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未唯宇宙は非正規な世界

未唯宇宙は非正規な世界

 いよいよ、文章の構成に入ります。ウィトゲンシュタインのやり方をアウトライン側の検討です。それにしても大量の資料です。ちょっとした修正でも膨大な時間が必要です。この最近の視力からパソコン業務がきつくなっている。

やることが多すぎるのかやっていないのか

 それまでにやることが多すぎる。一つずつ、こなすことは趣旨ではない。私は私の世界だから、何の制約がないことをしっかり思っていないと、ムダなことに時間を割きそうです。

 その一つに、文章の完成度とか整合性がある。その時の判断で変わることにする。過去とか未来はない。<今>そう思ったことが重要で私の世界では体裁にとらわれない。。

 非正規化をベースにしよう。部屋も片付けないまま。

家庭もシェアする社会

 食べるものも各家庭で作るのではなく、シェアする。そうすれば、毎回、買い出しにならなくて済むし、一番安いものができる。主婦というものが商売になる。
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『正法眼蔵』すべての行為が修行です

NHKテキスト『正法眼蔵』より⇒ 仏教において、クルアーンとかモーゼの十戒のような戒律はあるのか。それはどういう立場で述べられているのか。他方に念仏を唱えればいいという仏教もある。整合性はあるのか

道元絶筆の八つの教え

 同じように道元は、菩薩が学ぶべきことを「八大人覚」の巻にも残しています。「八大人覚」は「八・大人・覚」です。すなわち、「大人として覚知すべきこと八つ」です。大人というのは、いわゆる「おとな」ではありません。ただ生物学的に成長しただけの大人ではなく、真に人間としてふさわしい人物、別の言葉で言えば菩薩と呼ばれる人が大人です。

 この巻は、その大部分が『仏垂般涅槃略説教誠経』、一般に『仏遊教経』と呼ばれている経典からの引用です。この経典は、釈迦が入滅される直前に説法された教えを記したものとされています(が、これは後世の人がつくったフィクションです)。

 道元は、『仏遺教経』のなかから、釈迦の教誠の中心をなす「八大人覚」を取り上げて、「如来の弟子たる者はこれを習学すべし。これを修習せぬ者は仏弟子ではない」と言っています。つまり、仏弟子たらんとする者は、この「八大人覚」を学ばねばならないのです。

 なお、奥書によると、この巻が制作されたのは建長五年(一二五三)正月六日、丞平寺においてです。そしてこの年の八月に、道元は京都において示寂しています。したがって、はからずもこの巻は道元の絶筆となりました。この巻は、道元の遺書として読むこともできると言えるでしょう。

 この巻に示されている八つの教えは次のとおりです。

  一 少欲--物足りないものを、物足りないままにしておくこと

  二 知足--与えられたものを、全部が全部自分のものとしないで、一部を他人のために回すこと

  三 楽寂静--寂静を楽しむ。喧騒の場所を離れること

  四 勤精進--精進に勤める。おのれ一人の利益のためにがんばらない

  五 不忘念--常に仏法を思っていること

  六 修禅定--心静かに真理を観察すること

  七 修智慧--智慧を修得すること

  八 不戯論--物事を複雑にせず、あるがまま、単純そのままに受け取ること

 このなかでとくに大事なのは、最初の二つ、「少欲」と「知足」です。

 だいたいにおいて、わたしたちはいつも物足りない思いをしています。年収が上がるといいなと思い、上がったら満足するかというとそうではなく、もっと欲しくなる。かえって欲望が膨らみます。欲望というものは、それを充足させればさせるほど、ますます膨らむものです。ですから、欲望を充足させることによって、わたしたちは幸福にはなれません。幸福になるには、逆に欲望を少なくするのです。それが「少欲」です。

 ですから、「少欲」は動詞形なんです。少なくするという動詞。では、どうすれば欲望を少なくできるか。それには、物足りないものを物足りないままにしておくことです。「もう少し欲しいな」と思ったとき、「いや、これで充分だ」と思い直す。その「充分だ」というのが、次の「知足」になります。

 知足(足るを知る)とは、普通は、与えられたもので満足することです。しかし道元においては、すでに得たもの(已得の法)を全部自分のものとはせず、一部を他者に回すことを意味しています。つまり、それが布施になるわけです。

あるがままに、しっかり迷う

 三つ目の「楽寂静」は、文字どおり、寂静な世界を楽しむこと。または喧騒の場から遠ざかることです。

 四つ目の「勤精進」は、善きことに努力すること。これは、ただ努力すればよいのではなく、自利に執着しない努力をするということが重要です。ですから、わたしはこれをあえて「がんばらない」と訳しています。わたしたちはどうしても、世間の物差しに執着して、給料を上げよう、利益を得よう、などとがんばってしまいます。でも道元が言っているのはそういうことではなく、仏道に精進しようということです。

 五つ目の「不忘念」は、仏の教えを忘れないこと。ついうっかり、ということのないように、常に仏の教えを頭に入れておこうということです。

 六つ目の「修禅定」は文字どおり、禅定を行うということ。日本人は禅定といえばすぐに「坐禅」を思い浮かべます。しかし、それはある意味ではまちがいです。禅定とはサンスクリット語の「ディヤーナ」の訳ですが、その意は、心静かに瞑想し、真理を観察することです。『仏遺教経』もその意で禅定を説いています。

 七つ目は「修智慧」。智慧という言葉はすでに何度も出てきているのでもうお分かりですね。これは世間を泳いで渡るために必要な「知恵」ではなく、あるものをあるがままに見ることができる眼のことです。こうした眼を養っていこうということです。

 最後の「不戯論」は、簡単に言えば、無駄な議論はするなということです。わたしたちは、物事をあるがままに受け取らず、つい複雑化して考えてしまいます。そうすると、わたしたちの心は乱れます。単純な悩みだったはずが、悩みをなくさねばならぬという悩みまで抱え込んでしまって、よけいに苦しくなるのです。

 道元は、「不戯論とは、実相を究尽すること」だと言っています。要するに、あるがままを知ればよいということです。これはすなわち、「莫妄想」(妄想すること莫れ)と同じことです。病気になればただ病気になっただけ。老いればただ老いただけ。死ぬときはただ死ぬだけ。そう思えるようになったら、「不戯論」であり、「莫妄想」なのです。

 以上が「八大人覚」の八つの教えですが、最後に、道元は「菩提薩埋四摂法」の巻と同様の注釈を付けています。すなわち、それぞれの教えにはみな、さらに八つの教えが具わっているので、教えの合計は八×八=六十四箇条になります。

 さて、ここまで道元の『正法眼蔵』を読んできました。取り上げられたのは全九十五巻のうちのわずかですが、いかがだったでしょうか。難しい! と思われたでしょうか。『正法眼蔵』は一種の哲学書です。哲学書であれば、専門家であっても小説を読むようにすいすいとは読めません。ですから、難しいと感じたとしても落胆しないでください。一度読んで分からなくてもいいのです。分からないことが分からないと分かることが悟りです。

 悟りを追いかけてはいけない、迷いをしっかり迷うことが悟りなのだ。道元はそう言いました。わたしたちも、一度読んで分からなければ二度、三度と読み、少しずつ仏性を活性化しながら、「しっかり迷えば」よいのです。
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『正法眼蔵』全宇宙が仏性である

NHKテキスト『正法眼蔵』より ⇒ 仏教は哲学なのか。存在と時間を扱っているけど、仏教界の内で論議しているのか。そして、その哲学は進化してきているのか。ヘーゲルの歴史哲学では無いけど、社会が変われば、哲学も変わらないといけない。

「有時」の巻に見る道元の時間論

 「時節因縁」は、道元が時間というものをどう捉えているかという議論につながっていきます。「仏性」の巻において道元は、「悉有」をすべての存在、全世界だと捉えました。

 この「有」ということについてさらに考察を進めているのが、「有時」(〝有時〟には〝ゆうじ〟〝うじ〟の二通りの読みがありますが、わたしは〝うじ〟と読んでいます)の巻です。ここで道元は、『存在と時間』で知られるドイツの哲学者ハイデガーをも超える哲学的な時間論を展開しています。十三世紀の日本語でここまで考えていたとは、本当に驚くべきことです。この巻は内容的に「仏性」の巻を補完するものでもありますので、ここで紹介しておくことにしましょう。

 〝有時〟は、訓読すれば〝あるとき〟です。そして、その〝あるとき〟には二つの表記があります。

  A 或る時

  B 有る時

 わたしたちはたいてい、Aの表記にしたがって「あるとき」を考えています。「或る時、わたしは大病をしました」「或る時、わたしは会社の社長でした」「或る時、わたしは貧乏でした」……と。しかし、この「或る時」は過去の話です。すなわち、すでに過ぎ去った出来事として時間(或る時)を考えているのです。

 だが、時間というものは、そういうものではないぞ!というのが道元の主張です。

 そういう「或る時」に対して、道元は「有る時」を言います。いま現在、そこに有る(存在する)時間です。

  いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。

 〝有る時〟というのは、「時(現在)」が「有(存在)」であり、「有(存在)」が「時(現在)」である。

 道元は、時間というものは「現在」という意昧なのだと言っているのです。わたしたちはたいてい、時間というものは、「過去→現在→未来」へと流れていくものだと考えています。しかし道元は、そうではない、「現在・現在・現在……」なのだと言っているのです。この考え方では、「現在1」には「自己1」が、「現在2」には「自己2」が、「現在3」には「自己3」が対応します。過去について思い悩むのは、たとえば、「自己1」を「現在2」と対応させようとするようなもので、それは仏法を知らない凡夫の考え方だ、ということです。これはまさに時節因縁です。そのときそのときのあり方ということです。あるいは、「法位によりて」の法位ということです。つまり、ことごとくすべての存在が、「いま現在」なのです。

 病気のときには病気という現在がある。苦しみのときには苦しみという現在がある。苫しみから逃れようとするのは、これを過去のものにしたいと思うことです。そうではなく、苦しみも仏性なのだから、その仏性をしっかり生きよ。道元はここでもそう言っているのです。

生も仏性、死も仏性

 すべての存在が「いま現在」であり「仏性」であると道元は言いました。では彼は、仏性と死の関係についてはどう考えていたのでしょうか。

 道元は言います。「仏性は生きているあいだだけあって、死ねばなくなると思うのは、まったく認識不足である」。生きているという状態も仏性であり、死んでいるという状態も仏性です。「生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり」。そしてこう述べます。

  仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性なるべきと邪執せるは、外道なり。

 要するに、人間が認識できるか否かによって仏性が仏性であったりなかったりするといった考えに固執するのは、外道のすることだ、というのです。認識主体がいる・いないにかかわらず、あるいは認識主体が人間である・なしにかかわらず、仏性は仏性であり続けるのです。

 「悉有仏性」の解釈のとおり、道元によれば、悉有(全宇宙)が仏性なのです。仏性イコール大宇宙。だとすれば、わたしたちは仏性のなかで生まれ、老い、死んでいくのです。ですから、生も仏性、死も仏性です。仏性とはそういうものなのです。

 わたしは、いま高齢者の方々がさかんに行っている「終活」について、そんなものはおやめなさいという本を書きました。仏教の立場からいえば、あなたはまだ生きているのだから、そんなことを考える必要はないのです。生きているときはしっかり生きて、死ぬときにしっかり死ねばいいのです。それが、道元の言う「有時」ということです。わたしたちには、いまここしかないのです。過去でも未来でもなく、その瞬間、瞬間に存在しているわけです。それを、わたしたちはつい、映画のフィルムを回したときのように連続して動いているものとして見てしまう。そうではなく、フィルムのひとコマ、ひとコマを見ればよいのです。

 これは、道元だけでなく釈迦も言っていることです。「過去を追うな、未来を求めるな。過去はすでに過ぎ去ったのだ。未来はまだやって来ない。あなた方は、いま為すべきことをしっかりとせよ」({マッジマーニカーヤ』一三二)。道元はいわばそこに帰っているわけです。

 わたしは講演でこの言葉を紹介し、「もっと分かりやすく言えば、反省するな、希望を持つな、ということです」と言っています。よくプロ野球の選手がエラーをしたあとに反省すると言うけれど、エラーしたのと同じゴロは二度と転がってきません。いくら反省したって次は必ず違う球がくるのだから、反省なんかしなくていいのです。同じように、希望も「こうあってほしい」という欲望の一形態ですから、よけいなことでもあるわけです。そんなばかなことは考えるな。まさに「莫妄想」です。やはり、いまを生きることが大切なのです。
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『正法眼蔵』迷いと悟りは一体である

NHKテキスト『正法眼蔵』より ⇒ 仏の世界に投げ入れろと言われているけど、元々は、この世界に放り込まれた身としては、原因と結果が間違っているような気がする。溶け込めと言われている、角砂糖はなぜ、創られたのか野説明が内。

自分を仏の世界に投げ入れる

 さて、冒頭の二つの言葉に戻れば、要するに、生死というものをあるがままに見ることができれば、生死そのものが消滅するということです。なぜなら、わたしたちが生きているあいだは死なないし、死んでしまえば生はないからです。道元が言うように、「生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし」なのです。

 逆に、生死の中にあって、それを超越しよう、克服しようなどと思わなければ、わたしたちは迷わずにすみます。わたしたちが迷うのは、生死を超越したいと思うからです。

 だとすると、次のような結論が導き出されます。

  ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こゝろをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。

 わたしたちはいっさいの妄想--妄想というのは、生死にこだわり、生死を超越しようなどと考える心の働きです--をやめて、すべてを仏にまかせて、仏の心のままに生きるようにすればよい。そうすれば、わたしたちは凡夫ではなくなり、仏になりきっている。道元はそう言います。

 「わが身をも心をもはなちわすれて」とは、まさに前回のテーマであった「身心脱落」と同じことです。「仏のいへになげいれて」とは、仏に「なりきる」ということ。道元が直接「なりきれ」と言っているわけではないのですが、この〝なりきる〟は道元を理解するうえでのもう一つのキイ・ワードだとわたしは考えています。たとえば幾何の問題を解くとき、図形にはない補助線を加えると、うまく問題が解けることがありますね。それと同じように、道元の言葉にはない一つの言葉を補ってみると、道元が何を言いたいのかよく分かる。その補助線が「なりきる」だとわたしは思っています。

 道元は、生死を超越しようなどと思わず、仏になりきってしまえばいいと言っています。前回の蜘蛛の糸の譬えで言えば、下からのぼってくる人のことなど気にせず、蜘蛛の糸になりきってしまえばいいということです。そしてこの「なりきる」も、仏の世界に溶け込んでいくということで、身心脱落と同じ意味です。

仏教の根本義そのものになれ

 道元はこの「なりきる」ことの重要性を、「祖師西来意」の巻でも説いています。おもしろい内容ですので、見てみることにしましょう。この巻は、いわゆる禅の試験問題である公案を評釈した巻の一つで、次のような公案を取り上げています。

 一人の男が樹の上で、口で枝をくわえ、手も足も枝から離れて宙ぶらりんになっている。そこに人がやってきて、樹の下から、

  「いかなるか、これ、祖師の西来の意」

 と質問しました。祖師というのは、インドから中国に禅を伝えた達磨大師のことで、彼は何のためにインドから来たのか、と尋ねたのです。

 これは「仏教の根本義は何か」といった問いだと思ってください。樹の枝に口でぶら下がっている男は、この質問に答えて口を開くと樹から落ちて死んでしまいます。かといって答えなければ、彼は仏教の修行者でなくなります。さあ、どうするか……?

 この公案を評釈して、道元は次のようなことを述べるのです。一人の男が樹にのぼっているとき、その男は樹そのものになりきればよい。そうすると、樹が樹をのぼるのであり、逆に樹そのものが男になりきるなら、男が男をのぼっている。そういう理屈になります。

 そして、樹の下から問いかける人がいます。樹の上で答える人がいます。ですが、問者が答者になりきり、答者が問者になりきれば、そこには通常の意昧でいう問いも答えもないのです。問う必要もなければ、答える必要もありません。

 同様に、人が「西来意(仏教の根本義)」そのものになりきれば、「西来意」をわざわざ勉強する必要はないのです。「西来意」が「西来意」を問い、「西来意」が「西来意」を答えます。そうすると、そこには言葉が不要です。

 分かりやすく解説するなら、道元は、「おまえさん、あれこれ考えるな。そのものになりきってしまえばいいではないか」と言っているわけです。たとえば、わたしたちが病気をしたら、病気になりきればいい。何とかしてこの病気を軽くしようとするから苦しみが増すのです。苦しみのときは苦しみになりきればいい。暑いときには暑さそのものになりきればいいし、寒いときには寒さそのものになりきればいいのです。寒さそのものになりきるなんておかしいという人もいるかもしれませんが、スキーに行くことを考えてみてください。スキーをするときは、寒ければ寒いほど楽しいでしょう。同じように、海水浴は暑ければ暑いほど楽しい。なんとか涼しくしようなどと思わず、暑さを暑さとして楽しむ。それが「なりきる」ということです。
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『正法眼蔵』「身心脱落」とは何か?

NHKテキスト『正法眼蔵』より 就業は覚醒のためだと思う。皆のために覚醒する。今こそ、必要な時です。宗教から社会改革ができるのか。

道元の悟り

 では、道元はどのようにして悟りに達したのでしょうか。

 長年の疑問への答えを急ぐ前に、彼の伝記である『三祖行業記』や『建擬記』に記された大悟の場面を紹介したいと思います。ここに、道元思想のキイ・ワードが登場します。

 天童山にいた道元は、ある朝、大勢の僧とともに坐禅をしていました。そのとき、一人の雲水が居眠りをしてしまいます。如浄禅師は彼を叱ってこう言いました。

  「参禅はすべからく身心脱落なるべし。只管に打睡して低廉を為すに堪えんや」

 参禅することは「身心脱落」のためである。それなのに、おまえはひたすら居眠りばかりしておる。そんなことで参禅の目的が果たせるというのか。そんな意味の叱声です。そして如浄は彼に警策を与えました。

 そのとき、道元はパッとひらめきます。自分に向かって言われたのではない言葉、他の雲水を叱るために如浄禅師が発した言葉が触媒になり、諮然大悟したのです。

 それは、〝身心脱落〟という言葉でした。道元はただちに如浄のもとに行き、「身心脱落しました」と報告しました。如浄は弟子の道元の悟りを認めました。

 しかし、道元はいささか不安だったのでしょう。「これは暫時の技倆(ちょっとしたテクニック)です。和尚よ、みだりにわたしを印可(肯定)しないでください」と言います。

  「わしは、みだりにおまえを印可したりはせんよ」

  「では、そのみだりに印可しないところは、何なのですか」

  「脱落、脱落」

 如浄はそのように「脱落」という言葉を繰り返しました。それによって道元の大悟を肯定したのです。

 じつはわたしは、このとき道元は、如浄が発した〝身心脱落〟という言葉を、師の意図とは違う意味で受け取った可能性が大きいと見ています。如浄は、身心脱落を「邪念をなくすこと」の意味で用いていました。如浄は居眠りする雲水を、「坐禅とは邪念をなくすことなのに、おまえは坐禅しながら五つの煩悩(五蓋)の一つである睡眠蓋にとらわれている。ナンタルコトゾー」と叱ったわけです。

 ところが道元は、その言葉を聞いた瞬間、文字どおりに身心脱落してしまった。ちっぽけな自我に対する執着がなくなり、一種の「没我」あるいは「無我」の境地に到達したのです。

 聞き間違いで悟りに達するなんて、と思うかもしれませんが、世の中とは案外そういうものではないでしょうか。わたしの場合、教え子が、「先生のあのときの言葉が役に立ちました」などと言ってくれることがあります。でもたいてい、それは話の本筋ではないのです。わたしの脱線話から自分なりに意味をふくらませて受け取っている。ですから、道元が聞き間違いで悟りに達したと言ってもちっとも不思議ではありません。その証拠に、如浄は弟子が悟りに至ったことをはっきりと見分け、お墨付きを与えています。

仏だからこそ修行ができる

 ともかく道元は、「身心脱落」という言葉によって悟りの境地に達しました。したがって、道元禅の本質は、この「身心脱落」にあります。これさえ理解できれば、道元の思想が理解できるといっても過言ではないでしょう。

 では、「身心脱落」とは、どういうことでしょうか。

 これは、文字どおりの意味でいえば、身も心もすべて脱落させるということ。その意味するところは、「あらゆる自我意識を捨ててしまうこと」だと考えればよいでしょう。

 わたしたちはみな、自我を持って生活しています。そして、その自我のぶつかり合いでお互いを傷つけ合っているのです。「あなたにあんなことを言われてわたしはつらかった」と自我が傷ついたことに落胆したり、「いや、自分は悪くない、あいつが悪いのだ」と開き直って自我を修復したりする。自我のあること自体はよくも悪くもないのですが、問題はそれが他人との対抗意識や競争意識につながることです。

 それならば、そんな自我は全部捨ててしまえ! というのが「身心脱落」です。

 わたしは、自我というものを角砂糖に譬えます。わたしと他人の接触は、角砂糖どうしのぶつかり合いです。それで角砂糖が傷つき、ボロボロに崩れます。それでも修復をはかり、自我を保っています。

 道元の身心脱落は、そんな修復なんかせず、角砂糖を湯の中に放り込めばいいじゃないか、というアドヴァイスです。わたしたちは、いつも角ばった砂糖の状態を保とうとしている。でも、それを湯の中に入れてごらん、というわけです。

 湯の中というのは、悟りの世界です。真理の世界、宇宙そのもの、と言ってもよいでしょう。わたしという全存在を、悟りの世界に投げ込んでしまう。それが「身心脱落」です。

 でも、身心脱落は自己の消滅ではありません。角砂糖が湯の中に溶け込んだとき、角砂糖は消滅したわけではないのです。ただ角砂糖という状態でなくなっただけで、全量は変わっていません。角砂糖は少しもなくなってはいない。そこに溶けているのです。

 それと同じように、自分を悟りの世界に放り込み、そこに溶け込めばよい。そうすれば自我というものが脱落した状態になる。道元はそんなふうに気がついたのだと思います。

 とすると、一般に言われる〝悟りに達した〟〝悟りを得た〟といった表現はちょっと違うかもしれませんね。人は、普通、「悟り」というものがあって、禅はその悟りを捉えるものだと思っていますが、それは違います。道元は身心脱落して、「悟りの状態・境地」「悟りの世界」に溶け込んだのです。

 そしてここに、若き日に道元が抱いた疑問に対する解答があります。

 わたしたちは、仏教の修行者は悟りを求めて修行をすると思っています。若き日の道元もそう考え、わたしたちには仏性があるのに、なぜ悟りを求めてわざわざ修行しないといけないのか、と疑問に思ったのです。

 ですが、道元が達した結論から言えば、それは逆なのです。「悟り」は求めて得られるものではなく、「悟り」を求めている自己のほうを消滅させるのです。身心脱落させるのです。そして、悟りの世界に溶け込む。それがほかならぬ「悟り」です。道元は、如浄の下でその境地に達したのです。

 「悟り」の中にいる人間を仏とすれば、仏になるための修行ではなく、仏だからこそ修行できる。それが道元の結論です。
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