<3272> 作歌ノート ジャーナル思考 (十)
聞け足らぬ見よなほ足らぬ思ふ身の思ひの在処思へばなほも 在処(ありか)
Observe and analyse
Know and build
Out of research poetry comes.
John Griason
これは十九世紀イギリスの記録映画の第一人者ジョン・グリアーゾンの言葉である。この言葉には記録映画がいかにして作られるべきかということが述べられているが、この言葉は人生訓としても意味の深い言葉として受け取れる。言葉は命令形であるが、末尾に「足らぬ」を付けてみれば、人生訓としての色合いがより鮮明になって来る。つまり、次の歌のような意味合いになる。
見よ足らぬ聞けなほ足らぬ解するに築くに足らぬゆゑになほあれ
なほ足らぬなほまだ足らぬ語るにはその観察もその認識も
足らざれば足らざるままに行くほかはあらぬがしかしよしとは言へぬ
観察が足りない。分析も足りない。ゆえに、認識することも、構築することも十分にはなされない。足りない観察や分析のために懐疑が生まれ、推理と想像が逞しくなる。その推理や想像が美しく豊かであればよいが、貧しければ、足りない調査の分、推理も想像も貧しくならざるを得ない。もっとよく観察し、もっとよく分析し、その上でしっかり認識し、構築しなければならない。美しく感動的な詩は如何にして生まれるか。そのことをよく承知しなければならない。
見よよく見識れよく識らば自づから足るなり足れば詩歌は生るる 生(あ)
あなたの明日は、あなたの今日にかかっている。今日あることは、明日への思いに繋がる。しっかり見、しっかり聞き、しっかり感じ、そして、しっかり分析し、しっかり認識すること。そうすれば、あなたの明日は自ずから開かれたものになるだろう。
グリアーゾンの言葉はこのように言っていると理解される。この言葉をよく実践したのはウオルト・デイズニーの記録映画『砂漠は生きている』であった。超スローモーションのサボテンの開花シーンなどが評価された画期的な作品だった。では、もう一度グリアーゾンの言葉を聞いてみよう。
Observe and analyse
Know and build
Out of research poetry comes.
美しく感動的な詩は如何にして生まれるか。それは、心を虚にし、よく見、よく聞き、そして、よく認識し、よく構築することであると言っている。
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有罪と無罪の間にある思ひたとへば天網恢々のこと
本当のことに近づいたとしても、私たちの能力で、それに触れることは十中八九出来ない。触れることが出来なければ、そこに懐疑が生まれる。そして、私たちは、その本当のものに至れず、懐疑のままでいなくてはならない。これはあまり気分のよいものではない。そこでなるべく真実に近づくよう努めるということになる。それで、一歩真実に近づいたとしても、完璧ではなく、妥協が待っている。ときには「あなたにとって真実でなくても、私にとって真実である」というようなことも言われる。しかし、事実にあれやこれやのあるはずはない。こういうふうに考えると、人の口に上る真実の言いが方便に過ぎないということも言えて来る。
真実が明快に示されないことは裁判の中でもよく現れ、指摘される。全能の神でない私たちは、有罪(罪の重さ)と無罪(罪の軽さ)を決めかねる。昨日有罪であったものが、今日は無罪という光景を私たちはどれほど見て来たか。これは、努力にもかかわらず、いかに私たちの見聞が怪しく、調査が行き届かない中で裁判に向かい、妥協して来たかということを示すもので、私たちは、その限界のもどかしさの中でよく神的存在の顕現を望んだりする。
「天網恢々疎ニシテ漏ラサズ」というが、そのようなことを望み、「私たちで裁けないなら、神さまが」というような声も聞こえて来る。しかし、その望みは、裁く側や傍観者である第三者だけが抱く思いではなく、裁かれる側にもある思いであるはず。特に無罪と言い切れる自信のある裁かれ側は、裁かれている歯がゆさの中で、なお一層その思いをつのらせ、或るは見えない本当の犯人に対し、「あの世へ行けば地獄だ」 というような思いを抱くのではなかろうかと思えたりする。 写真はカット。裁判の惨さを伝えた記事の切り抜き(ブログ記事と写真との直接の関係はない)。
法により裁かるるとは言はるるが裁くは人の意によれる 意(おもひ)
裁判の「破棄」の記事より顕ち来たる犠牲となりし者の辛酸
真実のかけらを掬ふ耳目ありだがなほ掬ひ得ざる真実
神はなぜ明かさざらむか掬ひたくゐて掬へざる真実の闇
見よ足らぬ聞けなほ足らぬ足らぬまま裁かれし人の惨憺の生
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