーシュ奏者、ジャンゴ・ラインハルトを挙げていた。ロマの音楽は幅広い分野に浸透しているのではなかろうか。閃くままヤフーで検索してみると、「ウイルペキア」で興味深い記述を見つけた。リストの「ハンガリア狂詩曲」、ブラームスの「ハンガリー舞曲」、サラサーテの「ツィゴネルワイゼン」などロマン派の名曲は、ロマの音楽に触発されて作られたという。そもそも、「ロマン」「ロマンス」「ロマンチック」の語源が「ロマ」であっても、何ら不思議はないのだが……。

 クラシックへの影響は上記の通りだが、ロックはどうだろう。最初に思い浮かぶのがレッド・ツェッペリンだ。ロバート・プラントはデビュー時、インド系イギリス人といわれていたが、ジミー・ペイジのオリエンタルな佇まいと合わせ、ロマの匂いがするバンドである。「移民の歌」「祭典の日」「流浪の民」といった曲もあるし、中後期はボーダレスな音楽を志向していた。ジェスロ・タルのイアン・アンダーソンは一貫してロマ風の放浪者、吟遊詩人のイメージを前面に押し出している。ツェッペリンやジェスロ・タルにも影響を与えたブリティッシュトラッドは、「ウィッカーマン」に描かれたように、非キリスト的(ロマ的?)信仰と結びつき、異端の薫りがする音楽なのである。

 地理上はロマと無縁に思えるアメリカにも、流離の文化は根付いている。<ボヘミアン階級>は社会主義への弾圧によって生まれた政治的漂流者だが、<ヒッピー>はロマと近似的な文化だと思う。欧州帰りの兵士が結成した<ヘルズエンジェルズ>にも、威圧的な装いを差し引けば、ロマの影響が窺える。

 とまあ、最後はとりとめのない話になってしまった。<文化は漂泊者の手で生み出され、周縁に伝播した>ことは歴史が証明しているし、担い手たるロマを「発見」したことは、俺にとって今年最大の収穫だった。

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G8とライブ8~アフリカ救済の道筋は

2005-07-07 05:21:00 | 社会、政治

 G8開催に合わせ、アフリカの現状がマスコミで紹介されている。債務を100%帳消しにし、支援額を年間500億㌦に倍増しても、アフリカの状況が早急に好転する可能性は低いという。内戦やエイズで10~30代が空洞化しているからだ。テレビ画面の悲惨な映像は、傍観するだけの自分の無力さ、罪深さを抉り出してくれる。まず必要なのは、目をそむけず、考えること……。空理空論は承知の上で、国連主導を前提に、俺なりの<構造改革案>を述べてみたい。

 その①<内戦の早期停止>…部族間や宗教間の憎しみは、強制力をもって克服させるしかない。世界的なネットワークを有し、先進国の支配層と結びつく「死の商人」の排除も必要だ。

 その②<土地改良への取り組み>…アフリカの多くの土地は農業に適さない。30~50年のスパンで土地改良、灌漑施設の整備に努めるしかない。

 その③<保護主義の導入>…一定の収益を上げていたアフリカ産のコーヒー、紅茶、乳製品は、グローバリズムの波に呑まれ、輸入品に駆逐されつつある。産業の基盤が脆弱なアフリカでは保護主義を採り、反グローバリズムの下で成長を促進させるしかない。

 その④<避妊具使用の徹底>…貧困の主因といえる人口増を緩和し、エイズ蔓延に歯止めを掛けるためにも、避妊具使用の徹底が必要だ。カトリックは避妊そのものに否定的だが、地域限定の「宗旨変え」を願うしかない。

 その⑤<教育費の無料化>…人的資源が国の将来を左右する。教育費を無料に、宿泊施設も兼ねる学校を造り、ストリートチルドレンを収容するのも一つの案ではないか。

 その⑥<石油利権の還元>…アフリカ大陸の至る所で、先進国や中国が油田の先物買いに血眼になっている。アフリカをサンクチュアリに指定し、資本家や支配層が利権を貪る構造を改め、民衆に還元する仕組みを作るべきだ。

 以上、ひねり出せる限りの「イマジン」風理想論を提示してみた。

 G8に先立ってライブ8が開催された。その感想を一言で述べると<ポール的>である。俺はロッカーの政治性をビートルズに遡り、<ジョン的>と<ポール的>の二つのカテゴリーに分類している。前者のイメージは抜本的、理想的、ラディカル、反体制的で、後者はパッチワーク的、現実的、微温的、体制補完的といったところか。メジャーと契約する有名ロッカーは<ポール的>にならざるをえない。ミッジ・ユーロ(ライブ8主催者)はG8反対デモが過激化しないよう釘を刺していたが、さもありなんと思った。

 肝心のショーだが、俺にとってのハイライトは、元ヴァーヴのリチャード・アシュクロフトがコールドプレイをバックに「ビター・スイート・シンフォニー」を歌った場面である。グリーンデイやミューズも良かったが、<ジョン的>と信じていたオーディオスレイヴの登場には失望した。終盤は目を覆わざるを得ない。ピンク・フロイドが出てくるわ、<ポール的>のご本人がトリを務めるわ、欧米版「紅白歌合戦」にゲップが出てしまった。

 口直しはスカパーで放映されたECW「ワンナイト・スタンド」である。ECWについては別項(2月6日)で詳述したが、「ライズ&フォール」のDVDが空前のセールスを記録して、一夜限りの復活を後押しした。ファンの熱さはまさにパンクで、カウンターカルチャー色の濃いPPVといえる。ECWを飛躍のきっかけにしたオースチンが登場し、影響を受けたサンドマンに敬意を表していたのも感動的だった。解説のミック・フォーリーはFMW、IWAに言及して日本のプロレスへの憧憬を滲ませていたし、田中将斗、田尻義博の奮闘も見事だった。

 WWEに所属しないレスラーたちは、夢から覚めると、安いギャラでビンゴホールを回るのだろう。祭りの後の哀歓に、胸がチクチクするのを覚えた。

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「戦場にかける橋」の真実

2005-07-05 06:22:13 | 社会、政治

 1日深夜、「朝まで生テレビ」を見た。13人の元帝国軍人が自らの体験を語るという趣向である。番組の内容や感想を織り交ぜながら、論を進めたい。

 1942年のこの日(5日)、タイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の測量が始まった。「戦場にかける橋」(デビッド・リーン監督)の舞台でもある。映画では戦時下の友情が描かれていたが、現実は遥かに酷かった。

 連合国軍の反撃でインド洋の海路輸送が困難になるや、大本営はインパール作戦に向け、軍事鉄道の建設を決めた。「20世紀全記録」(講談社刊)によると、日本兵1万4000人、連合国捕虜5万5000人が工事に従事した。徴用されたアジア人労働者について、「20世紀――」は6~9万人と記しているが、ビルマ人、タイ人にインドネシア、マレーシアから連行された者を合わせ、20万人以上という統計もある。ジャングルを切り開き、岩盤を粉砕する難工事が続いたが、わずか1年3カ月で416㌔の鉄路にレールを敷設する。

 世界を瞠目させた奇跡の陰に多くの犠牲があった。1000人の日本兵、1万3000人の捕虜、3万3000人のアジア人労働者が命を落とした。まさに「死の鉄道」だが、日本は捕虜の扱いを規定したジュネーブ条約(29年)に批准しておらず、戦後になって虐待が表面化する。当地での捕虜の扱いに問題があったことは言を待たないが、讒言や復讐心により、無実の者が戦犯に認定されたケースは少なくなかった。

 上記の労働者の犠牲だけでなく、日本軍の強引な物資調達により、アジア各国で多くの死者が出たことは、別項(5月30日)に記した通りだ。日本が掲げた「八紘一宇」のスローガンにどれほど実体が伴っていたのか、疑問符を付けざるをえない。広大な中国を転戦していた池部良さん(俳優)は、自分が何をしているのかわからなくなったと話していた。戦った当事者にとっても「大義」が見えない戦争だったのである。

 当時の日本では、自国民の命の値段も安かった。ガダルガナルで死線をさ迷った兵士は、回復半ばでインパールに送られた。ソ連軍は45年8月8日の参戦後、暴虐の限りを尽くしたが、<日中戦争→太平洋戦争>の道筋を作った関東軍は、満州開拓民を守るどころか、猛スピードで敵に背を向け帰国を目指した。「大地の子」(山崎豊子著)にその辺りの事情は詳述されているが、中国残留孤児は官と軍による棄民政策(作戦?)の結果だったのである。

 「朝生」の証言中、特に印象に残ったのは、慰霊事業協力団体連合会の責任者として遺骨収集に尽力している寺嶋さんの証言だった。寺嶋さんは南京大虐殺当時、当地に従軍していたが、日本軍が女子供を含む民間人を数珠繋ぎにして揚子江に放り込む場面を目撃している。川面には夥しい数の死体が浮かんでいたという。

 番組の最後、田原氏が出演者に小泉首相の靖国参拝の是非を問うたところ、公人としての参拝に賛成したのは13人中2人だった。田原氏のみならず、全国の視聴者も驚いたに違いない。戦後60年、加害も被害も、その記憶は薄れつつある。今回の「朝生」は年齢層を問わず、戦争を知るための絶好の機会だったと思う。

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時代に殉じた者たち~ジム・モリソン、そして

2005-07-03 02:34:32 | 音楽

 1971年のこの日(3日)、ジム・モリソンが死んだ。パリのアパート、バスルームで事切れていたのを恋人が発見した。直接の死因は心臓発作だった。

 UCLAの映画学科に入学したジムは、ビートニク気取りで詩人を目指し、朗読会に参加していた。レイ・マンザレクはジムを発見するや、ボーカリストに据え、ドアーズ結成に至る。バンド名の由来はウィリアム・ブレイクの詩だった。

 67年1月の1st“The Doors”は、ギターレスの斬新さ、奥深い歌詞で注目を浴びたが、何よりファンを惹きつけたのは悪魔憑きのようなジムの声だった。突き抜けるような#1「ブレーク・オン・スルー」、アコースティックな#3「水晶の舟」、オイディプス・コンプレックスをテーマにした#11「ジ・エンド」などバラエティーに富んでいるが、#6「ハートに火をつけて」の大ヒット(年間2位)が、ドアーズの名を全世界に知らしめることになる。

 2nd“Strange Days”を最高傑作に挙げるファンが多い。ヒットした#3「ラヴ・ミー・トゥー・タイムズ」に加え、#1「ストレンジ・デイズ」、#2「迷子の少女」、#7「まぼろしの世界」など陰翳のある曲が並んでいる。ジャケットも印象的で、フリークスを含む大道芸人がポーズを取る構図は、幻想的で退嬰的な音と見事にマッチしている。

 皮肉なことに、最初の2枚の成功が状況を悪化させた。アルバム制作を急ぐレコード会社が圧力を掛けてきたが、過酷なツアーでバンドは擦り切れ、3~5枚目は明らかに精彩を欠いていた。文学を志すジムにとって、アイドル、セックスシンボルとして振る舞うことは苦痛だったに違いない。

 ジムの反逆児としてのイメージを確立した二つの事件がある。一つ目は全米注視の「エド・サリバンショー」で、ジムは局との約束を破り、放送コードに抵触する詞をそのまま歌った。もちろん確信犯だが、ルールに従って「お行儀良さ」を印象付けたストーンズとは対照的だった。二つ目はマスターベーション事件である。ステージで下半身裸になり、現行犯で逮捕される。ジムの行為は「自慰」でも「意思表示」でもなく、追い詰められた者の「自損」だったと思う。「もう、やめたい。助けてくれ」とSOSを発信していたのではないだろうか。

 復調の兆しが窺えた“L.A.Woman”発表後、ジムは執筆生活に専念するためパリに向かい、短い人生を終えた。4年の活動期間だったが、ドアーズは狂気や内向のベクトルをロックに導入した先駆者だった。ストラングラーズ、ジョイ・ディヴィジョン、キュアー、エコー&バニーメンなどに、ドアーズの色濃い影響が感じられる。

 以下に、ジムと同時代を生き、鮮烈な死を遂げた者たちについて簡単に記したい。

 70年9月18日、ジミ・ヘンドリクスは薬物の過剰摂取で急逝した。モンタレーやウッドストックで歴史的名演を披露したジミヘンだが、死の直前のワイト島フェスの頃にはボロボロになっていた。「才能が壊れてしまった姿を目の当たりにし、仲間として悲しくなった」と、フーのピート・タウンゼントが語っていた。

 同年10月4日、ジャニス・ジョプリンが亡くなった。「ローズ」にも描かれているが、ジャニスは孤独と絶望に蝕まれ、薬物や酒に溺れていった。死の20日ほど前、ベッシー・スミスの墓碑を購入し、敬意の言葉を刻んでいる。死の直前には遺書に手を加え、遺灰を海にまくよう依頼していた。ジャニスは緩やかな自殺を企てていたのかもしれない。

 同年11月25日、アルバート・アイラーが刺殺体でイーストリバーに浮かんだ。三島が割腹自殺した日でもある。享年34歳だった。形に捉われない点で、アイラーとジミヘンは重なる部分が大きい。この2人がジャンルを超えてセッションをしていたら、限りなく自由で浮遊感のある音楽を奏でていたに違いない。

 くしくも同じ27歳でこの世を去ったジャニス、ジミヘン、ジム・モリソンの死については謀殺説も流れたが、想像の域を出ないと思う。彼らは時代のパトスに炙られ、死を待たずして真っ白に燃え尽きていたからだ。


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都議選を前に~アンチから見た石原都知事

2005-07-01 04:58:44 | 社会、政治

 都議選の投票が2日後に迫った。世論調査を見る限り、<自民―民主>の保守2党体制が都政でも確立されそうだ。石原慎太郎都知事の支持率も依然として高く、60~70%で推移している。俺はといえば、ガキの頃からアンチ石原で、今や肩身の狭い少数派だ。資格なしは承知の上で、的外れの石原論を述べてみたい。

 その①<人気を支える家族幻想>…作家から政治家に転じ、常に青さを滲ませる兄。不良少年から人気俳優になり、老成した雰囲気を漂わせた弟。裕次郎の死により、「理想の兄弟像」は色褪せることはない。石原氏の息子への溺愛、婚外子の存在も、人間臭さの表れと許されてしまう。家族に幻想を抱かぬ外れ者のみ、違和感を覚えるのだろう。

 その②<素はナイーブ?>…石原氏は一段高い所に立って他人と接している。持論を居丈高に述べ、気に入らないと怒り、逃げる。傲慢さというより、弱みを曝したくないという防衛本能が見え隠れする。氏が繊細であることは、話す時の神経症的な表情からも明らかだ。

 その③<石原氏は田中氏と似ている>…今春、「サンデープロジェクト」に出演した田中康夫長野県知事は、石原氏を知事会会長に推していた。両氏は同窓(一橋大)とはいえ、思想的には水と油のはず。それでも田中氏が石原支持を表明したのは、行政官としての手腕を認めているからだろう。この二人には個人主義者という共通点がある。登庁日数の少なさを批判する声になぞ、石原氏が拘泥するはずもない。

 その④<石原氏は真正右翼ではない>…野坂昭如氏との対談集「闘論」でも明かしていたように、石原氏は皇室崇拝者ではない。日本の伝統的な右翼に特徴的な資質が幾つかある。北一輝らが示した大アジア主義、三島由紀夫が体現した純粋さ、黒幕の鷹揚さや寛容さ、自己犠牲や和への執着……。これらはすべて、石原氏と無縁である。

 その⑤<無謬神話に基づく石原人気>…石原氏の政治的な傷といえば、新井将敬氏(故人)への選挙妨害、某ゼネコンとの強い結びつき、浜渦副知事の独断専行を許したこと……。これらについて側近は泥を被ったが、石原氏の責任を問う声は小さい。唯一、棘として刺さっているのが、同志(青嵐会)を裏切り、日中平和条約に賛成した経緯か。これも一つの政治的決断だが、「土壇場で逃げる男」という評価に苦しんだとされている。

 その⑥<石原氏を支える選民意識>…俺は万能だから、何を言っても許される……。石原氏とその支持者は、年月を掛けて<仮構の舞台>を作り上げた。女性蔑視発言など通常の感覚では許されないが、当の女性が不支持に回らないのだから仕方ない。最近目立つのは「三国人」などアジア関連の暴言だが、ボロクソなのは全方位で、以前はアメリカを遡上に載せていた。そのせいもあったのか、横田基地問題では、住民側の理解は得たものの、アメリカ側のは反応は冷たかった。

 その⑦<人脈の不思議な広がり>…共著もある中曽根元首相を除けば、石原氏が敬意を払う政治家は少ないはずだが、野中広務氏とは定期的に一席設けていた。野中氏といえば、石原支持者が蛇笏の如く嫌う<親中国、北朝鮮>の総大将だった。石原新党立ち上げも絡んでいたのだろうが、傍目には不思議なねじれである。石原氏は<リベラル>の代表格、菅直人氏とも親交があるという。そのせいか、後継都知事は菅氏との憶測さえある。

 肝心の政策だが、勉強不足ゆえ、福祉切り捨て、ディーゼル規制ぐらいしか思い浮かばない。<日の丸・君が代>を学校に導入しているが、教育現場で取り組むべきことが他にある。例えば、若年層の性感染症、薬物汚染の防止。確かに歌舞伎町は浄化されたが、<欲望のサイクル>を断たないと、汚れは低年齢層を染めるだけだ。

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