Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

国民性

2012年06月12日 | Weblog
日本は自然豊かな四季に恵まれた国です。
天候によってその年の収穫が左右されたり、
地震や台風などの自然災害の脅威にさらされることも
歴史上沢山ありました。

おそらくは、そのために、
八百万の神に祈る形や、
吉凶を占う形をとって、
政治をはじめとする様々な場面での、
意志決定が行われてきたのかもしれません。

不幸が起きれば誰かが責任をとってやめ、
禊ぎが済めば、また、何事もなかったかのように、
生活が続けられていくという文化です。

この自然環境の中で、
日本人は自然への鋭い感性と、
繊細さ、細やかさを身につけ、
それを強みとして技術も文化も発展させてきました。

しかし、その一方で、
グローバルな社会の中では、
不明瞭であったり、
何を考えているかわからなかったり、
ロジカルでなかったり、
という日本の弱みが指摘されるようになりました。

大きな流れで見ていけば、
日本の強みと弱みを自覚し、
更なる成長を期して努力を重ねていけばよいと思います。

しかし、戦後の知識人たちのミスリードの清算は
しておかなければならないと思います。

1.意志決定について
2.言論について
3.人権について
4.科学技術について

いずれも大きなテーマですから、
ここで詳しく書く余裕はありませんが、
今、日本の社会で起きている問題の深層は、
これらの在り方の問題と深くかかわっているように
私は感じています。

そして、その解決には、
教育の力に俟つところが多いのだと思います。

私はできることをしっかりとやっていきます。


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教育の目的

2012年06月11日 | Weblog
教育の目的は「人格の完成」にあります。
それはとても正しく大切なことだと私は思います。

問題は、そうした教育がなされていないことです。

いや、そうではないかもしれません。

そうした教育をしている、
あるいは、
している事になっているけれども、

その成果を出さなくても別に平気だと言うことが
問題の本質かもしれません。

まさに日本の社会を象徴する姿、
日本の大人の精神性を象徴する姿だと思います。



教育基本法に書かれている内容は、以下の通りです。

第一章 教育の目的及び理念
(教育の目的)
第一条  教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(教育の目標)
第二条  教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一  幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二  個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三  正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四  生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五  伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。




私は、この高邁な理想を掲げた精神を尊重し、
それを体現する教育実践を続けて行こうと思います。

そして、今の私たちの教育実践は、
確かにこれらを形にしうるものになっているという
しっかりした手応えを感じています。


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伝える力

2012年06月11日 | Weblog
私はバッカーズ寺子屋の講座の中で、
子どもたちにとって
普通は難解だと思われるような資料も
平気で使います。

それは大切なことは、
子どもであっても、
必ず伝わると信じているからです。

この「伝わると信じる」感覚が私は大切だと思います。

多くの教師は、
「まだ子どもには難しい。」
「子どもにはまだ十分に理解できないから、
この資料は使うべきではない。」
などと、思い込んでしまいます。

本当にそうでしょうか?

逆に言えば、
私たちに全部を理解できるものなどあるのでしょうか?

仮にあるとしても、
それは本当に価値あるものなのでしょうか?

また、大人だからという理由だけで、
本当に物事の本質を理解できていると言えるのでしょうか?

私はそうでないことも沢山あると思います。



何より、私が気づいたことは、

伝わると心から信じて伝えれば伝わるし、

伝わらないだろうと思って伝えれば、
伝わらなくなるということです。

これは、
どんな教育技術を習得するよりも大切だし、
重みのある真実だと思います。

つまりは、
お前には、本当に伝えたいと心から思っていることがあるのか?
お前は、本気で伝わると信じることができているのか?
お前は、自分の思いを信じ、子どもたちを信じているのか?

という厳しい問いかけへの答えを
誤魔化さずに真摯に出せているかどうかだと思います。


伝わると心から信じて伝えれば伝わるし、
伝わらないだろうと思って伝えれば伝わらなくなる。

このことを本当に理解することが、
教育の姿を変えていくことになるだろうと私は思います。




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不器用で良いから真剣に

2012年06月10日 | Weblog
不器用でも真剣に取り組む姿からは、
何とも言えぬ気迫や誠実さが伝わってきます。

それが一日一日積み重なっていくと、
その人の内側からにじみ出てくる
迫力と重みになるのだと思います。

新渡戸稲造は、
「元気の大切さ」を説くと共に、
「元気を貯蓄する大切さ」も説いています。

そして、

「人間は世渡りするには、
スラリとしてかどが取れなければならぬ。
多少の悪事を行うも、これ人情に通じ、
世渡りの秘訣を学ぶものである。」

という、
少なからず世の中に広まっている考えに対し、

「これは人の弱点につけ込み、
低い標準の交際を勧むるの心である。
人に雷同し、円満円満と安心しているうちに、
いつしか自分の本城は落ちてしまって、
いざという時に立てこもる根拠がなくなる。
円満に世渡りしつつあると思うているが、
その人の品性はすでにはるかに堕落しつつあると思われる。」

と述べています。

信念をもっていれば、確かに一時的に窮屈なこともあります。

「しかし、その窮屈に忍び、
克己してエネルギーを貯えていったなら、
後には必ず大いに伸びるであろう。
八方美人の世渡り方は如才なく、
人にも好かれ、一時都合がよくもあろうが、
永久には発展するゆえんではない。
将来大いになすあらんとの希望と抱負とをもつ者の
取るべき途と思われぬ。」

このように新渡戸は続けています。


私も、子どもの頃、元気で目立っていた人たちが、
大人になった時にも輝きを放ち続けているというケースが、
実はそう多くはないように感じていました。

新渡戸稲造の言葉に触れ、
その印象が間違っていないのだと腑に落ちました。

しかし、私は教育者として、
このような現実に対する警鐘を大いに鳴らしたいと思います。

なぜなら、どの子どもたちにも
大きく育ってもらいたいと心から願うからです。


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ガキの心で

2012年06月10日 | Weblog
私たちの「志の教育」が、
どこまで日本の教育界に
影響を与えていくことができるかはわかりません。

ただ、一日一日に心血を注いで行くだけです。

それに対して、冷笑や嘲笑なども
沢山浴びせかけられるかもしれません。
誤解に基づく攻撃もあるでしょう。

しかし、私たちは大きな手応えを感じていますし、
やり抜くだけだと決意しています。

苦難は笑って受け止めていけばいい。

ただひたすらに、
目の前の子どもたちと保護者の皆様に、
確かな成長の手応えを感じていただくことを
何よりも大切にしたいと思っています。

その先に何があるのかはわかりませんが、
今のままの教育で良いはずはありません。

気づいた者が、気づいたところから、
魂を込めて改善していけばよいのだと思います。

実践あるのみです。

ガキのように、
純粋に、時を忘れて熱中して、
この教育改革という国家的事業に邁進するのみです。

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教育と経営

2012年06月09日 | Weblog
私が教育実践を生業としながら、
会社の経営者という立場でもあることで、
様々なことを学ばせていただいています。

その中でも、お金や社会の仕組みについて
学べたことは教育者としても非常に有意義でした。

自分と社員が一生懸命働いて得た売上の中から、
税金を納めていくことが
如何に大変であり、大切なことであるかということ。

社員の生活や将来を思い、
社会保険料の二分の一を会社として納めることが、
様々な意味で如何に重いものであるかということ。

給料をもらうのではなく、
給料を支払うということが如何に大変で、
責任を伴う大切なことであるかということ。

そして、

最も深く自覚できた大切なことは、
自分の仕事がいかに多くの人たちに
支えられて成り立っているかということです。


大きな組織にいれば、
会社の経費を使えもしますが、
それは売上があがって初めて成立することです。

また、給料をもらう立場の人たちは、
税金や社会保険料を「とられる」とよく言いますが、

自分が経営者として納める側に回ると、
国の社会システムを安定させ、
人々の暮らしを安定させるという大義が
そこには確かにあることもよくわかります。

私には、サラリーマン時代にも公務員時代にも
これらのことは全くわからなかったことです。

いや、表面的にわかったような気になっていただけ
タチの悪いものだったに違いないと思います。

だから、いまだに、
税金で仕事をしている人たちや、
会社の作り上げてきたブランドに依存して、
会社の力を自分の力と勘違いしている人たちにとっては、

これらのことは、
観念ではわかっても、
実感として見えてくることは
なかなか困難だろうと思います。

私自身がそうでしたから…。

だからこそ、
この大切な意識の問題を、
私は何とかしたいと思っています。


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料理と教育

2012年06月08日 | Weblog
やはり家庭での料理が、
教育に大きな役割を果たしているように思えてなりません。

なぜか。

料理は段取りを考える力を養ってくれます。
どの手順で作るか、盛りつけるか、等々…。

料理は食べる人への心遣いの力を養ってくれます。
熱いものは熱いうちに、冷たいものは冷たいうちに。

料理は目に見えないものを見る感覚を養ってくれます。
味噌汁をたぎらさない温度を見る感覚、
魚や肉や野菜を香ばしく焦げないように焦がす感覚、等々…。

料理は器という日本の文化を見る目を養ってくれます。
萩焼を使うか、唐津焼を使うか、九谷焼を使うか、等々…。

料理は自然の豊かさを感じさせてくれます。
海の幸、山の幸、田畑の幸、川の幸、等々…。
四季折々の旬の食べ物をいただく幸せを感じ、
命をいただく尊さを学ぶひとときでもあります。

料理の世界には、
自分の国の文化を知ること、
他人への心遣いを学ぶこと、
時間を無駄にしないこと、
素材を育んでくれた自然に感謝すること、
味や技術を伝承すること、
思いやりと感謝の心を育むこと、

とにかく多くの教育的要素が宝物のように詰まっています。

それは、人間を深い精神世界へと導いてくれ、
思考力や人間性といったものを涵養してくれます。

日本的でありながら世界へと通じているものですし、
日常でありながら、大いなる非日常へと通じているものですし、
人の世から神々の世へと通じているものだと思います。


私たち人間もまた自然の一部ですから、
自然が小さくなれば、人間も小さくなるのが道理です。
そして、
人間の芸術や文化も小さなものになってしまうのが道理です。

自然を破壊し、効率を追求していく社会が、
法規とシステムにがんじがらめにされた社会が、
本物の雄大なる人物を育むとは到底私には思えません。

私は、将来、雄大なる人物が、
雄大なる社会を築いていかれることを、
心から願う者です。







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美意識

2012年06月08日 | Weblog
教育にとって大切なのは美意識かもしれません。

ルールで決められたことができるようになったからといって、
それが素晴らしい教育の成果と言えるのかというと、
どうもそうではないような気がします。

マナーを記憶して、
その通りの立ち居振る舞いができれば、
立派な人間になったかというと、
どうもそうではないような気がします。

電車の中で化粧をするかしないか。
点字ブロックを塞ぐか塞がないか。
姿勢を正すか正さないか。
履き物を揃えるか揃えないか。
小さな約束を守るか守らないか。
他人の陰口を言うか言わないか。
命がけで生きるか生きないか。

私は全てをルールで判断できるとは到底思えません。
同様に、善悪で全てが割り切れるという気もしないのです。

ただ、それを美しいと思うか思わないか。

それが大切なのではないでしょうか。

人間の言葉と行動の選択は、
すべては美意識から来ているような気がします。












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本質

2012年06月05日 | Weblog
教育の本質は、
知識の授受にあるのではなく、
志の涵養にこそあるのだと私は思います。

教育の本質を、
志の涵養にあると考えるのであれば、
年齢による輪切りの教育では、
むしろ成果は上げにくいのだと思います。

また、
志を教育の主要テーマだとすれば、
教える側、教えられる側といったくくりは、
ある意味、無意味でしかありません。

「何かを教えてやろう」などという
教師然とした姿勢など、
全くのナンセンスでしかないのです。

ただ、ただ、
自分の志を磨き続け、
自分の生き方を示していくことが、
唯一の教育の方法になるのだと私は思います。

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更なる挑戦

2012年06月03日 | Weblog
バッカーズ寺子屋第7期生の卒塾式が終わりました。

皆さん本当に素晴らしく成長してくれました。
これからの更なる成長を大いに期待しています。

今日、私が思ったことは、
会社は経営者の思い以上には
成長しないのと同じように、

教育もまた、指導者の思い以上には
教育的成果を生み出し得ないと言うことです。

だから、私は教育者として、
更に子どもたちを大きく伸ばしていくことができるように、
思いを深め、自分自身を高め続けよう。

そう新たな決意を致しました。

私が未熟なばかりに、
皆さんを更なる高みへと導くことができなかった。
その反省をきちんとしたいと思います。

そして、共に更なるチャレンジを始めましょう。

今日の卒塾式は、終わりではなく、
皆さんとの新しい物語の始まりでもあるのです。
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