『万博の歴史』より ⇒ 開催一年前に、ボランティアに応募したが、事務局の体たらくを感じて、感じて、急遽、ボランティアリーダーに切り替えた。1年掛けて、ファシリテーションなどの教育を受けて、半年間、事務局とボランティアの間をとりまとめた。何のための万博かわからなかった。
公共土木との抱きあわせからはじまった愛知万博
ハノーバーから5年後、舞台は日本に移されます。愛知県の瀬戸を会場とした2005年愛知万博です。改止条約モラトリアム期間中の1997年に旧制度の特別博として承認されたものですが、新条約発効後に計画承認を受けたことで事実上の登録博となりました。日本では5回目、1990年大阪花博以来15年ぶりの国際博です。
愛知万博がそれまでの4回と大きくちがっていたのは、準備プロセスが右へ左へと迷走し、どんでん返しが繰り返されたことでしょう。むろん過去4回の万博も問題に直面するたびに方針変更が繰り返されたわけですが、基本の考えがゆらぐことはありませんでした。しかし愛知万博は、プロジェクトの推進原理がゆれ動いたという点で、これまでとはあきらかに質がちがっていました。
つまずきは抱きあわせの土地開発に対する批判からはじまります。
愛知万博は「海上の森」と呼ばれる里山を切りひらいて主会場をつくる計画だったのですが、背後に控えていたのは「新住宅市街地開発事業(新住事業)」という開発スキームでした。万博閉幕後に会場跡地を開発事業にスライドさせ、この制度を使って国から財政支援を受けることで瀬戸市東部を学術研究ゾーンにしようという構想です。万博を土地開発のトリガーに使おうとの戦略で、典型的な公共土木の発想が万博のモチベーションを支えていたわけです。
万博をテコに地域開発を行うこと自体は、過去の万博もみなやってきたことです。それ自体は驚く話ではまったくないのですが、このときは事情が少しちがっていました。「万博終了後の会場跡地をどう活用するか」という通常の〝土地利用〟ではなく、いっけん開発事業とは無関係を装う万博が、じつはその先鋒の役割を果たすというやや挨れた構図になっていたからです。
しかも当時掲げていたテーマは『beyond Development(開発を超えて)』。20世紀の万博を「時代遅れの開発型」と一刀両断にしたうえで、それを超える「はじめての21世紀型万博」にすると宣言していたのですから、言っていることとやっていることが逆じゃないが、といわれてもしかたかない状況でした。とうぜんながら、自然保護派を中心に地元各層からの批判が巻き起こります。
開催承認から2年後の1999年5月、事態はさらに悪化します。会場予定地の里山でオオタカの営巣が発見されたのです。
絶滅の恐れから「希少野生動植物」に指定されるオオタカの出現で、会場地をめぐる問題が混迷を深めていくなか、さらなる大事件が起こります。同年11月に事前協議に訪れたBIEの議長オーレ・フィリプソン、事務局長ヴィチェンテ・ロセルタレスが通産省幹部に対して強い調子で開発スキームを否定したのです。翌2000年1月、極秘会談の一部始終を中日新聞がスクープします。
BIE議長は万博後の新住事業の完成予想図を見てこう言いました。
「山を切り崩し、木を切り倒し、4~5階建ての団地を建てるこのような計画こそ、20世紀型の開発至上主義の産物にほかならないのではないか。それは、あなた方のいう博覧会テーマの理念とは対極にあるのではないか」「『愛知博は自然破壊につながる大規模な開発の隠れみのである』というのが、WWFをはじめとする世界的な環境団体の主張だ」「あなた方は地雷の上に乗っていることを自覚すべきだ。たとえ登録ができても2~3年後には爆発するぞ」「愛知博が中止になることは、BIEにとって問題ない。BIEの理念と交換できない」「不愉快だ」……。
新住事業との抱きあわせをここまで強い調子で批判し、撤回を迫ったのは、彼らがそれほどまでに追い込まれていたからでしょう。1999年11月といえば、翌年に開幕を控えた(ノーバー万博で、WWFら環境団体との対立がようやく収束を迎えようとしていたころです。やっとうまく回りぱじめたところなのに、こんなことで逆回転させてたまるか。そう考えたことは容易に想像がっきます。
中止にしてもいいんだぞ。この恫喝は決定的でした。政府の2000年4月に新住構想を撤回、9月には主会場を瀬戸市に隣接する長久手町の愛知青少年公園に計画変更します。あわせて入場者見込みを2500万人から一気に1500万人に引きさげました。
こうして1996年のBIE申請から4年にわたる準備作業のいっさいが吹き飛びます。とうぜんながら、それまでの舵取りに対する不信と不満が各方面から噴き出し、世間の見る目もいっそう厳しさを増していきました。
失敗することに失敗した万博
このあたりの事情をふくめ、愛知万博をどう見るかについての最上の評論があります。閉幕直前に五十嵐太郎が朝日新聞に寄せた論考で、そのままシャープな万博論になっています。
35年前の大阪万博では、前衛的な建築家やアーティストが参加していたが、それがほとんどない。広告代理店が幅をきかせ、崇高な理念よりも、大衆が望む適当なものを与えればよいという視聴率の世界と同化している。
大阪万博は、日本人が海外に出かけることが簡単ではなかった時代に、世界のほうが会場にやってくる、啓蒙的なイベントたった。しかし、誰でも空の旅ができるようになり、ネットで情報の海にダイブするような時代に、万博会場を巡礼すべき聖地とするのは難しい。
一方、オリンピックは、テレビを通したリアルタイムの観戦により、日本の代表選手の勝敗劇を分かち合い、今なお国家的な祝祭になっている。おそらく世界に中継されることも意識して、スタジアムのデザインも一定のクオリティを維持している。だが万博は半年という長さゆえに、決定的な瞬間を中継するイペントもなく、映像としての力ももたない。(略)
そもそも中沢新一氏が掲げたテーマ「自然の叡智」は、地球にやさしいとか、環境に癒しを求めるものではない。もっとダイナミックな人間と自然の相互関係を示唆していた。
万博は19世紀に始まり、近代技術と都市開発を推進したが、それらも一段落し、歴史的な意義を喪失した。20世紀半ばにはディズニーランドが登場し、スペクタクル空間のお株も奪われた。あえて21世紀に万博を繰り返すならば、里山という未曾有の敷地において、まったく違う姿を示すことにこそ、可能性があったように思う。万博を自己批判する万博でありえたかもしれない。
だが、その道を選択しなかった以上、愛知万博は徹底的に失敗すべきだったと思う。いや、万博の歴史に残るような惨敗を行なう絶好のチャンスだった。そうすれば、万博を終わらせるが、再開するとしても根本的に変革できるからだ。が、あらかじめ目標入場者数という成功の(ードルを下げたことにより、大成功と判定されるだろう。
結局、万博の意味を問いなおさず、中途半端に生き残る。愛知万博とは、失敗することに失敗し、変革の機会を逃した万博だったのではないか。
公共土木との抱きあわせからはじまった愛知万博
ハノーバーから5年後、舞台は日本に移されます。愛知県の瀬戸を会場とした2005年愛知万博です。改止条約モラトリアム期間中の1997年に旧制度の特別博として承認されたものですが、新条約発効後に計画承認を受けたことで事実上の登録博となりました。日本では5回目、1990年大阪花博以来15年ぶりの国際博です。
愛知万博がそれまでの4回と大きくちがっていたのは、準備プロセスが右へ左へと迷走し、どんでん返しが繰り返されたことでしょう。むろん過去4回の万博も問題に直面するたびに方針変更が繰り返されたわけですが、基本の考えがゆらぐことはありませんでした。しかし愛知万博は、プロジェクトの推進原理がゆれ動いたという点で、これまでとはあきらかに質がちがっていました。
つまずきは抱きあわせの土地開発に対する批判からはじまります。
愛知万博は「海上の森」と呼ばれる里山を切りひらいて主会場をつくる計画だったのですが、背後に控えていたのは「新住宅市街地開発事業(新住事業)」という開発スキームでした。万博閉幕後に会場跡地を開発事業にスライドさせ、この制度を使って国から財政支援を受けることで瀬戸市東部を学術研究ゾーンにしようという構想です。万博を土地開発のトリガーに使おうとの戦略で、典型的な公共土木の発想が万博のモチベーションを支えていたわけです。
万博をテコに地域開発を行うこと自体は、過去の万博もみなやってきたことです。それ自体は驚く話ではまったくないのですが、このときは事情が少しちがっていました。「万博終了後の会場跡地をどう活用するか」という通常の〝土地利用〟ではなく、いっけん開発事業とは無関係を装う万博が、じつはその先鋒の役割を果たすというやや挨れた構図になっていたからです。
しかも当時掲げていたテーマは『beyond Development(開発を超えて)』。20世紀の万博を「時代遅れの開発型」と一刀両断にしたうえで、それを超える「はじめての21世紀型万博」にすると宣言していたのですから、言っていることとやっていることが逆じゃないが、といわれてもしかたかない状況でした。とうぜんながら、自然保護派を中心に地元各層からの批判が巻き起こります。
開催承認から2年後の1999年5月、事態はさらに悪化します。会場予定地の里山でオオタカの営巣が発見されたのです。
絶滅の恐れから「希少野生動植物」に指定されるオオタカの出現で、会場地をめぐる問題が混迷を深めていくなか、さらなる大事件が起こります。同年11月に事前協議に訪れたBIEの議長オーレ・フィリプソン、事務局長ヴィチェンテ・ロセルタレスが通産省幹部に対して強い調子で開発スキームを否定したのです。翌2000年1月、極秘会談の一部始終を中日新聞がスクープします。
BIE議長は万博後の新住事業の完成予想図を見てこう言いました。
「山を切り崩し、木を切り倒し、4~5階建ての団地を建てるこのような計画こそ、20世紀型の開発至上主義の産物にほかならないのではないか。それは、あなた方のいう博覧会テーマの理念とは対極にあるのではないか」「『愛知博は自然破壊につながる大規模な開発の隠れみのである』というのが、WWFをはじめとする世界的な環境団体の主張だ」「あなた方は地雷の上に乗っていることを自覚すべきだ。たとえ登録ができても2~3年後には爆発するぞ」「愛知博が中止になることは、BIEにとって問題ない。BIEの理念と交換できない」「不愉快だ」……。
新住事業との抱きあわせをここまで強い調子で批判し、撤回を迫ったのは、彼らがそれほどまでに追い込まれていたからでしょう。1999年11月といえば、翌年に開幕を控えた(ノーバー万博で、WWFら環境団体との対立がようやく収束を迎えようとしていたころです。やっとうまく回りぱじめたところなのに、こんなことで逆回転させてたまるか。そう考えたことは容易に想像がっきます。
中止にしてもいいんだぞ。この恫喝は決定的でした。政府の2000年4月に新住構想を撤回、9月には主会場を瀬戸市に隣接する長久手町の愛知青少年公園に計画変更します。あわせて入場者見込みを2500万人から一気に1500万人に引きさげました。
こうして1996年のBIE申請から4年にわたる準備作業のいっさいが吹き飛びます。とうぜんながら、それまでの舵取りに対する不信と不満が各方面から噴き出し、世間の見る目もいっそう厳しさを増していきました。
失敗することに失敗した万博
このあたりの事情をふくめ、愛知万博をどう見るかについての最上の評論があります。閉幕直前に五十嵐太郎が朝日新聞に寄せた論考で、そのままシャープな万博論になっています。
35年前の大阪万博では、前衛的な建築家やアーティストが参加していたが、それがほとんどない。広告代理店が幅をきかせ、崇高な理念よりも、大衆が望む適当なものを与えればよいという視聴率の世界と同化している。
大阪万博は、日本人が海外に出かけることが簡単ではなかった時代に、世界のほうが会場にやってくる、啓蒙的なイベントたった。しかし、誰でも空の旅ができるようになり、ネットで情報の海にダイブするような時代に、万博会場を巡礼すべき聖地とするのは難しい。
一方、オリンピックは、テレビを通したリアルタイムの観戦により、日本の代表選手の勝敗劇を分かち合い、今なお国家的な祝祭になっている。おそらく世界に中継されることも意識して、スタジアムのデザインも一定のクオリティを維持している。だが万博は半年という長さゆえに、決定的な瞬間を中継するイペントもなく、映像としての力ももたない。(略)
そもそも中沢新一氏が掲げたテーマ「自然の叡智」は、地球にやさしいとか、環境に癒しを求めるものではない。もっとダイナミックな人間と自然の相互関係を示唆していた。
万博は19世紀に始まり、近代技術と都市開発を推進したが、それらも一段落し、歴史的な意義を喪失した。20世紀半ばにはディズニーランドが登場し、スペクタクル空間のお株も奪われた。あえて21世紀に万博を繰り返すならば、里山という未曾有の敷地において、まったく違う姿を示すことにこそ、可能性があったように思う。万博を自己批判する万博でありえたかもしれない。
だが、その道を選択しなかった以上、愛知万博は徹底的に失敗すべきだったと思う。いや、万博の歴史に残るような惨敗を行なう絶好のチャンスだった。そうすれば、万博を終わらせるが、再開するとしても根本的に変革できるからだ。が、あらかじめ目標入場者数という成功の(ードルを下げたことにより、大成功と判定されるだろう。
結局、万博の意味を問いなおさず、中途半端に生き残る。愛知万博とは、失敗することに失敗し、変革の機会を逃した万博だったのではないか。