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未唯への手紙

未唯への手紙

ディズニー『空軍力による勝利』が東京大空襲を招いた?

2016年11月20日 | 4.歴史
『最も危険なアメリカ映画』より ディズニー・アニメが東京大空襲を招いた?

・空軍の時代が始まった

 『空軍力による勝利』の第一部は飛行機の歴史。1903年、ライト兄弟がわずか十二秒間飛行してからほんの四十年間で航空機は驚くべき進化を遂げた。英仏海峡横断、空母からの離着陸、アメリカ大陸横断……。

 飛行機がまだフライング・マシンと呼ばれていた時代の描き方はのどかでユーモラス、『素晴らしきヒコーキ野郎』(65年)みたいで楽しい。

 第一次世界大戦当初、戦争における飛行機の役割は偵察だけで、敵国の軍用機と遭遇しても、敬礼を交わして紳士的にすれ違っていた。ところが、ある日、敵機に上空からレンガを落とした者がいた。それは拳銃の発砲にエスカレート。マシンガンを積み込んだが、自分のプロペラを撃って墜落してしまう。笑えるアニメはここまで。プロペラとマシンガンの同期システムが作られると、空も血で血を洗う戦場になる。ディズニー・アニメとはいえ、劇画のようなリアルなタッチなので、生々しい。

 第二次世界大戦が始まった。フランスがドイツとの国境に築いた要塞、マジノ線は難攻不落と言われたが、ドイツ軍はこれを迂回してフランスに侵入した(この映画ではトーチカは空からの爆撃には無力)。フランスを降伏させたドイツは爆撃機でイギリス本土を攻撃、歴史に残る大空中戦「バトル・オブ・ブリテン」が始まり、英国は戦闘機スピットファイアでドイツ軍を撃退した。戦争はついに空軍の時代に入った。

・戦略爆撃のススメ

 このディズニー・アニメにはミッキー・マウスもドナルド・ダックも登場しない。主人公はセヴァルスキーだ。彼は地図やグラフを駆使して、枢軸国との戦い方をシミュレーションしていく。

 セヴァルスキーはドイツの防衛圏をヨーロッパの大地に広がる車輪になぞらえる。外側から外輪をいくら叩いても、車軸からの補給ですぐに立ち直る。日本は南太平洋の小島に拠点を持っているので、何本もの足を広げたタコになぞらえる。足の先をひとつずつ攻撃しても、本体には届かない。その間にアメリカ、イギリスの連合国の戦死者は日々増えていくだろう。

  「戦死者を最小限に抑えるには、敵の本土中心部を、直接爆撃することです」

 セヴァルスキーは断言する。車輪ではなく車軸を潰せ、タコの足ではなく、頭を叩け。武器を作る工場を破壊しろ、と。前線を飛び越えて敵国の都市を直接叩く戦略爆撃のススメだ。

 そのためには、空母で運べるような小さな爆撃機では弱すぎる。十トン級の大型爆弾を搭載し、航続距離がケタ違いに長く、全方位を射撃できる回転銃座を装備した、空飛ぶ要塞のような長距離巨大爆撃機が必要だ。

  「ドイツや日本はすでに長距離爆撃機の開発に入り、アメリカ本土を狙っている。遅れを取るな。攻撃は最大の防御だ!」

 『空軍力による勝利』は1943年7月にアメリカで劇場公開されたが、興行的にはふるわなかった。しかし、もともと、一般の観客はどうでもいいのだ。

 ディズニーは『空軍力による勝利』のフィルムを、近代広告の父と呼ばれるアルバート・ラスカーを通じて、英国のチャーチル首相に送り届けた。チャーチルはこれを観て、ひじょうに感銘を受けたという。

 ラスカーはフランクリン・D・ローズヴェルト大統領にも『空軍力による勝利』を勧め、セヴァルスキーと会わせようとしたが、大統領の軍事顧問だったウィリアム・リーヒによって阻止された。海軍提督であるリーヒはセヴァルスキーの戦略爆撃論を嫌っていた。

 『空軍力による勝利』公開の一ヵ月後の8月17日、カナダのケベックを英国のチャーチル首相が訪れ、アメリカのローズヴェルト大統領と会談した。その際、チャーチルは『空軍力による勝利』を話題に出したが、ローズヴェルトは未見だった。さっそくフィルムが取り寄せられ、試写が行なわれた。

 すでにチャーチルは一ヵ月前にドイツのハンブルグを猛爆撃していた。アメリカも、42年4月にジミー・ドーリトル中佐が東京に小規模な爆撃を敢行していた(使われたのはミッチェルの名を冠したB25爆撃機)。また、スーパーフォートレス(超要塞)の異名を持つ長距離大型爆撃機B29の開発もすでに始まっていた。だから、『空軍力による勝利』がローズヴェルトとチャーチルにどれほど大きな影響を与えたかはわからない。

・東京大空襲と重なるクライマックス

 ただ、断じてゼロではない。

 この後、英国軍は、「ディズニー爆弾(Disney Bomb)」なるものを開発、実戦に投入した。細長い爆弾で、高高度から投下すると垂直に落ちながらロケットで推進し、時速千五百キロを超えて、コンクリートで作られた敵の防空壕を貫通する、いわゆるバンカー・バスターだ。これは『空軍力による勝利』の中で、Uボート基地を破壊する手段として提案されたので「ディズニー爆弾」と呼ばれた。

 『空軍力による勝利』のクライマックスは、アラスカに築かれた基地から離陸する長距離大型爆撃機による東京大空襲だ。大量の爆弾が東京の軍事工場を徹底的に破壊する。日本というタコの頭を破壊した白頭ワシ(米国の象徴)が地球の上に舞い降りて、映画は終わる。

 この東京大空襲は、1945年3月に現実になった。違うのは爆撃機がアラスカではなくマリアナ諸島から飛び立ったことと、民間の非戦闘員に十万人とも言われる死者が出たことだ。

 戦略爆撃を最初に始めたのは、枢軸国側だと言われる。37年4月、スペイン内戦でファシストのフランコ将軍は同盟国ナチス・ドイツに依頼して、敵対する民主勢力の拠点ゲルニカを爆撃させた。同じ年の8月、日本軍は中国の南京や重慶を爆撃した。両方とも非武装の一般市民を大量に殺したので、国際的非難を浴びた。

 『空軍力による勝利』には、ゲルニカや重慶のことは出てこない。セヴァルスキーは、敵の都市爆撃は自軍の死傷者を減らすのが目的だと何度も繰り返すだけで、敵民間人の被害については何も論じない。しかし、このディズニー・アニメがアメリカ軍の戦略爆撃に何らかの影響を与えたのであれば、広島、長崎への原爆投下ともけっして無縁とは言えない。

 セヴァルスキーに敵対していたリーヒ提督は、回想録でも原爆投下を批判している。「女子どもを殺して戦争に勝ったとは言えない」と。

アメリカ民主主義に関する新刊書

2016年11月19日 | 6.本
人類が忘れていること

 人類は生きるために、一番肝心なことを忘れている。生まれてきたことの意味。

何でもできそうな風体

 自分は写された写真を見て、ビックリしました。なんじゃ、これ! これなら、どんな風変わりなことでもできそうです。誰も文句は言わないでしょう。

未唯空間をストック情報としてアップしようか

 未唯空間をストック情報として、ウェブ化しようか。残すことには意味がないけど、私の世界の物語としてはしゃれている。

 そんなサービスをやっているところを見つけないといけない。ブログのようなフローでは無く、ストックです。未唯空間本体のパワーポイントをウェブ化はマイクロソフト側にあるので問題ない。

 アウトライン側はインスピレーションでは20年前のツールだから、ワードに変換して、ウェブ化するカタチになる。自分のパソコン内でリンクを付けて、そのまま展開するのは古いタイプだから、クラウドを活用した、新しいタイプを探さないといけない。これは出版形式になるかもしれない。

トランプへの対抗策

 とりあえず、米国に勝つためには、中国と組んで、アメリかを占領するしかない。これはヨーロッパがアメリかに対して行なったのと同じです。中国を一億人ぐらいを送り込んで駆逐するしかない。

 前の大戦のようないい加減な戦争をするんではなく、最後までのシナリオを作っておかないと。それが不可能なら、いかに平和的に次の時代のシナリオを描くか。

アメリカに関する新刊書

 今週の新刊はアメリかに関するものが多かった。やはり、あんな民主主義でどうするのか。どこへ向かっているのか。わからないことだらけ。歴史から見るとかなり、やばいことになっている。

『メイキング・オブ・アメリカ』移民国家アメリカ 同化主義から文化多元主義へ

 アメリカ合衆国が、多層な移民から成り立った国で同化主義をとってきたが、実態はインディアン対策に見られるように、都合のいい排他主義である。それがメキシコ国境の州はあまりにも流入が多いので、文化多元主義に変わってきた。LAPL(ロサンゼルス公共図書館)では、移民に対する英語学習センターを開いている。

 コミュニティで対応していくしかない。イスラエルのように、壁を作ろうとしている。出て行く人間に対する壁はできるけど、入ってくる人間に対しては壁はできない。

『貧しい人々のマニフェスト』危機が持続する構造 恐るべき資本主義 幸福とは何か?

 フェアトレードが資本主義を内から変えていくように書かれているけど、スタバが標榜しているように、フェアトレードは安く、商品を手に入れ、ゆーざーの共感を得ようとする手段に過ぎない。フェアトレードには幸福はない。

『移民の経済学』国境の開放化に関する急進的な見解

 国境が拓かれていないのは確かです。EUに入り込もうとする移民が払う犠牲、移住しようとする移民の数は膨大です。なぜ、国境があって、それを超えようとするのか。国民国家の枠が民族とか宗教にとって、制約になっている。超国家としてのEUに対するアラブ国家とか地中海国家という枠を拡張させれば、「移民」はなくなる。

世界は開かれた国境からほど遠い

2016年11月19日 | 3.社会
『移民の経済学』より 国境の開放化に関する急進的な見解

今日、世界の国境はどのくらい開放されているのだろうか。実際のところ、ほとんど開放されていないと言ってよいだろう。この問題について、次の三つの視点から検討してみたい。まず法律の条文、法律逃れのために移民が払う犠牲、そして移住できない移民の数の三点である。今日の世界の国境はほとんど開放されていないため、すべての数字は推測の域を出ない。それでもこれらの数字は、開かれた国境のもつ本質を理解するのに役立つ。もっと正確にいえば、閉ざされた国境がどれだけグローバル社会を歪め、自由と経済的価値を破壊しているのかを評価する助けになる。

まず法律から始めよう。先進国の基準によると、アメリカの移民に関する法律はかなりリべラルである。それにもかかわらず、合法的移民になるルートは限られている。家族の呼び寄せ(家族の再統合)、高い技能の保有、難民や亡命、そして移民多様化ビザの抽選などである。典型的な家族の再統合の場合、認可までに7~12年の年月がかかり、メキシコ人の場合は約20年が必要である。就労ベースのビザの必要条件はかなり厳しい。合法移民の申込みには、非凡な能力、少なくとも大学卒業以上の学位、アメリカの多国籍企業の保証、あるいは50万ドルの投資資金が必要である。高度人材なら、非移民H-1Bビザを申請することも可能である。H-1Bビザは永住者ビザに移行できる。このカテゴリーは非常に競争が激しく、年間応募の割当て枠は通常10日でいっぱいになる。アメリカでは、年間約5万人の避難民と亡命者の入国を認めているが、2012年の上限は7万6000人とされた。最後の移民多様化ビザの抽選に当たる確率は、ほぼゼロに等しい。2008年には、1億3600万人が5万人の募集枠に殺到した。さらに低い技能しかもたない単純労働者の中には、H-2AやH-2Bを取得する者もいる。しかしこれらのビザは取得が難しく、失効も早い。また長期の居住者ビザに切り替えることができない。

要するにアメリカは、世界の人々に対して長期滞在への道を開放していない。一時的な就業機会もほとんど提供していない。実際には、一時的な滞在でさえ難しい。領事館に長期滞在の意図がないことを認めてもらえなければ、申請は簡単に却下されてしまう。その結果、将来合法的移民となれる見込みがある人でも、不法に国境を越えてきたり、ビザの在留期限が到来した後もそのまま居残ってしまう。アメリカには、現在1100万~1300万人の不法移民が滞在している。それはアメリカ国内で暮らす外国生まれの人々の約三分の一に当たり、全人口の約4%に相当する。

移民法はどれほど重要であるのか。闇市場の価格をみてみよう。闇市場の価格とは、貧しい移民が国境を越えるために支払おうとする価格のことである。メキシコからアメリカヘの密入国者が斡旋業者へ支払う金額は、現在約4000ドルと言われる。これはメキシコの典型的な農業従事者の四年分の所得に相当する。さらに遠くの国からの斡旋価格は、おそらくもっと高くなるだろう。インドでは現在、斡旋業者はアメリカヘの不法入国希望者に6万ドルを請求している。それを支払うためには、インド人の中所得層でも10年間以上もの所得をすべて貯蓄しなければならない。この金額を非常に高額だと思う人がいるかもしれない。しかし、移民の決意はこんなものではない。メキシコとアメリカの国境を越える移民には、灼熱の砂漠が待ち受けている。アフリカからヨーロッパヘ渡る移民が乗船するのは、今にも沈没しそうなボロ船だ。南アフリカの国境を越えてくる者はライオンに襲われるリスクを負っている。

低い技能しか持たない貧しい移民は、密入国斡旋業者に巨額な料金を支払わなければならない。彼等はその資金をどこから手に入れるのか。手短に言えば、多くは「誰も手助けしてくれない」。逆に言えば、もしも国境が開放されていれば、今よりももっと多くの移民が流入してくるはずである。密入国の料金をどうにか支払うことができた者がいたとしよう。その資金源は次の三つである。長い時間をかけて家族で貯めた資金、外国に移住している家族からの資金援助、そして借金である。借金の場合は、入国後に仕事を見つけて稼いだ所得から少しずつ返済していかなければならない。密入国ではすべてが非合法であるため、借金の取り立てでも、各地域の犯罪者集団が絡んでくることが多い。もし移民の規制を完全に撤廃すれば、密入国の手数料や事件に巻き込まれる危険はほとんど解消される。そうなった場合、どのくらいの移民がアメリカに入国してくるであろうか。2010年以来、ギャラップ社は世界規模で成人を対象にした世論調査を行ってきた。その中に、もし許可が出たならすぐにでも他国に移住したいと考えているかという質問があり、6億人以上、すなわち世界の成人人口の14%が他国に移り永住したいと回答している。また10億人以上が、一時的でも良いから海外で働くことを望んでいる。参考のために言えば、現在、生まれた国以外の場所に住んでいる人の数は2億3200万人である。1億人以上の人々にとってアメリカは一番住みたい国となっている。ギャラップ社ではこれらの世論調査を用いて、すべての人々が第1希望の国に移住した場合、各国の人口増減がどうなるかを予測している。ハイチは人口の半分を失い、オーストラリア、シンガポール、そしてニュージーランドの人口は2倍以上に増加する。世界で3番目に人口が多いアメリカでさえ、60%も増加する。

これは、アメリカがただちに国境を開放すれば、翌日には2億人の移民が殺到するということではない。移民は複数のボトルネックに直面する。輸送、住宅、仕事などの需要が短期間に集中すれば、その調整にかなりの時間がかかる。さらに厄介な問題は文化と言語である。スペインはドイツよりも移民先として人気かおる。それは世界的には、スペイン語人口が多いためである。またサウジアラビアもランキングの上位に位置する。世界のイスラム教徒にとって宗教的に重要な場所であるからだ。しかし国境が開放されたとしても、その国に実質的な「ディアスポラ」すなわち彼らの文化や言語を共有するサブカルチャーがない限り、人々の移住の動機はそれほど高まらないだろう。

ディアスポラはどのくらい機能しているのか。文化的、言語的に完全に切り離された地域の間では、移民率は最初は低い水準に止まっている。しかし時間の経過とともに噂が広まり、移民は雪だるま式に増加していく。最初に押し寄せた移民の波は、「私達は成功している」という良いニュースを母国に送る。第二の波はさらに良いニュースを送る。「私達は成功して、自分達のコミュニティを作り始めた」と。第三の波はさらに良いニュースである。「成功のおかげで、我々のコミュニティは大きく栄えている」と。たとえば1904年にアメリカがプエルトリコとの国境を開放した時、移民はそれほど目立だなかった。1900~1910年にプエルトリコからやってきた移民はわずか2000人にすぎなかった。しかし10年ごとにプエルトリコからの移民は増え続け、アメリカ本土にいるプエルトリコ人はますます居心地が良くなった。2000年にはプエルトリコにいるプエルトリコ人よりも、アメリカに住むプエルトリコ人の方が多くなった。

2010年の時点で、外国生まれのアメリカ人のうち29%はメキシコ出身である。24%はその他のラテンアメリカ諸国、28%がアジア、12%がョーロッパ、4%がアフリカ、2%が北アメリカ、1%がその他の国の出身となっていび。国境の開放が、いち早くラテンアメリカ、特にメキシコからの移民の急増をもたらす。この予想は間違いないであろう。アメリカには、メキシコ人のディアスポラと援助に熱心な家族がすでに移り住んでいるためだ。中国人やインド人はもともと人口が多いので、ディアスポラは最初は比較的小さくても、中期的に移民は拡大すると予想すべきだ。アフリカ移民の人口は少なく、アフリカの文化や言語はアフリカ系アメリカ人とはかなり異なっている。これを前提にすると、アフリカ移民はしばらくは小規模で推移するかもしれない。しかし現在、アフリカ地域で急速な人口拡大が続いていることから、最終的に移民はかなりの規模に達するだろう。

1920年までは、アメリカの国境はほとんど開放状態にあった。19世紀に起きたアメリカ経済の奇跡的な発展で、大量の移民が重要な役割を演じたことはほぼ間違いない。フリーパスに近い移民のプラス効果が、19世紀後半の貿易制限のマイナス効果を大きく上回り、それを覆い隠しているとする指摘さえある。こうして移民と経済発展の相乗効果は、20世紀初頭まで続いた。デトロイトの自動車産業のような大量生産を行う製造業は、そうした移民やその子供たちによる人口の増加や流動化の高まりから、多大な恩恵を受けた。

それでも最近の基準からすれば、移民の数は国境が開かれていた割には穏当な水準に止まっていた。外国生まれの人口比率は、現在の13%に対して、1910年のピークでも15%であった。もしもアメリカの国境が再び開放されたならば、ディアスポラの動学に反して、従来よりも大規模で急激な変化が訪れるかもしれない。交通・輸送の費用はかなり安くなり、安全になっている。そのため最貧国や遠くの国の人々にも、移民の可能性が開けてきた。コミュニケーションの方法も大幅に改善されている。移民は友人や家族と常に連絡をとることができる。そして多くの就業機会があるという噂は、世界の隅々まで伝わるだろう。文化はグローバル化している。つまり、数億人とも言われる潜在的な移民は、いまや「移住する前から同化している」のである。彼らは英語を流暢に話すことができ、アメリカの雑誌、テレビ、映画に夢中になっている。重要な点は、国境が開放されれば数十年でアメリカの人口が2倍になる可能性があるということだ。

国が人々を脅す。対抗するフェアトレード

2016年11月19日 | 5.その他
『貧しい人々のマニフェスト』より 危機が持続する構造 恐るべき資本主義 幸福とは何か?

怒れる世界の貧困者たちは、金融と市場の世界に明確なルールを導入することを要求する。金融のジャグジーの蛇口を絞めるべきであり、社会的で人道的な確かなルールを科すべきだ、ということを彼らは自覚している。砂漠の中で叫びたいような心境の者もいるはずだ。1990~2000年代に実施された規制緩和の下で自国経済が存在しているだけの弱い国家の有り様が問われているのである。国家の機能が体制のセーフガード役にのみに縮小されてきたが、何かできそうなことを取り返そうとはしている。いかなる国家も、もはや民主的に運営されているとは言い難く、金権政治にまみれている。国家を間接的にコントロールするのは、銀行、大企業、大手情報関連企業(マスメディアを含む)である。両手と両足を縛られ、巨大企業の権力によって操作されている国家は、意義深い変化を実行することはできない。それゆえ、国家には、できる範囲で水漏れを塞いだり、1日もすれば剥がれると知りつつ絆創膏を重ね張りする程度のことぐらいしかできない。ウルトラ自由主義のナイフに脅され、国家の責任はどんどん限定されてきており、社会的で公正な経済を取り入れることができなくなっている。依然として、国家の役割の要諦は、国民全体を民主的に代表すること、あらゆる関心群の大きなパートナーシップであり続けること、そしてコンセンサスをつくっていくことではないだろうか。理論上、領土の防衛、市民の安全、インフラの建設など仕事は、自由主義の最右翼ですら、国家の責務として認めているはずだ。

けれども現実は違う形で物事が進んでいる。真の意味において、国家は民主的ではない。アメリカでバラク・オバマ大統領がやろうとしていた医療保険制度改革に関する法案が通らなかった理由は何だろうか。大企業とそのロビー団体が反旗を翻したからであり、結果として、大企業は大統領よりも強大な権力を獲得したのである。現代の金権政治国家には、ルールを課したり、銀行、株式市場、多国籍企業をコントロールする能力はない。なぜなら、政府は真っ当な人々に不利に動き、人々を会社に押し込めようとするからだ。私たちはフェアトレードをもって、政府に対して最終的に社会的責任を全うすることを要求する。政府はどのような類の食料安全を国民に対し保障するのか。どのレベルまでの汚染を地球は容認できるのか。すべての人々、とりわけ最も安全を欠いた人々に対してどのようなインフラを提供するのか。私たちの運命と未来を大企業の関心の手の中に委ねることなど、決して上手くいがないし、これまでも上手くいったためしはない。あるいは。高速道路やサッカースタジアムの建設のための大規模な土地収用という今まさに進行中の出来事が物語るように、周辺化されたところでのみ上手く機能するだろう。企業は国の支援を受け、極めて安いコストで集合型風力発電所を建設する機会をモノにするケースもあるだろう。土地所有者だちから土地を収用した後、企業はそこで発電した電気を販売し利益を上げる。例えば、イタリアとメキシコを含むいくつかの国々では、情報メディア産業が完全に民営化されている。なぜ国家は国民に情報を提供する能力を保持しないのか。どうすれば民主主義を取り戻せるのか。特定の手段の関心だけでなく、国民の関心を本当に代表できるような政府をどうやって創造するのか。

どう見ても金権政治にまみれた操作的で秘密主義の国家に直面した時、私たちの政治的選択肢は必ずしも明白ではないように思われる。権力の上にあぐらをかく政党はその権力を温存することを望むものである。それが白票あるいは反対票であろうと、権力は無効な少数意見を聞く耳は持たない。民主主義下において、投票数の50パーセントにも満たない票数で当選した政治家の存在を誰も問題にしないことが、このシステムが機能していない証左であろう。国家が機能するに際しては、無効となった声が無数に存在する。フェアトレードは、経済の民主化を手始めに、この無効にされた声の空白を埋めることを目指す。マジョリティの人々の社会構造に則った組織群を創造し、それらが結びつくことによって、貧困者たちはみずからを意識化し、最終的には人々が力を自分たちの手中に取り戻すことができる。このような感情へと高めていく。

移民国家アメリカ 同化主義から文化多元主義へ

2016年11月19日 | 3.社会
同化主義から文化多元主義へ

 アメリカ合衆国が、多層な移民から成り立った国であればあるほど、国民統合をどう達成するかが、国家的な課題であったことは言うまでもない。移民がアメリカに帰化を果たして国民になった以上、彼らをどう「アメリカ人」にしてゆくかが大きな問題であったが、19世紀に主流であった国家統合のイデオロギーは、同化主義である。同化主義は、インディアンを「文明化」する政策において、充分に実験されていたと言ってよい。おもに教育を通じて実施された同化政策は、インディアンの子弟を家族から引き離し、寄宿学校に入れて、母語と部族習慣を捨てさせ、キリスト教化することだった。有名な寄宿学校、ペンシルヴァニアのカーライル校の入り口には、「インディアンを殺し、人間を救え」という標語が掲げてあった。インディアン文化を捨てて、アメリカに同化することが、人間になることを意味した。

 移民たちのアメリカヘの同化は、「アングロ・コンフォーミティ」を基礎とした。アメリカ文化が、イギリスからの植民者によって形成されたものである限り、後からやってくる移民たちは、アングロアメリカ的な制度や慣習を全面的に受け入れて、それに順応(コンフォーム)すべきだという考えだ。それによって移民たちは、母国の伝統文化、母語や生活習慣を捨て去らなければならない。だがこの考えは、ワスプ的な単一の価値を押し付け、外国系のもの、異質なものを排除しようとする排外主義と背中合わせの偏狭なイデオロギーだった。

 20世紀になると、「メルティング・ポット論」が台頭した。人種のるつぼというイメージは、18世紀末に、クレヴクールの『アメリカ人の農夫からの手紙』に提示されていた。彼は、アメリカ人とはなにかと問い、ヨーロッパからやってきた人々が、アメリカという育ての母の元で交じり合い(混血して)、アメリカ人という新しい人間になると述べた。だが、この言葉が広く使われるようになったのは、ユダヤ人作家イスラエルーザングウィルの戯曲『メルティング・ポット』が、1908年に上演されたことが契機になっている。ポグロム(ユダヤ人に対する迫害行為)で家族を殺されたロシア系ユダヤ人が、ポグロムの指揮官の娘と恩讐を超えて結ばれる話であるが、作中、主人公デヴィッドが建物の屋上からニューヨークを見渡しながら、恋人ヴェラに言う。

  ここには偉大なルツボがあるのだ。どよめき、ブツブツとたぎるルツボの音が聞こえないかい? ケルトも、ラテンも、スラブも、チュートンも、ギリシャ人もシリア人も、黒人も黄色人種も、ユダヤ人も非ユダヤ人も、イスラム教徒も、練金術師たる創造主が清めの火をもって溶かし融合させているのだ。

 メルティング・ポット論は、現実的な要請から意外なところで実践された。それは、移民たちが働く産業の現場である。自動車メーカーのフォードは、いち早く工場内に移民のための英語学校を設立した。移民たちが、班長の指示を理解しないと、工場のアセンブリーライン(流れ作業)に支障をきたすからだ。英語学校には、舞台がしつらえてあり、中央に大きなルツボ(物資を溶解するための容器)が置いてあり、生徒(工員)たちがつぎつぎに入ってゆく。ルツボには、はしごがかかっており、はしごのてっぺんでは、生徒の一人が長い棒を持って、ルツボをかき回しながら、言っている。「溶けろ、溶けろ、溶けて一つとなれ、溶けてアメリカ人になれ」。そうしてしばらくすると、それぞれの民族衣装で入っていった工員たちが、こざっぱりした作業員服で、ルツボから出てくるのである。

 多様な民族が融解されて、アメリカ人という新しい国民が形成され、移民がもたらす多様な文化が合成されて、「アメリカ文化」ができるという考え方は、一つの範型に移民を押し込めるアングロ・コンフォーミティとは、一見異なるようにも見える。だが、移民の文化が溶けてなくなる(しかも急速に)ということは、アイデンティティの喪失を意味しており、これも形を変えた同化主義と言えるのである。

 メルティング・ポット論を超克する理論として登場したのが、文化多元主義である。哲学者ホレス・カレンが初めて提唱したその言葉は、「人は自分の宗教や哲学をかえることが出来るが、祖父をかえることはできない」という彼の主張に基づいている。彼はアメリカを、「人類のオーケストラ」に喩えた。それぞれの民族集団が、オーケストラの各楽器となって、調和して美しいハーモニーを奏でる。これこそが、アメリカの望むべき国の姿である。彼の考えは、現在の多文化主義の種子として、大変重要な意味を持つ。だが、20世紀初頭においては、知識人の理想論として影響力を持だなかった。実際この時期、移民政策は多様性を否定し、それを制限する方向に動いたのである。

多文化主義のゆくえ

 1965年の新移民法は、それまでの移民制限を撤廃する画期となった。ジョンソン政権下、公民権法が成立し、アメリカがこれまで黙認してきた黒人やインディアン、その他マイノリティ集団に対する差別や不公正をただす時代的機運が高まった。旧ソビエト連邦と対抗する冷戦下、「自由と民主主義の盟主」を謳うアメリカは、襟を正してその理念を点検する必要に迫られた。人種主義を根幹の枠組みとした移民割当法は、当然撤廃されなければならなかった。

 1960年代、70年代のリベラリズムのなか、多民族・多文化国家アメリカの検証が、活発に行なわれるようになった。日系二世の歴史学者ロナルド・タカキは、『多文化社会アメリカの歴史』を著し、アメリカを構成する多様な人種・氏族集団の歴史が、いかに密接に絡み合っているか、またいかにアメリカの歴史がこうした多様な集団が寄り集まって、新しい社会をつくろうとしてきた歴史であるかを示し、今後のアメリカでの多民族・多文化の共存に、この認識を欠くことはできないことを明らかにした。

 大学では、エスノ・ヒストリー、エスニック・スタディーズのコースやプログラムが展開し、これまでのワスプ中心の歴史観は相対化された。移民の子孫の民族集団では、エスニック・リバイバルが起こり、民族固有の文化遺産に改めて光をあて、自らのエスニックの出自、エスニック・アイデンティティに誇りを持つ大きなうねりがアメリカ社会を覆った。Japanese-American、Chinese-American、Italian-American など、いわゆるはイフォンつきアメリカ人が、自らの出自を誇った。彼らの多くはすでに移民1世ではなかった。3世や4世、あるいは祖先がいつアメリカにやってきたかも明らかでなく、母語もとおに失った人が大多数であった。マーカス・ハンセンの法則は、「子供が忘れたものを、孫が思い出す」と言う。移民1世の子供は、同化に苦労する親を見て育ち、自らの民族的・文化的出自を捨てようとする。孫の世代は、そういう親に育てられ母語も話せず、アメリカ化しているにも関わらず、自らの出自を探ろうとする。エスニックーリバイバルで起きたことは、まさにこういうことであったろう。移民の子孫たちは、先祖が故国から持ちこんだ文化伝統を再学習し、アイデンティティの礎にしようとしたのである。

 エスニック・リバイバルを、民族の拡散と捉えて警鐘をならした学者もいた。アーサー・シュレジンガー・ジュニアは『アメリカの分裂』のなかで、多文化主義が行き過ぎて、それぞれのエスニック集団が自己主張をぶつけ合うようになれば、アメリカは分裂しかねないと危惧した。

 それぞれの民族集団の多様性を維持しながら、どうやって一つにまとまってゆくのか、「多から一ヘ」は移民国家アメリカの永遠の課題なのかもしれない。

豊田市図書館の20冊

2016年11月18日 | 6.本
498.8『ストレスチェック時代のメンタルヘルス』労働精神科外来の診察室から

547.48『Webサイト構築&運営がわかる本』新人IT担当者のための

933.7『ダーウィンの警告 上』

933.7『ダーウィンの警告 下』

543.5『死の淵を見た男』吉田昌郎と福島第一原発

778.25『最も危険なアメリカ映画』『国民の創生』から『バック・tゥ・ザ・フィーチャー』まで

333.6『世界経済 危険な明日』

382.1『日本生活史辞典』

518.85『森の都市Ⅱ』緑とスローモビリティによる都市作り

725.5『スーパーリアル色鉛筆』林亮太の世界・技法と作品~より精緻でドラマチックな表現へ~

304『世界大変動と日本の復活』竹中教授の2020年・日本大転換プラン

293.46『ウィーン・プラハ』

116.3『「正しい」を分析する』

290.93『シベリア&シベリア鉄道とサハリン』

234.6『図説 ウイーンの歴史』

386『サンタへの手紙』1870年から1920年までに子どもたちが書いたクリスマスの手紙と欲しい物リスト

334.4『移民の経済学』

211『松前藩』シリーズ藩物語 戦国動乱 北海の覇者、松前氏により立藩。アイヌ交易で繁栄を極め、最北の城下町・松前

317.6『新・情報公開法の逐条解説』行政機関情報公開法・独立行政法人等情報公開法

377.9『面接の達人 2018バイブル版』


アメリか合衆国 衆愚政治の先にあるものは

2016年11月18日 | 4.歴史
『「覇権」で読み解けば世界史がわかる』より アメリカ合衆国 ⇒ 米国ほど、欺瞞に満ちたものはない。民主主義という建前を適当に使っている。ルメイとかトランプなどを生み出す風土。

衆愚政治が国を亡ぼす

 デマゴーゴス。

 紀元前5世紀、古代ギリシア・アテネにおいて、ペリクレス将軍は古代民主政を完成させました。

 しかし「完成」のあとに待つのは「崩壊」です。

 彼の死後、政才もないくせに舌先三寸で民衆を扇動し、アテネを亡国へと導いた政治家がわらわらと現れ、アテネは衰亡していきます。

 そうした政治家のことを「扇動政治家」といい、デマゴーゴスに導かれている政治のことを「衆愚政治」といいます。

 そして、衆愚政治は「死に至る病」。

 衆愚政治に入った国は、遠からず亡びることになります。

 ところで、2016年のアメリカ大統領選挙は後世に語り継がれる大統領選挙となるかもしれません。

 共和党の候補にD.トランプなる人物が現れたためです。

 彼の発言はもうメチャクチヤです。

  --メキシコ移民は麻薬と犯罪を持ち込む元凶だ。

  よって、メキシコとの国境沿いにこ刀里の長城々のごとき長大な壁を築く。

  その費用(1兆円前後)はメキシコに払わせる。

  --9・11の際、対岸のニュージャージー州では数千人ものアラブ人が拍手喝采してその光景を称えていた(事実無根)。

  --ムスリム(イスラーム教徒)の入国は全面的に禁止させる。

  モスクを閉鎖させ、ムスリムの身辺調査をし、監視体制を敷く。

  --イスラームとの戦いのためには拷問を復活するべき。

  --「イスラーム国」(IS)には徹底的に爆撃を行う。

  --白人によって殺される黒人の数よりも、黒人によって殺される市民の数の方がはるかに多い。

 もうどこからツッコんでよいのやら。

 たいへんに分かりやすい典型的なデマゴーゴスで、民主主義がまともに機能しているなら、けっして勝ち残るはずのない人物です。

 しかし彼は、予備選を勝ち抜きました。

 本書執筆時点ではまだ本選の結果が出ていませんが、こんな人物が大統領候補にまで昇りつめる時点ですでにアメリカの民主主義が〝死の病〟にあり、典型的な「衆愚政治」に陥っている証拠です。

 古代アテネにおいて、「クレオン」という人物はアテネを崩壊に導いた典型的なデマゴーゴスとして歴史にその名を刻みました。

 もしトランプ氏がホワイト(ウスの主となることがあれば、彼もまた「アメリカ合衆国を衰亡に導いた大統領」として歴史にその名を刻むことでしょう。

頂上から先は下りのみ

 頂点に立った者はかならず亡びる。

 歴史の絶対法則です。

 アメリカはすでに頂点を越え、今はその下り坂を転げ落ちている最中です。

 その時代の頂点に君臨するためには、どうしても「国家の特性」と「その時代の特性」をぴったりマッチさせなければなりません。

 これに成功することができれば、その時代において繁栄することができ、その時代の頂点に君臨する資格を得ることができます。

 しかし、時代の頂点に君臨するということは、その維持に莫大な経費を必要とするため、財政を逼迫させます。

 そして、「時代」はかならず変遷しますが、国家の体制‘本質はそうそうおいそれと変えることはできません。

 こうして、ひとつの時代においてその国を頂点にまで導いたシステムそのものが、時代が変わったとき、その国の足柵となって亡んでいくことになるのです。

 アメリカの場合、その建国事情によって、とりわけ「民主主義精神」の強烈なお国柄となりました。

 それが「帝国主義段階」という時代とぴったりマッチすることで、20世紀に覇を唱えることができたのです。

 しかし、「帝国主義時代」も今は昔。

 時代が急速に移り変わり、「21世紀新時代」を迎えてもなお、アメリカはそれに気づくことなく、帝国主義的外交を繰り返すのみ。

 時代が移り変わっても生き残る国はありますが、そうした国は新しい時代に身を合わせることができる国だけです。

 アメリカのように、古い時代のやり方に固執しているようでは亡国の道をまっしぐらです。

 それを証明するように、現在、アメリカ経済はすさまじい勢いで貧富の差が広がっています。

 それは、1929年の世界大恐慌直前の貧富の差に匹敵するほど。すべてのベクトルが「アメリガ崩壊」を示しています。

スローガンと現実

 ちなみに、テレビというものが普及して以降、衆愚の心を掴むためには、いよいよ単純で短い言葉を繰り返し繰り返し叫ぶ「スローガン」がより有効になってきました。

 そこで、歴代大統領の掲げたスローガンを見ていくと、おもしろいことに気づきます。

 彼らの掲げたスローガンはすべて「ないものねだり」であり、実現していないものばか

  L.ジョンソン「偉大なる社会」→貧相な社会

  R.ニクソン「法と秩序」   →法も秩序も崩壊している

  R.レーガン「強いアメリカ」 →弱いアメリカ

  B.オバマ「Change!」「Yes, We can!」→何も変わらない、何もできない

 こうしてみると、滑稽なほど「現実」はスローガンと真逆です。

 では、2016年大統領選挙において、D。トランプ氏はなんと叫んでいるのでしょうか。

 「強いアメリカをふたたび!」

 嗚呼!

アメリカ合衆国 中国進出に邪魔な日本

2016年11月18日 | 4.歴史
『「覇権」で読み解けば世界史がわかる』より アメリカ合衆国 ⇒ 米国ほど、欺瞞に満ちたものはない。西部が無くなったからフィリピン、そして、中国。

砲艦外交

 その点、アメリカは国内に膨大な「無主の地」を有していたため、それが可能でした。

 改革は〝イバラの道〟ですが、成功すれば未来は明るい。

 膨張は〝安易な道〟ですが、ひとたびこの道に入れば後戻りはできません。

 あとは限界が来るまで膨張しつづけるのみです。

 しかしアメリカは、この〝後戻りできない安易な道〟を選んでしまいました。

 するとたちまち、あれほど広大だった「西部」も、アッという間に食い尽くし、それにも飽き足ることなく、つぎは「海(太平洋)」へ向かいます。

 以後、アメリカは「軍艦を並べて軍事的威嚇によって有利に外交交渉を行い、侵掠政策を進める」という、所謂「砲艦外交」を行っていきます。

 すでに19世紀半ばに西海岸に達したとき(1848年)、彼らは目の前に広がる太平洋をそのまま突き進み、その先にあった日本に対し、江戸湾に「黒船」を並べて開国を求めた(1853年ペリー来航)ことはあまりにも有名です。

 もっともまだこのころは、捕鯨のための寄港地程度にしか考えていませんでしたが、19世紀の末までに北米を食い尽くしたアメリカは、いよいよ建国以来の「孤立主義」をかなぐり棄てて「侵掠」を目論むようになります。

  --我々アメリカ合衆国だけが、アメリカ大陸諸国に介入する権利を持つ!

 要するに、孤立主義を「アメリカだけが独占的に侵掠行為を行使できる権利」と論理のすり替えを行ったのでした。

 まず彼らが目をつけたのが、北米大陸のすぐ南に隣接するカリブ海。

 当時この海域はスベイン植民地でしたが、たまたまキューバのハバナ湾に停泊していた米艦メイン号が突然爆沈した事件を捉え、「スペインの陰謀である!」として国民を煽ります。

 ほんとうの原因は単なる「事故」でしたが、スペインとの開戦口実を探していたアメリカにとって「真実」などどうでもよいこと。

 こうして1898年に勃発したのが「米西戦争」です。

 新進気鋭の「世界第3位の海軍大国」アメリカと「旧時代の二流国家」スペインでは、結果は火を見るより明らかでした。

 戦後アメリカはカリブ海・太平洋地域におけるスペイン植民地をことごとく押さえ、キューバを保護国とし、プエルトリコを併合して、カリブ海域を「アメリカの裏庭」としたのみならず、太平洋ではフィリピン・グァムを併合し、その影響力を太平洋地域にまで延ばします。

 ■アメリカ発展の理由③■

  建国以来の「孤立主義」の解釈を都合よく変えることで、ヨーロッパの介入を阻み、植民地を独占的に拡大することが可能となった。

中国進出

 そうなれば今度は、ここフィリピン・グァムを橋頭堡として中国を見据えます。

 しかし、一歩遅かった!

 その1898年、中国・清朝は、旅順・大連をロシアに、威海衛をイギリスに、膠州湾をドイツに、広州湾をフランスに与え、それに日本を加えた列強5ヶ国に「勢力範囲」を認めさせられ、すでに「瓜分」はほとんど終わっており、アメリカが付け入るスキはなくなっていました。

 アメリカは伝統的に「中立主義」で、それは第5代J.モンロー大統領の「モンロー教書(1823年)」により完成し、このころすでに空文化していながらまだ公式に棄てたわけではありませんから、この中国分割に「俺にも一枚噛ませろ」とはいえません。

 そこで翌1899年、当時の国務長官J.ヘイは所謂「門戸開放宣言」を発します。

  --特定の地域の利権を特定の国が独占するのはよくない。

  誰にも平等に門戸は開かれているべきであり、機会は均等に与えられるべきである!

門戸開放、機会均等。

 たいへん耳当たりのよい、御為ごかしの美辞麗句が並んでいますが、要するに「我がアメリカにも、中国を喰いモノにさせろ」と言っているだけです。

 ■アメリカ発展の理由④■

  自国の行う悪事悪行を美辞麗句に言い換えることが異常に得意であったため、国民国際世論を味方につけることができた。

 もちろん、列強はこれを黙殺。

満州争奪戦

 そこでアメリカは、当時いまだその支配権を巡ってモメていた満州に目をつけます。

 じつは、アメリカが「門戸開放宣言」を発した翌1900年、中国では「義和団の乱(北清事変)」が起こっていました。

 「瓜分の危機「1898年~)」に対する排外運動が暴動化したものです。

 この叛乱自体は、「8ケ国共同出兵」が行われて、アッという間に鎮圧されて終わりましたが、このドサクサにまぎれてロシア軍が満州を不法占拠したまま撤兵しなくなってしまいます。

 これに国家存亡の危機に立たされたのが日本。

 そして、制海権の脅威を受けたのがイギリスとアメリカでした。

 このまま満州がロシアの支配下に入れば、ロシアはここを橋頭堡として朝鮮半島を支配下に置くことは火を見るより明らかでしたし、そうなれば、日本も朝鮮の二の舞となって亡ぼされることは確実だったからです。

 そしてそうなれば、ロシアは朝鮮・日本を足場として太平洋へ海上発展することは明白で、海上支配権を握るイギリス・アメリカにとってははなはだ都合が悪かったのです。

 そこでイギリスは日英同盟(1902年)を結び、アメリカも不平等条約(治外法権)を撤廃(1899年)したり、日露戦争の仲介の労を執ったりして、日本を陰に日向に掩護しました。

日露戦争後の日米関係

 当時の日露は、人口で3倍、海軍力で3倍、陸軍力で15倍、歳入で8倍という圧倒的国力差にあって、本来日本にはまったく勝ち目のない戦争でしたが、こうした掩護のおかげもあってなんとか日本が辛勝、ロシア軍を満州から全面撤退させることに成功します。

 しかし日本は賠償金が取れなかったため、戦後、悶絶することになります。

 日本の歳入が2億5000万の時代に17億円(歳入の7年分)もの戦費を費やしましたから、すでに国力は疲弊しきっていて日本国民が食べていくことすらままならず飢えに苦しんでいるというのに、そのうえこの借款を返還していかなければなりません。

  --一将功なりて万骨枯る--

  戦争そのものには勝利し、ロシアの奴隷民族になる危機からは脱したものの、国は荒廃するばかり。

 この先の見えない事態を打開するためには、満州・朝鮮から新しい収益を得るしかありませんが、当時の満州・朝鮮は日本に負けず劣らず貧困にあり、とてもそこから収益を上げる状態にありません。

 そこでまず、満州・朝鮮から収益が上がるようにするため「投資」が実施されます。

 もちろん、日本に投資の資金などありませんからさらなる借款です。

 いわば「借金を返すために借金をする」というドツボに入っていったのです。

 ここに目をつけ、甘言をかけてきたのがアメリカ鉄道王 E.ハリマン。

  --どうだろう、1億円の資金を提供しようではないか。

  その代わり、南満州鉄道を共同経営にしよう!

 当時の日本にとって、1億円は喉から手が出るほどほしい。

 時の元老・桂太郎、伊藤博文、井上馨らは、ついついこの甘言に乗り、桂ハリマン覚書を交わしてしまいます。

 しかしその直後、ポーツマスから帰国してきた小村寿太郎は、これを知って激怒。

  --こんな「共同経営」など名ばかりだ!

  やつらは口先では日米平等と謳っているが、これを足掛かりに実質的経営を乗っ取る気であることは目に見えているではないか!

  それでは日露戦争で散っていった〝十万の英霊〟に申し訳が立たぬ!

 こうしてアメリカは、仮協定まで漕ぎつけながら一方的に破棄され、アジアヘの足掛かりを挫かれたため、日米関係がこのあたりからギクシャクしはじめました。

  --東アジアを我が国の隷属化に置くためには日本が邪魔だな。

 アメリカはつぎに「満州鉄道中立化」を提案(1909年)するも、これも「中立化」といえば聞こえはいいが、中立化することでアメリカが食い込もうとしているだけで「J.ヘイの門戸開放宣言」と同じ精神のものでしたから、この見え透いた提案に日本はおろか、英・仏・露ともに反対し、失敗に終わります。

 東アジアまで隷属化に置こうとするアメリカにとって、日本という国が「障壁」となりはじめます。

アメリカ合衆国 南北戦争で65万人の戦死者

2016年11月18日 | 4.歴史
『「覇権」で読み解けば世界史がわかる』より アメリカ合衆国 ⇒ 米国ほど、欺瞞に満ちたものはない。南北戦争から米西戦争への流れ。

米英戦争

 こうしてアメリカ北部の産業界は、ヨーロッパ大陸の諸国に商品を輸出することができなくなって大打撃を被り、米英関係も一気に冷え込みます。

 とはいえ、当時の北部産業界はいまだイギリス経済に依存していたため、ここで「自由拿捕令が不満」だからといって対英開戦すれば、対英貿易までも途絶し、北部の産業は潰滅してしまいかねません。

 したがって、不満は大きかったけれど北部から「開戦!」の声が上がることはありませんでした。

 ところがタイミングが悪いことに……というべきか、ちょうどこのころアメリカは西部に住むインディアンと交戦状態に入っていたのですが、西部や南部の議員たちは、彼らインディアンの後ろで糸を引いているのはイギリスだと睨んでいました。

 そのため「臭いニオイは元から断たなきゃダメ」とばかり、「インディアンを撃滅するためには、黒幕のイギリスを叩くしかない!」という政見が広がっていきます。

 時の大統領J.マディソンは北部産業を守りたかったため、開戦には消極的でしたが、ついに西部・南部議員の開戦派「戦争の鷹」の力を抑えることができず、1812年、イギリスと交戦状態に入ってしまいます。

 これが所謂「米英戦争(1812年戦争)」です。

 対英戦線では、一時英軍が上陸して大統領官邸が焼け落ち、危機的な状況に陥ったこともありましたが、対インディアン戦線においては、H.ハリソン少将が首謀者テクムセを戦死させることに成功し、A.ジャクソン大佐がクリーク族に絶滅作戦を実行したことで、ほぼ戦争目的が達せられると、戦争は急速に終戦に向かいました。

 当初、マディソン大統領は北部産業を守りたい一心で対英開戦を望んでいませんでしたが、いざ蓋を開けてみると、北部産業は潰滅するどころか、内需拡大に力を注いだことで、イギリス経済への依存体制を脱却し、経済的に自立し、のちの第二次産業革命の基盤を作ることに成功します。

 まさに「瓢箪から駒」。

 この戦争が「第二次独立戦争(経済的独立)」と呼ばれることもある所以です。

 そのうえ、西部・南部のインディアンたちに対して絶滅に近い大殺戮を実行したことで、以後、インディアンの抵抗がほとんどなくなり、広大な「新天地」を得て、アメリカはさらなる拡大と発展が可能となります。

 イギリスが「膨大な黒人奴隷の屍」の上にPax Britannicsa を築いていったように、アメリカもまた「膨大なインディアンの屍」の上に、これからPax Americana を築きあげていくことになります。

 一見きらびやかで華やかにみえる白人の繁栄は、つねに「膨大な有色人種の屍」の上に立つ、たいへん〝血なまぐさい〟ものだということを歴史から学ばなければなりません。

 ■アメリカ発展の理由②■

  米英戦争によってイギリスとの交易が強制的に途絶した結果、経済的な自立を促し、それがのちの第二次産業革命を誘引した。

南北対立の要因

 こうしてアメリカ合衆国は、図らずも米英戦争によって発展の基盤を手に入れることになりましたが、「Pax Americana」への道はまだまだいくつかの試練を越えていかねばなりませんでした。

 イギリスは戦中、対米貿易が断絶したことで在庫を抱え苦しんでいたため、戦後、ここぞとばかり、アメリカに輸出攻勢をかけてきます。

 当時すでにイギリスの産業は「産業革命の完成期」が間近に迫り、成熟していたのに対して、アメリカの産業は産業革命どころか、ようやく〝よちよち歩き〟できるようになったばかり。

 まさに〝大人と子供〟で、まったく太刀打ちできません。

 そこで、アメリカ北部の産業界を守るため、1816年「一般関税法」が制定され、保護貿易に突入します。

 イギリスから輸入される「安価で高品質な商品」に高関税をかけることで自国の商品を守ろうとしたわけです。

 しかしそんなことをされては、イギリスの商品が売れなくなってしまうため、イギリスはこれに抗議します。

  --関税をかけるのを止めよ!

 しかし、交渉が決裂すると、イギリス側は報復措置に出ます。

 イギリスの産業革命は綿布を主力とし、その原料である綿花を多くアメリカ南部から輸入していましたが、これに高関税をかけたのです。

 これをやられると、今度は南部の大農主が大打撃を被ります。

 こうして、北部の資本家を守るために実施した関税が、巡り巡って南部の大農主を苦しめる結果となり、北部と南部の対立が表面化していきました。

南北戦争

 このように南北の対立が生まれる中、ちょうどそのころ、アメリカ人による西部地域への植民活動が活性化していきます。

  --我々が西へ西へと植民していくことは、神が与え給うた〝明白なる天命〟である!

 こうして、さらなるインディアンの殺戮・駆逐・掃討しながらの植民活動が盛んになりましたが、それは北部と南部の勢力争いの場ともなります。

 なんとなれば、こうして新たに州が生まれれば、それが「北部の自由州」となるか「南部の奴隷州」となるかで、連邦議会の議員数に直結するためです。

 北部と南部の対立が深刻化する中、両陣営とも議員の数はひとりでも増やしたい。

 こうして、熾烈な〝新州争奪戦〟が繰り広げられる中で、1854年、「南部憎し!」の議員たちが結集して生まれたのが、現在まで脈々とつづく「共和党」です。

 南部議員は「民主党」を権力基盤として対抗していましたが、両者が歩み寄ることはついになく、1860年の大統領選で共和党の候補(A.リンカーン)が大統領に当選すると、これに危機感を覚えた南部は、ついに翌61年、内乱を起こします。

 これが「南北戦争」です。

 南部諸州は「アメリカ連合国」として独立を宣言、以後足かけ4年にわたって合衆国は国を二分して戦うことになりました。

 ちなみにアメリカ合衆国は、独立戦争から始まって21世紀の現在に至るまで、いくつもの対外戦争を経験してきましたが、その戦死者数は意外なほど少なく、そのすべてを総計しても60万に届きません。

 しかし、このときの内乱だけで北軍と南軍、両軍あわせて戦死者は65万を超えるという惨事となりました。

フッサールによる他我の明証

2016年11月18日 | 1.私
『「他者」の倫理学』より フッサールにおける独我論の哲学 ⇒ なぜ、他者が存在しないという、当たり前のことにこれほど拘るのか。それよりも、その先に行かないといけない。「私の世界」と「他者の世界」とする。それが未唯空間第10章のテーマ。

フッサールは、一九三一年に『デカルト的省察』を発表し、その「第五省察」において、いわゆる「間主観性」論を展開することになる。すなわち、これまで彼が遂行してきた世界の超越論的主観性による自己意識への還元に対し、この省察では、純粋自我により構成された世界において、どうすれば他者の主観的世界が妥当視されることが可能になるかという、現象学における最大のアポリアに挑むことになるのである。

いうまでもなく間主観的世界が成立するためには、自己と同じ主観を共有する「他者」、いいかえれば唯一の超越論的主観である自我が認識しているのと同じ世界を認識する「他我」が存在していなければならない。しかしながら現象学においては、自己と同型の他者をあらかじめ前提することはできない。それゆえフッサールは、自己の意識に現れる他者を、自己と同じ主観をもつ存在として「構成」することによって、他我の存在を明証し理解しようとする。つまり、自己の主観は独我論的な主観ではなく、他の主観と相互的で共軌的な間主観性をもつものであり、自己は他者との共属世界においてのみ存立しうることを明らかにしようというのである。

すなわちそれは、これまでの超越論的還元が、世界から純粋自我へと還帰する自我論的還元であったのに対して、いわば純粋自我を出発点にして、あらゆる人々に共通に認識される世界の妥当性を構成する「形相的還元」の試みであるといわれるものである。

出発点は、『イデーンⅠ」とにおいて到達した世界の「第一次領域」である。それが、他者を含むあらゆる自然的な信憑をカッコに入れた超越論的主観性の世界であることはいうまでもないことであろう。そこには自我と、その意識によって構成され意味付与された事象世界しか存在しない。この自我によって構成された事象世界には、あらゆる物質や観念が含まれているが、ただひとつ他とは異なるものが存在する。フッサールはそれが「自己の身体」だというのである。

「身体」はたしかに構成された世界の一部であるが、他の世界の素材とは明らかに異なっている。フッサールによれば、そこには二つの異質性がある。第一に、「自己の身体」は、私のすべての感覚直観が帰属する唯一の素材であること。第二に、「自己の身体」は、私の意識の自由な志向性に応じて動かすことができる、つまり私の意思が直接自由に支配しうる唯一の素材であること、である。こうして「自己の身体」は世界のさまざまな他の構成物と区別され、それらに先行する。すなわち、「自己」と「自己の身体」の関係こそが、世界においてもっとも根源的で密接な関係として認知されることになるのである。

さて、この関係が直観されると、「自己」は、「自己以外の身体」について、それを私ではないものとして認識することになる。なぜなら、「他の身体」は、私の感覚的直観に帰属せず、私の意識の自由な志向性に応じた動きをすることがないからである。けれども、物体としての「他者の身体」は、それが私の身体に類似しているという事実から、具体的には頭部と胸腹部、性器や四肢などによって構成されているという事実から、「自己の身体」との「類比性」を直観することができる。すなわちそれは、私の身体と「対関係」にあるものとして理解されることになる。こうして「他者の身体」は、自己の身体とまったく同じ「身体」という意味を移入されるのである。フッサールは、その第五省察においてつぎのようにいう。

 「私の第二次領域のうちに一つの物体が現れ、それが私の身体に類似している、すなわち私の身体と対関係を結ぶに違いないような外観をもつ物体として現れたばあい、その物体は、私の身体からの意味の移し入れによって、ただちに身体という意味を受け取るにちがいない。」(デカルト的省察二〇三頁)

いいかえれば、「他者の身体」に、「自己」から「自己の身体」への密接な志向関係と同様の意味を付与し、ここから、「自己投入」と呼ばれる「意味の移し入れ」によって、他の身体の動きに対応する「自己」の類似者としての「他者」を構成することになる。たとえば私は、自分が喜びや悲しみを感じたとき、その志向性に応じて自己の身体にどんな創造的作用が生じるかを知っている。一例をあげれば、私の感情の変化によって顔に紅頬や落涙が生じ全身に発汗が生じることがある。それゆえ私は、私ではない他の身体に、私と同じような紅頬や落涙あるいは発汗という作用が起こったとき、そこに私と同様の感情をもつ「類似者」すなわち「他者」の存在を構成することができるようになる。これをフッサールは、身体の「対」関係を介した自己の「根源的呈示」に対応する、他者の「想像的呈示」と名づけている。

こうした一連の過程をへて、初めて「他者」は、「自己」の「類比的統覚」として、私の意識のうちに間接的に呈示されることになるのである。

このように、人間は知覚直観によって物体としての認識を構成し妥当していくことができるが、「他者」の妥当にかぎっては、特殊な構成方法を採らざるをえない。フッサールはこれを空間的位置関係に喩えて、「自己の身体」がここにあり「他者の身体」がそこにあると仮定したばあい、フもし私がそこに身を置いたならば、他者の身体は、同様の現れ方をするであろうものである」という。すなわち「自己」と「自己の身体」の密接な根源的関係から「類比」して、「自己」ではないが「自己」と同様のものがそこに存在するはずだという確信が得られるというのである。

それゆえ「他者」は、自己の類似者として以外にありえない。他者は、必然的に私の客観化された最初の自我であり、これをフッサールは「私の第一次領域の指向的変種」と名づける。ここにおいて「他者」は、たんなる私の類推現象にとどまらず、「私という自我の変容態」すなわち「他我」という意味を付与されることになる。すなわち他我のモナドは、私のモナドを通じて間接的に提示され、構成されることになるのである。

 「根源性(オリジナル)として現前し確認できるものは、固有なものとして私自身に属している。それに対して、原初的には充足されない仕方で経験されるもの、それが『異なるもの』としての『他者』なのである。それゆえ他者は、自分固有のものの類似物(アナルゴン)としてのみ考えることができる。……つまり他者は、現象学的には私という自己の『変容』として現れるのである。」(デカルト的省察二〇六頁)

それゆえ他者は、私と同等の存在でありながら、いいかえれば私でないもう一人の私として根源的に意識される存在でありながら、根源のままには与えられない存在でなければならない。他者は、「根源性」という言葉のなかに形容矛盾として含まれる、私ではない他の私つまり私の「類似物」という二重の性格をもってのみ現前することになる。

したがってフッサールのいう[間主観性]とは、けっして「自己」と「他者」のあいだにある共同的な主観性もしくは主観の相互作用を意味するものではなかった。それゆえまた、「自己」と「他者」がともに同一の世界の中に属しているという事実を保証するものでもなかった。なるほど「他者の主観性」は、それぞれの相関者としての他者の違いに応じて多様に現出するであろう。だが、それはあくまでも、私(自己)の主観性によって他者を認識する、ひとつの確信の妥当を意味しているにすぎない。それぞれの主観は各人の「構成」によってひとつのまとまった体系をもちうるが、それらの「間主観的世界」なるものは、どこまで遡っても、それぞれの私(自己)による超越論的主観性の世界への内属から脱却することはできなかったのである。

以上から明らかなように、フッサールの説く「他者」構成なるものは、自己の意識に現れる主観を他者も同じように共有するはずだという確信を述べているにすぎないことになろう。したがって、そこに構成された「他我」は、たんに自我が投影された自己の操り人形にすぎず、実際に原的に生きている他者になっているわけではない。フッサールのいう「他我」は、超越論的に構成された純粋意識の枠内に閉じ込められて、自我による意味付与から一歩も超出することはなく、いわば自我の暴力性に服従する幻想的な「他者」でしかなかったのである。フッサールはこれを認める。

 「私は他我の身体によって他我を意識するのである。他我の身体は、他我自身には、絶対ここという現れ方において与えられている。しかし私は、私の第一次領域のうちにおいてそこという様態で現れるものと、他我の第二次領域のうちにおいて彼に対してここという様態で現れるものとが、同一の物体であるといったいどうして言えるのであろうか。」(デカルト的省察二一六頁)

すなわち現象学という独我論を前提とするかぎり、私の身体と、私の意識のなかに構成された他者の身体との間には「超えることのできない深淵」がある。それはけっして単一の世界を構成していない。

これこそが、フッサールの説く「問主観的世界」が、ひとつの客観的世界ではありえず、誰もが同じ世界を見ているはずだという、いわゆる「自己投入」された私だけの臆見的世界にとどまったゆえんであろう。こうして、「他者」の主観が「自己」の主観と基本的に同一の構造をもつという推測の範囲において、「自己」は「他者」を理解できるというのが、フッサールの「間主観性論」の結論であった。それはいわば、私(自己)が他者を理解したのではなく、理解したつもりになっているにすぎなかった。そこでは、自己と他者との共属的同一性は、ついに保証されることはなかったのである。

けっきょくフッサールは『デカルト的省察』において、自己とそれ以外の他者とが共通に営むという意昧での「問主観的世界」の構成に失敗したといわざるをえないのではなかろうか。