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未唯への手紙

未唯への手紙

豊田市図書館の29冊

2016年11月11日 | 6.本
675『競争としてのマーケティング』

383.9『トイレ』排泄の空間から見る日本の文化と歴史

915.6『きょうもまた好奇心散歩』

141.18『世界天才紀行』ソクラテスからスティーブ・ジョブズまで

236『スペインの歴史を知るための50章』

234『ドイツの歴史を知るための50章』

289.3『皇妃エリザベートをめぐる旅』ドイツ・オーストリア・ハンガリー シシィの足跡をたずねて

675『なぜ、日本人は考えずにモノを買いたいのか?』1万人の時系列データでわかる日本の消費者

538.6『トコトンやさしい ドローンの本』今日からモノ知りシリーズ

367.75『無葬社会』彷徨う遺体 変わる仏教

007.6『学生のための情報リテラシー』

527『アラブの住居』間取りや図解でわかるアラブ地域の住まいの仕組み

289.3『バルトン先生、明治の日本を駆ける!』近代化に献身したスコットランド人の物語

518.52『ごみゼロへの挑戦』ゼロウェイスト最前線

933.7『アメリカーナ』

748『故郷と戦場』

019.9『私をリーダーに導いた250冊』

289.3『スティーブ・ジョブズ 上』無謀な男が真のリーダーになるまで

289.3『スティーブ・ジョブズ 下』無謀な男が真のリーダーになるまで

289.3『エンゲルス』マルクスに将軍と呼ばれた男

304『天声人語 2016年1月-6月』

378.03『発達障害事典』

369.28『新・精神かデイケアQ&A』

141.5『超予測力』不確実な時代の先を読む10ヶ条

706.9『はじめてのルーヴル』

188.52『弘法大師空海と出会う』

019.02『読書と日本人』

159『大人の教科書』また会いたいと思われる人になる

376.11『子どもはテレビをどう見るか』テレビ理解の心理学

マルクスとエンゲルス 一八四八年にヨーロッパ大陸

2016年11月11日 | 4.歴史
『エンゲルス』より

 限りなく豊作の四八年

  「夜中の十二時半に、木曜日の革命に関する晴れがましい知らせとともに列車が到着した。そして群衆全体が、にわかに爆発的に熱狂して、共和国万歳と叫んだ」。フランスの王政が崩壊したとき、マルクスとエンゲルスは間違った時間に間違った場所にいて、ブリュッセルの鉄道駅のあたりをうろつきながら、最新情報の断片に飛びついていた。それは反乱を画策する二人が一八四八年にヨーロッパ大陸各地で起きた一連の革命の後を追いかけるなかで、その後一年半にわたってつづくお馴染みのパターンとなった。ときには革命の末尾に追いつくこともあり、その尾を引っ張ることもたまにはあったが、たいていは革命に先導されていた。それは期待に胸を膨らませながらも、欲求不満に駆られた一時期だった。

  マルクスとエンゲルスから見れば、一八四八年の一連の驚くべき事件はブルジョワ民主主義革命の典型に思われた。ヨーロッパの時代遅れの政治と法制度は、進歩する一方の資本主義の生産様式とは相容れなくなり、新しい経済的現実に適応せざるをえなくなっていた。産業化する基部と封建的な上部構造の不均衡を考えれば、台頭するブルジョワ階級によって主導された革命こそが、明らかに次の段階であった。そして、中流階級が古い世界を始末する汚れ仕事を終えたあとには、今度はブルジョワ革命がプロレタリアの支配に引き継がれるはずだった。

  議論ばかりがつづいたそれまでの一〇年間のあとで--「常套句、常套句ばかりだ」--一八四八年の革命が提供していたのは、興味をそそられる実践の見込みと、歴史に助っ人を与えるチャンスであった。進歩の必然性にはほとんど目もくれずに、マルクスとエンゲルスは政治組織、新聞の宣伝活動、そして最終的には軍の反乱という徹底した工作を通じて、来たる革命を加速させるべく試みた。『共産主義者宣言』が刊行されると、マルクスとエンゲルスはヨーロッパを縦横に--ブリュッセルからベルン、パリ、ケルンヘと--移動し、逮捕令状とプロイセンのスパイをかわしながら、ヨーロッパのアンシャン・レジームの崩壊を促進させた。

  エンゲルス自身は、とりわけ満足した気分で戦場を離れることになった。なにしろ、この自称山岳派の学生剣士で兵舎室内ボクサーは、ついに前線に立つ軍事体験をいくらか味わうことができたからだ。少年時代の冒険の夢を実現させた彼は、バルメンの故郷に赤旗を掲げ、プロイセン歩兵部隊に対抗する奇襲部隊を発足させたが、やがて砲火を浴びて黒い森を抜けて逃亡することになった。それはバリケード上での流血沙汰であり、みずからの生死をかけた革命のための闘争でもあった。その後何十年ものあいだ、彼は敵にも味方にもこの一時期をめったに忘れさせることはなかった。

 二月革命の波及

  個人的にはそのような英雄行為を成し遂げたとはいえ、現実は厄介だった。一八四八年から四九年にかけて各地で起きた革命--デンマーク、シチリア、サルデーニャ、ピエモンテ、フランス、プロイセン、ザクセン、ハンガリー、オーストリア--は、マルクスとエンゲルスが理想化した階級蜂起とはほど遠いものだった。人びとはむしろ景気不安から、国民・民族としての自己認識や、君主制を打倒する共和主義の要求、民主的な自治政府といった多種多様な動機に駆られていた。こうした蜂起、フロンド、反乱、革命--等々、さまざまに呼ばれる現象--は、労働者からの支持、急進的な指導力、あるいは反革命勢力の反撃力しだいで、急速に敗北に終わりやすいものでもある。そうした変わりやすい、最終的には目的を達成できない運命ゆえに、歴史家のA・J・Pこアイラーは一八四八年をヨーロッパが「転換し損なった」転換点として描くようになった。そして、マルクスとエンゲルスにとって、大いに誇張されたこの「民主主義の時代」は、個人的な失望とともにイデオロギー面の再検討の時期となった。

  一八四八年の春にヨーロッパを吹き荒れた記録的な大嵐は、〔シチリア島の〕パレルモ市の「手のひらほどの小さい雲」から始まった。この地では、ブルボン家の国王フェルディナンド二世〔両シチリア王〕と、ナポリを本拠地とするこの王の超然とした統治体制にたいする貴族の不満が高まり、一月に暴動となって発展したのだ。長年つづいた遠方のナポリからの強引な支配に不満をいだいたシチリアの有力者が、大きな経済的不満の高まりに乗じて、一八一六年以前の自治政府による議会を復活させようとした。組織立った街頭デモはたちまち警察にたいする攻撃へと発展した。まもなくバリケードが築かれ、国王軍は兵舎を引き払って本土に移り、ブルボン王朝は退位させられた。ものの数週間で暫定政権が発足し、新しい議会が選出された。

  発端はシチリアだったが、その余波は、社会的圧力が高まっていたうえに、歳入の落ち込みから議会を召集して新規に課税せざるをえなくなるにつれ、ヨーロッパ各地の王宮にも伝わった。こうした国民議会は通常、課税によって王室財政を改善させる権限をもっていたが、いまや政治家たちは代わりに、憲法の制定を要求していた。これが「三月前期」、つまりフォアマルツの時代であった。当時はヨーロッパ大陸諸国の首都で、漠然とした期待感が新聞紙上にも国会にも満ちていた。一〇年におよぶ不作で穀物の価格が上がり、不景気になって、飢饉の不安が高まったために政情不安が悪化した。一八四五年には広い範囲で凶作となったために、方々で地方経済が立ちゆかなくなった。一方、金融危機が深刻になって都市の市場では信用が失墜し、金融部門が危機に陥り、商売は不調になった。食品価格は高騰し、可処分所得は急減して、失業率が高まった。こうしたことすべてが、一八一五年のウィーン会議以降、ヨーロッパを支配してきた王政にたいする民衆の不満を助長した。しかし、マルクスがまず予測したように、ゴールの雄鶏の鳴き声がなければ、そのようなくすぶった憤りを、ヨーロッパ全土を覆う大火に変えることはできない。

  一八四八年のフランスの二月革命によって、パリの労働者はヨーロッパの共産主義の最前線に再び立つようになった。パレルモの蜂起につづいて、フランスの急進派は成年男子の普通選挙権と経済改革を訴える野外の「改革宴会」--フランス革命にまでさかのぼる民衆が不満を表明するための伝統的行動--を催し始めた。一七八九年の大革命に懐古の情がいだかれるようになったのを背景に、パリの劇場では観客たちが革命歌を大声でうたい、上流階級が集う舞踏会の外で威嚇するように詠唱するようになった。国王ルイ・フィリップの下で首相を務めるリベラルな歴史家フランソワ・ギゾーは、宴会を禁止し、国民軍を召集することでこの危機に対処したが、結果は芳しくなかった。ギゾーは一八四八年二月二十三日に政治的生け贅として群衆の前に突きだされた。翌日には、ルイ・フィリップ自身が廃位させられ、イギリスヘ亡命した。お祭り騒ぎはすぐにパリの街頭デモと化し、神経質になった兵士にデモ参加者が偶発的に撃たれると、首都はお馴染みの革命の筋書きをたどることになった。

  ペルギーに足止めを食らったマルクスとエンゲルスは、大陸を吹き荒れる革命の嵐にブリュッセルを迂回させまいと必死になった。もしくは、彼らがのちにジュリアン・ハーニーヘの手紙に書いたように、地元の人びとにも「フランス人が勝ち取った利益を、ペルギーの政治制度にふさわしい方法で手に入れ」させたかったのだ。マルクスの考えでは、そのような「平和的だが精力的な煽動」とは、町役場の外で集会を開き、町議会に請願書をだすことを意味しており、彼は亡父の遺産から調達した資金でベルギーの労働者のために武器を買うこともひそかに考えていた。しかし、狡猾なレオポルド一世には、イギリス海峡を渡って亡命したルイ・フィリップの後を追う気持ちなどまったくなかった。そして、ベルギー警察はドイツからの厄介な客人たちをすぐさま弾圧した。一八四八年三月三日に、マルクスは二四時間以内の国外退去を命じられ、その後まもなく、エンゲルスもあとにつづいた。

  十九世紀の中心地にふさわしく、パリはヨーロッパ全土で蜂起を促す引き金となり、自由と民主主義、ナショナリズム、および共和主義への期待が、ワーテルローの戦いにおけるナポレオンの敗北以来、大陸の政治を支配してきた保守主義の体制--君主制とアンシャン・レジームの専制政治--に挑むようになった。急進派にとって、パン騒動と地方の反乱は憲法制定と民族自決を強く印象づけるまたとない機会となった。一八四八年三月の初めに、ウィーンでオーストリア議会が学生運動と労働者に乗づ取られ、バリケードがたちまち築かれた。ハプスブルクの軍隊は反撃し、流血の惨事となった。それでも、アンシャン・レジームの傲慢さの象徴のようなオーストリア宰相のクレメンス・フォン・メッテルニヒを救うことはできず、彼はイギリスヘ亡命せざるをえなくなった。ハプスブルクの君主制が揺らぐにつれて、イタリア北部の国家がロンバルディア、ピエモンテ、ヴェネツィア、ミラノの都市部の貧困層とともに蜂起して反乱へと発展した。ミラノは有名な「五日間」のあいだにラデッキー元帥指揮下のオーストリア軍から、とりわけ激しい反撃を受けることになった。一五〇〇ヵ所のバリケードが一夜にして撤去され、市内の狭い路地が熾烈な市街戦の場となった事件である。しかし、マルクスとエンゲルスが向かったのは、革命の実験室であり、いまでは第二共和制が敷かれたパリであった。

  かつてマルクスとエンゲルスを苦しめ、追いだしたこの都市が、今回は彼ら二人と共産主義者同盟の執行委員会を熱意をもって公式に迎えたのだ。臨時政権が発足し、社会主義の哲学者ルイ・ブランや、急進派のジャーナリスト、フェルディナン・フロコンなど、穏健派の共和主義者の幹部が顔を揃えた。このフロコンの発行する『ラ・レフォルム』紙に、エンゲルスは以前、寄稿していたことがある。彼らは共産主義の革命家たちを誇らしげに歓迎し、パリの裏道を警察の密告者に追い立てられることに慣れていたエンゲルスは、状況の変化を浮かれ楽しんだ。「最近、僕はテュイルリー宮殿のジョワンヴィル公の続き部屋で、アンベール老人と昼食をとった。彼はブリュッセルに亡命していた男だったが、いまではテュイルリー宮の監督者となった」と、彼は義弟エミール・ブランクに自慢した。例のごとく、手紙の残りの部分は、新たに発足した政権の言い逃れや愚かさ、弱点を非難する言葉で埋め尽くされていた。

NeXTコンピューターは買いました

2016年11月11日 | 5.その他
『スティーブ・ジョブズ』より 次なるNeXT ⇒ 個人的興味で、25年前ぐらいに、NeXTを会社で購入した。ラボの設備計画の一貫です。SUNに比べれば、魅力的な価格であった。キヤノン販売から買いました。マックの環境でプログラムを作りたかった。謎めいた物体だった。

スティーブは、開発の早期に、記憶装置を標準的なハードドライブではなく光ディスクにすると決めている。光ディスクにはふたつのメリッ卜があった--当時のハードドライブに比べて記憶容量が200倍もあるし、マシンから抜き出すこともできる。光ディスクなら、自分のデータを持ち歩き、他人のマシンでも自分のマシンと同じように使えるようになるとして、スティーブは、この方式を強力に推進した。重要な情報を持ち歩くというユートピア的な世界を夢見ていたらしい(いまの我々は、それ以上のデータにスマートフォンやタブレッ卜からアクセスできるか、そのデータはいわゆる「クラウド」に置かれている)。だが、光ディスクには、情報の読み出しがとても遅いなど、問題も多々あった。スティーブは、データがさっと使えるという顧客のニーズより、豊富な記憶容量が持つ可能性というビジョンを選んだわけだ。そして、1989年にNeXTコンピューターが発売にこぎ着けると、サンなどの会社から、ハードドライブ搭載マシンに比べると動作がにぶいと後ろ指をさされるはめに陥る。

NeXTコンピューターには、製品を光り輝かせることが主目的なのではないかと思われる特徴がいくつも盛り込まれていた。構成は標準的なPCと同じで、キーボード、マウス、コンピューター本体を収めた立方体のキューブ、それにモニターである。デザイナーは初代マックと同じくドイツの工業デザイナー、ハルトムット・エスリンガー。彼の起用も大きなコストアップの要因だ。スティーブに負けず劣らず妥協を知らない世界的デザイナーなのだ。エスリンガーは完全な立方体を求めた。美的問題からではなく製造における妥協の産物として、アップルも含め他社のマシンは角が徴妙に丸くなっていたのだが、そこをとがらせろというのだ。角のとがった完璧な立方体とするためには、特殊な技術を持つシカゴの金属加工会社に高価な金型を特注しなければならなかった。エスリンガーもジョブズも、ケースはプラスチックよりずっと高価なマグネシウムで作るべしと主張。この8年前、ジョブズはアップルⅢのケースをアルミニウムの鋳物としたが、その決定と同じくらい、マグネシウムの採用は問題のある選択だった。メリットもある材料なのだが、加工が難しく、製造工程で問題が起きやすいのだ。

スティーブは、マシン内部も美しさにこだわり抜いた。一番すごい例を紹介しよう。開発では、普通、まず、どういうことができるコンピューターにしたいのか、その仕様がエンジェアに渡され、彼らが、その仕様を満足する回路を設計する。回路基板の大きさや形状を検討するのは、そのあとだ。スティーブはこれを逆転させた。ジョージ・クロウらハードウェアエンジニアに、回路基板はマグネシウムのキューブにぴったりフィッ卜する正方形にしろとまず指示したのだ。エンジュアにとって正方形というのはやりにくい形だ。その形を先に決めた結果、コンピューターの仕様を低コストで満足することが難しくなってしまった。不必要に複雑にしてしまった、つまり、最終製品に意味のある違いが出るわけでもない設計を実現するため、エンジニアの人数を増やし、彼らが働く時間を増やし、使うお金を増やしてしまったのだ。

リード・カレッジの物理学教授から転職してきたリチャード・クランダルは、NeXTの主任研究員として、コンピューターを活用すれば、コンピューターサイエンスといった分野の高等教育をどこまで拡充できるのかを自由に研究させてもらった。ここを端緒とする暗号化技術の研究は何十年も続き、彼自身も、のちに、アップルのアドバンスト・コンピュテーション・グループを率いる立場についている。マサチューセッツ工科大学の新卒として入社したマイケル・ホーリーは、シェークスピアやオックスフォード引用句辞典をすべて収蔵する世界初のデジタル図書館を開発するグループに配属された。また、最終的に完成したNeXTコンピューターはマルチタスクをやすやすとこなす、電子メールに文書を簡単に添付できる、ネットワーク化も可能なら直感的なインターフェースでその設定ができるというものに仕上がっていた。

ジョブズの功績として特筆すべきこととして、カーネギーメロン大学にいた若きソフトウェアの逸材アビー・テバニアンを説得し、マイクロソフトではなくNeXTに入れた件を忘れてはならない。カーネギーメロン大学時代のテバニアンは、ワークステーション用のパワフルなオペレーティングシステムであるUNIXのパワーアップ版、マークの研究開発をおこなっていた。NeXT入社後は、バド・トリブルのもとでネクストステップ(NeXTSTEP)というオペレーティングシステムの開発にあたる。このテバニアンのコンピューターには何年も電卓が立ちあげられたままとなっており、毎日、マイクロソフトを断ったため手に入れそこなったストックオプションの価値がそこに表示されていたという。だが、テバニアンはNeXTの仕事を愛していた。ジョブズが自分の才能を認めてくれたこと、また、入社したその日から大きな仕事を任せてくれたこともその理由であるのはまちがいのない事実である。

NeXTと普通のワークステーション・メーカーが違うのは、自分のほうがソフトウェアに細やかな注意を払っている点だとスティーブはくり返し語っている。トリプルとテバニアンが開発したオペレーティングシステム、ネクストステップは本当にエレガントだ。いかにもジョブズの作品らしく、従来はエンジニアにしか扱えなかったオペレーティングシステムにきらびやかで親しみやすい顔が与えられている。スティーブはまた、オブジェクト指向プログラミング(OOP)というテクニックならアプリケーションの開発期間を大きく短縮できる可能性があると正しく認識していた。ウェブオブジェクツというツールキットもテバニアンのチームが開発しており、これは、NeXTの大事な収益源に成長する。このツールキットは、インターネッ卜の普及後、ウェブペースのサービスをすばやく開発したいと願う企業にとって大きな助けとなったのだ。

NeXTコンピューターの発表は、巧妙な工夫が必要だった。オベレーティングシステムはリリースまでもう1年以上かかるはずで、まだ動きが悪い。光ディスクは遅すぎてデモに耐えない。社外のソフトウェア開発者が用意するアプリケーションは、まだひとつも完成していない。スティーブは、最高の状態に達していない製品を発表しようとはしない(20年近く後のiPhoneは例外に数えられるかもしれないが)。でも、これ以上は待てない。この発表は成功させなければならなかった。「スティーブ・ジョブズの次なる偉大な会社」であることの後光は薄れつつあった。スティーブの将来性にも賞味期限があったのだ。

サンフランシスコ交響楽団の本拠地、モダンで洗練されたデイビス・シンフォニーホールに3000人あまりが詰めかけた。警備は厳しく、自分はVIPだ、入れろと言って追い返された人が何十人もいた。入口をはいると、湾曲したロビーにはフォークロッカー、グラハム・ナッシュの写真が飾られており、もしかするとセレブが登壇するのかもと思わせてくれる。

コンサートホールは、舞台後方に垂れ幕代わりの巨大なスクリーンが設置されている。ステージの左側には背の高いテーブルがあり、白いフレンチチューリップがたくさん生けられた大きな花瓶とたくさんのリモコンが置かれている。右側には長円形のテーブルがあり、コンピューターモニターを並べた上に黒いベルベッ卜をかけだのではないかと思われる盛り上がりが見てとれる。テーブル脇に置かれた椅子の奥にも黒ベルベットの盛り上がりがある。中身は、1メートル強の柱のようなものに思える。さすがはコンサートホールというが、室内楽が静かに流されており、席に着く人々を迎えていた。火曜日の朝だというのに、夜のコンサートに参加するのではと思うような服装の人が多い(私はスーツを着ていったほどだ)。スティーブのねらい的中である。

発表会は大成功で、それこそがNeXT初の主要商品と思えるほどだった。ひげをそり、髪もきっちりと整えたスティーブが登壇し、スポットライトが当たった瞬間、場内はしんと静まりかえった。着ているのは、ぱりっとしたイタリア製のダークスーツ、真っ白なシャツ、暗めの赤と黒のしま模様のネクタイだ。状況をかみしめるょうに立つスティーブ。唇を引き結んだまま微笑んでいる。笑いすぎて歯が見えるのを避けているのだろう。その間、場内には割れんばかりの拍手が続いていた。

スティーブ・ジョブズの体験談のひとつめ

2016年11月11日 | 5.その他
『スティーブ・ジョブズ』より スタンフォード大学 ⇒ 25年以上前にフォントに惹かれて、マックを大量導入した。会社で二番目です。技術者からは論文を自分の手で作れるようになったと言われた。それまでは、英文タイピストに頼まなければできなかった。

本日、世界有数の大学を卒業されるみなさんの前にこうして立てることを光栄に感じています。私は大学を卒業しておりません。実を言えば、大学の卒業式というものに顔を出したのもこれが初めてです。さて、今日はみなさんに、私の体験談を三つ、お話ししようと思います。それだけです。特別な話をするつもりはありません。体験談を三つです。

ひとつめは、点と点を結ぶということについてです。

 私は入学から6ヵ月でリード・カレッジを中退し、そのあと18ヵ月ほどあちこち講義を聞いて歩いてから大学を去りました。どうして私は中退なんてしたのでしょうか。

 話は生まれる前までさかのぼります。私を産んでくれたのは大学院の学生をしているまだ若い未婚の女性で、私を養子に出す決断をしました。養父母は大学を卒業していることというのが彼女の強い希望で、私は、生まれたらすぐ、夫が弁護士の夫婦に引き取られることになりました。でも、私が生まれると、その夫婦の気が変わり、やっぱり女の子がいいと言われてしまったのです。こうして、順番待ちのリストにあった私の両親が夜中に電話をもらうことになりました。「急な話ですが、男の赤ちゃんが生まれました。養子に欲しいですか?」と。回答は「はい、もちろん」でした。でも、母親は大学を卒業していませんし、父親にいたっては高校も卒業していません。そのことを知った生みの母は養子縁組の書類にサインすることを拒みました。最終的に彼女が承諾したのは、私を大学に行かせると両親が約束したからです。

 そして、その17年後、実際に私は大学に行きました。でも、まだ若かったんですよね。スタンフォード大学に負けず劣らず学費の高いところを選んでしまったので、両親が汗水たらして働き、蓄えたお金をすべて私の学費に回さなければならないような状態でした。そして6ヵ月後、大学に通う意義が見いだせない私がいました。人生でなにがしたいのかもわからなかったし、大学に通えばそれがわかる気もしなかったのです。そんな大学に両親がこつこつ貯めてきたお金を全部使おうとしている。そう思ったので、なんとかなるはずだと大学は中退することにしました。もちろんどうなるかとても心配だったのですが、でも、いまふり返ると、あれはとてもいい決断だったと思います。中退と同時に、おもしろくもない必修の授業を取る必要はなくなり、おもしろそうな授業をのぞいて歩けるようになりました。

 と言っても、いいことばかりではありません。寮にはいられなくなりますから、いろいろな友だちの部屋の床で寝させてもらいましたし、コーラの瓶を集めて1本5セントの保証金をもらい、それで食べ物を買ったり、日曜夜には食事を出してくれるクリシュナ教寺院まで10キロメートル以上も歩いて町の反対側まで行ったりしていました。充実していました。そして、好奇心と直感に導かれて出会ったものは、多くが後々とても役に立ちました。例をひとつ紹介しましょう。

 あのころ、リード・カレッジは、国内屈指のカリグラフィー教育をしていたと思います。キャンパスは美しい手書きのカリグラフィーにあふれていました。ポスターも、引き出しのラベルも、みんなです。私は中退していて普通の授業は取らなくてもいい身分だったので、カリグラフィーの授業を取ってみることにしました。セリフやサンセリフといった書体についても学びましたし、隣りあう文字の組み合わせに応じて間隔を微調整するなど、すごい印刷技術がなぜすごいのかも学びました。美しいし、歴史的な意味もあるし、科学がとらえられない微妙な芸術的感覚もあると感じ、夢中になりました。

 なにかの役に立つはずだと思っていたわけではありません。でも10年後、初代のマッキントッシュコンピューターを開発していたとき、これを思いだし、マックに組み込みました。こうして、美しいフォントが用意されたコンピューターが初めて生まれたわけです。リード時代にあのコースを取らなければ、マックに複数種類のフォントが搭載されることもなく、プロポーショナルフォントが搭載されることもなかったでしょう。ウィンドウズはマックのコピーですから、結局、パーソナルコンピューターにそういうフォントが搭載されることはなかった可能性が高いと思います。あのとき私が大学を中退していなければ、あのカリグラフィーのコースを聴講することもなく、いまのようにすばらしいフォントがパーソナルコンピューターに搭載されることはなかったかもしれません。もちろん、大学時代に先を見通して点と点を結ぶことなどできません。でも、10年後にふリ返れば、点同士がつながっていることはあきらかです。

 くり返しますが、前を見ても点と点を結ぶことはできません。後ろをふり返らないと結べないのです。ですから、点はいつかつながると信じる必要があります。自分の意地や運命、人生、業……そういうものを信じる必要があるのです。このやり方がまちがいだと思ったことはありませんし、そのおかげで私の人生は大きく変わりました。


 社会の位相化の先のカタチ

2016年11月11日 | 2.数学
チームのあり方

 コミュニティがあって、初めて、チームがある。乃木坂を見ているとそう思えてくる。守られるモノとか、運営の効率化の中の多様性のようなもの。

分化と統合の「統合」

 「統合」を本当に考えないと行けない。言葉ほど、厳重ではない。

 今回のトランプは「統合」に対して、どのように入れ込もうか。何しろ、分化して、でたらめな、バラバラなのは確かです。個々が先を見ていない。

スケジュールに従った行動

 スケジュールに従った行動、なかなかムリですね。特に朝のスケジュール。体が拒否します。

トランプへの反発

 民主主義の中の選挙という制度の弱点を晒しました。「私の大統領」で内題頭領の誕生です。それぞれが考えてなくて、誰かに頼って投票する、反対の反対の気持ちで入れる。

 行政に携わっていないモノに政治ができるのか。それはヒットラーが証明している。思惑に対して、いくらでも人が集まってくる。碌なもんではない。過去と今にはとらわれない政治の危なさ。

 彼らは行政が頼りないことを知っている。政治不信を知っている。大衆に対してはソフトを装えば、全てが受け入れられることを知っている。

 「アメリカ・ファースト」が故に、日本は攻められます。それに対して、対抗できない。ルーズベルトのような役割を果たす人間です。趣は逆だけど。

 国民さえ手に入れてしまえば、何でもできる。それがアメリカです。アメリカのグローバリズムです。だけど、アメリカはイスラム国を抹消できない。逆はあるかもしれない。人の心にあるモノ、在るとしたら、ムスリムで昇華したモノ。

社会の位相化の先のカタチ

 中間のカタチとして、社会の位相化を考えています。数学は座標系のハイアラキーから配置の世界に変わった。それがトポロジーであるところから来ています。答えはトポロジーにあります。

 位相の特徴は近傍とチェーンです。それでもって、特異点を回避します。だから、色々な空間に適用でき、柔軟性が大きくなる。

 トポロジーはこの先、どこに向かうのかを予測できれば、先回りでスキムアス。それが一番下と一番上がつながる。それができれば、空間がトーラスになります。つまり、S1です。

トポロジーの性質

 近傍の中には当然、ハイアラキーがあります。そこがそれぞれの思惑によって、マルチになっている。位相と言うことは、どこでも拡大できる。点が見つかれば、宇宙空間でも関係ない。そう言えば、ハウスドルフ空間というのもありましたね。

 トポロジーの性質を決めるのは、標準座標系です。位相が異なります。あとは、特異点をどうするか。特異点を集めて、空間を作ればいい。ふつうは次元が異なるだけのことだから。それらを多層化すれば、全体が収まります。

 位相はキャラクターによって、構成を変えていく。それが多重になります。それらの間には、接点があります。それで連結されます。

豊田市図書館の新刊書

 今日は、久しぶりに30冊です。家に「判例集」を忘れてきました。予約で来たのが4冊です。

 後から来た人が「なんかあっという間になくなる」と言って、去って行った。その後でも、私は三冊を見つけます。興味の範囲が違います。人と同じ興味だったら、狭い範囲本を狙うのであれば、本屋で買えばいい。

 私の場合は、1カ月もすれば、図書館に戻ってくるし、借りる人もいない状態になります。図書館があっての人生ですね。

NeXTを買ってしまった

 日本の中でも、NeXTワークステーションを買ったモノはさほどいないでしょう。トヨタグループでも居ないと、キヤノン販売が当時言っていた。

 買った理由はUNIXです。一番シンプルなOSをベースにしていた。SUNが好きな技術は多かった。UNIXがあれば、自分を二倍にできると言っていた。能力がある人は増やせないけど、ワークステーションは増やせると、設備調達部門を口説いていた。

 MACでさえ、Mathmaticaを使いこなせば、大学院での計算レベルを超えていた。研究部の驚嘆の的だった。コンピュータが使えるようになった時代であった。

 NeXTワークステーションでもう一つ狙ったのは、オブジェクト型言語です。LABVIEWのように、視覚的な組合せでプログラミングができると思っていた。この時に、オラクルのデータベースとも遭遇した。それは10年後に販売店システムに転回された。

10.5は「人類の歴史」

 10.5は「人類の歴史」としましょう。あくまでも対象は人類です。それも変節点までの歴史です。137億年の物語とか、アイスボールの地球とかは、通り過ぎたと思われるところからやっています。

 今までのことが歴史と言えるかどうか。今から作るための歴史、主体的な歴史を始めないとだめです。

10.6.4「個人=超国家」

 10.6.4「個人=超国家」。ここでトポロジーそのもの進化の道筋を示します。ここまでのヒントでとりあえず、他者の世界の歴史を終えます。

『スティーブ・ジョブズ』スティーブ・ジョブズの体験談

 25年以上前にアップルのフォントに惹かれて、マックを研究所に大量導入した。この会社で二番目です。技術者からは論文を自分の手で作れるようになったと喜ばれた。それまでは、英文タイピストに頼まなければできなかった。

 点と点を結ぶということは、大いなる意思からの「偶然」と結びつく。起こったことの意味を考えれば、必ず、自分の中で結びつく。これを感じた時から、生き方にミッションを感じるようになった。

 ジョブスはアップルへの愛と喪失を述べていた。拒絶しても愛していた。アップルに戻った時に、復讐ではなく、愛で満たした。

 自らの死を膵臓がんで味わった時に決意した。他人の人生を歩んで時間を無駄にしない。自分の内なる声を見失わない。他者は全て、二の次。

『スティーブ・ジョブズ』次なるNeXT

 25年前ぐらいに、個人的興味で、NeXTを研究所で購入した。ラボの設備計画の一部に入れ込んだ。SUNワークステーションに比べれば、魅力的な価格であった。キヤノン販売から買いました。マックの環境でプログラムを作りたかった。謎めいた物体だった。

 ネクストステップ(NeXTSTEP)というオペレーティングシステムを使えば、実験電算で使っていた、ラボビューのように組み立てられる、という売り込みだった。そんな簡単なものではなかった。

 合わせて、オブジェクト指向プログラミングも魅力的だった。同時に入れたオラクルデータベースで実験を行なった。実効速度を含めて、実験だった。そういうことが許される時代と環境だった。8台の機械を同時に使っていた。