『アラブの住居』より
歴史と伝統
アラブ地域の広がりは歴史の産物である。元来アラブ族はアラビア半島に居住していた。7世紀に出現したイスラーム教が征服と改宗を進め、今日のアラブ地域を形成する地をアラブ化していった。広域のアラブ化にはいくつかの理由がある。
-彼らが支配を推進した地域の文化的ルーツは、古代ギリシアやローマなどの植民者よりアラブ族と近かった。
-彼らの征服は破壊的ではなく、異なる信仰や民族に対して寛容であった。
-彼らの征服は自分たちと物的条件が近い地域に限られていたので、新たに支配下におかれた人々にはキリスト教よりもむしろイスラーム教が多方面からふさわしかった。
このようにして、アラブ族は既往の文明の上に、迅速に彼ら白身の力強い文化を打ち立てた。同一の環境と宗教から派生した伝統は、同一性を持ち、広いアラブ地域のまとまりを作り出した。近代のフランス、イタリア、あるいはイギリスの植民地下の影響はかなり異なったものであったが、急速に消えつつある。
社会と経済
時代を通じ、アラブ地域は遊牧民と定住民の関係で成り立ち、アラブ社会は遊牧民(ベドウィンまたはベドゥ)、農民(ファッラーヒー)、都市民から構成された。上述したように、内陸部には遊牧部族が移動していたので、内陸部の定住生活では敵が近くにいた。遊牧民は自由であり、定住し不在地主のために働くしかない農民よりも素晴らしいと自覚していた。一方、都市民は内陸の交易ルートを横断し、寄港地、あるいは沿岸部のオアシスに赴いた。彼らは商人、工人、地主、地方統治者で、彼らの富を略奪することに喜びを感じる遊牧民の急襲を常に恐れていた。全ての居住地は城塞化せねばならず、安全性の確保は居住地を形成する際に最も重要であった。
遊牧民の影響
大昔から遊牧民は、砂漠の周辺部で生活し、動物の群れとともに最小限の飼料を求めて砂漠を移動した。通常、生き延びることは、家系につながる社会的絆の強さによってのみ可能であった。このような絆の外では、厳しい環境に個人で対応するしかなかったので、異邦人に対する絶対的なホスピタリティの伝統が培われた。幼児の高い死亡率は、部族を強化するための多産によるもので、反面、女性の集団生活、あるいは男性社会からの隔離を導いた。
遊牧民は階層序列が強固で、儀式から厳しい規範まで社会関係の複雑な風習がある。砂漠に対して開放的であるとはいえ、テントでは空間によって社会秩序が示され、長い間居住することで空間の区分がより高度に発達した。それゆえ、アラブの住まいを考えるにあたっては扉、通路、間仕切りなどの空間の形を抽出することが必要で、中央部を占めるものとの関わりで空間の序列を語ることが多い。
遊牧生活からアラブの定住生活へ持ち込まれた特徴はたくさんある。運搬にかさばるため家具は用いず、敷物や枕を用い地面に座る習慣を導いた。テーブルは折りたたみの台と金属盆で、そこに食物を提供した。唯一の家具は高度に装飾された長持ちで、貴重な財産を入れる宝物箱となった。
限られた世帯道具を運ぶため、遊牧民は大きさよりも価値にこだわった。また、壊れやすいガラスや陶器を避け、皮革や布、銅、錫、真鎗のような金属を好んだ。定住生活のような日常の雑事がなかったので、遊牧民は孤独な野営生活の十分な時間に、無限に続く多様で詳細な工芸品を生み出す技術を培った。荒涼とした砂漠でも、雨の後はつかの間の、開花と繁茂する緑を享受した。色彩の残像と地表の緑を撚りあわせ、彼らはその印象を時を超えた装飾パターンヘと抽象化した。織物、絨毯、木製象眼、彫金、金や銀の宝石縦工など、芸術的で価値の高い工芸品を生み出した。
価値観とイデオロギー
・イスラーム時代以前
3つの唯一神教がアラブ地域におけるセム族に由来することは偶然の一致ではない。砂漠環境にあると、すべての人は絶対的な力を経験し、この地球における人間の存在を説明しようという衝動にかられる。ユダヤ教、キリスト教、そして初期アラブ社会の多神教がイスラームの素地となった。イスラーム教徒(ムスリム)はイスラームを唯一神信仰の完成形であるとみなした。
・イスラームの役割
都市で主流とはいえ、イスラームは遊牧民の価値観に由来し、砂漠でも宗教的義務を果たすことができる。限られた資源環境に生まれた宗教、かつ神が創造した人間の弱さを理解する信仰で、浪費、財産の誇示、奢侈品を否定する。神の前に全ての人間は慎ましくあらねばならない。神はこの地球で唯一卓越し、自ら制定した世俗法による支配者は異端(タティール)である。とはいえ、常に変化する社会を扱う個別の考え(イジュティハード)を通し、聖典コーランの創造的解釈を推奨する。
アラブ地域の不安定な社会環境で、質素倹約と共同を基本に、イスラームは人々の固有の必要性に対応した。社会のイスラーム的秩序は、部族(カウム)、同胞、ギルドの重要性、そして喜捨(ザカート)や公共財(ワクフ)による利益の重要性を強調する。部族への忠誠が政治への忠誠に優先する。個人の安全を保証するのは一族、すなわち家族や氏族である。とはいえ、宗教と現実問題の結合は、部族や民族を超えた信者共同体(ゥンマ)の統一概念を必要としたので、結果としてアラブ地域の統合をもたらし、さらにアラブ地域を越えてイスラームが拡張した。断食(ラマダーン)や大巡礼(ハッジ)などの年間行事、あるいは礼拝の際にメッカに向かうことはムスリムの結びつきを強化する。
信者共同体(ゥンマ)の認識は、平等主義の社会を創出する。貧困と裕福の差異はあるが、神の前にみな平等で、神の意志(イスラーム)に服従せねばならない。裕福さはバラバラに分解され、外へ向かって表現されるべきであるという、宗教が課した謙虚さが、洗練された扉のデザインにみられる。さらに、個人は集団のひとりで、欧米の民主主義の基本となる独立した個人の認識はない。それゆえ、個人の判断や価値観を伴った欧米の路線に沿った団体は発達しなかった。
居住の習慣、加えてモスク、学院(マドラサ)、病院(マリスタン)、商館(ハーン)など施設の共通性は、ムスリム共同体(ダール・イスラーム)の統合に対して、建築的に貢献した。異なる信仰や民族に対する大いなる寛容性があったので、本来明確であったそれぞれの共同体の街区は、対立を減らし、それぞれのアイデンティティーは薄まった。
預言者ムハンマドの時代のメッカは、古くから巡礼の地で、交易の拠点であった。とはいえ、ムハンマドは質素を好み、「建物は最も不用なもので、信者の富を使い果たす」と感じていた。この伝統に沿って、彼のメディナの家は、長い列柱と簡素な部屋の列がある大きな中庭があった。どんなに住まいが慎ましくても、プライバシーの尊重は最も重要である。禁じられた区画(ハリム)は、女性、子供たち、主人の場である。男性客は入ることはできず、玄関近くの応接室(マジリス)に迎えられる。男女の分離は中束ではかなり古く、イスラーム以前からの慣習であった。
アラブ地域の広がり
結論として、自然と人間の文脈から広範なアラブ地域を設定することが可能である。大西洋からインド洋にいたる7、600kmの長さと1、000kmの幅を持ち、北緯30度をまたぎ、海岸線の総延長は18、600kmに達する。
歴史と伝統
アラブ地域の広がりは歴史の産物である。元来アラブ族はアラビア半島に居住していた。7世紀に出現したイスラーム教が征服と改宗を進め、今日のアラブ地域を形成する地をアラブ化していった。広域のアラブ化にはいくつかの理由がある。
-彼らが支配を推進した地域の文化的ルーツは、古代ギリシアやローマなどの植民者よりアラブ族と近かった。
-彼らの征服は破壊的ではなく、異なる信仰や民族に対して寛容であった。
-彼らの征服は自分たちと物的条件が近い地域に限られていたので、新たに支配下におかれた人々にはキリスト教よりもむしろイスラーム教が多方面からふさわしかった。
このようにして、アラブ族は既往の文明の上に、迅速に彼ら白身の力強い文化を打ち立てた。同一の環境と宗教から派生した伝統は、同一性を持ち、広いアラブ地域のまとまりを作り出した。近代のフランス、イタリア、あるいはイギリスの植民地下の影響はかなり異なったものであったが、急速に消えつつある。
社会と経済
時代を通じ、アラブ地域は遊牧民と定住民の関係で成り立ち、アラブ社会は遊牧民(ベドウィンまたはベドゥ)、農民(ファッラーヒー)、都市民から構成された。上述したように、内陸部には遊牧部族が移動していたので、内陸部の定住生活では敵が近くにいた。遊牧民は自由であり、定住し不在地主のために働くしかない農民よりも素晴らしいと自覚していた。一方、都市民は内陸の交易ルートを横断し、寄港地、あるいは沿岸部のオアシスに赴いた。彼らは商人、工人、地主、地方統治者で、彼らの富を略奪することに喜びを感じる遊牧民の急襲を常に恐れていた。全ての居住地は城塞化せねばならず、安全性の確保は居住地を形成する際に最も重要であった。
遊牧民の影響
大昔から遊牧民は、砂漠の周辺部で生活し、動物の群れとともに最小限の飼料を求めて砂漠を移動した。通常、生き延びることは、家系につながる社会的絆の強さによってのみ可能であった。このような絆の外では、厳しい環境に個人で対応するしかなかったので、異邦人に対する絶対的なホスピタリティの伝統が培われた。幼児の高い死亡率は、部族を強化するための多産によるもので、反面、女性の集団生活、あるいは男性社会からの隔離を導いた。
遊牧民は階層序列が強固で、儀式から厳しい規範まで社会関係の複雑な風習がある。砂漠に対して開放的であるとはいえ、テントでは空間によって社会秩序が示され、長い間居住することで空間の区分がより高度に発達した。それゆえ、アラブの住まいを考えるにあたっては扉、通路、間仕切りなどの空間の形を抽出することが必要で、中央部を占めるものとの関わりで空間の序列を語ることが多い。
遊牧生活からアラブの定住生活へ持ち込まれた特徴はたくさんある。運搬にかさばるため家具は用いず、敷物や枕を用い地面に座る習慣を導いた。テーブルは折りたたみの台と金属盆で、そこに食物を提供した。唯一の家具は高度に装飾された長持ちで、貴重な財産を入れる宝物箱となった。
限られた世帯道具を運ぶため、遊牧民は大きさよりも価値にこだわった。また、壊れやすいガラスや陶器を避け、皮革や布、銅、錫、真鎗のような金属を好んだ。定住生活のような日常の雑事がなかったので、遊牧民は孤独な野営生活の十分な時間に、無限に続く多様で詳細な工芸品を生み出す技術を培った。荒涼とした砂漠でも、雨の後はつかの間の、開花と繁茂する緑を享受した。色彩の残像と地表の緑を撚りあわせ、彼らはその印象を時を超えた装飾パターンヘと抽象化した。織物、絨毯、木製象眼、彫金、金や銀の宝石縦工など、芸術的で価値の高い工芸品を生み出した。
価値観とイデオロギー
・イスラーム時代以前
3つの唯一神教がアラブ地域におけるセム族に由来することは偶然の一致ではない。砂漠環境にあると、すべての人は絶対的な力を経験し、この地球における人間の存在を説明しようという衝動にかられる。ユダヤ教、キリスト教、そして初期アラブ社会の多神教がイスラームの素地となった。イスラーム教徒(ムスリム)はイスラームを唯一神信仰の完成形であるとみなした。
・イスラームの役割
都市で主流とはいえ、イスラームは遊牧民の価値観に由来し、砂漠でも宗教的義務を果たすことができる。限られた資源環境に生まれた宗教、かつ神が創造した人間の弱さを理解する信仰で、浪費、財産の誇示、奢侈品を否定する。神の前に全ての人間は慎ましくあらねばならない。神はこの地球で唯一卓越し、自ら制定した世俗法による支配者は異端(タティール)である。とはいえ、常に変化する社会を扱う個別の考え(イジュティハード)を通し、聖典コーランの創造的解釈を推奨する。
アラブ地域の不安定な社会環境で、質素倹約と共同を基本に、イスラームは人々の固有の必要性に対応した。社会のイスラーム的秩序は、部族(カウム)、同胞、ギルドの重要性、そして喜捨(ザカート)や公共財(ワクフ)による利益の重要性を強調する。部族への忠誠が政治への忠誠に優先する。個人の安全を保証するのは一族、すなわち家族や氏族である。とはいえ、宗教と現実問題の結合は、部族や民族を超えた信者共同体(ゥンマ)の統一概念を必要としたので、結果としてアラブ地域の統合をもたらし、さらにアラブ地域を越えてイスラームが拡張した。断食(ラマダーン)や大巡礼(ハッジ)などの年間行事、あるいは礼拝の際にメッカに向かうことはムスリムの結びつきを強化する。
信者共同体(ゥンマ)の認識は、平等主義の社会を創出する。貧困と裕福の差異はあるが、神の前にみな平等で、神の意志(イスラーム)に服従せねばならない。裕福さはバラバラに分解され、外へ向かって表現されるべきであるという、宗教が課した謙虚さが、洗練された扉のデザインにみられる。さらに、個人は集団のひとりで、欧米の民主主義の基本となる独立した個人の認識はない。それゆえ、個人の判断や価値観を伴った欧米の路線に沿った団体は発達しなかった。
居住の習慣、加えてモスク、学院(マドラサ)、病院(マリスタン)、商館(ハーン)など施設の共通性は、ムスリム共同体(ダール・イスラーム)の統合に対して、建築的に貢献した。異なる信仰や民族に対する大いなる寛容性があったので、本来明確であったそれぞれの共同体の街区は、対立を減らし、それぞれのアイデンティティーは薄まった。
預言者ムハンマドの時代のメッカは、古くから巡礼の地で、交易の拠点であった。とはいえ、ムハンマドは質素を好み、「建物は最も不用なもので、信者の富を使い果たす」と感じていた。この伝統に沿って、彼のメディナの家は、長い列柱と簡素な部屋の列がある大きな中庭があった。どんなに住まいが慎ましくても、プライバシーの尊重は最も重要である。禁じられた区画(ハリム)は、女性、子供たち、主人の場である。男性客は入ることはできず、玄関近くの応接室(マジリス)に迎えられる。男女の分離は中束ではかなり古く、イスラーム以前からの慣習であった。
アラブ地域の広がり
結論として、自然と人間の文脈から広範なアラブ地域を設定することが可能である。大西洋からインド洋にいたる7、600kmの長さと1、000kmの幅を持ち、北緯30度をまたぎ、海岸線の総延長は18、600kmに達する。