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OCR化した本の感想

『成功する公共施設マネジメント』図書館の価値創造支援サービス

 図書館は箱物だけではない。

 伊万里市民図書館が、市民協働の拠点として全国から注目されるようになったのは、行政と市民、それにプロフェッショナルの自覚をもってコーディネートした建築設計者の大変な時間と労力が投入されたためである。

 豊田市図書館とは、新館ができた日から、図書館返本ボランティアを始めてから、16年以上、経ちます。その間、まるで変わっていない。建設当時の三浦さんたちの思いから進化していない。

 その間の図書館協議会の市民公募委員に2回なったけど、進化しない。豊かな市民には通じていない。

『グローバル以後』広がる国家解体のプロセス

 「アラブ世界の基本的な弱点の一つは、国家を建設する能力の弱さです。人類学者として言うと、サウジアラビアやイラク、シリアの典型的な家族は、内婚制共同体家族です。つまり、いとこ同士の結婚がある父系です。そこでは、兄弟の関係が構造の基本です。構造は水平的で、縁戚関係が国家よりも重みを持つ社会なのです。」

 個人的には、国家よりもウンマ共同体を重んじる、ムスリムのやり方の法が柔軟性を有していると思っている。トルコが核になり、ギリシャ、スペイン、エジプト、レバノンなどの地中海諸国のコミュニティの集合体がつながれば、大きな力になる。
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広がる国家解体のプロセス

『グローバル以後』より 暴力・分断・ニヒリズム

--たくさんうかがいたいことがあります。あなたの『シャルリとは誰か?』はフランスで論争を巻き起こしたようですね。テロの後、あなたはメールで、「悲劇的なことは、同時に知的には興味をひかれることでもある。このテロは中東の伝統の危機と、先進社会の周縁部の腐食との相互作用だ」と書いていました。

まず中東についてです。15年前の9・11同時多発テロの後のインタビューで、あなたは、サウジアラビアやパキスタンのような国は近代への移行期間、過渡期のとば口にあるのだけれど、それに苦しんでいると話していました。アルカイダは、近代化で消えようとする社会のある部分の断末魔だと指摘されましたが、「イスラム国」(IS)もその過渡期の社会の苦悩の表れだと思いますか。

ええ、もちろんそうです。移行の期間というのはつねに劇的です。欧州の場合、フランスだと数十年にわたって革命と戦争が続きました。ドイツでも宗教改革やナチズムがあり、ロシアでは共産主義革命がありました。その過程の長さで言うなら、中東のケースは驚くには当たりません。まだ数年です。犠牲者の数という点でも、イスラム国の支配による死者数は、欧州で発生した数よりまだずっと少ないのです。フランス革命やナチズム、ロシアの共産主義による犠牲者を合計したら、中東で起きていることとは比較にならない虐殺になるでしょう。

実際のところ、一般的なモデルはいささか残酷なものなのです。歴史家として長い期間について語るなら、それは残酷な結果を生み出すもので、そのモデルは変わっていません。だから今、とても厳しい危機にあるのです。

ものごとが予想されていたよりずっとうまく進んだ国もあります。テロはあったけれど、チュニジアは非常にうまくものごとが進んでいる。エジプトのクーデターは想定されたことでもあります。フランスだって革命の後、ナポレオン1世や3世が登場した。だからこれは普通のことなのです。

ただ、中東の核心部分、アラブ世界の核心部分について、つまり過渡期からの出口について、私はいささかの疑念を持っています。

アラブ世界の基本的な弱点の一つは、国家を建設する能力の弱さです。人類学者として言うと、サウジアラビアやイラク、シリアの典型的な家族は、内婚制共同体家族です。つまり、いとこ同士の結婚がある父系です。そこでは、兄弟の関係が構造の基本です。構造は水平的で、縁戚関係が国家よりも重みを持つ社会なのです。

イラクやシリアで起きたことは、もっぱら米国の介入に起因するのですが、それは生まれつつあった国家の破壊だったのです。サダム・フセインはひどい独裁者でした。アサド家もとてもひどい独裁者一家です。しかし、それは国家建設の始まりでもあったのです。そこへ、国家秩序に敵対的な新自由主義的思想を掲げた米ブッシュ政権が、国家の解体はすばらしいとばかりに中東にやってきたのです。

中東で、国家の解体ほどまずいやり方はありません。つまり今、我々が目撃しているのは「イスラム国」という国家の登場ではなく、中東に存在していたあらゆる国家の解体なのです。イラクはシーア派の地域と、多かれ少なかれISに支配されているスンニ派の地域とに分断され、クルド地域政府が出現しました。シリアもスンニ派とアラウィ派などの地域に分断されました。

国家の解体のプロセスは広がっているという印象さえ持ちます。今、トルコも影響を受けているようだからです。

中東では、国家を組織する能力を備えているように見える国が二つあります。私の著書『家族システムの起源』で述べたことですが、その二つの国とはトルコとイランです。トルコはもちろんですが、イランにも国家建設の能力があります。階層化された宗教があり、秩序がある。オスマン帝国の伝統もあり、アラブ世界と比べて国家組織の能力があります。

それは家族制度と恐らく合致するでしょう。それに識字率が向上し、出生率は低下しています。

一方、サウジでは出生率の低下がどんどん早くなっています。これは移行期間の始まりではないだろうかと思います。もっとひどい事態が起きるかもしれません。未来予測をする者として言うなら、これから起こりうるサウジの崩壊です。

数年前、中東への関心が高い仏エネルギー大手のトタルの会合で話をしたことがあります。私は出生率の急激な低下について話しました。その後、サウジでは、ある種の熱に浮かされたような状態が居座っています。シーア派への弾圧を強化し、シーア派勢力が政権を掌握したイエメンに対して軍事介入を行いました。私が感じているのは、安定やISへの効果的な戦いではなく、移行期の伝染、拡大や、中東の産油諸国での国家の広範な破壊の可能性です。

この文脈で、欧米諸国の態度はとても奇妙だと思います。たとえばシリアについて、ぞっとするような言説がなされています。ISは確かに悪魔であり、あらゆるところに出てきています。しかし、ISは広大な支配地域を持っている一方で、そこに住んでいる人口は非常に少ない。私から見れば、むしろ空っぽの領域です。ちょうどアルカイダの頃のアフガニスタンにあったような地域です。もし、欧米が本当に問題を真剣に考えるのならば、地上部隊派遣の軍事介入をすることです。できないと言いますが、できるはずです。それほどひどいのであればやります。ヒトラーに対して英国やフランスは結局戦争をしたではないですか。
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微分方程式は賢い

『微分方程式』より

微分方程式は賢い。

アインシュタイン方程式はアインシュタインよりも賢い!

シュレディンガー方程式はシュレディンガーよりも賢い!

ディラック方程式はディラックよりも賢い!

アインュタインは宇宙は永遠に不変不滅だと信じていたが、アインシュタイン方程式は宇宙が定常ではありえないことを教えた。シュレディンガーは、物理学の基本量は何らかの物理的実在を表すものと思い込んでいたが、シュレディンガー方程式の解である波動関数は確率解釈でしか観測と関係づけられないものだった。ディラックは電子のディラック方程式から存在が導かれる正電荷の粒子を無理矢理に陽子と同定しようとしたが、じつは陽電子が実在したのだった。20世紀の初頭に現れた物理学の基礎理論の3大革命「特殊および一般相対論」「量子力学」「相対論的量子論」のそれぞれを代表するものというべきアインシュタイン方程式、シュレディンガー方程式、ディラック方程式は、いずれも微分方程式である。アインシュタイン方程式は重力の場が時空構造を支配する「時空計量」であって、連立非線形偏微分方程式に従うことを示したものである。シュレディンガー方程式は、一切の「日常常識」が通用しないミクロの世界においても、偏微分方程式によって物理が正確に記述されることを明らかにした。ディラック方程式は、特殊相対論と量子論の融合が必然的に反粒子の存在を導くという驚くべき結論を生んだ。

現在の物理学の基礎理論は素粒子の「標準模型」もしくは「標準理論」とよばれる理論である。その理論的定式化は「場の量子論」とよばれる体系に基づいている。まだ完ぺきとはいえないが、実験的にも理論的にも極めて満足すべき理論である。場の量子論の基本的対象は素粒子そのものではなく、「量子場」とよばれるオペレータ(非可換量)である場(時空の関数)であって、作用積分から変分原理によって導かれる偏微分方程式系によって記述される。

標準理論は重力場を含まない。重力場の古典論であるアインシュタインの一般相対論は、理論的にも実証的にもみごとな成功を収めた人類のもつ最も輝かしい理論であるといえる。素粒子の標準理論は重力場を含まないが、アインシュタインの一般相対論の重力場を量子場として場の量子論の枠組に含めることは可能である。これを「量子アインシュタイン重力」という。場の量子論本来の姿である「ハイゼンベルク描像」において、量子アインシュタイン重力は極めて美しい定式化ができる。しかるに「アインシュタインの重力理論は量子化できない」という、誤った根拠に基づく俗説が巷に流布しているようだ。これはまことに残念なことである。この俗説の真相は次の通りである。

場の量子論の方程式を解くのは非常に難しい。それで通常「共変的摂動論」という近似法が用いられる。これは理論の出発点になっている作用積分を人為的に「自由場の部分」と「相互作用の部分」とに分け、前者を先に処理してしまう「相互作用描像」というものに立脚する計算法である。「相互作用定数」というパラメータのべき級数に展開し、低次から順次「ファインマン・ダイアグラム」を用いて計算を行う。この共変的摂動論の方法で計算すると、よく結果に無限大が現れる。これを「発散の困難」というが、標準理論では発散の困難は「くりこみ」とよばれる処方によって、観測可能量からはすべて消去できることが証明されている。この意味で標準理論は予言能力のある理論なのである。ところが、同じことを量子アインシュタイン重力の場合に適用すると、発散の困難はくりこみによって回避できない。したがって、量子アインシュタイン重力は予言能力がない、すなわち物理として意味がないということになった。これが上述の俗説の理論的根拠である。

しかし、共変的摂動論という計算法での困難を理論そのものの困難にすり替えたという点で、この推論は明らかに論理が飛躍している。が、そればかりでなく、根本から間違っているのだ。量子アインシュタイン重力に相互作用描像を導入することはできないのである。共変的摂動論が使えた理論はすべて特殊相対論の枠組みで構成された理論である。この場合、時空計量は「ミンコフスキー計量」というものが先験的に与えられていて、時空構造のみならず座標系さえもあらかじめ決められているのである。ところがアインシュタイン重力では、時空計量そのものがアインシュタイン方程式の解なのであって、あらかじめ決まった時空計量などは一般相対論の作用積分のどこを探しても存在しない。そこでどうしても共変的摂動論を適用して量子重力をファインマン・ダイアグラムで計算をしたい人は、次のようなインチキを考案した。量子重力場の第0近似(重力定数をゼロにした極限)はミンコフスキー計量のような特定の計量(可換量)だと仮定して座標系まで固定したのである。これは一般相対論の屋台骨である「一般相対性原理」、すなわち「どんなに一般的な座標変換をしても理論の形は変わらない」という原理に真っ向から反することだ。座標系まで最初から勝手に選定したのでは、もはやアインシュタイン重力とはいえない。第0近似を勝手に決めるとはどういうことか、次のような比喩からも明らかであろう。あるフックス型の微分方程式の解として特殊関数 F(x)を定義したいと考えたとする。そのとき、確定特異点のところでの展開を考えるのだが、決定方程式を無視し、最低次として自分に都合のよいものを勝手に仮定してJのべき展開を計算したとする。これで正しい F(x)が求まるだろうか。どんなおかしな結果が出てきたとしても、それでもとの微分方程式は意味がないなどと結論できないであろう。量子重力でも、重力定数のべき級数に展開して計算するとき、その理論から定まる正しい最低次の結果を用いないで計算して、くりこみ不可能な発散の困難が現れても、それを理論そのものの欠陥とみなすことはできないはずである。

以上の議論から明らかなように、量子アインシュタイン重力には共変的摂動論が使えない。重力場の量子論はハイゼンベルク描像において解かねばならない、筆者は、筆者のところの助教であった阿部光雄氏と協力して、場の量子論をハイゼンベルク描像で解く一般的方法を開発した。この方法の第1段階は量子場が満たす偏微分方程式系の解を構成することである。偏微分方程式の初期値問題はコーシー問題とよばれるが、通常のコーシー問題と異なるところは、扱う対象がオペレータであることだ。偏微分方程式は一般に非線形なので、特別簡単な理論モデルを除き、厳密解を求めることは不可能である。そこで相互作用定数についてのべき展開を行う。このべき展開は共変的摂動論での展開と同じではない。第0近似は一般に非線形偏微分方程式であるが、簡単な理論モデルの場合に帰着することが多い。第1次以上の近似では、第O次の量を係数に含む非同次の線形偏微分方程式になる。これを常微分方程式に簡略化すると、第3章3節で考えたような非可換量を含む線形微分方程式になる。したがって、このような微分方程式の解法を偏微分方程式に拡張することが重要な問題である。

コーシー問題が解けたら、第2段階の「オペレータの表現」を決める考察が必要であるが、微分方程式とは関係のない話なので省略する。

筆者らは量子アインシュタイン重力の場合、重力定数でべき展開して第0近似をあらわに求めた。これは第1段階のみならず、第2段階も完全に遂行できる。その結果はもちろん共変的摂動論で勝手に仮定した第O近似とは異なるものである。正しい第0近似は、一般座標変換の量子論版である「BRS変換」という変換のもとで不変になっている。ミンコフスキー計量のような特定の座標系が選定されるのは。オペレータの表現の段階で起こる「自発的対称性の破れ」の結果としてである。標準理論において、光子以外の素粒子が質量をもつのは「カイラル対称性」の自発的破れのおかげであって、もし手抜きして作用積分に直接質量を持ち込めば、理論はくりこみ不可能になる。量子アインシュタイン重力の共変的摂動論がくりこみ不可能になったのは、これと同様に手抜きして時空計量を作用積分に直接持ち込んだからだと考えてもおかしくないであろう。

1970年代以降、素粒子物理学の理論の定式化に「経路積分法」というものが多く用いられるようになった。これはもともとオペレータ形式での場の量子論から得られる共変的摂動論の結果を、途中をすっ飛ばして一挙に積分形(母関数の形で)で与える方法であった。しかし近頃は、そういう根拠づけができない場合にも、経路積分法が拡張された意味でしばしば用いられている。だが、このような拡大解釈に基づく経路積分理論の予言が実験的に確かめられた例は1つもない。正しい物理学の基礎理論は、ニュートン以来の伝統である微分方程式に支えられたオペレータ形式の場の量子論(もしくはその拡張)で定式化できるはずだと、筆者は信じている。
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図書館の価値創造支援サービス

『成功する公共施設マネジメント』より 図書館「論争」から生まれる公共施設の目的

価値創造には多くの時間とエネルギーが必要

 伊万里市民図書館が、市民協働の拠点として全国から注目されるようになったのは、行政と市民、それにプロフェッショナルの自覚をもってコーディネートした建築設計者の大変な時間と労力が投入されたためである。

 伊万里市には昭和29年から平成7年までは「市立図書館」があったが、面積はわずかで、利用登録した市民は約2千人に過ぎなかった。そこで、市民は、「図書館づくりをすすめる会」を結成し、図書館新設の要望を続けた結果、市は平成4年に図書館建設準備室(室長は定年退職後に現館長)を設置し、設計段階から市民参加による準備が始まった。

 準備の過程で「図書館づくり伊万里塾」を8回にわたって開催し、毎回数十名の市民が参加し、図書館とは何か、自分たちの図書館とはどのようなものかを話し合った。視察も行い、また、多くの図書館の設計実績と「こだわり」をもった設計者とも侃々誇々の議論を行ったという。例えば、子どもが読書に親しむように、乳幼児に対する布の絵本を市民ボランティアがつくるための「創作室」を設置したのであるが、ミシンやアイロンがけに必要なコンセントを腰の高さにいくつも設置するなど、館内随所に大小の「使うためLの工夫が施された。「伊万里市民図書館」(市立図書館から、市民図書館への名称変更に注目)としての落成式には2、000人以上の市民が参加し、毎年の開館記念日を「めばえの日」として、200人以上の市民にぜんざいをふるまって祝うという。

 開館後20年以上を経た館内を見ると、無駄なスペースは全くなく、そこかしこに、市民が自発的に利用できるスペースが用意されているのには驚く。また、こどものコーナーには、大きな木(イミテーションではなく実物の木)とグランドピアノがおいてあり、読書だけでなく、合唱のイベントも行われる。読み聞かせの場所は焼き物のまちを象徴する「登り窯」をデザインしてあり、わくわくする空間を演出している。別のウィングには、レファレンスデスクや「伊万里学」研修室もあり、ここは静かな学習スベースを確保している。

 運営の中心となっているのは、「すすめる会」が発展した「図書館フレンズいまり」で、400人の市民が年会費1、000円を払って参加している。「図書館の活動に協力し、提言することにより、伊万里市民図書館が市民のための図書館であり続けるよう、守り育てること]を目的とし、後援会や各種イベントの企画、広報・PR、図書館周辺の草むしりから植栽管理り青掃まで、その活動範囲は広い。さらには、古本市などの収益を寄付したり、乳児からのブックスタートの資金が足りないと知れば、亡くなった方の遺産を「赤ちゃんにつなぐ」ということで教育振興基金をっくって資金提供をする活動も行われている。金額は少なくとも、このような活動を展開することで、市も財政難のなかでも、予算確保を工夫せざるを得ない状況になっている。

 また、現在の職員体制は18人であるが、司書職4人を含む正規職員は6人のみで、8人の嘱託司書と4人の臨時職員の構成であり、施設規模を考えるとすべての活動を職員だけで担当することは不可能である。「フレンズいまり」が、蔵書管理、レファレンスなどの基本業務以外の、さまざまな活動を担っていることで運営できていることは確かである。これは経費削減の効果もあるが、それ以上に「自分達の図書館であり、地域の交流拠点として活用する」という意識を生み出している。

 この結果、図書館の利用登録を行っている市民は70%以上に及び、武雄市の24%、近隣の唐津市の36%、佐賀市の32%と比較しても、格段に多い。利用登録は、複数の図書館の存在などで、同じ基準での比較は難しいが、伊万里市の70%以上という数字は別格であることは間違いない。大多数の市民にとって、欠かせない交流拠点になっているのである。

消費的サービスは、価値創造支援サービスの契機に

 価値創造支援型のサービス展開は、行政だけではなく、広汎な市民活動に支えられなければならないし、市民との連携という基本的姿勢を打ち出すだけではなく、信頼関係を基礎にした役割分担の明確化、設計上と運営上の創意工夫、持続的な活動を展開するための仕掛けづくりなど、その地域、コミュニティに対応した協働体制が必要である。

 大手企業などのノウハウを導入し、成果が約束された消費的サービスを展開することは、それなりの資金と準備で実現する可能性は高い。武雄市図書館は、前市長の圧倒的なりーダーシップによって、短期間に、そして、当初から「全国区」を想定したPRで、大きな成功をおさめた。しかし、全国に同じようなサービスが展開されるようになると、現在は、市外県外からも訪れる多くの利用者や視察者が時間経過とともに減少することは十分に予想できるし、「東京の洗練されたサービス」に替わって、武雄市独自のサービスを求める声が大きくなることも確実である。

 公共施設におけるサービス展開は、価値創造支援型が基本となることで、税金投入の意義を説明することができるが、それは、多くの市民活動に支えられることが前提であり、その活動の基盤は、行政にも市民にも、多くの創意工夫と努力が必要である。その基盤づくりの契機としての消費的サービスの展開は容認されても、受益が限定されるサービスに継続的に税金を投入し続けることには、相当の説明責任が問われることは確実である。

 佐賀県の隣接した二つの自治体における、全国的に注目されている図書館サービスを事例に消費的サービスと価値創造支援型サービスの定義づけと関係を述べてきたが、このような公共施設におけるサービスは図書館に限らない。首都圏の人口20万人規模の自治体で、総合運場におけるPFI案件の審査委員を務めた経験でも、同じように提供するサービスのあり方を巡っての議論があった。 70億円以上の大規模事業なので、大手スポーツ関係企業を主体としたグループと地元のスポーツクラブを主体としたグループが優劣を競うこととなった。400メートルトラックと芝の運動エリア、観客席と駐車場、付属のテニスコートという典型的な総合競技場なので、テニスコート以外の部分を多くの市民利用によって稼働率をあげることが課題であった。したがって、審査では、施設の設計デザインはもちろん、市民スポーツの拠点性をどのように持たせるかで、運営面、特に「自由提案」部分の評価点ウェイトが高く設定された。

 大手スポーツ企業による利用者個人の体力や運動履歴を管理しながら、適切なメニュー提供をするという質の高いサービス提供による集客力という提案と、これに対するクラブハウスを設置し、地元市民によるスポーツクラブの活動拠点を整備するとともに、トレーナーや栄養士を配置したトレーニング・食事プログラムを展開することによる「手作り活動支援」、という二つの自由提案となった。審査結果は、地元市民の主体的なスポーツコミュニティ形成の採用ということになった。

 当面の運営の安定性は、大手スポーツ関係企業に信頼感があるものの、市民の側が、「受け身」のままでは、中長期的な施設の利用について、「自分たちの施設」として時代や環境の変化に対して、主体的に対応する基盤が形成できるかどうか、という観点であった。その結果、当面の運営では若干の課題(事業採算性に対する楽観性)があるものの、地元市民が主体的に関わる案が選択されたのである。

 公共施設は、建物躯体部分の「寿命」を考えれば、適切な維持補修を前提とすれば、100年でも存在する。その100年の維持補修のエネルギーは、地域住民の意欲と負担の総量に依ることは明らかである。当の経費だけではなく、長期間にわたって市民が「自分たちの施設」として活用する基盤をどのように形成するのかが問われている。
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