昨日は、東海学院大学の公開講座で岐阜県生まれの偉人、平生釟三郎(ひらおはちさぶろう 1866-1945)の話を聞きました。県内でもあまり知られていない偉大な人の業績を、是非広めたいものです。東海学院大学は来年創立30年を迎えます。(短大部の創立は50年前) 古くからあったこの市民向けの講座を聞いた人も限りなく多いです。
平生釟三郎は、甲南大学を創設したことからその大学には資料があり、自筆の石碑(常ニ備ヘヨ)や、胸像があります。出身地の岐阜市加納にある、加納小学校には彼の歌の軸が残されています。
正しくは何を怖れん人の道強くほがらか進め諸人
武門に生まれ、損害保険業界の近代化に貢献。経済人としても活躍し、社会事業家としても、甲南病院を創立。これは欧州赴任中、ドイツの病院のケアがあまりにも素晴らしくて、これを日本に持ち込みたかったのです。奥様を日本の医者の不注意で亡くし、再婚した次の奥様も、医者の失敗により又出産後、亡くしてしまったことによります。当時医者の中には、泥酔して診察する人もいたとか・・・
母校である一橋大学で教鞭をとり、個性を尊重する教育理念を掲げ、これを実現するために私財を投じて、甲南幼稚園を創立。その後は、小学校、中学、高校、大学と創設してゆきました。
なお、広田弘毅内閣の時、文部大臣でした。昭和天皇にご進講の折は、天皇との会話の中で、「アンタ・・・」などと呼び、語り草になったようです。
下の写真は、帰途友達に連れて行ってもらった喫茶店。客の姿はありませんが、とても美味しいコーヒーでした。モーニングの時は込んでいるそうです。もとイタリア料理店らしい雰囲気でした。
平生釟三郎は、甲南大学を創設したことからその大学には資料があり、自筆の石碑(常ニ備ヘヨ)や、胸像があります。出身地の岐阜市加納にある、加納小学校には彼の歌の軸が残されています。
正しくは何を怖れん人の道強くほがらか進め諸人
武門に生まれ、損害保険業界の近代化に貢献。経済人としても活躍し、社会事業家としても、甲南病院を創立。これは欧州赴任中、ドイツの病院のケアがあまりにも素晴らしくて、これを日本に持ち込みたかったのです。奥様を日本の医者の不注意で亡くし、再婚した次の奥様も、医者の失敗により又出産後、亡くしてしまったことによります。当時医者の中には、泥酔して診察する人もいたとか・・・
母校である一橋大学で教鞭をとり、個性を尊重する教育理念を掲げ、これを実現するために私財を投じて、甲南幼稚園を創立。その後は、小学校、中学、高校、大学と創設してゆきました。
なお、広田弘毅内閣の時、文部大臣でした。昭和天皇にご進講の折は、天皇との会話の中で、「アンタ・・・」などと呼び、語り草になったようです。
下の写真は、帰途友達に連れて行ってもらった喫茶店。客の姿はありませんが、とても美味しいコーヒーでした。モーニングの時は込んでいるそうです。もとイタリア料理店らしい雰囲気でした。
その功績が、もっと知られるとよいですね。八百津町出身の杉原千畝氏のように!
私は数年前たまたま娘の家の近くを散歩していてその看板があり、ネットで調べて分かったのです。
地元新聞には掲載されていたようです。
杉原千畝氏も長らく知られていなかったですね。ユダヤ人が感謝していると伝えられて初めて日本にも名前が広まりました。