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社会編は他者の世界を描いている

社会編は他者の世界を描いている

 第3章の社会編を他者の世界としてみた時に、かなり違ってきます。もっと突き放した、関係ない世界として描きたい。どういうスタンスで関与するのか、また、関与されるのか。関与される方はなしとします。

ポエムの描き方

 これがポエムとなると、更に微妙になります。「危機感のなさ」という表現ではなく、「危機感はない」になります。ポエム的には、「市民は豊か」と書くのと「豊かな市民」と書くかでニュアンスは変わってきます。書くことによって、イメージが湧くような言い方にしたい。

 突き放した言い方ではなく、少し、近寄った言い方になります。「先のイメージ」の替わりに「この先のイメージ」とするだけでも違ってきます。

2カ月ぶりのメール

 唐突にパートナーからのメールがやってきた。静岡からの帰りみたいです。10時を過ぎています。

 思い切り、気を使ってレスしました。オープン型の文章は避けました。多分、続かないでしょう。これで、明日の名古屋行きはなくなったような気がする。精神がざわついている。色々なことが考えられて安定しない。
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本が重いことに意味があるのか

本が重いことに意味があるのか

 本はなぜ、こんなに重いのか。その内、10冊なんて持てなくなる。ましてや、30冊なんて、異状です。

 内容が重たいモノが重たくて、そうでないモノが軽かいのであればわかるけど。装丁に凝りすぎています。書店に並べることが前提になっている。買ってもらうのが目的になっている。今の車と同じ。

 紙という素材を使いすぎている。中身は全て、デジタルなのに。デンマークへ行った時に、木材がないので本が無いと言われた。人類の文化が変わる時です。レバノン杉ではないけど、デジタルできるモノはデジタルに。移動の時のクルマにも言えることだけど。目的に即した生活をめざす。

岡崎市図書館の状況

 テスト期間中だから、午前中の岡崎市立図書館は好いています。午後になると、また集まってくるんでしょうね。11時半になったら、学生がドンドン集まってきています。

 リブラ講座「エンディングノート作成」が見えている。5,6人の老人が聞いています。

 12月10日の「図書コン」は店員を満たしたので、募集を中止している。

クルマって中途半端

 岡崎まで移動するだけなのに、こんなに危険を冒して、こんなに神経を使って。くだらない。だから、自分のことしか考えられなくなっている。Lみたいな車を選ぶ。人類の方向は間違っています。

数学編にロマンが足りない

 数学編の最終章はもっと、詰めないとダメです。これではロマンが足りない。なにしろ、次の次の世界を表現するのだから。内容も甘すぎます。第9章・第10章に任せるのではなく、数学編として、完結させないと。

 新しい数学にしても理論的にすることではない。理論よりも、言葉により哲学とか歴史とかに融合させることです。それと、トポロジーの究極な姿、シンプルになって、端と核とがつながっていく姿をどう描くか。まあ、亡くなる寸前に分かればいいですけど。
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自動車産業と「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」

『アメリか異形の制度空間』より 〈自由〉の繁茂と氾濫

自動車産業と「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」

 こうして、一九世紀に効率的な大量生産の方式が編み出され、そのための製造工程の機械化・自動化が進み、職人や熟練工のいらないいわゆるオートメーション方式が生み出された。その集大成であるとともに、その後の産業発展の範型となるのが、二〇世紀の初頭に出現した自動車産業である。

 自動車はたんにひとつの工業製品であるのではない。多種多様な製品を組み合わせた総合的商品である。ボディー、エンジン、タイヤ、ウィンドーガラス、シート、電気系統、制御系等々、多様な構成部分からなり、一台の自動車ができるには、それらの部品の製造と、それを調達して組み立てる作業が必要である。ところがヘンリー・フォードは、そのすべてをひとつの工場に集め、製造工程を一貫した流れ作業に統合して、一続きで完成品を作り上げるだけでなく、それによって一台あたりの製造時間を驚異的に短縮することに成功した。複雑で大きな製品の大量生産が可能になったのである。これによってそれまで高級品だった自動車が比較的安価に供給されるようになり、街や郊外を自在に走り回るその姿が一般市民の羨望を誘って、軌道を必要としないこの自由な移動手段は瞬く間に広く普及するようになった。

 この工業製品は、ただの置物でも、備えつけの道具でもなかった。人びとは自分だけの私的な移動手段をもつことになり、道路さえあればいつでも自由にどこにでも行ける。ただしそのためには、自動車が通れるように街路が整備され、遠くまで移動できるよう道路網が拡充され、あちこちにガソリンスタンドも設置しなければならない。そしてそれが一旦整備され多くの人びとが自動車に乗るようになると、生活するのにもはや窮屈な都会の真ん中にとどまっている必要はなくなり、郊外にレストランやショッピングセンター、ホテルやドライブイン・シアターができるようになる。こうして自動車の普及は、人びとの活動範囲や時間意識を塗り替えて生活様式をI新しただけでなく、社会の様相を大きく変えることにもなった。もちろん自動車の燃料のガソリンは必需品になり、石油の獲得や精製が経済社会の重要なファクターになる。

 そうなると人びとは、もはや自動車なしに生活できなくなる。そのために自動車の需要は拡大し恒常化しただけでなく、この総合産業の裾野は広がって、道路関連の産業だけでなく、生活の変化に伴うあらゆる分野の産業が生みだされ、自動車製造はその基軸として、技術革新とそれが引き起こす社会の「進化」を牽引することになった。そしてその後の電化製品による生活の向上や、近年のコンピューターや携帯電話によるいわゆるIT革命のひな型になったのである。また、燃料として必要な石油は主要なエネルギー資源としての位置を占め、その需要は世界情勢を動かす決定要因のひとつにさえなった。こうしてフォードを初めとする自動車産業の勃興と興隆はアメリカの繁栄を確固たるものにし、二〇世紀の世界が「アメリカ的」なものになる方向を決定づけたと言っても過言ではないだろ

 そしてやがて名高い「アメリカ式生活様式」が花開く時期を迎える。独立宣言に「創造主によって与えられた」と明記された「生存、自由、幸福追求の権利」が、個人主義的でオプティミスティックで物質的に豊かな生活のなかで自在に行使される。オートメーションが象徴する効率と利便が、自由でこだわりのない安楽追求を消費生活として後押し、大量生産で供給される豊かな物資を、それぞれの私的な幸福に自足する人びとが惜しみなく使い捨ててゆく社会ができあがる。

 抗争の論理の支配する古い秩序の世界(古いヨーロッパ)が「世界戦争」に到り着いて焦土と化したときも、大西洋に隔てられた「西半球」の〈自由〉の領域は無傷で、むしろその戦争を通して世界の兵器工場となり、自動車で培った生産ラインを駆使して機関銃や軍用車両さらには航空機を大量に製造して世界に送り出し、技術革新も急速に進めて、アメリカは石油化学から電気、医療、核技術にいたるまで世界の技術を集約し、もはや競合しうるもののない巨大産業国となって、二〇世紀後半の世界に君臨することになったのである。戦争中の軍需産業は、戦後は大幅に民間需要に転換するようになるが、その生産力と豊かさが二般の人びとの生活のなかで「アメリカ的生活様式」として享受されるようになる。

 そうしてこの繁栄が世界の人びとを引きつけ、アメリカを模範と仰がせ、マンハッタンの摩天楼のイリュミネーションは、物質文明世界の「丘の上の町」として輝いた。技術革新(イノヴェーション)によって物資的生産の効率が上がり、新たな消費分野が開拓されると、大量生産と大量消費のサイクルが全開し、それが人びとの行動様式を変えてゆく。ひとつの製品の市場が飽和しても、新しいモードがさらに消費の欲望を生み出すし、このような生活様式は世界を魅了しておのずから市場を外部に拡大してゆく。「アメリカ」は世界の夢となり未来となり、この「灯台」の生活様式は、模倣の欲望を通してしだいに世界に浸透していった。

「アメリカ化」する世界

 〈自由の制度空間〉とは未曾有のものだった。それまで、これほど広大な「無主」の大地はどこにもなかったからだ。それがまるまる新規の〈自由〉に委ねられた空間になったのである。この大陸が「無主」とみなされたのは、それまでそこが『聖書』のどこにも記述されておらず、キリスト教世界にとってその新しさが絶対的だったということ(それまでインドや中国の存在も聖書のささいな記述になんとかあてはめて解釈されてきた)と、そこにいたのがヨーロッパ人の初めて会う人種だったからである(その「異人」が「人間」かどうかは、キリスト教徒となりうるかどうかという形で真剣に議論された)。そのためにこの地は「無垢(手つかず)」の幻想を生み、時の滓に淀むヨーロッパでは夢想でしかなかった「更地からの自由」の願ってもない実験場となったのである。

 〈アメリカ〉と命名されたこの制度空間は、あらゆる歴史的しがらみを旧大陸に捨てて設定された「新世界」だというその性格からして、どんな固有性にも縛られずどこにでも適用できる自在さを備えており、そのため「普遍的」モデルだという幻想を人びとにもたらした。とりわけこの国が短期間に富と繁栄を実現して大国となると、多くのアメリカ人は〈アメリカ〉をすばらしいと思い、他の貧しい国々や〈自由〉でない国々の人びとを憐れみ、アメリカのようになればよい、できたらアメリカのようにしてやりたいと思い、ときには頼まれもしないのにそうすることをみずからの使命だと思い込んだりもする。そして一方、他国の少なからぬ人びともアメリカやそこで実現できると言われる「ドリーム」に惹き寄せられ、アメリカに行くこと、そこで〈自由〉を享受することを夢見たり、あるいは自国の社会をアメリカのようにしたいといった願望を植え付けられてきた。

 〈アメリカ〉がもっとも広範にその魅惑を発揮するのはポピュラー文化や生活領域においてだろうが、それだけでなく、アメリカが世界の趨勢を決定してきたこの半世紀には、どこの国でも知的・社会的エリートたちもこぞってアメリカを模範とし、アメリカ的な視点や考え方を「先進的」で優れたものとして身につけようとし、アメリカ風になることをよしとしてきた。〈アメリカ〉とは進歩的、先進的、解放的なことと同義だったのである。だから世界のどこでも、その社会の主流を作る知的エリートたちはたいていはアメリカ流の考えに同化し、その自覚もないまま自国にアメリカ流を広める役割を果たしてきた。〈アメリカ〉はそのように、みずからの力で膨張し外部に拡大するだけでなく、その外部に〈アメリカ〉への同化の欲望を喚び覚まし、それによってまた〈アメリカ〉を広めてゆく。けれども〈アメリカ〉がもち込まれるとき、ほとんどの社会ではその自律性が崩壊してしまう。というのは、世界のどこも「更地」ではないし、住民は誰もが「孤立した個人」ではないからだ。

 〈アメリカ〉が設営されるためにはまずそこを「更地」にし、住んでいた人びとを「移民」のように、言いかえればその地と生来のつながりがなく、「分断され」「飢えを恐れて自己利益のために行動する人間」にしなければならない。それが〈自由〉を実現するために必要なコストであり、古い慣習や束縛は打ち破らねばならないというわけだ。そうすればかれらはかれら自身の「チャンス」に従って行動し、とりわけ「市場の自由」のもたらす「恩恵」に浴することができる。

 だからこそ〈アメリカ〉は、機会さえあればいつでも「他者の解放」のために「正義の戦い」を仕掛けることをためらわない。〈アメリカ〉の論理によれば、そうすれば世界は「解放」されるのだから。そのために「不朽の自由作戦」が企てられ、不運な人びとの住む土地を「石器時代に返す」までに爆撃し、そこに開かれた荒野(都会さえ荒野だ)に人びとを「解放」して、ときに爆弾とともに「人道物資」も投下しながら、「移民」ならぬ「難民」(これがかつての「移民」の新しいステイタスだ)であることの、底なしの〈自由〉に溺れさせて悔いないのである。
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「糖尿病」をもって人生を楽しむためにはどうすればいいでしょうか?

『糖尿病はこころでよくなる』より

糖尿病と生きる、これからのこと それでも続く人生、「自分」を愛する術を探る

 毎日の生活で精一杯で、将来のことが考えられません。

  明日は明日の風が吹く、だろうか……

  次のような言葉や語りをよく耳にしませんか。

   「将来に対する備えをいまのうちから」

   「将来のことを考えて、病気の治療計画を立てよう」

  この本の最初に、合併症の説明はしないと言いました。どんな病気かの詳しい説明はしませんが、少しだけふれさせてください。

  糖尿病の治療は、合併症(目、腎臓、神経、心臓などが障害されること)の予防が大きな目的です。そのために、血糖値や血圧、コレステロールや中性脂肪、そして体重を適正な状態にしようとします。それが日々の治療の目標です。血糖値などは、病院に行って検査をすればすぐにわかります。

  しかし、合併症がどうなるかはすぐにはわかりません。血糖値などの結果があまりよくなくても、合併症はすぐに体に現れるものではありません。また、仮に現れていたとしても、実感するまでには時間がかかります。人や状況によって異なりますが、五年、一〇年というスパンでしょう。だから「将来を考えていまのうちから治療を」という考え方は正しいのです。しかし、五年、一〇年という年月はかなり長く、自覚できる症状や不都合も少ないため、

   「症状が出てからがんばるわ、そんな先の話はわからんし」

   「何にも治療をしていなかったけれど、体はなんともなかった」

  ということにもなりかねません。

  一方、特に仕事を持っておられる世代の患者さんは、毎日のことをこなしていくことで精一杯で、治療のこと、先のことは考えられないということがあります。

   「(飲食の)付き合いは断れない(断れなかった)」

   「仕事が忙しくて通院どころではない(なかった)」

  まさにいま、または後から振り返って、そうおっしやる方が少なくありません。

   「一〇年後」を予測しようにも、自分ではコントロールできない不確定要素がたくさんありすぎます。仕事の転勤・昇進・リストラ、配偶者の健康状態、子どもの進学・就職・結婚など、自分だけでは決められないことの方が多いでしょう。

 「近い将来」を積み重ねて、いつの間にか一〇年に

  でも、「将来に意識を向ける」のは、大切なことだと思います。治療の先に未来があると感じている証です。ただ、「一〇年後」ではわかりにくいのも確かです。半年や一年といった「近い将来」。このあたりのことから考え始めてみませんか。

  個人的には三か月くらいが一番イメージしやすいと思います。ゴールデンウィーク、夏休み、年末年始といった、季節ごとのイペントを目印にすると、「ああ、季節が巡ってきたな」と時間の経過を認識しやすいでしょう。

  三か月や半年、そして一年という単位で治療を少しずつ積み重ねていくうちに、いつのまにか一〇年経っていた。そんな感じが糖尿病には一番いいと思います。

「糖尿病」をもって人生を楽しむためにはどうすればいいでしょうか?

 優等生患者さんのこころの中は……

  P‐Fスタディという性格テストがあります。日本語では「絵画欲求不満テスト」と訳されていて、絵に描かれた状況に自分が置かれたとき、どのような発言をするか書き込んでいくものです。

  そこには、自分の思い通りにならない状況や、嫌だなと思う場面が描かれています。たとえば、電車で席に荷物が置かれていて、座れないような場面を考えてください(これはテストの実例ではありません)。そのようなストレスがかかった場面で、あなただったらどうするかを答えます。

  その答えかたによって、その人の性格が「他責的(相手に解決を迫ろうとする)」「自責的(自分で解決しようとする)」「無責的(仕方ないと受け入れる)」のいずれかわかるのです。

  了解を得た患者さんに、この性格テストを受けてもらった時期があります。治療がうまくいく性格があるとすればどんなものか。それを知ることがこの検査の目的でした。多くの患者さんにご協力をいただいた結果、治療への取り組み方と性格テストの結果に相関関係があることが段々とわかってきました。たとえば、自責的な傾向がある人ほど治療法についてよく勉強する、などです。しかし、そのような人で治療が長続きするかというと必ずしもそうではなく、自分に厳しすぎて「もうダメ」となる人もいました。

  一型糖尿病だった患者さんに「超」がつくほどの優等生がいました。血糖値のコントロールがとても上手なので「どうやってるの? コツ教えて」と、何回も聞いたほどです。それは単に血糖値の数値がいいというだけではありません。

  一型糖尿病では、自分の膵臓から出るインスリンという血糖値を下げるホルモンがとても少なくなっています。そこで、インスリン注射を使うのですが、それでもちょっとしたことで血糖値が大きく上下します。

  また、血糖値が上がる理由がわからないことがあります。食べたから上がった、は納得。しかし、特別なものは食べていないし、注射もきちんとしているのに、血糖値がびっくりするほど高いときが治療につまずくきっかけになります。

  一方、血糖値は低すぎるのも問題です。

  「普通に食べてるのに、なんで低血糖?」、「わけがわからん」。誰しも感情が先に立つでしょう。「頭にくるなあ!」、「腹立つなあ」。それが高じると、治療や将来について悲観的な考えが押し寄せます。

  こんな時は自分を見失わない「気持ちの強さ」と「柔軟性」のバランスが必要とされますが、難しい。常に気持ちを一定のレベルに保つなんて、糖尿病のない普通の暮らしでも難しい。そこに「治療」が絡むと難易度はさらにL昇します。

  しかしその患者さんは、気持ちの処理と立て直しがとても上手なのです。。体この患者さんの「こころの仕組み」はどうなっているかを知りたいと思いました。

  さあ、この患者さんの性格テストの結果は……。他責・自責・無責の傾向がそれぞれ「一対一対一」。すべて均等。これは、状況に応じて発想や思考を柔軟に変えていることを意味しています。

  りまり、戸想外に高い血糖値が出たとして、ある時は自分のせい、ある時は機械の働き具合が悪かった、ある時は誰のせいでもなく仕方がないこと、というようにうまく使い分けられているということです。

  元々の性質なのか、糖尿病との付き合いのなかで熟成されてきた知恵なのか。おそらく両者の組み合わせとは思いますが、とにかく感心しました。これって、究極の形でしょうね。

  「悲観」も「楽観」もない無風の境地。「達観」とはこういう状態なのでしょう。

 「ちょっとのいいこと」が人生の杖となる

  この方は趣味も多彩。釣り、写真、子どもとの野外活動などを楽しんでおられました。診察日に時間があると、桜、紅葉、野鳥を撮影した写真を見せてくれます。

  糖尿病の治療はずっと続きます。体調が絶好調なときもスランプのときもあります。どうか気持ちや暮らしが「糖尿病」一色に染まりかかったときは、気持ちのベクトルを「糖尿病!」ではなく「外」に、それもあらゆる方向に向けてください。楽しいことを探してみる。少しでも気分のいいことをやってみて、そんな自分を褒めてみる。花を飾るのでもいいでしょう。心が軽やかになるようなアクセントを意識的につけるのです。

  「自分のためのちょっといいこと」を続けるうち、糖尿病になって一年、二年が過ぎ、一〇年経った頃には、こうした「ちょっとのいいこと」たちが、次の一〇年、あなたをしっかり支えてくれる「人生の杖」になるはずです。
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オスマン帝国支配下のイラク

『イラクのキリスト教』より 十六世紀から二十世紀まで--オスマン支配のもとで

オスマン・トルコはモンゴルから小アジアにまで前線を進め、十四世紀初めには、指導者オスマンの名前をとった公国を作っていた。セルジューク・トルコを征服してから、オスマン人は急速に衰えるビザンツ帝国を犠牲にしながら勢力を広げていた。一四五三年にコンスタンティノポリスが陥落し、オスマン・トルコはハンガリーからイエメンまで、またアルジェリアからタブリーズにまで広がる帝国の建設に着手し、イスタンブール(前コンスタンティノポリス)を首都とした。

オスマンはスンニ派のイスラム教徒であって、自分たちを、ほかに匹敵する者のないイスラム指導者であるとし、スルタンを「アミール・アル・ムウミニーン(信徒たちの長)」と称した。スルタンは絶対独裁君主であり、その支配は神からゆだねられたものであって、神だけに責任を負うものと考えていた。

スンニ派のオスマンにとって、シーア派は単なる異端にとどまらず、イスラムのイメージを損なう脅威であるとすら考えた。そこで、小アジア東部に達していたシーア派サファヴィー朝との衝突は避けられなかった。オスマンは一五一四年アゼルバイジャンにおいてサファヴィーを破り、続く二年の間に、クルディスタンや北部メソポタミアに進出した。バグダッドは一五三四年に征服され一五四六年には、レジスタンスの中心であったバスラを含めイラク南部が敗れた。このときまでには、現在のイラク全土はオスマンの支配に置かれるようになっていた。

初期オスマン帝国支配では、イラクを四つの「ヴィラエト」と呼ばれる自治州に分けていた。バグダッド、モースル、シャーラズルとバスラの四つであり、それぞれに「パシャ」と呼ばれる地方高官が配置されていた。防衛の観点から、バグダッドは最も重要であった。そういうわけで、バググッドのパシャは最上級で「ワズィール(宰相)」と呼ばれていた。他の自治州はより身分の低いパシャによって治められていた。これによってバグダッドは他の自治州に対する支配権を行使することができた。またクルドの君主を任命したり廃位させたりすることもできた。後になると、ペルシアから常に脅かされ、クルド人支配者による反乱があったため、シャーラズルとバスラはバグダッドの直接行政区域に置かれるようになった。他方バグダッドにかなりの領土を割譲されたとはいうものの、モースルは引き続き独立した州であった。

モンゴル支配によってもたらされた破壊、トルクメンとサファヴィードによる不安定な支配に続く混乱とは対照的に、イラクのオスマン支配は、総体的に経済、社会発展に利益をもたらした。頻発する疫病、洪水、ベルシアと繰り返される戦いのために挫折はあったものの、次第に生産と貿易は増え、人口は増加し、都市は拡大した。しかし十九世紀になるまでは、教育や富の分配は満足とはいいがたい状態が続いた。十九世紀になって、オスマン帝国政府内の徹底的な改革、西洋世界との接触が決定的な効果を現しはじめた。

第一に、その地域がヨーロッパ主導の世界経済に次第に統合していくことによって、住民全体の経済状態が良くなったことである。一七二三年以来、東インド会社がバスラに永久貿易基地を置き、湾岸地域の主要な貿易機関となった。一八六九年にはスエズ運河が開通したことで、バスラにある東インド会社の重要性がさらに増し、イラクの経済が急速に発展した。交通手段の向上がそれに続き、一八六一年にバグダッドとバスラの間に汽船が通るようになり、バグダッドとイスタンブールの間に電信サービスが設けられた。

第二に、タンズィマートの導入が、イラク社会の行政内に大きな変化をもたらした。一九〇八年のイラク国会には、一七人の各地方からの代表が集まった。その中には、キリスト教徒が一人とユダヤ教徒が一人含まれていた。イスタンブールでは、オスマン帝国の他の地域代表が集まり、共通の問題に基づいた連帯感を見いだした。軍隊が組織され、イスタンブールのオスマン中央政府に忠誠を誓った。

第三に、教育が政府機関に勤めることのできるような人物を生み出し、自分たちの地域社会を変革する能力のある現地の知識人エリートを生み出すことになった。マザトーパシャは、タンズィマート時代の最も進歩的な人物で、一八六九年から一八七二年までバグダッド区の指導者であった。彼は公務員養成のための技術学校、中等教育学校を設立し、兵学校を二校設立したが、いずれも無料であった。彼は一八六九年には印刷所も建設した。一八九九年には女子のための中学校を作り、一九○○年には小学校教員師範学校を設立した。オスマン支配時代に設立された高等教育機関は法科大学だけであった。

宣教師も教育に貢献した。カトリック宣教会は十七世紀の前半にイラクに来ていた。最初に来たのがカプチン修道会士であり、続いてカルメル会修道士、ドミニコ会修道士がやってきた。カルメル会は、一七二一年にバグダッドに最初の小学校である聖ヨセフ小学校を開いた。ドミニコ会は、一七五〇年にやってくるとすぐに、モースルとその近郊の村々に小学校を開設した。彼らは一八六○年にイラクで最初の印刷所を設立した。フランスードミニコ会の修道女が一八七三年にモースルに到着すると、若い女性に裁縫や家事だけでなく読み書きを教えた。ユダヤ教徒も、イラクに最も早期の現代学校の一つを設立した。それは一八六五年、バグダッドに「世界ユダヤ教同盟」が建てたものである。教員は世界各国から集められ、ユダヤ人以外も学生として受け入れられた。

第四に、科学者と考古学者の派遣団により、イラクの隠れた財宝の探検が始まり、歴史理解に決定的な転換が起こった。アッシリアやバビロンの遺跡を発見し、樹形文字の解読が進むことで、イラクの古代史だけでなく、聖書関連事項や他の文明の起源についても、新たに大きな事実が明らかにされた。初期の考古学者の一人ヘンリー・レイヤード卿は、一八四五年にニネヴェを発掘したが、助手としてモースル出身のキリスト教徒ホルミズーラッサムを採用した。ラッサムは後に、彼自身考古学者になった。ナショナル・ジオグラフィックの社長エインズワース氏は、ユーフラテス川が航行するのに相応しいかどうかを探検するために派遣された。ホルミズ・ラッサムの兄弟イサ・ラッサムがその探検隊のエインズワース氏の通訳として働いた。

最後に、アラビア語が広まったことである。多くの本が出版され、また、ダマスカス、ベイルート、カイロなどにアラビア文学協会が生まれ、これが良い影響を与えた。特にエジプトやレバノンでのアラビア語復興に当たっては、キリスト教徒思想家が、その最前線で活躍した。政治的アラブ民族主義が生まれるずっと前から、文芸復興が始まっていたのである。イラクで、特に卓立している人物は、カルメル会修道士アナスタシウス(聖エリアのアナスタシウス・マリア)である。彼は一八六六年にバグダッドで生まれ、カルメル会司祭になった後、バグダッドに帰り、一九四七に亡くなるまで、その生涯のほとんどをそこで過ごし、バグダッドの古ラテン教会に葬られた。彼はアラビア語学者であり、少なくとも六二の論文を機関誌に掲載している。彼自身、「ルハト・アル・アラブ紙(アラブ人の言語)」を編集した。キリスト教徒、イスラム教徒を問わず、将来イラクの最前線で活躍した思想家、知識人たちが彼の夜学で学んだ。カイロのアラブ学士院は、一九三二年最初の学士院会員の一人として彼を選んだ。
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