弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

イラク戦争とファルージャ

2006-03-06 00:05:31 | 歴史・社会
イラク戦争が終結した後のイラク情勢は、バクダード近郊の町ファルージャを軸に動いているように見えます。ファルージャを中心とするこの3年間のできごとを、酒井啓子さんの著作に基づいて追ってみます。

2003年4月、イラク戦争が終結する直前、米軍はファルージャの学校敷地内に駐屯していました。ファルージャ市民が学校を返してくれと要請し、その交渉がエスカレートする中、米軍が発砲してファルージャ市民17人が死亡します。この事件を契機として、ファルージャ市民は米軍に対する武力闘争を開始します。
米軍は、この武力闘争に対抗して、ろくな証拠もないのにイラク人を逮捕する不当捜査を行い、ファルージャ市民はますます米軍への憎しみを増大させます。アブグレイブ刑務所に投獄され、虐待を受けたイラク人は、このような人たちが多いでしょう。
2004年3月の時点で、ファルージャ市民の米軍に対する憎しみは頂点に達します。後に殺害された日本人ジャーナリストの橋田信介さんらが、この時期にファルージャを訪れています(現代・2004・6月号)。家族や親戚が米軍に長期拘留され乱暴され、土地の青年は暗い顔で「米軍を八つ裂きにしてやりたい」とつぶやきます。

そしてその直後、米国の警備会社に勤務する4人の民間人(後から考えれば傭兵ですね)が、ファルージャで死体を焼かれて橋に吊されるところが世界に放映されます。そのことが米国世論に激しい反感を引き起こし、4日後に米軍は突き動かされるようにファルージャに侵攻し、600人以上のイラク人が死亡したとされます。
日本人3人がファルージャ近郊で拉致され人質となったのはこの直後です。時期と場所が悪かったですね。
米軍のこの行動がイラク全土に対米非難を巻き起こし、米軍はファルージャから撤退せざるを得なくなりました。米軍撤退後のファルージャが反米の一大拠点になったことは想像に難くありません。

その後、ファルージャを根城にアルカイダ組織のザルカーウィが活動しているとの理由で、2004年11月に米軍はファルージャを再度攻撃します。全住民に退去命令を出し、居残ったイラク人はすべて掃討するという徹底したものでした。このとき、イラク人1500~2000人が死亡したとされます。当時私は、「米国にとってのファルージャは、ロシアにとってのチェチェンと同じものになった」と感じました。イラクでの制憲議会選挙のわずか3ヶ月前でした。

このときのファルージャの悲劇に対し、イラクのスンニー派は、全イラク人に制憲議会選挙のボイコットを呼びかけました。ところがこの選挙で、シーア派はボイコットせず、シスターニ師を中心に選挙での多数派運動を進めます。その結果として、選挙ではシーア派が多数を占めることになりました。
このときから、イラクスンニー派の人たちは、米国を憎むと同時にシーア派を憎むようになったようです。

それまでのイラクは、スンニー派、シーア派と別れてはいても、政治の世界では宗派対立は尖鋭化せず、うまく共存していたようです。それがこのファルージャ侵攻と制憲議会選挙の後、変わりました。2005年1月に酒井啓子さんは、内戦は杞憂ではなくなってきたと述べています。2005年はそうした派閥抗争、地盤争いが最も熾烈になりうる政治日程が詰まっているから、という理由です。

それから1年が経過し、現在に至っています。この1年間の動きはよく把握できていません。酒井啓子さんの著作が出ていないからです。
しかし、2月28日の朝日新聞社説でも「内戦の悪夢が見える」と述べています。米国にはこれを治める力がありません。むしろ、ファルージャでの振る舞いを見る限り、米国が今の混乱を作り出した元凶であるといえるでしょう。

この記事を書くに当たり、岩波ブックレット「米軍はイラクで何をしたのか ファルージャと刑務所での証言から」を読んでみました。2004年7月に書かれているので、米軍による最初のファルージャ侵攻までが記録されています。
米軍はイラクで何をしたのか―ファルージャと刑務所での証言から (岩波ブックレット)
土井 敏邦
岩波書店

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最初の侵攻で、戦える市民は武器を取って市街戦を戦い、そうでない者は自宅で息を殺していました。それに対し、米軍はヘリや戦闘機で住宅を無差別爆撃し、これによって多数の市民が殺戮されました。死亡したイラク人の半数は女性と子供だったということです。一方、米軍は市街戦で激しい抵抗に遭い、結局全市を制圧することができなかったのです。
これはまるでエリツィンがやった第1次チェチェン戦争ですね。

半年後のファルージャ第2回侵攻についての詳細は把握していません。ファルージャ市とファルージャ市民は、さらに激しく破壊・殺戮されたのでしょう。こちらはプーチンによる第2次チェチェン戦争を彷彿とさせます。

コメント (2)
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