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OCR化した本の感想

『罪と罰の彼岸』

 ドイツ国民がナチ化した理由を大学の教養時代から興味の対象だった。ルサンチマンを認めてしまうと、ナチの超人思想に引っ掛かりそうです。だけど、ドイツの特異性も関係しそうです。

 ルサンチマンからすると、現在の日本ほど当てはまるものはない。それと大統領選挙を行なっている、合衆国国民。世界への影響力はこちらの方がはるかにでかい。

 今のドイツ国民は、欅の全体主義的服装へのクレームのように、十分な警戒心を図っているから、ナチ化はしないでしょう。

『昭和二十年』ルーズベルトとグルー 日本の早期降伏

 ルーズベルトが8月まで生きていたら、日本への原爆投下はどうなっていたか。ルーズベルトが亡くなった時の日本の戯れ歌「ルーズベルトのベルトが着れて、チャーチル、散る散る、国が散る」程度の認識しかなかった。

 無知なトルーマンはルーズベルトの流れに従った。ルーズベルトが避けていた、ルメイなどを起用した罪は重い。何しろ、日本を原始時代に戻す為に、焼夷爆弾を振りまいた。

 それにしても、止め方を知らずに、日本は戦争を行なった。朝鮮は占領できたが、中国、ロシア、米国は占領できないことはわかっていたはず。中国で泥沼にはまり、ロシアは米国の仲介で偶々、終戦できたけど、米国は一撃ショックで停戦の幻想だけに終わった。

『昭和二十年』ソ連の準備、対日戦争

 スターリンの北海道占領が阻止されてしまった。日本のナショナリズムを見誤った。

 日本のいくつかの監獄の扉を開けさせ、私に忠誠を誓う日本共産党員を釈放させれば、すべては解決する問題なのだ。すでにルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、すべての東欧諸国でやっていることだ。日本の内務省と警察を共産党員に握らせる。日本の新聞と放送をかれらに押さえさせる。そのつぎに追放と粛清だ。天皇は一番あとでよい。

『昭和二十年』アメリカの準備、原爆の日本投下

 本当にアメリカの筋書き通りに進んでいった。原爆開発計画の言い訳の為に、次のソ連への牽制のために、原爆が投下された。

 トルーマンは、やがて私が持つことになる原爆がスターリンを従順にさせる強力な外交武器になり、世界の安全を維持しつづけていく巨大な力になる。この原爆は私のものなのだ。
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アメリカの準備、原爆の日本投下

『昭和二十年』より

トルーマンは大統領になってから、かれの前にあるものは、ヨーロッパと太平洋における戦いから戦後に備えての国際機構の設置まで、すべて前大統領が取り組んできた問題であり、自分は突然に呼びだされた、間に合わせの大統領でしかないことを身にしみて感じる毎日であったはずだ。だが、待てよとかれは思ったのではないか。原爆はほかの外交、軍事問題とはまったく違う。製造中の原爆について知っている人はごく少数だ。英国政府の首脳以外、敵も味方もその事実をまったく知らない。そしてその恐ろしいかぎりの兵器をいかなる形で公開するのかは、私が決めることになる。

そしてトルーマンはつぎのように考えたのであろう。原爆は決してルーズベルトの遺産ではない。前大統領の最大の遺産は米ソ大同盟だったのだが、いまや崩壊は必至だ。だが、やがて私が持つことになる原爆がスターリンを従順にさせる強力な外交武器になり、世界の安全を維持しつづけていく巨大な力になる。この原爆は私のものなのだ。

トルーマンはこのように思おうとしたのであろう。それにしても、どうしてかれはルーズベルトから昨年の八月に原爆の秘密を明かされたという事実を秘密にする必要があったのか。

たしかにルーズベルトは原爆にかかわるすべての事柄を秘密にしていた。だが、やがて完成する原爆をどのように公開するかについて自分の考えをはっきり文字にしていた。前に見たとおり、ルーズベルトは英国首相と覚書を交わし、「慎重な考慮のあと」、日本にたいして使用すると決めていた。卜ルーマンは大統領になってから、米英首脳会議がおこなわれたルーズベルトの私邸の所在地の名前をとった「ハイドパークの覚書」が存在すること、戦争が終わったあとになれば、英国側がそれを公表することにもなると承知したはずだ。

ところで、その覚書がっくられたのは昨年九月十八日だった。トルーマンがルーズベルトから原爆の秘密を明かされたのはそれより一ヵ月前の八月十八日だった。トルーマンはルーズベルトから、これまた「慎重な考慮のあと」に日本にたいして投下すると告げられていたはずである。

実際には原爆もまた間違いなくルーズベルトの遺産だった。ところが、トルーマンは「慎重な考慮のあと」というルーズベルトの文言をかえりみなかった。政府と統帥部の責任者と協議しようとしなかった。四月下旬には、バーンズの助言に従い、日本の大都市に原爆を投下する、警告なしの無差別大虐殺をすると決意してしまったのだ。

ホワイトハウスの庭園のマグノリアの木の下でルーズベルトが一番最後に語った話を、大統領になったトルーマンがだれにも打ち明けることができないできたのは、原爆の秘密は大統領になるまでまったく知らなかったことにしてしまい、「慎重な考慮のあと」など知るはずはないということにしたかったからなのである。

さて、原爆製造の事実を知らず、ましてやそれをどう使用するかをルーズベルト大統領から聞くことがなかった対日本政策の責任者、そしてトルーマン大統領からもなにも聞いていないジョゼフ・グルーのことに戻る。

いまから二週間とちょっと前の六月十四日、統合参謀本部は太平洋戦線の全指揮官に指令を発した前に記したことを再びここに写そう。「日本ノ突然ノ崩壊カ降伏ノ場合ニ備エテ、日本本土ノ占領ヲ目的トシテ、進駐スル計画ヲ立テテオクベキデアルト命令スル」

国務次官のグルーがそのような予測をしたのだとこれも前に記した。グルーは東京から松平恒雄が必ずやアメリカに和平を呼びかけてくる、降伏するための交渉を申し入れてくると思ったのであろうだが、なんの動きもない。グルーは思い直し、アメリカが日本に向けて声明をだし、立憲君主体制維持の保証を明らかにしなければ、松平恒雄は身動きできないでいるのかもしれないと思ったのであろう。グルーはそれより前、五月二十九日に二日あとの戦死者を追悼するメモリアル・デイに予定されている大統領の演説を日本に向けての声明にしようと提案したのだが、スティムソンに反対された。「軍事上の理由」があると言われたのである。沖縄の戦いが終わっていないからだとグルーはそのとき考えたのだった。そこでグルーは再度、試みようとした。

六月十五日、グルーはトルーマンに会い、沖縄陥落を発表するときに大統領は声明をだし、皇室の保持を認めることを明らかにして、日本に降伏するように呼びかけるべきだと説いた。トルーマンは答え、「この問題のすべて」は三日あとの六月十八日に予定されている会議で検討すると語り、グルーも出席するようにと言った。だが、十八日の会議にグルーと国務省の幹部は呼ばれなかった。そしてトルーマンは会議の場でグルーの提案を口にしなかった。そのあと大統領はグルーに向かって統合参謀本部がかれの案に反対したのだと偽りを語り、つぎのような嘘をさらにつづけた。「日本がそれを拒否した場合、わが侵攻軍が時を移さず実際の攻撃をかけ得るまで待つことを統合参謀本部は希望しているのだ」

六月二十七日のことになる。ユタで訓練を受けていた第五〇九混成大隊の士官たちがテニアン島に到着した。すでに新しい滑走路がつくられ、かまぼこ兵舎が建てられ、周囲には鉄条網が張りめぐらされていた。そして新たにB29も到着していた。原爆を搭載できる改造機である。七月下旬には模擬原爆の投下実験をはじめる。そのための日本の都市の選定もおこなわれているし、本物の原爆を投下する都市もとっくに選んである。

今日、七月一日、第三艦隊がレイテ湾の泊地を出航した。第五艦隊は五月二十八日に第三艦隊と名称を変え、レイモンド・スプルーアンス提督からウィリアム・ハルゼー提督に司令官は代わり、旗艦はニュー・メキシコからミズーリとなり、第五十八機動部隊は第三十八機動部隊と名前を変えている。出撃する第三艦隊の指定任務は日本海軍の残存艦艇、商船、航空機、とっくに半身不随となっている工場、そして通信設備を破壊する任務を負っている。空母機部隊が内陸部を攻撃しているあいだに、戦艦群は沿岸の目標を砲撃する。

艦隊は燃料、食糧、弾薬の補給、さらに航空機、航空要員の交換をつづけながら、今日から1ヵ月以上、八月に入っても、日本本土の水域にとどまることになっている。出航してまもなく不思議な命令を受け取った。グアム島の太平洋艦隊司令部からの電報であり、「筆写ヲ禁ズ」という最高機密の扱いである。「更ナル下命アルマデ、コクラ、ヒロシマ、ニイガタ、キョウトヲ爆撃シテハナラヌ」という文面だ。ハルゼー提督と幕僚たちはなぜだろうと首をかしげた。

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ソ連の準備、対日戦争

『昭和二十年』より

スターリンは日本がモスクワに特使を派遣したいと一昨年から申し入れてきていることの意図がわかっていたし、東京に駐在するマリク大使からの報告を読んでいたであろうから、日本がソ連の温情にすがろうとしていることは百も承知している。だが、窮地の日本に手を差し伸べ、日本に恩を着せ、五十年、百年の友好関係を日本とのあいだに築く土台にしようと考えたことなどまったくない。そんな愚かなことをどうして考えるのかとスターリンは笑うにちがいない。かれはつぎのように考えていよう。二心を持っていることは間違いのない日本の陸軍軍人や政治家に救いの手を差し伸べる必要はまったくない。日本のいくつかの監獄の扉を開けさせ、私に忠誠を誓う日本共産党員を釈放させれば、すべては解決する問題なのだ。すでにルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、すべての東欧諸国でやっていることだ。日本の内務省と警察を共産党員に握らせる。日本の新聞と放送をかれらに押さえさせる。そのつぎに追放と粛清だ。天皇は一番あとでよい。

ルーズベルトとスターリンはソ連がいつ日本との戦いをはじめるのかを取り決め、ソ連が受け取ることになる獲物を定めた。ドイツ降伏から三ヵ月あとに対日参戦する。参戦の条件として、南樺太の返還、千島列島の引き渡し、大連港の国際化、旅順港の租借権の回復、東清鉄道と南満洲鉄道は中ソ合弁会社によって経営することを決めた。

チャーチルはこの合意をあとで知らされた。そしてルーズベルトの承諾を得て、ルーズベルトとスターリンとの話し合いに陪席した駐ソ大使のハリマンはマーシャル、レーヒー、キングといった陸海軍首脳にその取り決めの内容を告げた。その秘密協定書はルーズベルトの私的な侍従武官長であるレーヒーの執務室の金庫にしまわれた。

それから三ヵ月半あとのことになる。ルーズベルトはすでに没していた。新大統領はトルーマンである。かれの毎日の相談相手はバーンズだ。トルーマンとバーンズはなによりも重大なある問題について協議をつづけ、あるひとつの日付をはっきりいつと知ることがなによりも大事だという結論になったのであろう。それはスターリンから聞かねばならないことだった。駐ソ大使のハリマンに聞かせることにするか。大事をとろう。ホプキンスにモスクワまで行ってもらおう。

スターリンがもっとも信頼しているアメリカ人はホプキンスだからだ。それがどうしてなのかは前に何回も記した。ところでホプキンスは癌を患っていた。ヤルタ会議のときには担架で運ばれるほどに体の具合は悪かったが、ルーズベルトの死後のこの五月、持ち直していた。ところで、大統領となったばかりのトルーマンはサンフランシスコ会議に出席するためにワシントンに立ち寄ったモロトフにたいして、ソ連との戦時大同盟なんかもはや存在しない、私は前の大統領とは違うといった毅然としたところをみせようとして、面罵に近い扱いをしてしまった直後のことであった。それを知ったホプキンスはソ連との関係を良好な形に戻さなければならないと願い、モスクワ行きは自分の最後のご奉公になると考えたのである。

さて、ホプキンスがスターリンに約束する主題、尋ねなければならない課題はいくつもあった。ところが、トルーマンとバーンズがスターリンの口から是が非でも聞きたいのはある日付だと前に記したが、それはソ連の対日参戦の正確な月日だった。トルーマンはホプキンスに向かっては、スターリンから聞きだして欲しいのは、じつはそれだけだとは明かさなかった。ましてやその日付をなぜ知らなければならないのかの説明などまったくしなかった。

十八ヵ月前、テヘランでスターリンが対日参戦をはじめて口にしたとき、アメリカ政府、軍幹部のだれもが嬉しがったことは前に触れた。だが、今年の五月、ワシントンのキングとマーシャル、さらにはアーノルド、グアム島のニミッツとルメイ、マニラのマッカーサー、だれひとりソ連の参戦を心待ちにしてはいなかった。だからと言って、ヤルタでの前大統領の約束は軽率に過ぎたと悔やむのも、無意昧だった。テヘラン、ヤルタの約束があろうとなかろうとなんの関係もなく、この夏にソ連軍が満洲に侵入し、自分たちの思いどおりのことをするのは、ソ連が東欧でやってきた振る舞いを見ればだれにも容易に予測、想像できることだった。そこでヤルタでルーズベルトがスターリンから聞いたドイツの敗北から三ヵ月あとに日本に宣戦を布告するといったおおよその時期だけで充分すぎるはずであった。ところが、トルーマンとバーンズの二人はなぜかソ連の対日参戦の正確な日付を知りたがったのである。

クレムリンを訪問したホプキンスがスターリンにその問題を持ちだしたのは、三回目の会談、五月二十八日だった。スターリンが語ったことをトルーマンにつぎのように報告した。

 「1 八月八日までにソヴェト陸軍は満洲の各戦略地点において的確に展開されるでありましょう。

 2 ロシア国民は参戦するための正しい理由を持たねばならず、またそれは、中国がヤルタでなされた提案に進んで同意するかどうかに依存している、とのヤルタにおけるみずからの提案を、元帥は繰り返しました」

トルーマンとバーンズはソ連の参戦の日が八月八日だと知った。その日までにあるひとつのことをしなければならない。そこでそれをするに先立って、それに付随するいくつものことを定めなければならない。六月と七月の六十一日間、そして八月一日からソ連が対日戦に参加する前日の八月七日までの、それこそカウントダウンのアナウンスがトルーマンの執務室、かれの寝室で聞こえつづける最後の一週間がある。そしてこのすべて七十日足らずのあいだにやらなければならない全計画のひとつひとつをしっかり照合、確認し、調整、点検しながら、それぞれの日取りを狂いなく定めていかねばならない。トルーマンとバーンズの双方は笑いを浮かべ、つぎには真剣な顔つきに戻り、互いの顔を見合ったにちがいない。それこそプロセス・デザインの構築となるのだが、見事につくってみせるのはロイヤル・ストレート・フラッシュだとポーカー好きのトルーマンが独語したのはそのときが最初だったのかもしれない。
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ルーズベルトとグルー 日本の早期降伏

『昭和二十年』より グルーのシカゴ演説

グルーのシカゴ演説にはじまり、国務省の東アジア部門を長く支配していた責任者の事実上の追放代わってグルーの登場、かれの対日政策を明示した著書の公刊、ひとつにつながるこれらの出来事はいったい、なにを明らかにしているのか。

ルーズベルトが日本を一日も早く降伏させねばならないと考えてのことなのは間違いなかった。アメリカ統合参謀本部の軍事計画はヨーロッパの戦いを終わらせるのがさきと決めていた。そのあと日率を降伏させるのに一年半はかかると見ているようだった。ドイツ降伏のあと一年、できれば半年あと、いや、ドイツ降伏の1ヵ月あとに日本との戦いを終わりにさせたい。ルーズベルトはこう考えたのであろう。そのためには、対日強硬派として鳴らし、日本人に警戒され、嫌われているホーンベックでは駄目だ、寛容な対日講和を説いてきたグルーでなければならない。こういうことにちがいな兄外務省員、同盟通信の記者たちはこう判断した。

そこで肝心な疑問、なぜルーズベルトは日本との戦いを早く終わらせなければならないと考えたのか。かれはこの四月十二日に死去するまで、自分がした重大な決定の説明をしたことはなかった。なぞグルーを起用したのかを部下に洩らすことはなかったし、日本との戦いを早く終わらせたいのだと冴軍統帥部総長に言わなかったし、なぜ早く戦争を終わらせたいのか、その理由を側近に明かすこともなかった。

日本側はどう考えたのか。グルーの登場を見て、アメリカは日本との戦争を一日も早く終わらせたいのだとは、当然ながら外務大臣、次官、首相、宮廷の高官たち、だれもが考えたことであった。アメリカはマキン、タラワにはじまる戦いで死傷者が急増したことに大きなショックを受けてのことだとかれらは思った。

リスボン、ストックホルムからの外交電報を読んでいた人がそう考えたのは無理からぬ次第だった。昭和十八年十一月末、タラワがアメリカ軍に奪われた直後のことであったが、アメリカのニュース映画がタラワの海岸に散らばるアメリカ海兵隊員の戦死者を写しだした。激しい爆撃と艦砲射撃によって、椰子丸太で囲った地下壕に潜む守備隊員は全滅したであろうと思い込み、珊瑚礁から海岸までの五百メートルの距離の浅い水面を渡っていた五千人の兵士たちが突如、機銃弾を浴びせられ、その三分の一が死傷したのだった。その恐ろしい、悲惨な映像はアメリカ国民を驚かせ、怒らせ、悲しませ、新聞、放送がその感情を増幅させて伝えた。

タラワがルーズベルトをして、対日戦を早く終了させようと決意させ、そこでかれは自分が一年半前に北アフリカのカサブランカで唱えた無条件降伏の声明を手直ししたことを日本にそっと知らせてきているのだ。日本側ではだれもがこう解釈した。

付け加えるなら、ニュース映画がそれまでに載せたことのなかった戦死者の映像を国民の目に触れるようにしろとそのとき命じたのはルーズベルトだった。一回限りだった。タラワの戦いは、アメリカが建造、編成した大艦隊が多数の輸送船と上陸用舟艇を伴い、中部太平洋を横断、進撃を開始するにあたっての最初の作戦であり、その衝撃度の高いニュース映画の上映は、言わずとしれて国民の敵愾心を極度に高めようとしてのことであり、国民の士気を維持するのに巧みなルーズベルトがその面目を発揮したものだった。

ところで、タラワの惨劇とグルーの登場はなんのつながりもなかった。ルーズベルトがやったことを振り返ろう。昭和十八年、一九四三年の十一月、かれはカイロに行き、チャーチル、そしてはじめて蒋介石と会談した。カイロは蒋介石を世界の四大国のひとつの代表とするお披露目の場であった。ルーズベルトは帰国する蒋介石夫妻を見送ったあと、テヘランでスターリンと会談し、そのあと再びカイロに戻って、十二月六日に将軍と外交官の二人の報告を聞いた。ジョン・スティルウェルとジョン・デーヴィスはかれらの任地の重慶からルーズベルトに呼ばれてきた。ルーズベルトは自分が抱くようになっていた疑問をスティルウェルに問うた。「蒋介石はずっともつと思うか」

スティルウェルは恐ろしい答えをした。日本軍のつぎの攻撃があれば、蒋介石は倒されるかもしれない。そしてルーズベルトはデーヴィスからも、蒋の国民政府が脆弱であり、その士気は低いこと、それと比べて中国共産党の統治は成功しており、その士気は高いと聞かされた。

ルーズベルトは母方の一族が中国貿易を家業とする家庭に育ち、親族の何人もがつねに中国の貿易港に駐在していたから、幼いときから邸内にある中国の絵画、切手、家具に親しんでいたのだが、いつか中国に感傷的な親愛感を持つようになっていた。そしてかれは中国の実状をはっきり掴もうとする努力も怠らなかった。かれが承知したのは、日本との戦いが長引けば長引くほど、国民政府の力は弱まり、それに引き換え、延安の共産党勢力は力を増すということだった。そこで懸念しなければならなかったのは、日本が降伏したあとに、自分の力に自信を持つようになっている毛沢東は蒋介石の軍事圧力にたいして武力で応じることになる懸念だった。蒋介石は武力を使って、共産党を粉砕しようとしても、その戦いが二年、三年とつづくことになりかねなかった。そしてソ連が満洲、華北、新疆省で中国の共産党勢力を支援するようになるにちがいなかった。そうなってしまったら、ルーズベルトは自分が想い描き、スターリンとチャーチルから不承不承ながらも賛成を得たばかりの大構想、アメリカ、ソ連、英国にもう一国、中国を加えて、四大国が協力して世界の平和を維持しようとする計画は霧散してしまい、ソ連との関係も悪化し、ソ連との「大同盟」もまた瓦解してしまうということだった。

日本との戦争を早く終わらせることはなによりも必要だ。ルーズベルトはこう考えたのである。そこで邪魔になるのが、日本にたいして「無条件降伏」を公式に声明してしまっていたことだった。

昭和十八年、一九四三年の一月に北アフリカのカサブランカでルーズベルトはチャーチルと会談したあとの記者会見で、日本、ドイツにたいする「無条件降伏」の原則を発表していた。これについても、ルーズベルトはなんの説明もしなかった。グラント将軍を思いだしてのことだとごまかした。南北戦争に際して、北軍のその将軍が唱えた言葉が「無条件降伏」だった。そこで、ルーズベルトはほんの思いつきを口にしただけであろうと新聞記者や評論家に言われることになった

「無条件降伏」を唱えたのは、決してその場の思いつきではなかった。ソ連との「大同盟」を戦争終了のあともずっとつづけたいと願うルーズベルトの思いがあってのことであり、ドイツや日本と妥協講和、単独講和をしないと公約して、スターリンの西側資本主義諸国にたいする根深い猪疑心を除去しようと望んでのことだった。

だが、「偉大なる友邦」ソ連との「大同盟」を戦後も維持しようと望むのであれば、日本にたいする「無条件降伏」の手直しが是が非でも必要となった。ルーズベルトはカイロからワシントンに戻る昭和十八年十二月の上旬に決意を固めたのであろう。同じ十二月末のグルーのシカゴ演説は、間違いなくルーズベルトと旧友グルーとの協議のあとでおこなわれたものだったにちがいない。そしてルーズベルトはグルーに向かって、国民に向けての啓蒙工作が必要だ、それは同時に日本に向けての教化工作になると説き、十年間の駐日大使時代の経験を記しての日本論の発刊を勧めたのではなかったか。

そしてカイロでスティルウェルの不吉な予測を聞いてから五ヵ月あとの四月、日本軍が河南省で大攻勢を開始するや否や、蒋介石子飼いの将軍、湯恩伯と蒋鼎文が指揮する四十万以上の大軍がたちまち自己崩壊してしまったと知ったとき、ルーズベルトはただちに行動にでたのである。
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『罪と罰の彼岸』ルサンチマン

『罪と罰の彼岸』より

本にかぎらずこの十二年間に生み出したすべて、それをドイツ国民が精神的に破棄するとき、否定の否定にひとしい。高度に建設的な、大いなる行為にあたる。このときようやく主観的にはルサンチマンがはたされ、客観的にはそれがもはや無用のものとなったわけだ。

倫理に目がくらんだのか、なんというとてつもない夢想であろう! 一九四五年、駅のプラットホームのドイツ人乗客は私の仲間たちの死体の山を見て怒りのあまり色を失い、口をとがらせ私たちの殺し屋、つまりは彼らの同郷人をにらみつけなかっただろうか。自分のルサンチマンと、その赴くところのドイツの浄化のおかげで、目の前で時代が逆転した。あるドイツ人はSS隊員ヴァイスの手から殴打用のシャベルをもぎとらなかったか? あるドイツ女性は拷問のあと気を失い、くたばりかけていた私に身をかがめ、傷口に手当てをしなかっただろうか? 過去が未来に入りこむ。そのときようやく終極的に過去を打ち負かしたにちがいないのだが、なんという夢想であろう!

このようなことは一つとして起こらない。私は知っている、少数のドイツ知識人による誠実な努力にもかかわらず、何も起こらない。そして知識人たちは、とどのつまりは世間から求められるとおりのもの、つまり根なし草にとどまるだろう。はっきりとした兆候がこぞって指し示している。私たちのルサンチマンか求める倫理的要求を自然な時の推移が拒絶して、ひいてはきれいさっぱり消し去るだろう。偉大なる革命など、どこに起こるだろう? ドイツは遅ればせの革命など願わない。私たちの恨みごとは見て見ない振りをする。ヒトラー帝国は、当分はなお歴史の業務上の過去というものである。だが、いずれは歴史そのものとなる。世界史にわんさとある、血がどっさり流れた劇的な年月と較べても良くもなければ悪くもない、たいして変わりばえのしない帝国時代ということになる。SSの制服を着た祖父の写真が奥の間にかかげられ、学校の子供たちにはユダヤ人選別台ではなく失業者問題に対する画期的な成功か語られる。ヒトラーやヒムラーやハイドリッヒやカルテンブルナーといったナチの大立者の名前が、ナポレオンや政治家フーケや革命家ロベスピエールやサン=ジュストにもひとしくなる。つい先だって私は『ドイツについて』という本を読んだばかりだ。ドイツ人の父親と、はるかに年若い息子との対話という構成だが、息子の目にはボルシェヴィズムとナチズムの区別かつかない。いずれ人々は教えるだろう。こんなふうに言うだろう一九三三年から四五年にかけてドイツで起こったことは、もし条件が同じであれば世界中の至るところで起こっていたはずである、と。それがまさしくドイツで起こり、ドイツ以外ではなかったことなど言うに足りない些事である。そのかみのドイツ軍参謀将校フェルディナント・フォン・デア・ラィン公は『壁の森を振り返って』と題した本の中に書いている。

 「……もっとひどい報告が支部より届いた。SS分遣隊が家々に押し入り、最上階で息をひそめていた子供たちを窓から舗道に投げ落としたというのである」

みごとな組織能力をもった高度に文明国の国民にとって、ほとんど学問的なまでの正確さで実施された何百万人もの殺人は悲しむべきことではあれ、しかしながら前代未聞というわけのものではなく、トルコによるアルメニア人追放や、フランス植民地における残虐行為と、それほどちがいはないということになるだろう。「蛮行の世紀」としめくくられてケリがつく。そのなかで私だちとは何ものか。度しがたいやつらであり、かたくなな連中であり、言葉の厳密な意味において歴史に歯向かう反動家どもであるだろう。生きのびた犠牲者は、つまるところ業務上の必要経費というものである。

この栄えあるドイツに行くたびに私はますます気が重くなる。どこのだれか不親切でも無理解だからでもない。ドィツの新聞や放送局に招かれ、ドイツの人々にむけて失礼千万なことを書いたり話したりして、それで謝礼をせしめているのである。これ以上なお何を望むというのだろう? どれほど心のひろい人にしても最後には腹を立て、先に引用した投書家のように「残念でならない」とおっしゃるだろう。私はフランクフルトやシュトゥットガルトやケルンやミュンヘンに自分のルサンチマンを持ちはこんでいる。私が心中に抱いているものは個人的には自分の救済法にかかおるものであり、かつまたむろん、ドイツの人々によかれという気持からでもあるが--だれがこれを受け入れてくれるのだろう、せいぜいが謝礼つきで招いてくれたジャーナリズムぐらいである。かつて私を間化したものか商品となった。それを私は売りあるく。

運命じみた国である。光の中をあゆむ者たちは永遠に光の中をあゆみ、闇の中の人々は永遠に闇の中だ。この国を私はアウシュヴィッツからの撤退用の列車で右往左往した。ソ連軍の大攻勢を前にして西に運ばれ、ブーヘンヴァルト強制収容所に移されてのち、さらに北のベルゲン=ベルゼンヘと送られた。雪の線路を走りボヘミアの田舎をかすめたとき、農家から女たちがパソやリンゴをもって死の列車に駆けよってきた。すぐさま威嚇射撃で追いちらされた。ドイツに入ってからはどうだったろう。石のような顔ばかり。誇り高い国民であり、今なお誇り高いのである。その誇りが少々ひろがりすぎたことは認めなくてはなるまい。この誇りは、もはや無理やりにしぼり出すまでもない。再びやりとげたという良心の満足と、当然の喜びのなかで輝いている。もはや勇猛果敢な戦闘など求めない。世界に冠たる生産力で十分だ。しかしそれは過去の誇りであり、私たちの側からいえば過去の無力のあかしである。ここでもまた、つまるところ、敗レシ者ハ不幸ナルカナ、ということになる。

私はルサンチマンを包みこまなくてはならない。その倫理的強さと歴史的意味合いは、なお信じられる。なおとは、あとどれぐらいであるか? 自分にこのような問いを立てなくてはならないことだけでも自然な時間の推移の無気味さ、気味悪さを示しているだろう。私は明日にもすでに、自分を断罪する羽目に陥らないともかぎらない。倫理の名において時間の逆転を求めるなどのことか、間の抜けたおしゃべりにすぎなくなるかもしれないからだ。いや、世なれた利口者にはすでにしてそうだ。このとき、わがヘルベルト・カルプやヴィリー・シュナイダーやマテウス主任や今日の少数のインテリたちは、もはや見えず、誇り高い国民か最終的に勝利を収めるだろう。厳密にいうと哲学者シェーラーやニーチェが怖れたことは取りこし苦労というものだった。奴隷のモラルは勝ちどきをあげないだろう。ルサンチマンというもの、この真実のモラルの感情の源泉、いつも押しひしがれた人々のモラルであったもの---そのルサンチマンが、打ち負かす者たちの邪悪さを越えるなどのチャンスはめったにない。あるいはまったくないというべきだろうか。私たち犠牲者は自分たちの恨みごとに「ケリをつけ」なくてはならない。かつて強制収容所の隠語として用いられたのと同じ使い方、つまりは殺すことを意味している。私たちはケリをつけねばならず、また間もなくケリをつける。それまでは恨みがましい繰りごとでお邪魔するのをご辛抱いただきたい。
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