<3249> 作歌ノート ジャーナル思考 (七)
一行の説明付する真一枚真一枚の写真一枚
写真記者の肩書がある名刺、この新聞社の名刺を持つようになって何年になるだろう。そう思って年月を辿って数えてみると、すでに二十五年になる。カメラを携え、日々の出来事を追って、その慌ただしさのなかで、断片的ではあるけれども、膨大な人と接触し、シャッターを切って来た。その写真の数々。写真のみとは言え、新聞人の端くれとしての自負なきにしもあらず。その日々の思考が全て正しかったかどうかはわからないが、その思考は大切であったといま思い返しても言える。説明によって左右されかねない写真。付する文章は極めて短いものではあるけれど、そこには思考が伴い、写真記者の真摯な気持ちが現れる。
写真とは真を写すといふ意なり真とはつまり真実の真
人さまにカメラを向けるましてその涙に向ける理(ことはり)を持て
カメラマンコートに包む自負の胸街に霙の降りしきる夜
写真は本当のことを写すとは限らないという御仁もいるが、私はそうは思わない。写真はカメラの能力において本当のことを写す。それが本当でないと受け取られるのは、受け取る側が錯覚するか、写す側の意図によって写す事がらが変質されるからで、カメラ自体は、メカの限界はあっても、素直で正直な目を持って被写体を捉える。このことは報道写真を考える上で極めて大切なことで、このカメラのレンズの目を写す者が逆手にとって悪用することもあるので、受け取る側は侮れないということが言える。
例えば、人出の写真で人を多く見せようとして撮る場合、望遠レンズを用いることが多い。これは手前と後方の人物を引きつけて混雑しているように撮ることが出来るからで、その逆に少なく見せようとして撮る場合は広角レンズを用いることが多い。もちろん、一概には言えないが、広角レンズで撮ると、概ね人と人の間隔が開いたように写り、少なく見えるからである。
しかし、望遠レンズでも広角レンズでもレンズの目が事実をとらえていることに変わりはなく、それが同じに見えないのは、レンズの特性によって視覚が変わるからで、人の目が錯覚することにほかならない。また、写す者の意思で言えば、多い時と所を選んで写すか、少ない時と所を選んで写すかで写真の受け取られ形が変わり、事がらの伝達に変質が生じて来ることになる。しかし、この場合でもレンズの目はその能力において正直に被写体を捉えていることに変わりなく、写す者の意思がレンズの素直で正直な目を利用することにほかならない。
このことについては、写真記者はみな経験してよく知っている。多様な被写体を抱える現場においてはなおさらのことで、一つの被写体でも撮るか撮らないか、また、関わる事がらの中で要の被写体に気づくか気づかないかなども含め、写す者の資質とか能力とかが問われることになる。で、現場では写真記者も目を皿のようにし、目の色を変えることになる。
そして、現場での写真記者の為事は、締め切りという時間の制約の中でなされなければならず、結果は紙面に現れ、他紙との比較が日常茶飯にあって、競争の最たるもので、少し大きい事件などになると複数の写真記者が動員されたりする。もちろん、写真記者は取材スタッフの一員にしてあり、事がらの本質をよく知り、情報量の多い記事の書き手である記者(ライター)との連携が欠かせないことは言うまでもないことである。しかし、互いに多忙の極みの現場にあってはそれも十分なコミュニケーションが取れず、取材の欠落部分も当然のごとく生じて来るので、写真記者は書き手の記者(ライター)の情報のみを待っていては仕事にならず、そこで、見るもの、観察したものはすべて撮るという具合にして、その内容についてはデスク間の調整に任せるというようなこともあることになる。
このようにして、写真記者は被写体に向かうのであるが、カメラはその能力において素直で正直な目の観察者としてあるので、カメラは写す者の意思をよく反映するものとなり、写真記者はこのことを念頭に置き、カメラのその素直で正直な目の特性を活かし、手当たり次第というものの自分の意思に叶うようカメラを働かせるということになる。そして、短いながらも写真に付ける説明文(キャプション)にもその意思を反映させるべく努めるのである。
撮影者のこの意思は、言葉を変えて言えば、報道写真が記録に止まらず、主観的で象徴性の強い写真であることを物語るもので、客観的表現の標榜はなされるものの、それは偏頗への警戒目標であって、報道写真をよく見ると、主観の影響が現れているのが見て取れる。この点、報道写真は撮るものの姿勢(視点)とともに、キャプションも極めて重要であることが言える。
短歌を作る上で、「写生は手段、目的は象徴」という見解があるが、これは完璧な写生は象徴たり得るという意味で、報道写真においても当てはまる言葉ではないかと思われる。次の一首は写生が象徴たり得るという言葉の可能性を秘めた一つの例としてあげられる。
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり 斎藤茂吉
この歌は歌集『赤光』の中の一首であるが、「赤茄子の腐れてゐたるところ」までが写生であり、誰にもわかるところとしてあるが、「幾程もなき歩みなりけり」の下句で、歌が平明であるにもかかわらず、解釈の上でよくわからない歌になっているのがわかる。
解釈に当たっては、つまらない歌とする鑑賞者がいるかと思えば、哲学まで持ち出して理解しようとする鑑賞者もあり、いろいろと取り沙汰された経緯がある不思議な歌である。その難解な「幾程もなき歩みなりけり」を作者の茂吉自身は、自分の中に生まれた心情を詠嘆したものであると、写生が象徴の発露のごとくに述べている。
赤茄子とはトマトのこと。つまり、トマトの落ちて腐っているのを見て過ぎ、その咫尺の間に、その情景に触発されて心に何かが湧いて来たというわけである。その何かを茂吉は詠んでいないので読者にはその何かについて想像するしかないが、腐れたトマトの赤茄子(写生)が「幾程もなき歩みなりけり」の下句の詠嘆表現によって作者自身の心(主観)に繋がれ、それが心情を表すところの象徴となって歌を一つの形に仕上げているということになるわけである。
この茂吉の歌における写生論の一端は、報道写真にも通じるところで、私は、新聞写真について記録性もさることながら象徴性の強い写真だと思って来た。書かれた記事(事がらの反映)を裏付けるための意思が働き、象徴としての意味合いが強くなる。一枚の写真が何十行の記事に匹敵する内容を持つといる例は大きい事件になるほどよく現れるものである。
以上の話は、写生も記録も結果が象徴としてあるという見解であるが、はっきり言って、新聞写真にはそういう一面が色濃くある。そこで、御都合主義のつくり(やらせ)の問題なども生じて来るわけであるが、つくり(やらせ)が過ぎると取り返しのつかない失態に繋がることは「サンゴ礁事件」がそのよい事例といってよい。
写真が先か記事が先かは別にして、とにかく、新聞写真にはどんな写真にも説明が付される。キャプションを得て初めて読むものに写真の意が伝わり、写真は生きたものになる。で、写真は意をもって撮られ、意をもって説明がつけられるわけで、その意は理をもつものでなくてはならないと思うが、新聞社の写真記者はその理に思いを馳せ、自分が撮る写真に自負をもって真摯に向き合っていると言える。被写体には、ときに感動を得、ときに怒りを覚え、ときにはもらい泣きもしながら、しかし、意思をもって向き合うのである。その意思に執着し過ぎて、「サンゴ礁事件」のごときあってはならない事件も起きるのであるが、報道写真に象徴性は大切な要素の一つということが出来るわけである。
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[追記] 平成二十年に起きた中国・四川省の大地震の報道紙面中に極めてインパクトの強い一枚の写真が掲載された。新華社通信の契約カメラマンが五月十日に撮影し、数日後にロイター通信社によって世界に配信された写真で、五月十九日の新聞に掲載された。その写真は、地震で倒壊した中学校の校舎の瓦礫の中から覗くペンを握りしめたまま死んでいった男子生徒の左手のアップ写真で、私は毎日新聞大阪本社発行の朝刊一面で見た。
遺体の写真は報道上掲載タブーとされているので、載せるに当たっては相当な議論があったらしく、掲載後も賛否の声が届けられたということで、後日の紙面研究でも俎上に上げられ、議論になったようである。このような写真に対しては、大概掲載に対する賛否の議論が起きるが、こういう場合、発信者は発信者のエゴ(欲)や都合に基づくのではなく、発信の理念によって対処し、それを受信者に理解してもらう以外にないわけで、今回の場合もそこが問われ、いろいろと意見が出たということである。
新聞は何をもって為事の使命としているか。読者あっての新聞ではあるが、読者は社会の一員であり、その社会の重大事においては単なる読者の心情に迎合して新聞の使命を遂行出来ないことは憂慮の何ものでもなく、この点において、考慮に考慮を重ね掲載に踏み切ったこの写真についての扱いは妥当であったと私には思える。
紙面研究の記事によると、朝刊が朝食時に開くもので、食事を不味くするというような意見もあったらしいが、この意見には、地震の大惨事が他人事で、大騒動している隣国に対する冷ややかな気分が見え隠れし、このような事態にあってもなお自分本位にしかものが考えられない貧しさが感じられ、何か現今の社会状況を反映しているような感があって、論外の意見だと思った。だが、「ジャーナリストとして三人称の冷静な判断に、我が息子だったらという一人称、二人称の思いも加える」という紙面研究の委員の意見が加えられ、写真掲載すべきでなかった意見が発せられ問題にされていた。私にはこの意見においても、この写真にその見解は当てはまらないという気がした。
というのは、この写真が単なる遺体の写真ではないからである。ペンを握りしめたこの死者の手の写真を見たとき、私は何か一瞬感動的なものを覚えた。遺体の一部ではあり、悲惨な光景ではあるが、酷い写真ではなく、握りしめているペンが主である中学生の向学心に燃えて勉学に励んでいた姿を物語り、純真な魂までも映し出しているようで、遺体の一部ではあるが、何か神々しいまでの尊厳をもって受け止められたからである。
ジャーナリストとして、この一場面に遭遇したら、遺体ということで即座に取材を中止し、この光景を闇に葬り去ることが出来るかどうか。私はそのことを逆にこの写真の掲載に賛同出来ない論者に聞いてみたい気がする。この写真を載せるが不遜か、闇に葬り去るが不遜か。死者も生者も同じ人間であり、尊厳を持った存在であること。このこと一つを考えても、この写真に輝かしい中学生の魂が見て取れるところがあるゆえ、これこそ無念に死んでいった中学生の弔いにもなるということで、掲載は妥当と思えて来るのである。遺族やその関係者には悲しみの存在であるだろうが、この尊厳ある左手には本人だけでなく、うからの誇りさえ見えるようなところがあることを思えばなおさらである。
「ジャーナリストとして三人称の冷静な判断に、我が息子だったらという一人称、二人称の思いも加える」という意見は遺体の写真掲載という事態に対し、その内容を精査することなく一般論の網を被せるような論で、この写真の場合、妥当ではないという気がする。加えるに、この写真が以下に述べるような大地震の特性や問題点を多く含んだ象徴的写真として報道に欠くべからざるところがあることをして思えば、なおさらのことで、載せる必要があったと思う。
死者が七万人を越えるという史上まれにみる巨大地震だった四川大地震が日中に発生し、その被害を大きくしたのは授業中の学校がことごとく倒壊し、巻き込まれた子供たちが多数に上ったことも一因にあること。校舎の手抜き工事による人災とする声もあるほどで、我が国においても他山のことと鼻を括ってはいられない問題を内包していることをこの写真が象徴的に示していることをして思えば、報道に必要な一枚だったということになる。
阪神大震災は未明に発生した。このことを不幸中の幸いと感じたのは、発生が昼間で、新幹線や電車が動き、高速道路を含む道路の過密時間帯だったらもっと被害を大きくしたと思われたからである。その点で、四川大地震は最悪だったと言える。このこともこの写真は述べている。
そして、校舎倒壊の犠牲者の大半が人生これからという子供たちであったこと。その子供たちはみな教室で熱心に授業を受け、夢に向かっていた。ペンを握ったまま死んでいった生徒の無念の左手は、その多数に及んだ子供たちを代表するかに告発している。また、人口抑制の対策として一人っ子政策を進めていたことによる残された親たちの心情をも伝えるもので、悲痛な叫びのようなものも写し得ているということも言える。
この写真は死者の左手のアップに過ぎないが、握りしめたペンが語るどの写真よりもインパクトをもって私の目には焼きついた。で、この写真ほど四川大地震の特質を捉え、象徴した写真はなかろうということで、考えさせられた。中学生の純真な魂までも映し出したこの写真は新聞写真が一記録に止まらず、精神の部分までも語りかけて来る象徴としてあることをよく物語る事例と言える。
膨大な被災地の被写体の中からよくもこの小さな訴える無念の手を見つけ出したものである。豊かな感性と知性がうかがえるこの記者の資質と努力に感服のほかない。新聞人はかくあらねばならないと思う。朝刊であろうが、夕刊であろうが、あの写真から目をそむけることは人間の尊厳から目をそむけることに等しく、平和で幸せに過ごしているものならなおさらであり、地震多発国日本においては、このペンを握りしめた中学生の死の手が伝える悲劇を正面から凝視してこそ明日が開かれたものになるのではないかと思う。
最後に、この写真に対するさまざまな声に応えるべく撮影者の取材に当たった毎日新聞の記事をあげたいと思う。記事は撮影者の携帯電話に寄せられた現場の中学校の先生からのメールを紹介している。「涙の染み渡った廃墟に 悲壮なる一輪の花が咲いた すべての生ある者たちに 命の叫びを聞かせている」。これがその内容であるが、これは、この写真に接した先生の死んだ生徒へのやるせなくも愛情のこもった追悼の詩と言ってよい。願わくは、死者の冥福と被災地の速やかなる復興を祈るばかりである。
今、思い返すに、報道写真の世界も技術的進展を見せ、その向上によってより精緻な写真を得ることが出来るようになって来た。このことは記録性における報道写真に極めて有効に働いていると思えるが、報道写真の象徴性における意味においてその写真を考えるとき、それは今も昔も変わらず、報道カメラマン(写真記者)に問われている意思の資質であると思えて来る。 写真は新聞切抜きのスクラップの一部と報道写真が象徴性を有することを物語る切抜きの新聞写真。