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未唯への手紙

未唯への手紙

OCR化した本の感想

2016年11月04日 | 6.本
『最後の「天朝」』

 日本軍がいなくなった後の朝鮮戦争時のスターリン、毛沢東、金正日の関係は複雑。モスクワの思惑に従う、平壌。だけど、スターリンは中国の参戦をいやがった。毛沢東は参戦したがった。人民が亡くなることは気にならなかった。大量の元国民軍が居た。

 なぜ、カリスマに頼ろうとするのか。

『殺戮の宗教史』

 アレキサンドリア図書館でのヒュパティアを思い出す。多神教であったエジプトにキリスト教の先鋭が入り込んできた。図書館前のアゴラで演説する一神教。学問の先生であったヒュパティアを殺した。スプーンで肉を削って。そして、多神教として図書館は焼かれた。

 「世界の三大宗教」発生と拡大のプロセスは宗教が伝播する形態を知る為にOCR化。6世紀のムスリムの伝播スピードはすごかった。その要因を戒律に求めた。

 戒と律が、自律的と他律的という形で区別されているのは、戒の方は、本人がそれを守るかどうかを自発的に決めるものであるのに対して、律の方は、集団の規律として強制される側面をもっているから。

 戒律を実行するかどうかは個人に任せられる

『時代区分は本当に必要か?』

 ヘーゲルの歴史哲学が書かれていると思ったら、歴史教育の歴史が書かれていた。歴史を分けたり、認識したりするのは難しい。あとからの解釈次第である。

 歴史がヨーロッパの大学教育に導入される過程は、歴史講座の創設を通してたどることができる。

豊田市図書館の28冊

2016年11月04日 | 6.本

C62『トヨタで学んだ自分を変えるすごい時短術』

209.8『原因と結果の現代史』たった5分でつまみ食い

388.8『誰も知らない世界のことわざ』

210.75『昭和二十年 第一部=12 木戸幸一の選択』

210.75『昭和二十年 第一部=13 さつま芋の恩恵』

338.97『ユーロから始まる世界経済の大崩壊』格差と混乱を生み出す通貨システムの破綻とその衝撃

100『大学4年間の哲学が10時間でざっと学べる』

007.13『人工知能』ITtext

810.9『コミュニケーションの在り方・言葉遣い』平成27年度国語に関する世論調査

141.51『よくわかる認知発達とその支援』

596『ゆる自炊BOOK』料理って意外に簡単らしい

290.93『ギリシャとエーゲ海の島々&キプロス』

C31.1『トヨタの名言100』トヨタのこれまでとその強さのワケ

159.4『すべてを手にする人が捨てている41のこと』

318『先進事例から学ぶ成功する公共施設マネジメント』

320.91『判例六法』

914.6『泣いたの、バレた?』

123.83『論語』齋藤孝訳

312.22『中国共産党 闇の中の決戦』

413.6『微分方程式--物理的発想の解析学』

689.8『大人を磨くホテル術』

304『グローバリズム以降』アメリカ帝国の失墜と日本の運命

319.3『欧州複合危機』苦悶するEU、揺れる世界

329.37『EUは危機を超えられるか』統合とブンレルの相克

210.04『感動の日本史』日本が好きになる!

378『逆転のコミュニケーション法 NHA こころを育てるアプローチ』難しさを抱えたすべての子どもたち、おとなたちへ

319.1『現代日本外交史』冷戦後の模索、首相たちの決断

576.16『脂肪の歴史』「食」の図書館

歴史・時代・教育

2016年11月04日 | 4.歴史
『時代区分は本当に必要か?』より 歴史・時代・教育

歴史教育の成立

 歴史が時代区分を受けいれるような知に変貌するためには、教育という段階もまた必要である。教えられることで、歴史はたんなる文学ジャンルであることをやめ、そのすそ野を広げるのだ。十二世紀末以降ヨーロッパに誕生した大学は、ただちに歴史を教育科目にすることはないものの、この進化の過程で重要な役割をはたしている。

 フランスに関して言うなら、十七世紀以前には歴史を教える試みはなされなかったようである。その努力もむなしく、フランソワ・ド・ダンヴィルは、イエズス会のコレージュに歴史教科があったことを証明できていない。

 アニー・ブリュテが明らかにしたように、十七世紀のあいだに、教育制度の変化と歴史家の実践にあと押しされて、学校、コレージュ、大学のなかへと歴史教育が入りこむ。こうして、歴史は王位継承者たちの教育に組みこまれたと言うことができる。たとえばボシュェは、ルイ十四世の息子である大王太子を彼がどのように教育し、教育させているのか、その様子を伝える手紙を教皇に書き送っている。この王太子教育についての情報をいくらか非合法な形で入手した編集者、作家たちもおり、彼らはこれを剽窃した句作りかえたりしながら、みずからの書物を出版した。

 歴史教育は子供たちにも広まっていく。教師たちは授業にゲームや寓話、物語などを取りいれ、歴史の基礎が楽しみながら学べるような工夫をこらす。たとえばクロード=オロンス・フィネ・ド・ブリアンヴィル(一六○八-一六七四)の『概略フランス史』は、かすかすの逸話を紹介しながら、フランス王の治世の移り変わりを物語っている。デマレード・サン=ソルラン(一五九五-一六七六)の考案した「カードゲーム」は、王族の人々の登場するトランプだ。宗教もまた、歴史に新たな価値を見いだしている。のちのフルーリー枢機卿が一六八三年に出版した『聖史による教理』は、その一例である。

 ただ、早とちりは禁物だ。歴史はまだ本当の意味での教育科目になったわけではない。それは十八世紀末から十九世紀初頭のことにすぎないのだ。フランスのケースがその好例となる。

 フランスで歴史教育のあと押しをしたのは、専門家たちによる原史料の継続的な編纂作業である。彼らは歴史家たちの先祖、あるいは最初の歴史家たちであった。まず登場したのは、創設者であるベルギーのイエズス会士ジャン・ボラン(一五九六―一六六五)の名を冠したボランディストである。ボランディストは、一六四三年以降『聖人行伝』を公刊した。キリスト教の聖人たちの生涯に捧げられたこれらの文章を通じて、「科学的」校訂の規則が適用され改善され、とりわけ聖人ひとりひとりについて、おもな原史料が公刊されたのである。この基本となる校訂本の出版は、のちに一八八二年創刊の雑誌『アナレクタ・ボランディアナ』のようなさまざまな学問的出版によって補われた。この学術社会においても、十九世紀まで、歴史の伝達速度はゆっくりとしたものだったのである。

 十八世紀の終わりころ、いくっかの教育機関(たとえば一七七六年創立の陸軍学校準備級)で歴史の名のもとに教えられていたのは、むしろ道徳規範のたぐいである。この教育の中心目標は、ひとことで言うなら「歴史は人生の師なり」〔キケロ『弁論術』にある言葉〕だ。フランス革命前夜のこの時期、教育も善き市民を養成する目的に従っているようである。今日の歴史家や教師のなかにも、教育のこうした意図を否定しない者たちはいるであろう。

 ナポレオン・ボナパルトの時代の一八○二年にリセが創設され、規模はまだ小さいものの、中等教育における歴史教育が義務化される。フランスにおいて、中等教育における歴史教育の真のはじまりに当たるのは、王政復古である。これはマルセル・ゴーシエが明らかにしたとおりだ。一八一九年には全国作文コンクールに歴史部門が設けられる。歴史は、一八二〇年にはバカロレアの口頭試問に組み入れられ、一八三〇年には、歴史・地理の教授資格が創設される。すでに触れたが、一八二一年に古文書学校が創立されるのも、重要な出来事のひとつだ。

 当時教科書で採用された時代区分は、おおむね、すでに歴史に一定の役割を認めていた革命前のコレージュのものを引きついでいる。それは、聖史と神話、古代史、国民史からなっている。この時代区分は、当時の支配者の二つの関心の反映である。ひとつは、キリスト教の形にせよ異教の形をとるにせよ、歴史のなかに宗教を残しておくこと。もうひとつは、国家を国民という呼び名のもとに重視するという、革命の意志に沿った関心である。

 またフランスの場合、さらに十九世紀に特徴的なのは、正真正銘の歴史家たちが政治の要職に登用されることである。たとえばギソーは、ルイ=フィリップの治世のもとで、一八三〇年から一八四八年まで、内務大臣、教育大臣、外務大臣を歴任する。ヴィクトル・デュリュイは、ナポレオン三世の時代、一八六三年から一八六九年まで、教育大臣を務めている。世紀末には、エルネスト・ラヴィス、ガブリエル・モノー、シャルル・セニョーボスらが、歴史家の枠を超える。その初版がそのまま学校の教科書に採用されたラヴィスの『フランス史』は、いわば国民のための歴史の教科書になるのである。

大学と歴史

 歴史がヨーロッパの大学教育に導入される過程は、歴史講座の創設を通してたどることができる。

 ドイツは、もっともはやくから歴史が独立した知として認められ、その教育が広められる国であり、このようにして歴史が、大学の思想にも国民の精神にも、もっともふかく浸透する国である--ただし政治的には国は分断されたままなのだが。十六世紀の宗教改革が、歴史の地位向上の原動力となる。ウィッテンベルク大学では、十六世紀初頭から世界史が教えられている。一五二七年にマールブルクに創立されたプロテスタントの大学でも、一五三五年から一五三六年以降のプロテスタントのテュービングン大学でも、歴史教育は重要な役割を与えられている。歴史がなにかと抱きあわせで教えられることもあった。一五四四年にはケーニヒスベルク大学で歴史・修辞学講座が、同年にグライフスヴァルト大学で歴史・詩学講座が、一五四八年にイエナ大学で歴史・倫理学講座が創設され、さらに一五五八年ハイデルベルク大学に、一五六四年ロストック大学に、歴史・詩学講座が設けられている。ついには、一五六八年フリプール大学に、一七二八年ウィーン大学に、単独の歴史講座が創設される。

 歴史学は、一五五〇年から一六五〇年にかけて、他とは独立した形でドイツ語圏で広まったとみなすことができる。そして十八世紀半ば以降のゲッティンゲン大学の歴史教育が、大学における歴史教育のモデルとなる。ドイツにおいて、フランスのギソーやミシュレのように、歴史の人気をつくりあげた偉大な歴史家が二人いる。残念ながら未完だがローマ史を残しているカールステン・ニーブール(一七三三-一八一五)、そしてとりわけ名高いローマ史を書いたテオドール・モムゼン(一八一七-一九〇三)である。モムゼンは『モヌメンタ・ゲルマニアエ・ヒストリカ』編纂の指揮もとった。

 イングランドもまた他に先んじている。古代史は一六二二年以降オックスフォード大学に講座をもっており、一般史の講座も一六二七年にケンブリッジ大学に出来ている。近代史講座は、おなじ一七二四年にオックスフォードとケンブリッジに創設される。スイスで歴史講座が設けられるのは、一六五九年バーゼル大学においてのことである。イタリアでは、ピサ大学が一六七三年に教会史講座を設け、一七七一年にはパヴィア大学に歴史・雄弁術講座ができる。見てのとおり、歴史は他の教育にからめとられてなかなか分離しない。しばしばその相手は修辞学あるいは道徳論である。十七世紀の前半、トリノ大学、バドヴァ大学、ボローニヤ大学にはいまだに歴史講座が存在していないという事実にも気づかされる。最初の近代史講座が設けられるのは、一八四七年トリノ大学においてのことだ。

 教育科目としての歴史の誕生は、この当時はまだヨーロッパの知的支配に属することがらにすぎない。ほかの大陸や文明においては、みずからの歴史や世界についての知識は別の手段を通じて獲得されている。それは、ヨーロッパでも長いことそうであったように、おもに宗教的な手段である。アメリカ合衆国に関しては、まず彼ら自身が歴史を生きなければならない段階だ。そののちアメリカは知としての歴史において、西洋史の分野でも、より広く世界史のレベルでも、国の規模にみあった重要性をもつようになる。

 歴史が(少なくとも西洋世界において)独自性を獲得し教育科目となりおおせた十九世紀の段階に、われわれはたどり着いた。歴史をよりよく理解しその転機をしっかり把握するために、すなわち歴史を教育可能なものにするために、歴史家や教師たちは以後時代区分を体系化する必要を感じるようになる。

知られていないイスラム教の根本原理 戒律

2016年11月04日 | 5.その他
『殺戮の宗教史』より 知られていないイスラム教の根本原理 信仰の基本「六信五行」

「戒律」とは

 ここで一つ重要になってくるのが、「戒律」の問題である。辞書を引いてみると、戒律とは、「一般に、宗教における生活規律」(『広辞苑』)であるとされている。

 ただここで重要なことは、戒律が「戒」と「律」とに分けられ、それぞれ別の意味が与えられている点である。戒とは、「自律的に規律を守ろうとする心のはたらき」とされ、律の方は、「他律的な規則」とされている。

 ここで、戒と律が、自律的と他律的という形で区別されているのは、戒の方は、本人がそれを守るかどうかを自発的に決めるものであるのに対して、律の方は、集団の規律として強制される側面をもっているからである。

 仏教においては、在家の信者と出家者は区別されている。仏教の代表的な戒である「五戒」は、殺生などを戒めたもので、それは在家の信者にも出家者にも共通するものである。ところが、在家の信者が律を守ることを強いられることはない。

 それに対して、出家者の場合には、僧伽という集団に所属することになる。僧伽は組織であり、その組織を維持していくために、そこに属している人間に対しては、律が課せられる。律の場合には、集団の規律であり、それを破ることは、集団の秩序を脅かすことになるので、罰が下されることになるわけである。

 私たちは、戒も律も同じことだと考えてしまい、一括して戒律としてとらえようとする。だが、戒と律とは性格が異なるもので、それはイスラム教における戒律にも共通して言えることである。

 イスラム教の場合、一般に戒律とされている事柄は、すべて戒であり、律ではない。したがって、断食を行っている際に、食べ物を食べてしまっても、それで罰せられるわけではない。礼拝を行わなくても、それで処罰されるわけではない。国によっては、礼拝を強制するようなところもあり、その場合には罰が伴うが、それは直接イスラム教の教えから来るものではない。原則的に、イスラム教には、律はなく、すべては戒であり、罰則は伴わないのである。

 ではなぜ、イスラム教においては律にあたるものが存在しないのだろうか。それは、組織というものが存在しないからである。

イスラム教は組織をもたない

 一般に、宗教においては、教団という形の組織が存在する。日本の仏教では、宗派が教団の形態をとり、出家した僧侶は、その教団に所属する形をとっている。各寺院も、それぞれが一つの組織を形作っていて、檀家がそのメンバーになっている。神道でも、崇敬会のような組織があり、そこに属している氏子が神社の運営に参画している。キリスト教の場合でも、教会ごとにメンバーシップが確立されていて、それぞれの信者は特定の教会に所属している。

 イスラム教の場合にも、モスクという宗教施設がある。そこに礼拝に来る信者たちは、一見すると、そのモスクに所属しているかのように思える。

 ところが、モスクはあくまで礼拝所であり、たまたま近くにいるムスリムが礼拝に来るというだけで、それぞれの人間は特定のモスクに所属するという形態にはなっていない。

 そもそもイスラム教には、一般の宗教の教団に当たるものがない。イスラム教世界における組織化された集団としては、エジプトのムスリム同胞団があげられるが、これは例外的なものである。しかも、現在ではエジプト政府から弾圧を受け、ムスリム同胞団は危機的な状況に追い込まれている。

 イスラム教には、二大宗派としてスンナ派(スンニ派)とシーア派があり、シーア派はさらに細かな派に細分されているが、これらは学派としての性格が強く、それぞれの派が教団を組織しているというわけではない。

 日本人なら、江戸時代の寺請制度の名残でもあるが、仏教徒としての自覚をもつ人間は、必ずどこかの宗派に所属している。葬式も、その宗派の僧侶に依頼し、それは宗派の定める形式にのっとって営まれる。

 ところが、どのムスリムも、自分がスンナ派とシーア派のどちらかに属しているという自覚はあっても、それは、組織に所属していることを意味しない。組織が存在しなければ、集団の規律である律に縛られることはない。

 豚を食べてはならないという戒律について、日本人は、それを罰則を伴う律として考えがちである。だが、教団のような組織の存在しないイスラム教では、そもそも律は存在しようがなく、すべては自発的な戒めである。そのために、たとえ豚肉を食べたとしても、それで罰せられることはないのである。

戒律を実行するかどうかは個人に任せられる

 「多神教徒は見つけ次第、殺してしまうがよい」というコーランのことばにしても、それを実行しなければ、罰せられるというわけではない。それを実行するかしないかは、個々のムスリムに任されている。その点では、それは教義であるとはいえ、強制力をもたないものなのである。

 ほとんどのムスリムは、多神教徒と出会ったとしても、相手を殺すことはない。もし、それを実行するなら、日本を訪れたムスリムは、次々と多神教徒である日本人を殺害していくことになってしまう。これまで、そうした出来事は起こっていない。

 ただ、逆のことも言える。

 教義として示されたことの実行が個人に任されているのであれば、あるムスリムが、「多神教徒は見つけ次第、殺してしまうがよい」という神のことばを、自らに対して向けられたメッセージとして受け取り、それを実行に移すことを自らの使命としてとらえるようになる可能性はいつでも存在する。教団という組織が存在しない以上、そうした行為を規制する方法もない。

 教団組織が存在せず、教義を実行するかどうかは個人に任されているという点では、イスラム教は極めて規制の緩い宗教である。

 だが、規制が緩いがゆえに、個人の受け取り方、解釈によって、教義をどのようにとらえるかは大きく変わってくる。前後の前提や条件を無視し、「多神教徒は見つけ次第、殺してしまうがよい」の部分だけを取り出し、それをムスリムとしての自己の義務としてとらえ、実行に移すことも可能なのである。

「神のことば」であるがゆえの危険さ

 ここにはかなり難しい問題が横たわっている。

 現在の時点においてもそうだが、イスラム教が生まれ、その勢力を拡大し、イスラム帝国が生まれた時点で、多神教徒を殺せと命じる神のことばは、ほとんどその意味を失っていた。しかも、このことばは、その後に続く箇所に示されているように、礼拝を行い、喜捨をするようであれば、殺害の対象にはしないという保証も含んでいる。

 しかし、それが神のことばである以上、人間の側の都合でなかったことにはできない。また、コーランから削除することもできない。そのことばは、イスラム教という宗教が続く限り、永遠に残り続けるのである。

 そうなると、ムスリムのなかに、このことばに意義を見出し、それを実行に移そうとする人間があらわれる可能性は排除できない。何らかのインスピレーションを得て、それこそが神が自分に命じたことだと理解する人間があらわれたとしたら、それを止めることは難しい。そこには歴史的な文脈があり、今ではそれは有効ではないと反論したとしても、当人がそれに耳を傾けなければ、その行為を押し止めることはできないのだ。

 イスラム国(IS)の人間たちは、このことばを神のメッセージと解釈し、次々と虐殺を行ってきたのかもしれない。それは、他のテロリストについても言える。九・一一の実行犯が、どういった心理にもとづいてハイジャックした旅客機で世界貿易センタービルなどに突っ込んでいったのか、その点は分からないが、あるいは、そのリーダーとなったアタは、コーランのこのことばを自らの使命と感じたのかもしれない。

「世界の三大宗教」発生と拡大のプロセス

2016年11月04日 | 4.歴史
『殺戮の宗教史』より

「世界の三大宗教」という言い方がある。そのように、どんな分野についても、代表的なものを三つあげようとするのが日本の社会の特徴でもあるが、世界の三大宗教と言った場合、仏教、キリスト教、イスラム教があげられることが多い。

それは、宗教人口としてキリスト教がもっとも多く、それに次ぐのがイスラム教だからだが、仏教にかんしては、第三位というわけではない。むしろ、仏教を生んだインドのヒンドゥー教の方が信者の数は多いし、中国には、儒教、道教、仏教が混淆した独白の宗教が広まっており、人口から考えて、そちらの方が仏教そのものよりも信者は多くなる。

ただ、日本の社会には、仏教が広まり、歴史を重ねていることから、仏教をキリスト教やイスラム教と並ぶ世界の三大宗教ととらえる見方が根強く存在している。

それを踏まえ、イスラム教を仏教やキリスト教と比較してみるならば、とくにその初期の歴史、あるいは成立の事情は、かなり異なったものになっている。

仏教--個人の精神的向上を目指す

 仏教の場合には、釈迦が開祖である。釈迦の生涯が実際にどのようなものであったのかについては、ほとんど具体的な証拠も資料もなく、実在自体が疑われるが、しだいに、「仏伝」というものが形成され、釈迦はこのような生涯をたどったという物語、つまりは神話が形成されていった。

 重要なのは、仏伝という神話の存在である。というのも、仏教徒はそれを真実のものとして受け入れ、それは今日でも変わらないからである。

 伝説的な物語では、釈迦は、兜率天というところにいた仏が、母親の摩耶夫人の胎内に入り込み、それで誕生したとされている。これは、イエス・キリストの処女降誕の話とも似ており、その点で注目されるが、重要なのは、釈迦族の王子として生まれたとされている点である。

 王族の生まれである以上、釈迦は何不自由のない生活を送っていた。ところが、かえってそうした暮らしが実現されていたがゆえに、釈迦は、それに疑問を感じるようになる。とくに、生老病死にまつわる苦の問題に悩むようになり、妻子を捨て、王宮を出て、出家者としての生活を送るようになる。

 釈迦は、山に入って、何人かの師匠のもとで苦行に専念する。しかし、そうした方法によっては悟りに至ることができないと認識するようになり、山を降り、菩提樹の下で瞑想に入る。そして、悟りを得るが、最初は、自分の悟りの内容があまりに高度なため、他の人間に伝えることができないと考え、そのまま涅槃に入ろうとする。

 伝説では、インドの神である梵天に乞われ、それで説法を行うようになったとされる。釈迦は、それ以降、各地を遊行してまわって法を説き、それは八○歳くらいまで続いた。そして、沙羅双樹の林に横たわり、永遠の涅槃に入ったとされる。

 この釈迦の生涯の歩みを見る限り、そこには、「剣かコーランか」に相当するような話はいっさい出てこない。釈迦は、説法の旅を続け、その結果、弟子や信徒が増えていったわけだが、その際に、強制的に改宗させようなどという試みは行われなかった。仏教は、あくまで個人の精神的な向上をめざすものであるというイメージが、この釈迦の伝記、ないしは伝説から伝わってくる。

キリスト教--イエスの教えを伝える「宣教」

 一方、キリスト教の場合だが、イエス・キリストの生涯の歩みは、キリスト教が聖典として認める『新約聖書』の冒頭におさめられた「福音書」に記されている。「福音書」が編纂されたのは、イエスの死後数十年が経ってからのことで、そこには、処女降誕や数々の奇跡など、やはり伝説に近い物語が多く盛り込まれているので、「福音書」に記されたことをそのまま歴史上の真実と認めるわけにはいかない。

 そもそも、「福音書」は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つがあり、それぞれの記述が異なることから、イエスにまつわる伝説自体が必ずしも一つではない。ただ、「共観福音書」と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカではかなり共通した話が採用されており、そこから、一般に次のようなイエスの伝記が認められている。

 イエスは、現在のイスラエル北部のナザレの生まれで、父親は大工だったが、「福音書」のなかには、イスラエルの王ダビデの末裔であるとも伝えられている。イエスは馬小屋で生まれ、それを知った東方の三博士がイエスを礼拝するために訪れてきたという伝承もある。

 イエスに先立って、洗礼者ヨハネという人物が悔い改めの必要性を説き、その教えに帰依した者に対して洗礼を施していた。イエスもヨハネから洗礼を施された。その後、聖霊によって荒野に送られ、四〇日にわたって断食し、そのあいだに悪魔による誘惑を退けたとされる。

 これによって自らの信仰に確信をもったイエスは、宣教活動を行い、数々の奇跡を実現させることで弟子や信徒を増やしていく。ついには、イスラエル王国の首府であるエルサレムに入城する。ところが、イエスが当時の保守的な宗教体制、ないしは政治体制を批判したことから捕らえられ、十字架に掛けられて殺されてしまう。

 これで、イエスの生涯は三〇年ほどで幕を閉じるが、墓に葬られたイエスはそこから復活したという信仰が生まれ、それが目前に追っている最後の審判を予告するものだという復活信仰が生まれる。それがユダヤ教のなかから、新たにキリスト教という宗教を生むことにつながっていく。イエスは救世主として信仰の対象となっていくのである。

 その後、イエスの復活を経験した弟子たちは、各地に散って、その教えを伝えていくことになるが、なかには、迫害によって殉教する者もあらわれた。初期のキリスト教は、少数派であるがゆえに苦渋の歴史を歩むことになる。

 キリスト教においては、イエスの教えを伝える「宣教」ということが重視され、それまで異なる信仰をもっていた人間を改宗させることが信仰活動の核に据えられたものの、「剣かコーランか」のようなイメージを与えられることはなかった。むしろ、宣教者たちが厳しい迫害を受け続けたこともあり、むしろ剣によって殺害されるという覚悟をもった殉教の宗教としてとらえられていく。

朝鮮戦争 スターリンはなぜ中国の参戦をいやがったか

2016年11月04日 | 4.歴史
『最後の「天朝」』より 中国人民義勇軍の参戦 早期の出兵を望んだ毛沢東

モスクワの思惑の影響を受けてか、朝鮮の指導者は中国大使館に対し情報を封鎖するというやり方をとった。柴成文の証言によると、彼がピョンヤンに到着した後、金日成から厚い待遇で迎えられ、金は「今後必要な時、いつでも私を訪ねてよい」と彼に伝え、さらに人民軍総政治局副局長徐輝を指名し、毎日一回、中国の武官に戦場の情勢を説明するよう指示した。しかしまもなく、中国大使館は、徐輝か伝えた戦況の大半は朝鮮側が当日夜のラジオで放送した内容であることに気づいた。柴が朝鮮の最高指導者と何度も面会することも不可能だった。中国大使館が提案した、副武官を人民軍の部隊に派遣して見学と学習をするという打診についても、朝鮮側からずっと返事がなかった。朝鮮側のほかの幹部との接触を通じて、柴は、軍事情報の中国への説明は事実上、タブーとされていることを感じた。かつて肩を並べて戦った延安派の幹部にすら、厳しい絨口令が敷かれ、柴に対して戦場の詳しい状況を絶対語らなかった。中国軍が情勢を確かめるために朝鮮へ参謀チームを派遣したいとの打診も、断られた。

戦局は八月に入って、洛東江を挟んで膠着状態に陥り、このことで中国の指導者は参戦準備の強化に対する緊迫性を一段と認識した。八月十一日、東北に集結した第13兵団は毛沢東の指示に従って所属する各軍団、師団の幹部会議を招集した。東北軍区司令官兼政治委員高尚は会議で演説し、参戦を準備する目的と意義を詳しく説明し、積極的に朝鮮人民を支援する必要があると強調、「義勇軍の名義で出動し、朝鮮服を着用し、人民軍の番号を使い、人民軍の旗を掲げ、主要幹部は朝鮮人の名前を使う」と具体的に指示し、各方面の準備にはすべて担当責任者をつけ、厳格に検査し、期限内に完成するよう要求した。

八月十九日と二十八日、毛沢東は二度にわたって、『毛沢東選集』の編集と出版に協力するためにやってきたユーシン(後の中国駐在大使)と懇談し、その中で特に、米軍が兵力増強を続けるなら、北朝鮮だけでは対処できず、彼らは中国の直接の援助を必要とするだろう、最新情報によれば米国は在朝鮮の兵力を大幅に増強することをすでに決定した、と言及した。毛沢東はさらに、中国の指導者は朝鮮側に対し、戦争の行方について最悪の事態への準備をする必要もある、と直接注意を与えているとユーシンに説明した。毛沢東は中国の参戦について明言を避けたものの、それに関する暗示は明確なものだった。毛沢束は八月と九月の初めに、朝鮮側代表李相朝との二回にわたる会見でも戦況について討議し、人民軍の誤りは十分な予備軍を用意せず、すべての戦線に均等に兵力を分散したことと、敵の殲滅よりただ敵を撃退して領土を奪取すればよいとの考えにあると評した。毛沢東はまた特に、仁川-ソウルと、南浦-ピョンヤンというような要衝地域は敵からの襲撃を受ける可能性があり、今後の退却と兵力配備調整の問題を今から検討すべきだと提起した。劉少奇も、戦争が長引き、すぐには終わらないことがありうるという心構えを人民に持たせる必要があると指摘した。

九月初め、毛沢東の再三の督促を経て、東北辺防軍は、兵力を七十万人に拡張し、ほかに二十万人の兵員準備と武器装備の強化に関する計画を作成した。この段階で毛沢東が参戦準備に積極的に取り組んだのは、主に軍事面の配慮によるもので、すなわち米国がとりうる急襲攻撃に備えるためであった。いずれにせよ、朝鮮戦争を早く終結させることは、どのような角度から見ても、中国にとってプラスなのだ。

戦況がますます不利に転じる中、金日成は中国軍の出動要請を検討すべきだと内心では認識していたが、かといってスターリンの意に反する行動もとれない。そこでモスクワに打診することを決意し、八月二十六日、金日成は電話を通じてシトゥイコフ・ソ連大使に対し、彼らが入手した情報によれば、アメリカ人は仁川地区と水原地区で上陸作戦を実施する計画で、朝鮮側は必要な措置をとってこれらの地域の防御を強化したいと申し入れた。同日夜、金の秘書文日は事実上、金日成の依頼を受けて大使に次のように話した。目下前線にある人民軍の状況はあまりにも困難であり、我々はやはり、中国の同志が朝鮮を援助するために派兵することを要請したい、これに関するモスクワの見解を知りたい、金日成はこの問題を労働党政治委員会の討論にもかけたい考えだ、と。しかしシトゥイコフがこの話題について触れたくない様子を見て文日は慌てて、以上のことはみな自分が勝手に述べたもので、金日成からは依頼されていないと言い直した。シトゥイコフ大使はそれを受けてモスクワに対し、近頃の金日成は自分の力で戦争の勝利を勝ち取ることについてますます自信を失くしており、そのため何度もソ連大使館から、中国軍による朝鮮支援の要請に対する同意を取り付けたいというアプローチをしており、ただ文日を通じて探りを入れた後は、金日成はこの問題にこれ以上触れていない、と報告した。

スターリンの心の中では、金日成さえ頑張り通すことができれば、東アジア情勢がいっそう複雑化し、朝鮮に対する支配が弱体化することを避けるためにも、中国軍を朝鮮戦争に巻き込みたくなかった。そのため、金日成からの再三の打診を受けて、スターリンはついに、国際援助に関する朝鮮の要求を明確に拒否することにした。八月二十八日付の金日成宛の電報でスターリンはまず、「ソ連共産党中央は、外国の千渉者が早いうちに朝鮮から追い出されることにいささかも疑いをもっていない」と伝え、その上で、「外国の干渉者との戦いで連続的な勝利を収めていないからといって、不安に陥る必要はなく、勝利の中でも一部の挫折ないし局地的な敗北を伴うものだ」と慰め、電報の最後に、「必要であれば、我々はさらに朝鮮空軍に攻撃機と戦闘機を提供する用意がある」と約束した。スターリンの意見を聞いた金日成は「非常に喜び、何度も感謝の意を表し」、この書簡は非常に重要で、政治委員会委員にも伝達すべきだと語り、また、金日成は、あたかも責任逃れをするかのように、「一部の政治委員会委員がやや動揺しているが、この書簡の内容を知らせれば彼らにとってプラスになるだろう」と釈明したという。スターリンの意図を確認した金日成はそれ以後、中国からの支援を要請するなどと口にしなくなり、すべての希望をモスクワに託すことにした。

モスクワの支持と約束を得て、朝鮮の指導者はまた自信を取り戻したようだ。中国軍の支援を得られず、人民軍を北部に撤収することも事実上できないため、金日成は南部での戦争に乾坤一擲の決意をした。九月四日、柴成文は金日成との面会で、戦争は膠着局面に入ったと指摘したが、それに対し、金日成は自信満々に、釜山作戦はすでに始まっており、勇敢な突撃部隊が攻撃すれば局面は打開されるだろうと答えた。柴成文はさらに、米軍が朝鮮軍の後方で上陸作戦を実施する可能性はないかと質問したが、金日成は、「米軍は当面反攻に転じることが不可能であり、大兵力の増援がなければ、我々の後方の港で上陸することは困難だと我々は判断している」と断定的に答えた。この段階に入ると、金日成の冒険主義的傾向がいっそう強まった。柴成文はその変化を次のように分析した。朝鮮の指導者は最初は米軍の出兵を予想せず、∇刀月で戦争が終わると考えたが、米軍の参戦後、八月十五日までに問題を片付け、八月を勝利の月にしようとのスローガンを打ち出した。大量の技術者や学生を軍に入隊させ、人力と財力のおびただしい無駄遣いなどの状況から見れば、完全にばくちを打つような構えだった、という。九月十日、柴成文が一時帰国してその後ピョンヤンに戻った日、周恩来の指示に従って金日成と緊急に面会し、朝鮮軍は戦略的退却の問題を検討すべきだと申し入れたのに対し、金日成の答えは「私は一度たりとも後退を考えたことがない」というものだった。

この経緯について、筆者は機密解除されたロシア公文書中に裏付けの資料を見つけた。一九五六年十月五日、朝鮮のモスクワ駐在大使李相朝はソ連の外務次官フェドレンコを通じてソ連共産党中央に、彼個人が朝鮮労働党中央委員会宛に送った公開書簡を渡したが、書簡は次のような事実を明らかにした。朝鮮戦争が始まって間もなく、李相朝は金日成の私的代表として北京に滞在したが、八月、朝鮮人民軍が洛東江まで攻めたとき、毛沢東は彼との長時間にわたる会談の中で、人民軍は補給路が敵軍に切断される危険性があるので、朝鮮の指導者は戦略的撤退を検討するように、と提案した。李は金日成に毛沢東との会談内容を詳しく報告したが、金日成は毛沢東の提案を退け、このことは外部に漏らすなと彼に警告した。

金日成は内心では、中国からの援助が喉から手が出るほど欲しかった筈だ。しかし彼はモスクワの指揮棒に従わなければならない。彼の真のボスはスターリンなのだ。