『「他者」の倫理学』より フッサールにおける独我論の哲学 ⇒ なぜ、他者が存在しないという、当たり前のことにこれほど拘るのか。それよりも、その先に行かないといけない。「私の世界」と「他者の世界」とする。それが未唯空間第10章のテーマ。
フッサールは、一九三一年に『デカルト的省察』を発表し、その「第五省察」において、いわゆる「間主観性」論を展開することになる。すなわち、これまで彼が遂行してきた世界の超越論的主観性による自己意識への還元に対し、この省察では、純粋自我により構成された世界において、どうすれば他者の主観的世界が妥当視されることが可能になるかという、現象学における最大のアポリアに挑むことになるのである。
いうまでもなく間主観的世界が成立するためには、自己と同じ主観を共有する「他者」、いいかえれば唯一の超越論的主観である自我が認識しているのと同じ世界を認識する「他我」が存在していなければならない。しかしながら現象学においては、自己と同型の他者をあらかじめ前提することはできない。それゆえフッサールは、自己の意識に現れる他者を、自己と同じ主観をもつ存在として「構成」することによって、他我の存在を明証し理解しようとする。つまり、自己の主観は独我論的な主観ではなく、他の主観と相互的で共軌的な間主観性をもつものであり、自己は他者との共属世界においてのみ存立しうることを明らかにしようというのである。
すなわちそれは、これまでの超越論的還元が、世界から純粋自我へと還帰する自我論的還元であったのに対して、いわば純粋自我を出発点にして、あらゆる人々に共通に認識される世界の妥当性を構成する「形相的還元」の試みであるといわれるものである。
出発点は、『イデーンⅠ」とにおいて到達した世界の「第一次領域」である。それが、他者を含むあらゆる自然的な信憑をカッコに入れた超越論的主観性の世界であることはいうまでもないことであろう。そこには自我と、その意識によって構成され意味付与された事象世界しか存在しない。この自我によって構成された事象世界には、あらゆる物質や観念が含まれているが、ただひとつ他とは異なるものが存在する。フッサールはそれが「自己の身体」だというのである。
「身体」はたしかに構成された世界の一部であるが、他の世界の素材とは明らかに異なっている。フッサールによれば、そこには二つの異質性がある。第一に、「自己の身体」は、私のすべての感覚直観が帰属する唯一の素材であること。第二に、「自己の身体」は、私の意識の自由な志向性に応じて動かすことができる、つまり私の意思が直接自由に支配しうる唯一の素材であること、である。こうして「自己の身体」は世界のさまざまな他の構成物と区別され、それらに先行する。すなわち、「自己」と「自己の身体」の関係こそが、世界においてもっとも根源的で密接な関係として認知されることになるのである。
さて、この関係が直観されると、「自己」は、「自己以外の身体」について、それを私ではないものとして認識することになる。なぜなら、「他の身体」は、私の感覚的直観に帰属せず、私の意識の自由な志向性に応じた動きをすることがないからである。けれども、物体としての「他者の身体」は、それが私の身体に類似しているという事実から、具体的には頭部と胸腹部、性器や四肢などによって構成されているという事実から、「自己の身体」との「類比性」を直観することができる。すなわちそれは、私の身体と「対関係」にあるものとして理解されることになる。こうして「他者の身体」は、自己の身体とまったく同じ「身体」という意味を移入されるのである。フッサールは、その第五省察においてつぎのようにいう。
「私の第二次領域のうちに一つの物体が現れ、それが私の身体に類似している、すなわち私の身体と対関係を結ぶに違いないような外観をもつ物体として現れたばあい、その物体は、私の身体からの意味の移し入れによって、ただちに身体という意味を受け取るにちがいない。」(デカルト的省察二〇三頁)
いいかえれば、「他者の身体」に、「自己」から「自己の身体」への密接な志向関係と同様の意味を付与し、ここから、「自己投入」と呼ばれる「意味の移し入れ」によって、他の身体の動きに対応する「自己」の類似者としての「他者」を構成することになる。たとえば私は、自分が喜びや悲しみを感じたとき、その志向性に応じて自己の身体にどんな創造的作用が生じるかを知っている。一例をあげれば、私の感情の変化によって顔に紅頬や落涙が生じ全身に発汗が生じることがある。それゆえ私は、私ではない他の身体に、私と同じような紅頬や落涙あるいは発汗という作用が起こったとき、そこに私と同様の感情をもつ「類似者」すなわち「他者」の存在を構成することができるようになる。これをフッサールは、身体の「対」関係を介した自己の「根源的呈示」に対応する、他者の「想像的呈示」と名づけている。
こうした一連の過程をへて、初めて「他者」は、「自己」の「類比的統覚」として、私の意識のうちに間接的に呈示されることになるのである。
このように、人間は知覚直観によって物体としての認識を構成し妥当していくことができるが、「他者」の妥当にかぎっては、特殊な構成方法を採らざるをえない。フッサールはこれを空間的位置関係に喩えて、「自己の身体」がここにあり「他者の身体」がそこにあると仮定したばあい、フもし私がそこに身を置いたならば、他者の身体は、同様の現れ方をするであろうものである」という。すなわち「自己」と「自己の身体」の密接な根源的関係から「類比」して、「自己」ではないが「自己」と同様のものがそこに存在するはずだという確信が得られるというのである。
それゆえ「他者」は、自己の類似者として以外にありえない。他者は、必然的に私の客観化された最初の自我であり、これをフッサールは「私の第一次領域の指向的変種」と名づける。ここにおいて「他者」は、たんなる私の類推現象にとどまらず、「私という自我の変容態」すなわち「他我」という意味を付与されることになる。すなわち他我のモナドは、私のモナドを通じて間接的に提示され、構成されることになるのである。
「根源性(オリジナル)として現前し確認できるものは、固有なものとして私自身に属している。それに対して、原初的には充足されない仕方で経験されるもの、それが『異なるもの』としての『他者』なのである。それゆえ他者は、自分固有のものの類似物(アナルゴン)としてのみ考えることができる。……つまり他者は、現象学的には私という自己の『変容』として現れるのである。」(デカルト的省察二〇六頁)
それゆえ他者は、私と同等の存在でありながら、いいかえれば私でないもう一人の私として根源的に意識される存在でありながら、根源のままには与えられない存在でなければならない。他者は、「根源性」という言葉のなかに形容矛盾として含まれる、私ではない他の私つまり私の「類似物」という二重の性格をもってのみ現前することになる。
したがってフッサールのいう[間主観性]とは、けっして「自己」と「他者」のあいだにある共同的な主観性もしくは主観の相互作用を意味するものではなかった。それゆえまた、「自己」と「他者」がともに同一の世界の中に属しているという事実を保証するものでもなかった。なるほど「他者の主観性」は、それぞれの相関者としての他者の違いに応じて多様に現出するであろう。だが、それはあくまでも、私(自己)の主観性によって他者を認識する、ひとつの確信の妥当を意味しているにすぎない。それぞれの主観は各人の「構成」によってひとつのまとまった体系をもちうるが、それらの「間主観的世界」なるものは、どこまで遡っても、それぞれの私(自己)による超越論的主観性の世界への内属から脱却することはできなかったのである。
以上から明らかなように、フッサールの説く「他者」構成なるものは、自己の意識に現れる主観を他者も同じように共有するはずだという確信を述べているにすぎないことになろう。したがって、そこに構成された「他我」は、たんに自我が投影された自己の操り人形にすぎず、実際に原的に生きている他者になっているわけではない。フッサールのいう「他我」は、超越論的に構成された純粋意識の枠内に閉じ込められて、自我による意味付与から一歩も超出することはなく、いわば自我の暴力性に服従する幻想的な「他者」でしかなかったのである。フッサールはこれを認める。
「私は他我の身体によって他我を意識するのである。他我の身体は、他我自身には、絶対ここという現れ方において与えられている。しかし私は、私の第一次領域のうちにおいてそこという様態で現れるものと、他我の第二次領域のうちにおいて彼に対してここという様態で現れるものとが、同一の物体であるといったいどうして言えるのであろうか。」(デカルト的省察二一六頁)
すなわち現象学という独我論を前提とするかぎり、私の身体と、私の意識のなかに構成された他者の身体との間には「超えることのできない深淵」がある。それはけっして単一の世界を構成していない。
これこそが、フッサールの説く「問主観的世界」が、ひとつの客観的世界ではありえず、誰もが同じ世界を見ているはずだという、いわゆる「自己投入」された私だけの臆見的世界にとどまったゆえんであろう。こうして、「他者」の主観が「自己」の主観と基本的に同一の構造をもつという推測の範囲において、「自己」は「他者」を理解できるというのが、フッサールの「間主観性論」の結論であった。それはいわば、私(自己)が他者を理解したのではなく、理解したつもりになっているにすぎなかった。そこでは、自己と他者との共属的同一性は、ついに保証されることはなかったのである。
けっきょくフッサールは『デカルト的省察』において、自己とそれ以外の他者とが共通に営むという意昧での「問主観的世界」の構成に失敗したといわざるをえないのではなかろうか。
フッサールは、一九三一年に『デカルト的省察』を発表し、その「第五省察」において、いわゆる「間主観性」論を展開することになる。すなわち、これまで彼が遂行してきた世界の超越論的主観性による自己意識への還元に対し、この省察では、純粋自我により構成された世界において、どうすれば他者の主観的世界が妥当視されることが可能になるかという、現象学における最大のアポリアに挑むことになるのである。
いうまでもなく間主観的世界が成立するためには、自己と同じ主観を共有する「他者」、いいかえれば唯一の超越論的主観である自我が認識しているのと同じ世界を認識する「他我」が存在していなければならない。しかしながら現象学においては、自己と同型の他者をあらかじめ前提することはできない。それゆえフッサールは、自己の意識に現れる他者を、自己と同じ主観をもつ存在として「構成」することによって、他我の存在を明証し理解しようとする。つまり、自己の主観は独我論的な主観ではなく、他の主観と相互的で共軌的な間主観性をもつものであり、自己は他者との共属世界においてのみ存立しうることを明らかにしようというのである。
すなわちそれは、これまでの超越論的還元が、世界から純粋自我へと還帰する自我論的還元であったのに対して、いわば純粋自我を出発点にして、あらゆる人々に共通に認識される世界の妥当性を構成する「形相的還元」の試みであるといわれるものである。
出発点は、『イデーンⅠ」とにおいて到達した世界の「第一次領域」である。それが、他者を含むあらゆる自然的な信憑をカッコに入れた超越論的主観性の世界であることはいうまでもないことであろう。そこには自我と、その意識によって構成され意味付与された事象世界しか存在しない。この自我によって構成された事象世界には、あらゆる物質や観念が含まれているが、ただひとつ他とは異なるものが存在する。フッサールはそれが「自己の身体」だというのである。
「身体」はたしかに構成された世界の一部であるが、他の世界の素材とは明らかに異なっている。フッサールによれば、そこには二つの異質性がある。第一に、「自己の身体」は、私のすべての感覚直観が帰属する唯一の素材であること。第二に、「自己の身体」は、私の意識の自由な志向性に応じて動かすことができる、つまり私の意思が直接自由に支配しうる唯一の素材であること、である。こうして「自己の身体」は世界のさまざまな他の構成物と区別され、それらに先行する。すなわち、「自己」と「自己の身体」の関係こそが、世界においてもっとも根源的で密接な関係として認知されることになるのである。
さて、この関係が直観されると、「自己」は、「自己以外の身体」について、それを私ではないものとして認識することになる。なぜなら、「他の身体」は、私の感覚的直観に帰属せず、私の意識の自由な志向性に応じた動きをすることがないからである。けれども、物体としての「他者の身体」は、それが私の身体に類似しているという事実から、具体的には頭部と胸腹部、性器や四肢などによって構成されているという事実から、「自己の身体」との「類比性」を直観することができる。すなわちそれは、私の身体と「対関係」にあるものとして理解されることになる。こうして「他者の身体」は、自己の身体とまったく同じ「身体」という意味を移入されるのである。フッサールは、その第五省察においてつぎのようにいう。
「私の第二次領域のうちに一つの物体が現れ、それが私の身体に類似している、すなわち私の身体と対関係を結ぶに違いないような外観をもつ物体として現れたばあい、その物体は、私の身体からの意味の移し入れによって、ただちに身体という意味を受け取るにちがいない。」(デカルト的省察二〇三頁)
いいかえれば、「他者の身体」に、「自己」から「自己の身体」への密接な志向関係と同様の意味を付与し、ここから、「自己投入」と呼ばれる「意味の移し入れ」によって、他の身体の動きに対応する「自己」の類似者としての「他者」を構成することになる。たとえば私は、自分が喜びや悲しみを感じたとき、その志向性に応じて自己の身体にどんな創造的作用が生じるかを知っている。一例をあげれば、私の感情の変化によって顔に紅頬や落涙が生じ全身に発汗が生じることがある。それゆえ私は、私ではない他の身体に、私と同じような紅頬や落涙あるいは発汗という作用が起こったとき、そこに私と同様の感情をもつ「類似者」すなわち「他者」の存在を構成することができるようになる。これをフッサールは、身体の「対」関係を介した自己の「根源的呈示」に対応する、他者の「想像的呈示」と名づけている。
こうした一連の過程をへて、初めて「他者」は、「自己」の「類比的統覚」として、私の意識のうちに間接的に呈示されることになるのである。
このように、人間は知覚直観によって物体としての認識を構成し妥当していくことができるが、「他者」の妥当にかぎっては、特殊な構成方法を採らざるをえない。フッサールはこれを空間的位置関係に喩えて、「自己の身体」がここにあり「他者の身体」がそこにあると仮定したばあい、フもし私がそこに身を置いたならば、他者の身体は、同様の現れ方をするであろうものである」という。すなわち「自己」と「自己の身体」の密接な根源的関係から「類比」して、「自己」ではないが「自己」と同様のものがそこに存在するはずだという確信が得られるというのである。
それゆえ「他者」は、自己の類似者として以外にありえない。他者は、必然的に私の客観化された最初の自我であり、これをフッサールは「私の第一次領域の指向的変種」と名づける。ここにおいて「他者」は、たんなる私の類推現象にとどまらず、「私という自我の変容態」すなわち「他我」という意味を付与されることになる。すなわち他我のモナドは、私のモナドを通じて間接的に提示され、構成されることになるのである。
「根源性(オリジナル)として現前し確認できるものは、固有なものとして私自身に属している。それに対して、原初的には充足されない仕方で経験されるもの、それが『異なるもの』としての『他者』なのである。それゆえ他者は、自分固有のものの類似物(アナルゴン)としてのみ考えることができる。……つまり他者は、現象学的には私という自己の『変容』として現れるのである。」(デカルト的省察二〇六頁)
それゆえ他者は、私と同等の存在でありながら、いいかえれば私でないもう一人の私として根源的に意識される存在でありながら、根源のままには与えられない存在でなければならない。他者は、「根源性」という言葉のなかに形容矛盾として含まれる、私ではない他の私つまり私の「類似物」という二重の性格をもってのみ現前することになる。
したがってフッサールのいう[間主観性]とは、けっして「自己」と「他者」のあいだにある共同的な主観性もしくは主観の相互作用を意味するものではなかった。それゆえまた、「自己」と「他者」がともに同一の世界の中に属しているという事実を保証するものでもなかった。なるほど「他者の主観性」は、それぞれの相関者としての他者の違いに応じて多様に現出するであろう。だが、それはあくまでも、私(自己)の主観性によって他者を認識する、ひとつの確信の妥当を意味しているにすぎない。それぞれの主観は各人の「構成」によってひとつのまとまった体系をもちうるが、それらの「間主観的世界」なるものは、どこまで遡っても、それぞれの私(自己)による超越論的主観性の世界への内属から脱却することはできなかったのである。
以上から明らかなように、フッサールの説く「他者」構成なるものは、自己の意識に現れる主観を他者も同じように共有するはずだという確信を述べているにすぎないことになろう。したがって、そこに構成された「他我」は、たんに自我が投影された自己の操り人形にすぎず、実際に原的に生きている他者になっているわけではない。フッサールのいう「他我」は、超越論的に構成された純粋意識の枠内に閉じ込められて、自我による意味付与から一歩も超出することはなく、いわば自我の暴力性に服従する幻想的な「他者」でしかなかったのである。フッサールはこれを認める。
「私は他我の身体によって他我を意識するのである。他我の身体は、他我自身には、絶対ここという現れ方において与えられている。しかし私は、私の第一次領域のうちにおいてそこという様態で現れるものと、他我の第二次領域のうちにおいて彼に対してここという様態で現れるものとが、同一の物体であるといったいどうして言えるのであろうか。」(デカルト的省察二一六頁)
すなわち現象学という独我論を前提とするかぎり、私の身体と、私の意識のなかに構成された他者の身体との間には「超えることのできない深淵」がある。それはけっして単一の世界を構成していない。
これこそが、フッサールの説く「問主観的世界」が、ひとつの客観的世界ではありえず、誰もが同じ世界を見ているはずだという、いわゆる「自己投入」された私だけの臆見的世界にとどまったゆえんであろう。こうして、「他者」の主観が「自己」の主観と基本的に同一の構造をもつという推測の範囲において、「自己」は「他者」を理解できるというのが、フッサールの「間主観性論」の結論であった。それはいわば、私(自己)が他者を理解したのではなく、理解したつもりになっているにすぎなかった。そこでは、自己と他者との共属的同一性は、ついに保証されることはなかったのである。
けっきょくフッサールは『デカルト的省察』において、自己とそれ以外の他者とが共通に営むという意昧での「問主観的世界」の構成に失敗したといわざるをえないのではなかろうか。
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