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未唯への手紙

未唯への手紙

『正法眼蔵』全宇宙が仏性である

2016年11月22日 | 2.数学
NHKテキスト『正法眼蔵』より ⇒ 仏教は哲学なのか。存在と時間を扱っているけど、仏教界の内で論議しているのか。そして、その哲学は進化してきているのか。ヘーゲルの歴史哲学では無いけど、社会が変われば、哲学も変わらないといけない。

「有時」の巻に見る道元の時間論

 「時節因縁」は、道元が時間というものをどう捉えているかという議論につながっていきます。「仏性」の巻において道元は、「悉有」をすべての存在、全世界だと捉えました。

 この「有」ということについてさらに考察を進めているのが、「有時」(〝有時〟には〝ゆうじ〟〝うじ〟の二通りの読みがありますが、わたしは〝うじ〟と読んでいます)の巻です。ここで道元は、『存在と時間』で知られるドイツの哲学者ハイデガーをも超える哲学的な時間論を展開しています。十三世紀の日本語でここまで考えていたとは、本当に驚くべきことです。この巻は内容的に「仏性」の巻を補完するものでもありますので、ここで紹介しておくことにしましょう。

 〝有時〟は、訓読すれば〝あるとき〟です。そして、その〝あるとき〟には二つの表記があります。

  A 或る時

  B 有る時

 わたしたちはたいてい、Aの表記にしたがって「あるとき」を考えています。「或る時、わたしは大病をしました」「或る時、わたしは会社の社長でした」「或る時、わたしは貧乏でした」……と。しかし、この「或る時」は過去の話です。すなわち、すでに過ぎ去った出来事として時間(或る時)を考えているのです。

 だが、時間というものは、そういうものではないぞ!というのが道元の主張です。

 そういう「或る時」に対して、道元は「有る時」を言います。いま現在、そこに有る(存在する)時間です。

  いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。

 〝有る時〟というのは、「時(現在)」が「有(存在)」であり、「有(存在)」が「時(現在)」である。

 道元は、時間というものは「現在」という意昧なのだと言っているのです。わたしたちはたいてい、時間というものは、「過去→現在→未来」へと流れていくものだと考えています。しかし道元は、そうではない、「現在・現在・現在……」なのだと言っているのです。この考え方では、「現在1」には「自己1」が、「現在2」には「自己2」が、「現在3」には「自己3」が対応します。過去について思い悩むのは、たとえば、「自己1」を「現在2」と対応させようとするようなもので、それは仏法を知らない凡夫の考え方だ、ということです。これはまさに時節因縁です。そのときそのときのあり方ということです。あるいは、「法位によりて」の法位ということです。つまり、ことごとくすべての存在が、「いま現在」なのです。

 病気のときには病気という現在がある。苦しみのときには苦しみという現在がある。苫しみから逃れようとするのは、これを過去のものにしたいと思うことです。そうではなく、苦しみも仏性なのだから、その仏性をしっかり生きよ。道元はここでもそう言っているのです。

生も仏性、死も仏性

 すべての存在が「いま現在」であり「仏性」であると道元は言いました。では彼は、仏性と死の関係についてはどう考えていたのでしょうか。

 道元は言います。「仏性は生きているあいだだけあって、死ねばなくなると思うのは、まったく認識不足である」。生きているという状態も仏性であり、死んでいるという状態も仏性です。「生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり」。そしてこう述べます。

  仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性なるべきと邪執せるは、外道なり。

 要するに、人間が認識できるか否かによって仏性が仏性であったりなかったりするといった考えに固執するのは、外道のすることだ、というのです。認識主体がいる・いないにかかわらず、あるいは認識主体が人間である・なしにかかわらず、仏性は仏性であり続けるのです。

 「悉有仏性」の解釈のとおり、道元によれば、悉有(全宇宙)が仏性なのです。仏性イコール大宇宙。だとすれば、わたしたちは仏性のなかで生まれ、老い、死んでいくのです。ですから、生も仏性、死も仏性です。仏性とはそういうものなのです。

 わたしは、いま高齢者の方々がさかんに行っている「終活」について、そんなものはおやめなさいという本を書きました。仏教の立場からいえば、あなたはまだ生きているのだから、そんなことを考える必要はないのです。生きているときはしっかり生きて、死ぬときにしっかり死ねばいいのです。それが、道元の言う「有時」ということです。わたしたちには、いまここしかないのです。過去でも未来でもなく、その瞬間、瞬間に存在しているわけです。それを、わたしたちはつい、映画のフィルムを回したときのように連続して動いているものとして見てしまう。そうではなく、フィルムのひとコマ、ひとコマを見ればよいのです。

 これは、道元だけでなく釈迦も言っていることです。「過去を追うな、未来を求めるな。過去はすでに過ぎ去ったのだ。未来はまだやって来ない。あなた方は、いま為すべきことをしっかりとせよ」({マッジマーニカーヤ』一三二)。道元はいわばそこに帰っているわけです。

 わたしは講演でこの言葉を紹介し、「もっと分かりやすく言えば、反省するな、希望を持つな、ということです」と言っています。よくプロ野球の選手がエラーをしたあとに反省すると言うけれど、エラーしたのと同じゴロは二度と転がってきません。いくら反省したって次は必ず違う球がくるのだから、反省なんかしなくていいのです。同じように、希望も「こうあってほしい」という欲望の一形態ですから、よけいなことでもあるわけです。そんなばかなことは考えるな。まさに「莫妄想」です。やはり、いまを生きることが大切なのです。

『正法眼蔵』迷いと悟りは一体である

2016年11月22日 | 2.数学
NHKテキスト『正法眼蔵』より ⇒ 仏の世界に投げ入れろと言われているけど、元々は、この世界に放り込まれた身としては、原因と結果が間違っているような気がする。溶け込めと言われている、角砂糖はなぜ、創られたのか野説明が内。

自分を仏の世界に投げ入れる

 さて、冒頭の二つの言葉に戻れば、要するに、生死というものをあるがままに見ることができれば、生死そのものが消滅するということです。なぜなら、わたしたちが生きているあいだは死なないし、死んでしまえば生はないからです。道元が言うように、「生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし」なのです。

 逆に、生死の中にあって、それを超越しよう、克服しようなどと思わなければ、わたしたちは迷わずにすみます。わたしたちが迷うのは、生死を超越したいと思うからです。

 だとすると、次のような結論が導き出されます。

  ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こゝろをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。

 わたしたちはいっさいの妄想--妄想というのは、生死にこだわり、生死を超越しようなどと考える心の働きです--をやめて、すべてを仏にまかせて、仏の心のままに生きるようにすればよい。そうすれば、わたしたちは凡夫ではなくなり、仏になりきっている。道元はそう言います。

 「わが身をも心をもはなちわすれて」とは、まさに前回のテーマであった「身心脱落」と同じことです。「仏のいへになげいれて」とは、仏に「なりきる」ということ。道元が直接「なりきれ」と言っているわけではないのですが、この〝なりきる〟は道元を理解するうえでのもう一つのキイ・ワードだとわたしは考えています。たとえば幾何の問題を解くとき、図形にはない補助線を加えると、うまく問題が解けることがありますね。それと同じように、道元の言葉にはない一つの言葉を補ってみると、道元が何を言いたいのかよく分かる。その補助線が「なりきる」だとわたしは思っています。

 道元は、生死を超越しようなどと思わず、仏になりきってしまえばいいと言っています。前回の蜘蛛の糸の譬えで言えば、下からのぼってくる人のことなど気にせず、蜘蛛の糸になりきってしまえばいいということです。そしてこの「なりきる」も、仏の世界に溶け込んでいくということで、身心脱落と同じ意味です。

仏教の根本義そのものになれ

 道元はこの「なりきる」ことの重要性を、「祖師西来意」の巻でも説いています。おもしろい内容ですので、見てみることにしましょう。この巻は、いわゆる禅の試験問題である公案を評釈した巻の一つで、次のような公案を取り上げています。

 一人の男が樹の上で、口で枝をくわえ、手も足も枝から離れて宙ぶらりんになっている。そこに人がやってきて、樹の下から、

  「いかなるか、これ、祖師の西来の意」

 と質問しました。祖師というのは、インドから中国に禅を伝えた達磨大師のことで、彼は何のためにインドから来たのか、と尋ねたのです。

 これは「仏教の根本義は何か」といった問いだと思ってください。樹の枝に口でぶら下がっている男は、この質問に答えて口を開くと樹から落ちて死んでしまいます。かといって答えなければ、彼は仏教の修行者でなくなります。さあ、どうするか……?

 この公案を評釈して、道元は次のようなことを述べるのです。一人の男が樹にのぼっているとき、その男は樹そのものになりきればよい。そうすると、樹が樹をのぼるのであり、逆に樹そのものが男になりきるなら、男が男をのぼっている。そういう理屈になります。

 そして、樹の下から問いかける人がいます。樹の上で答える人がいます。ですが、問者が答者になりきり、答者が問者になりきれば、そこには通常の意昧でいう問いも答えもないのです。問う必要もなければ、答える必要もありません。

 同様に、人が「西来意(仏教の根本義)」そのものになりきれば、「西来意」をわざわざ勉強する必要はないのです。「西来意」が「西来意」を問い、「西来意」が「西来意」を答えます。そうすると、そこには言葉が不要です。

 分かりやすく解説するなら、道元は、「おまえさん、あれこれ考えるな。そのものになりきってしまえばいいではないか」と言っているわけです。たとえば、わたしたちが病気をしたら、病気になりきればいい。何とかしてこの病気を軽くしようとするから苦しみが増すのです。苦しみのときは苦しみになりきればいい。暑いときには暑さそのものになりきればいいし、寒いときには寒さそのものになりきればいいのです。寒さそのものになりきるなんておかしいという人もいるかもしれませんが、スキーに行くことを考えてみてください。スキーをするときは、寒ければ寒いほど楽しいでしょう。同じように、海水浴は暑ければ暑いほど楽しい。なんとか涼しくしようなどと思わず、暑さを暑さとして楽しむ。それが「なりきる」ということです。

『正法眼蔵』「身心脱落」とは何か?

2016年11月22日 | 2.数学
NHKテキスト『正法眼蔵』より 就業は覚醒のためだと思う。皆のために覚醒する。今こそ、必要な時です。宗教から社会改革ができるのか。

道元の悟り

 では、道元はどのようにして悟りに達したのでしょうか。

 長年の疑問への答えを急ぐ前に、彼の伝記である『三祖行業記』や『建擬記』に記された大悟の場面を紹介したいと思います。ここに、道元思想のキイ・ワードが登場します。

 天童山にいた道元は、ある朝、大勢の僧とともに坐禅をしていました。そのとき、一人の雲水が居眠りをしてしまいます。如浄禅師は彼を叱ってこう言いました。

  「参禅はすべからく身心脱落なるべし。只管に打睡して低廉を為すに堪えんや」

 参禅することは「身心脱落」のためである。それなのに、おまえはひたすら居眠りばかりしておる。そんなことで参禅の目的が果たせるというのか。そんな意味の叱声です。そして如浄は彼に警策を与えました。

 そのとき、道元はパッとひらめきます。自分に向かって言われたのではない言葉、他の雲水を叱るために如浄禅師が発した言葉が触媒になり、諮然大悟したのです。

 それは、〝身心脱落〟という言葉でした。道元はただちに如浄のもとに行き、「身心脱落しました」と報告しました。如浄は弟子の道元の悟りを認めました。

 しかし、道元はいささか不安だったのでしょう。「これは暫時の技倆(ちょっとしたテクニック)です。和尚よ、みだりにわたしを印可(肯定)しないでください」と言います。

  「わしは、みだりにおまえを印可したりはせんよ」

  「では、そのみだりに印可しないところは、何なのですか」

  「脱落、脱落」

 如浄はそのように「脱落」という言葉を繰り返しました。それによって道元の大悟を肯定したのです。

 じつはわたしは、このとき道元は、如浄が発した〝身心脱落〟という言葉を、師の意図とは違う意味で受け取った可能性が大きいと見ています。如浄は、身心脱落を「邪念をなくすこと」の意味で用いていました。如浄は居眠りする雲水を、「坐禅とは邪念をなくすことなのに、おまえは坐禅しながら五つの煩悩(五蓋)の一つである睡眠蓋にとらわれている。ナンタルコトゾー」と叱ったわけです。

 ところが道元は、その言葉を聞いた瞬間、文字どおりに身心脱落してしまった。ちっぽけな自我に対する執着がなくなり、一種の「没我」あるいは「無我」の境地に到達したのです。

 聞き間違いで悟りに達するなんて、と思うかもしれませんが、世の中とは案外そういうものではないでしょうか。わたしの場合、教え子が、「先生のあのときの言葉が役に立ちました」などと言ってくれることがあります。でもたいてい、それは話の本筋ではないのです。わたしの脱線話から自分なりに意味をふくらませて受け取っている。ですから、道元が聞き間違いで悟りに達したと言ってもちっとも不思議ではありません。その証拠に、如浄は弟子が悟りに至ったことをはっきりと見分け、お墨付きを与えています。

仏だからこそ修行ができる

 ともかく道元は、「身心脱落」という言葉によって悟りの境地に達しました。したがって、道元禅の本質は、この「身心脱落」にあります。これさえ理解できれば、道元の思想が理解できるといっても過言ではないでしょう。

 では、「身心脱落」とは、どういうことでしょうか。

 これは、文字どおりの意味でいえば、身も心もすべて脱落させるということ。その意味するところは、「あらゆる自我意識を捨ててしまうこと」だと考えればよいでしょう。

 わたしたちはみな、自我を持って生活しています。そして、その自我のぶつかり合いでお互いを傷つけ合っているのです。「あなたにあんなことを言われてわたしはつらかった」と自我が傷ついたことに落胆したり、「いや、自分は悪くない、あいつが悪いのだ」と開き直って自我を修復したりする。自我のあること自体はよくも悪くもないのですが、問題はそれが他人との対抗意識や競争意識につながることです。

 それならば、そんな自我は全部捨ててしまえ! というのが「身心脱落」です。

 わたしは、自我というものを角砂糖に譬えます。わたしと他人の接触は、角砂糖どうしのぶつかり合いです。それで角砂糖が傷つき、ボロボロに崩れます。それでも修復をはかり、自我を保っています。

 道元の身心脱落は、そんな修復なんかせず、角砂糖を湯の中に放り込めばいいじゃないか、というアドヴァイスです。わたしたちは、いつも角ばった砂糖の状態を保とうとしている。でも、それを湯の中に入れてごらん、というわけです。

 湯の中というのは、悟りの世界です。真理の世界、宇宙そのもの、と言ってもよいでしょう。わたしという全存在を、悟りの世界に投げ込んでしまう。それが「身心脱落」です。

 でも、身心脱落は自己の消滅ではありません。角砂糖が湯の中に溶け込んだとき、角砂糖は消滅したわけではないのです。ただ角砂糖という状態でなくなっただけで、全量は変わっていません。角砂糖は少しもなくなってはいない。そこに溶けているのです。

 それと同じように、自分を悟りの世界に放り込み、そこに溶け込めばよい。そうすれば自我というものが脱落した状態になる。道元はそんなふうに気がついたのだと思います。

 とすると、一般に言われる〝悟りに達した〟〝悟りを得た〟といった表現はちょっと違うかもしれませんね。人は、普通、「悟り」というものがあって、禅はその悟りを捉えるものだと思っていますが、それは違います。道元は身心脱落して、「悟りの状態・境地」「悟りの世界」に溶け込んだのです。

 そしてここに、若き日に道元が抱いた疑問に対する解答があります。

 わたしたちは、仏教の修行者は悟りを求めて修行をすると思っています。若き日の道元もそう考え、わたしたちには仏性があるのに、なぜ悟りを求めてわざわざ修行しないといけないのか、と疑問に思ったのです。

 ですが、道元が達した結論から言えば、それは逆なのです。「悟り」は求めて得られるものではなく、「悟り」を求めている自己のほうを消滅させるのです。身心脱落させるのです。そして、悟りの世界に溶け込む。それがほかならぬ「悟り」です。道元は、如浄の下でその境地に達したのです。

 「悟り」の中にいる人間を仏とすれば、仏になるための修行ではなく、仏だからこそ修行できる。それが道元の結論です。

未唯宇宙詳細 10.5~10.8

2016年11月21日 | 1.私
10.5 歴史の進化

 意思の力

  宗教

   ①クルアーン
   ②来世の思想
   ③南無阿弥陀仏
   ④世界を創り出す

  カリスマ

   ①ヒトラー全体主義
   ②スターリン祖国戦争
   ③毛沢東文化大革命
   ④アレキサンダー大王

  革命家

   ①チェ南米革命
   ②ルソー宗教改革
   ③ソクラテス対話
   ④デカルト二元主義

  意思の表れ

   ①宗教は心に訴求
   ②カリスマに従属
   ③革命家は殺される
   ④コペルニクス的転回

 進化の条件

  民主主義の限界

   ①国民国家の自由
   ②リーダーシップ
   ③不合理な選挙制度
   ④資本主義の格差

  トポロジー先行

   ①ユークリッド空間
   ②デカルト平面
   ③トポロジー
   ④自由で平等な空間

  ツールの進化

   ①戦争と科学技術
   ②インターネット
   ③イノベーション
   ④生活を変える

  武装化

   ①ヒッタイトの鉄
   ②種子島の鉄砲
   ③クラウゼビッツ戦略
   ④ジョブスITツール

 存在の力

  <今>の意味

   ①存在と時間
   ②生きている意味
   ③意思の力の脆弱さ
   ④未来から<今>を問う

  共有意識

   ①知恵をつなぐ
   ②存在による多様性
   ③外なる世界へ展開
   ④市民参画条件

  配置から循環

   ①教育・仕事・家庭
   ②持続可能な社会
   ③就職は配置と役割
   ④サファイア循環

  時間の加速化

   ①0年が1年に圧縮
   ②クライシスで加速
   ③多様化と拡大
   ④拡散から凝集

 変節点

  宇宙の歴史

   ①137億年の区切り
   ②多重宇宙
   ③<今>という時間
   ④存在する理由

  人類を試す

   ①大いなる意思
   ②環境社会は課題
   ③存在の力で覚醒
   ④私は預言者

  歴史の到達点

   ①2050年に折り返し
   ②さあ!始まる
   ③超国家から指令
   ④個人の多様性

  多重宇宙

   ①見えない物質
   ②膨張スピード
   ③収縮する宇宙
   ④繰り返す宇宙

10.6 個人=超国家

 存在=無

  存在の確かさ

   ①今・ここに生きる
   ②世界は私の世界
   ③放り込まれた存在
   ④自由でいられる

  無は全て

   ①全てを求める
   ②存在と無の共存
   ③存在する意識
   ④無に帰する

  宇宙の配置

   ①宇宙から見ると無
   ②内なる世界に配置
   ③内に宇宙全体
   ④無限大は点に収束

  無限次元の拡がり

   ①地球原理
   ②多重宇宙の存在
   ③内なる世界の次元
   ④無限次元空間

 集合は点

  要望と企画

   ①三段ループ接続
   ②ローカル願望
   ③グローバル企画
   ④直結が最終形

  集合は点、点は集合

   ①複雑性の解釈
   ②コンパクト空間
   ③次元の圧縮・拡張
   ④トポロジーの次

  全体と個をつながる

   ①端と中核をつなぐ
   ②トーラス形状
   ③個と全体が共存
   ④全体の理解

  中間が連結

   ①国家は中間の集まり
   ②全体を考える超国家
   ③ギリシャが先頭
   ④独仏は最後尾

 個人と超国家

  国家と民族

   ①国民国家での自由
   ②宗教と国家
   ③民族と国家
   ④多国籍企業

  中間の役割

   ①全体の系の安定
   ②個人をまとめる
   ③ステップ理論
   ④国家を超える

  中間と超国家

   ①欧州2020戦略
   ②EU内の循環
   ③組織を取込む
   ④ルールは決定

  中間と個人

   ①生きている理由
   ②行動する場を提供
   ③思いを発信
   ④地域の循環

 個人=超国家

  社会の様相

   ①組織の分化
   ②チームで活動
   ③エンパワメント
   ④タテの循環

  緊張感の継続

   ①コミュニティ連携
   ②持続可能な学習
   ③意見の吸い上げ
   ④アゴラで哲学

  環境社会

   ①要望の順位決め
   ②六次産業化
   ③政治形態立案
   ④イノベーション

  特異点

   ①環境哲学
   ②内なる世界を表現
   ③端と中核の接続
   ④宗教の伝播力

10.7 全てを知る

 未唯空間

  存在と無

   ①数学では可能
   ②私の出発点
   ③未唯への思い
   ④知りえたこと

  全ての情報

   ①本からDNA抽出
   ②仕事は自分のため
   ③パートナーだけ
   ④家庭生活を投影

  まとめる

   ①分化を表す
   ②物理層と論理層
   ③言葉で配置を表現
   ④カテゴリー定義

  内なる世界

   ①私のすべて
   ②配置の多重化
   ③私の世界を完結
   ④女性が外と接点

 未唯宇宙

  配置表現

   ①非正規の言葉空間
   ②サファイア理論
   ③次の世界を示唆
   ④哲学の根底を変える

  共有意識

   ①共有する世界
   ②多くの人が生きる
   ③中間の存在の役割
   ④新しい民主主義

  全体理解

   ①多重宇宙の偶然性
   ②時空間のコード化
   ③近傍でカバーリング
   ④全てを知る意味

  社会の位相化

   ①歴史の進化パターン
   ②社会を位相表現
   ③位相の伝播シナリオ
   ④環境社会を定義

 全てとは

  歴史の認識

   ①生まれてきた
   ②ヘーゲルの歴史哲学
   ③2050年の変節点
   ④人工知能の出現

  私が存在

   ①放り込まれた存在
   ②知らずに去れない
   ③世界の危機に遭遇
   ④立ち位置を確認

  求められるもの

   ①大いなる意思
   ②哲学の方向
   ③自由と病の方程式
   ④歴史の先行き

  存在の力

   ①存在の理由
   ②先を知りたい
   ③存在の力に至る
   ④自分を知る

 先に進む

  存在を確認

   ①私がいない世界
   ②存在を認め合う
   ③自分の他者
   ④何に求める

  問いて下さい

   ①私から言わない
   ②内なる世界に閉じる
   ③思考のきっかけ
   ④問われれば応える

  山を下りる

   ①変革が始まる
   ②超人の生き方
   ③哲学した結果
   ④話を聞くため

  次の頂き

   ①次が見える
   ②新しい頂
   ③内なる世界に取込む
   ④宇宙の旅人

10.8 私は私の世界

 私の世界

  数学・歴史・哲学

   ①変革の時代
   ②座標系から近傍系
   ③国民国家から市民
   ④意志から存在の力

  用意された偶然

   ①欲しい時に出現
   ②蜘蛛の糸を上る
   ③偶然は必然
   ④未来のシナリオ

  先を知る

   ①<今>を考え抜く
   ②アナロジー考察
   ③行動しない
   ④未来学者の預言

  絶対的存在

   ①生きる希望
   ②考えるエネルギー
   ③内なる世界に存在
   ④女性が接点

 宇宙の旅人

  多重宇宙

   ①今、ここにいる
   ②μが生まれた
   ③2兆年後の再会
   ④無限次元世界

  内なる世界

   ①内に取込む
   ②他者の世界
   ③生きるは考える
   ④押し出すだけ

  未唯宇宙

   ①全ての時空間を対象
   ②近傍を宇宙に拡大
   ③宇宙は内にある
   ④知識と意識の根源

  未来方程式

   ①トポロジーの世界
   ②歴史の折り返し
   ③他者の世界に結論
   ④私は関与できない

 存在の無

  孤立と孤独

   ①自分しかいない
   ②孤立を武器に
   ③考えることで生きる
   ④独我論を超える

  存在と無の先

   ①認識していない
   ②死は「ざまあみろ」
   ③存在の力で幸せ
   ④地球原理の意味

  真理はどこに

   ①数学にある
   ②社会で不変なもの
   ③未唯宇宙の解
   ④生まれて、死ぬ

  私は存在する

   ①考えるから存在
   ②宇宙は全ては無
   ③他者は存在しない
   ④私がいる宇宙

 どうでもいい

  大いなる意思

   ①放り込まれた
   ②宇宙の延命
   ③覚醒を促す
   ④偶然を用意

  存在と時間

   ①時間の地平
   ②他者の存在
   ③私というもの
   ④<今>だけ存在

  生まれきて

   ①自分しかいない
   ②自己否定はしない
   ③私の世界の全て
   ④よかったのかな

  自己肯定

   ①死の果ての宇宙
   ②<今>はなくなる
   ③無為に生きる
   ④どうでもいい

個人と超国家が直結するミライ

2016年11月21日 | 4.歴史
NHKテキスト「正法眼蔵」

 「正法眼蔵」は、仏の世界に入って行けというけど、この世界に放り込まれたところが抜けていく。

 人間の存在の譬えとして、角砂糖を挙げた。なぜ、角砂糖が出てきたのか? その疑問なしに、溶かされることだけを述べている。仏教というのはわかった気にさせるだけの精神安定剤なのか。

 ここからもう一回、武器を見直しましょう。法華教でないのは確かです。

産直の駐車場

 産直は休みなのに、車が一杯止まっています。かなりの部分が農協の連中のものです。そう考えると、駐車したままにしておくことに罪悪感はないし、封鎖されることもない。内部の規律は緩そうです。

未唯空間第10章を早く、終えたい

 第10章まで行くのを、心理的に拒んで居るみたいです。もう一つはパソコン業務の困難さです。それを理由に寝転がって、乃木坂をチェックしている。

 それにしても、目が悪くなっている。歩いていても歩きにくい。

10.6.3「個人と超国家」

 10.6.3「個人と超国家」でかなり迷っています。同居するために、中間の存在が必要なのはわかるけど、どうアナロジー展開をすればいいのか。部品表で型式と部品をつなげる時に、部位の存在と同じように考えます。

 部位で上位の仕様と下位の構成の変化を吸収しています。

 国家とそれを超えるもの、民族、宗教、そして企業。これらをどう配置するか、それと個人との関係。個人との関係はその下に書きます。その上で個人と超国家の関係を考えていく。中間存在があり、そこに知識と意識を持って、中間のものが上と下を仕切るカタチになる。

 中間は腰の部分になり、中間と超国家は仕様に当たります。個人は中間との間に関係が描ければ、それで超国家とつながることになります。

OCR化した10冊

2016年11月21日 | 6.本
『アラブの住居』

 アラブ地域

  歴史と伝統

  社会と経済

  遊牧民の影響

  価値観とイデオロギー

  アラブ地域の広がり

 アラブ地域のシェルター

  インフォーマルな居住地

   フォーマルな居住地

   伝統的市街

 プライバシーと男女区分の設計

『「他者」の倫理学』

 フッサールにおける独我論の哲学

  西洋的二元論の哲学を超えて

  超越論的主観性の現象学

  フッサールによる他我の明証

  身体的存在としての他者

『「覇権」で読み解けば世界史がわかる』

 アメリカ合衆国

 アメリカの覇権はいつまで続くか

 アメリカ大陸への植民

 アメリカ独立戦争

 連合規約の問題点

 アメリカの幸運①--憲法

 アメリカの幸運②--外交

 アメリカの幸運③--領土

 すべてを反転させたイギリスの一手

 米英戦争

 南北対立の要因

 南北戦争

 金ピカ時代

 第三の政党・人民党

 革新時代

 砲艦外交

 中国進出

 門戸開放、機会均等。

 満州争奪戦
 日露戦争後の日米関係

 第一次世界大戦の勃発

 中立か、参戦か

 「勝利なき講和」から宣戦布告ヘ

 「14ケ条」の本性

 パリ講和会議

 ワシントン会議

 黄金の20年代

 世界大恐慌

 アメリカの独善

 追い詰められた日独伊

 戦争責任

 Pax Americanaの実現

 インドシナ戦争

 アメリカの介入

 地獄絵図と化した戦争

 勝敗を決めた「世論」

 アメリカの終わりの始まり

 多極化

 再び「強いアメリカ」を目指す

 今日まで続くアメリカの失態

 新世紀を告げる鯨波の第一声

 「対テロ戦争」では新時代に対応できない

 Pax Americana の終焉

 国際秩序の変化

 歴史を俯瞰してみる

 民主制と君主制

 教育と洗脳は紙一重。

 「時代」に合わなくなった君主制

 「時代」に合わなくなった民主制

 衆愚政治が国を亡ぼす

 頂上から先は下りのみ

 スローガンと現実

 覆車の戒め

『メイキング・オブ・アメリカ』

 移民国家アメリカ

  移民国家の成り立ち--移民増大のプッシュ要素とプル要素

  移民集団の特徴

   イギリス系--コロニアル・ストック、ボストン・ブルーブラッド

   北西ヨーロッパ系移民

   アイルランド系移民

   アイルランド系の社会上昇とケネディ・サーガ
   南・東ヨーロッパ系移民

  移民制限と人種主義

  同化主義から文化多元主義へ

  多文化主義のゆくえ

『貧しい人々のマニフェスト』

 危機が持続する構造

  恐るべき資本主義

  資本主義の神が犯した失敗

  貧困は天罰ではない

  皆が責任を持つ

  幸福とは何か?

  国が人々を脅す

『移民の経済学』

 国境の開放化に関する急進的な見解

  はじめに

  世界は開かれた国境からほど遠い

  国境の開放化はどのように世界を変えるのか

  開放された国境:道徳的な合意

『最も危険なアメリカ映画』

 ディズニー・アニメが東京大空襲を招いた?

  『空軍力による勝利』

  日本人が知らないディズニー・アニメ

  新しい戦争の「予言」

  「ナチびいき」と言われたディズニー

  空軍の時代が始まった

  戦略爆撃のススメ

  東京大空襲と重なるクライマックス

『松前藩』

 シャクシャインの戦い

  ふりかかる人災、天災

  シャクシャイン決起

  国縫川の決戦

  戦い終わりて

『図説 ウィーンの歴史』

 中世ウィーンの都市と市民生活

  都市行政と施設

   衛生と健康

   売春の許容

   刑場と「四分の一市長」

  中世ウィーンの記録

   あるイタリア人の旅行記

  大学と学生たち

   ウィーン大学の設立

   学生という特権

   厳しい学生生活

 ユダヤの追放とペストの流行

  ユダヤの「第二のゲットー」とその追放

 ペストの流行と「アウグスティン伝説」

  ペスト条例と「くちばし医師」

  「愛しのアウグスティン」

 ナチ支配のもとで

  オーストリアの「合邦」

   歓迎されるナチ・ドイツ

   はためくハーケンクロイツ

  オーストリア・ナチ

   暴力的反ユダヤ運動

   管財人の横暴

  「アイヒマン・モデル」

   組織的なユダヤ追放

   ウィーンにおけるユダヤ追放の特殊事情

  第二次大戦下のウィーン

   ユダヤ排斥による社会・経済政策

   「大ウィーン」

   戦時下ウィーンの生活

   ナチヘの抵抗運動

  ウィーン攻防戦

   ソ連軍の攻撃

   終戦

『正法眼蔵』

 「身心脱落」とは何か?

  道元の生い立ち、そして一つの疑問

  仏だからこそ修行ができる
  『正法眼蔵』の成立

  「現成公案」から身心脱落を読み解く

  自分の中の「他人」を脱落させよ
  薪は薪、灰は灰

 迷いと悟りは一体である

  道元の帰国

  禅の立宗宣言

  「生死」の巻に見る迷いと悟り

  自分を仏の世界に投げ入れる

  仏教の根本義そのものになれ

  仏のみが仏を知る

  あるがままの姿を拝む

  仏に向かって歩もうとする心を起こす

  悟ろうとせず、しっかり迷え
 全宇宙が仏性である


  道元の北越入山

  正伝の仏法を守る

  プロの仏教者を養成する

  「仏性」とは何か

  一切は衆生なり・悉有が仏性なり

  「無」も仏性である

  「有時」の巻に見る道元の時間論

  生も仏性、死も仏性

  自然そのものが説法である

 すべての行為が修行です

  風があるのになぜ扇を使うのか

  修行と悟りは一つ

  食事をつくることも修行である

  悪を思いとどまる

  仏道を歩む者が実践すべき教え

  相手をそのまま肯定する言葉

  自分と他人は同じである

  道元絶筆の八つの教え

  あるがままに、しっかり迷う

国より小さな単位の多様体

2016年11月20日 | 2.数学
国より小さな単位の多様体

 国境があるから、開かれたとか閉じられたとかが問題になる。国より小さな単位で生きていけるようにすればいい。地中海沿岸諸国のように。

『最も危険なアメリカ映画』ディズニー・アニメ『空軍力による勝利』が東京大空襲を招いた?

 戦略爆撃という発想には惹かれるものがあるんでしょう。戦争の形態を全て変えてしまった。安全なところから戦争ができる。下で起こっていることには無関係でいられる。その先に、東京大空襲、ドレスデン爆撃の先には原爆があり、リモート爆撃がある。そして、宇宙戦争につながっていく。

 それはディズニーの世界です。

『松前藩』日本史上最大の異民族蜂起事件 シャクシャインの戦い

 シャクシャイン決起は、火山噴火により、鮭が不漁になり、静内川流域の漁業権争いから松前藩との争いになった。一つの民族が小さな藩に殲滅された。沖縄でも起こり、広大な米国大陸でも起こった。そして、中南米。皆、領土拡大のためです。

『図説 ウィーンの歴史』中世ウィーンの記録 あるイタリア人の旅行記

 ウイーンは城壁に囲まれていた。オスマンの攻撃にも耐えた。都市国家は全てを備えている。教会が支配していた。そして、大学が生まれた。そして、自由な市民につながっていった。

『図説 ウィーンの歴史』オーストリアの「合邦」

ナチ支配のもとで オーストリアの「合邦」

2016年11月20日 | 4.歴史
『図説 ウィーンの歴史』より ナチ支配のもとで オーストリアの「合邦」

歓迎されるナチ・ドイツ

 ムッソリー二との合意により、オーストリアに対する自由行動の権限を得たヒトラーは、一九三八年二月一二日にオーストリア首相シューシュニクを、ベリヒテスガーデンの別荘に呼び出した。ヒトラーは軍事介入の脅しをかけ、さしあたりオーストリア・ナチ派のサイス・インクヴァルトを内相に採用することを強要し、シューシュニクはそれを認めざるをえなかった。それによってオーストリア・ナチは全面的な活動の自由を獲得した。

 三月九日にシューシュニクは自己の立場を守る最後の手段として、オーストリアの独立を守る国民投票を三月一三日に行なうことと決め、禁止していた社会民主党の勢力にも協力を求めた。社会民主党の労働者たちは、ウィーンの町中に国民投票への宣伝を広げたが、それは既に時を逸していた。

 三月一一日には、ドイツ軍は既に国境に集結し、いくつかの州都ではオーストリア・ナチが活動していた。シューシュニクは国民投票の撤回を指示し、首相を辞任した。大統領ミクラスはサイスーインクヴァルトに組閣を命じ、て一日の未明、ドイツ軍は誰もいない国境を越えてオーストリアに入った。戦闘態勢を整えオーストリアに入ったドイツ軍は、抵抗に遭うこともなく、逆に町や村では住民から歓迎の花を受ける。ある兵士の日記では「それは花戦争であった」と書かれていた。それは既にオーストリア・ナチの活動やドイツからの介入によって、地方の町村では、ナチ・ドイツを受け入れる準備と雰囲気が整っていたことを示す。

はためくハーケンクロイツ

 それは首都のウィーンにおいても同様であった。三月一二日のナチードイツ軍の侵攻に先んじて、同日五時には親衛隊長兼ドイツ警察長官ヒムラーがゲシュタポ長官のハイドリヒと共にウィーンのアスペン飛行場に降り立ち、主要人物の逮捕を指揮していた。当日既に数多くのユダヤの自殺者が出ていた。

 軍の侵攻の四時間後にオーストリアに入ったヒトラーは、夕方七時にリンツに到着、翌日には「ドイツとオーストリアの再統一法」を起草、ウィーンでの準備の頃合いを見計らって、三月一五日にハーケンクロイツの旗がはためき、沿道を群衆が埋めるウィーンに乗り込んだ。

 ヒトラーは王宮前の英雄広場で、新王宮のバルコニーから熱狂する群衆に合邦の成立を宣言した。合邦にはチリ、中国、メキシコと共和国スペイン、ソ連邦が抗議しただけで、ヨーロッパ諸国は、それを追認していった。翌日、ウィーンの市議会は解散され、議員は罷免された。新市長にはヘルマン・ノイバッハーが任名された。四月一〇日には合邦賛否の国民投票が実施され、ウィーンでは九九・五パーセントが賛成票を投じた。こうしてウィーンはナチ支配のドイツの一地方都市としての地位を与えられることとなった。そうした都市としてどのような動きと変化が表れたか以下に見ていこう。

組織的なユダヤ追放

 さらに、ユダヤの財産を奪っての追放と強制収容所への移送を組織化して推し進め、ウィーンのユダヤの壊滅を図ったのはアードルフ・アイヒマンであった。

 ドイツ人の父とオーストリア人の母を持ったアイヒマンは、幼少からリンツ近郊で育ち、青年期にはオーストリア・ナチの運動に加わった。一九三三年に一時捕まったが逃亡してミュンヘンヘ逃げた。ミュンヘンでは親衛隊の「オーストリア部隊」に入隊し、訓練を受けていたが、翌年一九三四年一〇月にベルリンの保安情報部に配属され、「ユダヤ人」、特にシオニズム組織の情報蒐集を担当した。

 一九三八年の「合邦」時に、上司ヘルバート・ハーゲンとともにウィーンにやってきて、ユダヤ教団の手入れ、その指導部の逮捕、収容所送りを強行した。その後、ユダヤの財産を接収した上での海外移民もしくは強制収容所への追放政策を組織化し、シオニスト・ユダヤの協力を得てその手続きを「ベルトコンベアー方式」で迅速に行なう仕組みをつくっていった。そのやり方は、極めて強引迅速でかつ「合理的」であった。

 ナチのユダヤ問題の指導者であったハイドリヒはウィーンでの追放方法を「アイヒマン・モデル」として、ドイツ本土および占領地地域にも導入することを提案し、認められた。

 ペルリンにはハイドリヒを長とする「ユダヤ移民のための帝国中央本部」がつくられ、ウィーンからはその指導のための人員が送られた。アイヒマン自身は同年七月に新たに占領したプラハに、「ユダヤ移民本部」を創設し、その指導に当たっていた。ウィーンからは何人かのシオニスト・ユダヤが随行していった。

中世ウィーンの記録 あるイタリア人の旅行記

2016年11月20日 | 4.歴史
『図説 ウィーンの歴史』より 中世ウィーンの都市と市民生活

中世ウィーンを訪れたある旅人の極めて興味深い旅行記録を見てみよう。一五世紀の中頃(一四三九年)一人のイタリア人アエネア・シルヴィウスと言う人物がウィーンを訪れ、そこから友人に手紙を書いている。それは当時のウィーンの都市の有様や人々の生活を、多少の思い込みを含みながらも、生き生きと描いていて、中世のウィーンを知る一級の史料である。なおアエネアなる人物は司教として一四四二年にハプスブルク家の皇帝フリードリヒ三世の秘書となり、トリエステやシエナの司教を経て一四五六年には枢機卿、一四五八年には教皇ピウスニ世となった人物である。人文主義的思考の持ち主で、その観察力は鋭いものであったと認められている。いくつかのテーマに分類して紹介していこう。

①都市の様子

 「この都市は二〇〇〇歩もの長さの城壁に守られ、大きな城外町を持ち、長大な壁と堀によって囲まれている。堀は特に深く、城壁は数多くの塔と堡塁によって強化されている。市民の家々、集会所や大きな構造物は装飾を施され、がっちりとした堅固な建て方によってつくられている。ここでは暖房が施された部屋はシュトゥーベンと呼ばれる。冬は殊のほか厳しいのだ。窓にはガラスがはめられ、ドアは鉄でできている。家々では鳴き鳥が飼われ、家具は豊富で奇麗である。馬には大きな馬小屋があてがわれている。建物の正面は壮麗に飾られているが、屋根はほとんどが木羽板葺きであり、瓦葺きはまれである。家々は石積みで、内外ともに装飾を施されている。任意にどの家に入ろうとも、人は領主の家に入ったかの錯覚を覚える」

 「通りは馬車の轍によって溝ができないように舗装されている」

 こうした描写は、後に見るショッテン教会の祭壇画の描写と一致し、ウィーンが当時都市として極めて高い水準のものに発展していたことを窺わせる。

②教会と大学

 「貴族や高位聖職者の家々は税を払わないでもよいし、市参事会は彼らに対して何の権限も持っていない。ワインケラー(地下のワイン部屋)は非常に大きく、町の下にもう一つの町があるかのようである。

 この都市には様々な聖遺物やその他の宝物を備えた数多くの教会があり、聖職者は高額な禄を食んでいる。この町はパッサウの司教区に属するが、今や子教会が親教会を凌いでいる。多くの家が独自の礼拝堂を持ち、独自の司祭を雇っている。四つの托鉢修道会は貧困とはほど遠く、ショッテン修道会とアウグスティン修道会はとても金持ちであると見られているし、『敬虔な修道女会』や『聖なるマリア会』もそうである。修道院では『聖ヒエロニムス修道院』を挙げておこう。そこは悔恨した売春婦の改宗に奉仕しており、一日中ドイツ語の賛美歌が歌われている。不法な売春婦が累犯を犯すとドナウ川に沈められ、いずれにせよ敬虔な生活が主流をなしている」

 ウィーンにおける教会の権限と支配力の強さと活動が確認されている。

 「この都市には『自由七課』、神学、教会法を教える大学があり、ハンガリーや南ドイツからの多くの学生が学んでいる。ここで教授している神学者としては、パリで学んだハインリヒ・フォン・ヘッセン(ラングンシュタィン)とシユヴァーベン人の二コラウス・フォン・ディンケルスビュールが挙げられる。また神学者のトーマス(エーベンドルファー)・フォン・ハンゼルバッハは歴史書を書いて大きな名声を得ている。

 しかしこの大学の最大の欠陥は、弁証法、音楽、修辞学、詩学についての授業がないことである。雄弁学や詩学は重視されず、学位取得と虚飾の論弁が学問を支配している。アリストテレスやその他の哲学者の本を見ることは稀である。学生たちはかなり享楽的な生活を送り、学業を全うする者は少ない。彼らは昼に夜にあちこちに出入りし、市民の翠壁を買っている」

③市民の生活

 「この都市の人口は約五万人に上る。一八人の参事会員が選出され、その後裁判官と市長が選ばれる。彼らは皆、宣誓を行なった後、支配者によって任命される。それ以外の役人はワイン税の取り立て人だけである。

 この都市に運び込まれる食料品の数は膨大なものである。荷車に満載された卵、穀物、粉、パン、肉、魚、鶏肉などが運び込まれるが、それらは夕方にはもう何処にも見当たらない。すべてが売り切れてしまうのだ。葡萄の収穫は四〇日以上続き、その際には三〇〇台以上の荷車で日に二回ないし三回運び込まれ、日に一二〇〇頭の馬が動員される。マルテイニの日(一一月一一日)まで、ワインを町に運び込むために、村々は空になる。町で飲まれたりドナウ川を通じて輸出されるワインの量は途轍もないほどである。君主はワインの価格の一〇分の一を取り、その収入は年に一万二〇〇〇グルデンに上る」

 ウィーンにおけるワイン産業の想像以上の規模と重要性が確認できる。

 「この大都市には当然ながら多くの争いごともある。手工業者と学生にせよ、宮廷人と手工業者にせよ、流血にいたることもしばしばである。遺憾ながら、市参事会も君主も喧嘩を調停することに関心を抱いていない。

 ここで非常に広まっているのは、ワインの私的販売で、ほとんどすべての市民が自宅にワイン酒場を持っていて、食事を出し、酒飲みと娼婦が一緒にやってくる。主人は娼婦に少量の料理をただで与える。そうするとワインの消費量が上がるからである。庶民たちは享楽に身を任せ、一週間で稼いだものを日曜日にすべて消費してしまう。街には娼婦があふれている。女たちは皆唯一の男では満足しない。貴族たちはしばしば市民の女とかかわる。多くの女は父親の知らぬ問に亭主を選び、寡婦はまだ喪に服している問に勝手に新しい亭主を見つけ出す」

 現在のホイリゲ(新酒のヮィンを飲ませる郊外の農家の酒場)の原型が見られる。学生や娼婦の存在や庶民の生活が紹介されている。

 「この町では先祖伝来の隣人というのは少なく、旧家は少なく、流入民が大部分である。金持ちや歳をとった手工業者は若い娘を嫁にもらうので、彼女たちはすぐに寡婦になり、寡婦は家作の中の若い男を亭主に選ぶ。彼らはたいてい以前から不貞な関係を持っていたりする。その男は一日にして金持ちになれるというわけである。こうした男はやがて男やもめになり、また若い娘を嫁にもらい、輪舞は続くことになる。息子が父親の仕事を継ぐことは稀である。

 法律では残された寡婦は亭主の財産の半分を相続できた。しかし遺産は自由に処理でき、亭主は女房に、女房は亭主に遺言で残してやることができた。遺産の裏取り引きは当たり前で、多くの者が毒をもられたりしたという。貴族が、関係のあった市民の女の亭主を毒殺することも稀ではなかった。

 人々は成文法なしで生きていて、古くからの因習を守ることを強調する。しかし、彼らはもちろんそれを自分勝手に解釈している。正義は金で買われ、悪いことをしても処罰されることはなかった。貧乏人と後ろ盾のない者は裁判で酷い目にあうことになる。証言のために行なわれる宣誓は厳格に守られるが、宣誓無しに証言されたことは守られなかった。貸し付けは期限を設けて行なわれ、その期限内では少しの損失しか生じないが、期限の切れた後の貸し付けの額は宣誓の下に高く据えられ、借りた方は大きな損失を被る。借金の形に抵当を入れればそれは利子とみなされない。破門は名声に拘る損失とそれと結びついた時間的不利が故に恐れられた。窃盗の際に見つけられた盗品は裁判官のものとなった。教会の祭日は厳格に守られている。肉製品は断食日にも売られる。渡し守には休日はない」

 これらの描写は、庶民的側面にも眼がいっている。

日本史上最大の異民族蜂起事件 シャクシャインの戦い

2016年11月20日 | 4.歴史
『松前藩』より シャクシャインの戦い

シャクシャイン決起

 このころアイヌたちの間では、政治勢力の統合が進み、大勢力が拮抗し、抗争をくり返すという状況にあった。いわば大首長の〝群雄割拠〟状態である。

 東蝦夷地の日高地方では、静内川流域の漁業権をめぐって、下流東岸のシビチャリを拠点とする大首長カモクタイン、上流西岸のハエを拠点とする大首長オニビシがそれぞれ勢力を築き、慶安元年以来長きにわたって対峙していた。カモクタインの勢力はメナシクル、オニビシの勢力はハエクルとかシュムクルと呼ばれている。そもそも静内川は、日高西部の諸河川の中でずば抜けて多くの鮭が遡上する川だったため、早くから両者の間で漁業権をめぐる対立があった。さらに、例の火山噴火のため静内川の鮭が不漁になってくると、メナシクルたちは新冠川の流域にも進出し、サル(沙流郡日高町)のアイヌ勢力とも衝突をくり返していた。松前藩もこうした対立を静観していたわけではなく、たびたび両者に休戦を呼びかけたが、その甲斐なく紛争は絶えなかった。


 承応二年(一六五三)、カモクタインがオニビシに殺害されると、いよいよ事態は深刻さを増してゆく。副首長のシャクシャインがそのあとを継いでメナシクルの指導者となり、報復とばかりに手勢を率いて奇襲攻撃を仕掛け、オニビシの命を奪ってしまったのだ。サル地方のアイヌの首長に嫁いでいたオニビシの姉は、アッペツにチャシ(城砦)を築き、ハエクルを率いてシャクシャインを迎え撃ったが、シャクシャイン軍の攻撃を受けてここも陥落してしまった。

 金山のある静内川上流に拠点があるオニビシは、和人と接触の機会も多く、もともと松前藩寄りの姿勢をとっていた。そのため頭目オニビシを殺害されたハエクル勢力も、松前藩に援助を要請した。しかし、松前藩はやはり中立の立場を貫き、要請に応じなかったようだ。しかも、ハエクルが松前に送った使者は、帰路に病死してしまう。そのためアイヌたちの間では、使者の死は松前藩による毒殺だという風説がまことしやかに流れた。

 この誤報がきっかけで松前藩に対する不信が募るなか、事態は別な方向へと動き出す。かねて松前藩の蝦夷地進出に不満を持っていたシャクシャインが、打倒松前藩の兵を挙げることを決意したのだ。シャクシャインはアイヌたちのあいだに広がる不安をたくみに利用し、結集して松前藩に対抗することを呼びかける檄を各地のアイヌ首長に飛ばした。寛文九年(一六六九)六月のことである。

 歴戦の勇士として名が響くシャクシャインからの呼びかけに、東蝦夷地ではシラヌカ(白糠郡)、遠く西蝦夷地ではマシケ(増毛郡)からもこれに呼応する動きがあった。さらに、シャクシャインの仇敵というべきハエクル勢力までもが、毒殺への恐れからシャクシャインと行動をともにしたという。東西蝦夷地をまたいだアイヌたちは団結し、蝦夷島にかつてない規模の一大勢力が形成されたのだ。

 こうして、アイヌの内部紛争、和人の蝦夷地進出、松前藩の圧政、火山噴火による困窮などさまざまな要因が重なって、ついにアイヌたちは兵を挙げるに至った。世にいうシャクシャインの戦いである。この戦いは、日本史上最大の異民族蜂起事件として歴史に刻まれることになる。

国縫川の決戦

 シャクシャインは、遠く樽前山や羊蹄山までを望むこともできる丘上のシビチャリチャシに拠った。各地で和人との戦闘状態に入ったアイヌたちは、まず鷹の捕獲のために蝦夷地に入っていた鷹匠や、商船の船頭ら和人二七三人(三九〇人あまりとする史料もある)を殺害。シャクシャイン軍はおよそ二〇〇〇人の多きに達したといい、圧倒的な勢いを誇示していた。

 もっとも、アイヌたちのすべてがシャクシャイン軍に加わったわけではない。シャクシャイン率いるメナシクルと対立を深めていたサル地方のアイヌたちはこれに同調せず、むしろ松前藩に協力的な態度をとった。また、西蝦夷地の大首長ら九名はヨイチに集まり寄合を持ったが、結局おのおのが別行動をとったようだ。一方、越後の庄太夫のようにシャクシャイン軍に身を投じ、重要な役割を演じる和人もいた。このようにシャクシャインの戦いは、実に複雑な要素が絡み合った戦いであったのだ。

 さて、この大事件の一報が松前にもたらされた。藩内の事情は後述するが、当時藩主松前矩広はまだ数え年十歳の幼主であり、藩政をにぎっていたのは家老蟻崎広林だった。中世以来、アイヌとの衝突はすでにいく度も経験しているのだが、今回ばかりは従来と比較にならない緊急事態だ。なにせ和人地にいる藩士は総勢八〇名ほどに過ぎない(足軽を入れればもう少しいるだろうが)。数に勝るシャクシャイン軍が押し寄せれば、藩の存亡にかかわるのである。

 松前藩は江戸にも事態を報告した。急報に接した幕府は、さっそく弘前・盛岡両藩に援軍派遣を命じた。これら東北の諸藩は、蝦夷地で問題が発生したときに、松前藩を支えて問題を解決する役割を幕府から委ねられていたのだ。同時に、幕府はかねて松前藩の後見役をつとめていた旗本松前泰広(公広の三男で、藩主矩広の従祖父)を現地に派遣して、対応に当たらせた。矩広がまだ幼年で到底軍を指揮することができないため、一族の泰広に鎮圧を指揮させようとしたのだ。

 すでに福山館では、襲撃に備えて物見櫓を増設し、アイヌたちが殺到した際には城下の町民たちも館内に収容してともに寵城する手はずを整えていた。城下の町民たちも、ときならぬ緊張に包まれていたはずである。

 幕府からの命を受けた弘前・盛岡両藩は、援軍を送る準備を急いだ。だが、松前藩は両藩の手を借りず、みずから鎮圧する道を選択した。蝦夷地の事情を知られたくないし、幕府から統治能力なしと判断されてしまえば、取りつぶしになりかねないのだ。ただし、武器が不足していたので、これだけは両藩から借用した。

 この間もシャクシャイン軍は松前をめざして進撃をつづけたので、松前藩側は和人地の東西に防衛ラインを設けた。和人地の東では、家老端崎広林の指揮のもと兵を東蝦夷地のクンヌイに置き、漁民まで動員して防備を固めた。一方、和人地の西でも、西蝦夷地のアイヌたちが呼応して南下することが想定されたので、こちらも相沼内・熊石・関内の三ヵ所(いずれも二海郡八雲町)に番所を建てて警備を固めた。さらに、松前藩に従属していた相沼内のアイヌ首長トヒシシを西蝦夷地へと派遣し、シャクシャインに同調しないようアイヌたちへの説得に当たらせた。これが奏功して、日本海側では戦乱を見ることなしに事は済んだ。

 破竹の勢いで松前をめざすシャクシャイン軍は、七月末に松前藩が防衛ラインを布いた国縫川に到達した。松前藩としては、いよいよ瀬戸際まで追い込まれたかたちである。両軍が川をはさんで対峙し、ここで八月初句まで数日にわたって最後の激戦がくり広げられた。松前藩兵は戦いを制し、どうにかシャクシャインの進撃をはばかことに成功した。勝利を手にできたのは、弘前・盛岡両藩から借用した大量の鉄砲のおかげといわれている。

 国縫川での戦いが決着して間もない八月十日、懐かしの故郷松前に旗本松前泰広が到着。感傷にひたる間もなく戦場に赴いた。指揮官泰広を得て、国縫川の勝利から反転攻勢に転じた松前藩は、シャクシャイン軍の拠点であるシベチャリ方面に彼らを押し返した。

 ここで登場するのが、藩の知将佐藤権左衛門である。権左衛門は、ツグナイの提出、関係者の助命という条件を提示することで、みごとシャクシャインらを降伏させることに成功する。だが、これは松前藩がお家芸とする謀略だった。ピポクに至った権左衛門は、和議を祝すと称してシャクシャインらに酒を与え、酪酎したところをうかがって槍で突き刺し、シャクシャインら中心人物一四名を謀殺してしまう。十月二十三日夜のことである。権謀術数を用いることで、松前藩は四ヵ月にわたった戦いにどうにか勝利を収めたのだ。