弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

月刊誌に何が起きているのか

2006-03-21 20:21:09 | 歴史・社会
日々世の中で発生するさまざまな事象・事件について、なぜそのような事象が起きているのか、その事件の本当の原因は何だろうか、今後どのように発展するのだろうか、といった疑問が生じます。
かといって、自分自身でその事象・事件の本質に迫る取材ができるわけでもありません。信頼できるソースを定めて、「あの人の言うことなら多分そうなのだろう」「この紙誌にこの執筆者でこのように記載されているのなら信頼できそうだ」と納得していくしかありません。
このような疑問に対して、新聞はほとんど無力です。現在起きている事象の上っ面が報道されるだけで、「○○という声が上がっている」とか、主体のはっきりしない、本当にそのような意見があるのかどうかも疑わしい文言が踊るのみです。
従来、私は月刊誌を唯一のよりどころとしていました。特に文藝春秋ですね。何か根の深そうな事件が発生するたびに、はやく文藝春秋で取り上げて掘り下げてくれないか、と心待ちしたものです。
ところが、最近の月刊誌はこのような私の希望にほとんど答えなくなりました。電車の中吊り広告を見ても、買いたいと思う号がありません。この2年ほど、文藝春秋を買うことはありませんでした。一時月刊現代を何回か買ったことがあるのですが、最近はそれもありません。
月刊誌に何か構造変化が起こっているのでしょうか。

もうひとつ、不思議なことがあります。
現在の日本が抱える構造問題は何だろうか、と疑問に思ったとき、私は櫻井よしこさんの「日本の危機」や猪瀬直樹さんの「日本国の研究」を読んで、「なるほどそうなっていたのか」と納得してきました。しかし、このような解析が、なぜいつも個人の著作として出てくるのか。もちろん、スポンサー雑誌社が取材資金を出したりスタッフを提供したりする場合も多いのでしょうが、発表は個人ライター名でされます。日本の構造問題なのだから、資金力のある大手ジャーナリズムが自分の取材力で取材することができるはずなのに。

石井政之さん編著「文筆生活の現場」は、フリーランスのノンフィクションライターの現状を述べた書物ですが、最近の出版不況でライターへの締め付けも厳しくなっている状況が描かれています。

ジャーナリストの矢崎泰久さんは、商業ジャーナリズムの発達によって、世界的に、ジャーナリストの独立性が次第に失われて、言論・表現の自由が奪われつつあると述べられています。
「仕事の多いジャーナリストは、独自な主張を持たない便利屋のようなタイプばかりで、物事の真実とか是非とかを問わない御用ジャーナリストばかりになってしまう。」「現在、市場に氾濫している雑誌などを見れば歴然としているが、本来の意味でのジャーナリストはどこにも執筆していない。簡潔に言えばはじかれているのである。」

私が、「信頼に足りる言論に接するチャンスが最近とみに減少している」と感じるのは、以上のような状況があるからなのでしょうか。また、大手ジャーナリズムが自分の名前で問題の本質に切り込まないのも、それが許されない業界の事情があるということでしょうか。

矢崎泰久さんのブログにトラックバックを試みます。(もしトラックバックに成功したら)矢崎さん、これからも貴重なお話を聞かせていただきますよう、お願いいたします。
コメント
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