未唯への手紙
未唯への手紙
世界天才紀行 アテネ 天才は単純 散歩を楽しむ
『世界天才紀行』より ⇒ アテネには、奥さんと一緒に行って、アテネ在住の姪夫婦とアクアポリスとかタベルナでの食事を楽しんだ。いつかは古代ギリシャの町を歩いてみたい。アゴラが町の中心だったみたい。
ありふれた日常のなかで、天才たちはじっくりと才能を熟成させる。ジークムント・フロイトは、ウィーンのカフェ「ラントマン」で好物のケーキをほおばる。アインシュタインは、スイスのベルンにある特許庁の窓からじっと外を眺める。レオナルド・ダ・ヴィンチは、フィレンツエの蒸し暑くてほこりっぽい工房で額の汗をぬぐう。彼らはいずれも、世界を一変させる偉大なものを生みだした。だがその舞台はじつに狭い場所だった。彼らが才能を発揮したのは、まさに〝今いる場所〟だ。どんな天才も、あらゆる政治家と同じく、その土地に根ざしているのである。
この新たな、地の利を得た場所から、私は古代ギリシア人について多くを学ぶ。彼らがダンスをこよなく愛していたと知り、現代の曲を聴いたらどんな反応を示すだろうかと想像してみる。古代ギリシアの若い男たちは運動をする前にオリーブオイルをからだに塗っていたことを知り、運動場にただようオリーブオイルの男らしい香りは香水よりもかぐわしいとされていたことを学ぶ。肌着をつげず、一本につながった眉が美の象徴で、イナゴをぺッ卜兼食材として楽しんでいたことも。こうして多くを学び、ちょっとした勘ちがいはともかくとして、彼らがーどうやって〟生みだしたのかではなく、〝何を〟生みだしたかを知る。そしてこれこそが、私が選んだ方法なのである。
とはいえまずは、何はさておき、古代ギリシアになかったものを欲している。コーヒーだ。だがこの〝神の飲み物〟は、飲めさえすればどこで飲んでもいいというわけではない。どこで飲むかが重要だ。
私にとって、カフェは第二の家に等しい。まさに社会学者のレイ・オルデンバーグが言うところの「とびきり居心地のよい場所」だ。食べ物や飲み物それ自体は重要ではない、といっても過言ではない。大切なのは雰囲気だ。テーブルクロスや調度品の話ではなく、もっととらえどころのない空気のようなもの。罪悪感なく長居ができて、周囲の騒々しさと思索に没頭できる沈黙の絶妙なバランスをとることができる、そんな雰囲気である。
古代ギリシア人が早起きだったかどうかは知らないが、二一世紀のギリシア人はそれほど早起きではない。私は朝八時にホテルを出て、眠気とたたかう臨時の店番や警察官の一団がいる通りを進む。暴徒にそなえてロボコップのような装備に身を包んだ警察官のいでたちを見て、古代と同じく、現代のアテネも緊張状態にあることを思い起こす。
相変わらず大げさで、身振り手振りのやたらと多いトニーの道案内にしたがい、活気あふれる歩道橋に足を運ぶ。カフェや小さな店が軒を連ね、まさに古代アテナイ的なコミュニティを示す縮図が目の前に広がっている。しばらく歩くと、とびきり居心地のよい場所が目に留まる。「橋」という名のカフェ。まさに私にふさわしい。なにしろ、いくつもの世紀にかかる橋を渡って旅をするという、荒唐無稽な使命を背負っているのだから。
そのカフェはいたってふつうの店で、ドラコ通りに面していくつかテラス席が設けられているだけだった。さながら、客は芝居の観客で、店に面する通りが舞台だ。こうしたカフエでは、ギリシア人にはおなじみの時間のすごしかたがある。座ることだ。ギリシア人は仲間とでも、一人でも座る。夏の太陽の下でも、冬の寒空の下でも座る。椅子がなくても平気だ。歩道の縁石や道端の段ボール箱で十分。こんな習癖は、ギリシア以外ではまずお目にかかれない。「力リメーラ(こんにちは)」と、たどたどしいギリシア語で挨拶をして「橋」の先客の仲間に加わる。エスプレッソを注文し、カップで両手を温める。朝の空気は身を切るように冷たいが、今日もギリシアらしい爽平かな一日になる予感がする。「たしかにこの国は破綻寸前ですが、天候には恵まれています」と、トニーは私に得意げに言ったものだ。たしかに一理ある。この心地よい陽光に加えて、三〇〇日のからりとした晴天。ひょっとしたら、アテネに天才が生まれた理由はこの気候なのかもしれない。
しかし、残念ながら答えは「ノー」だ。古代ギリシア人の才能を磨くには、たしかに快適な気候も一役買ったかもしれないが、その理由とまでは言えない。そもそもギリシアでは、紀元前四五〇年から現在にいたるまで気候が本質的には変わっていないが、今なお〝天才の国〟と呼べるわげではないからだ。それに多くの〝黄金時代〟は、決して快適ではない環境のもとでも栄華を誇ってきた。たとえば、エリザベス時代のロンドンでは、陰影なイギリスの空の下で吟遊詩人たちが美声を響かせていた。
二杯目のエスプレッソを口に運ぶと、ようやく頭が働きぱじめ、少し先走りしすぎていたことに気づく。私はこうして天才を追っているか、その意味をほんとうに理解しているだろうか。すでに述べたとおり、天才とは〝知的あるいは芸術的な飛躍を導く者〟を意味するか、ではいったい誰が、それを飛躍と判断するのだろうか。
その答えは「私たち」だ。フランシス・ゴルトンの説にはたしかに誤りが多く、性差別的な側面もいなめないか、ゴルトンは天才の定義について重要な点を指摘してもいる。すなわち「天才とは、世界じゅうがその功績に対して大きな恩義を感じるような人物」である。天才の世界にかかわれるのは天才自身だけではない。その仲間や、世の中の人たちもかかわれる。一個人の主張ではなく、世間の評価に意味がある。「天才の流行理論」とでも呼べる理論が、これを明白に物語っている。天才たるには、その時代に特有の気まぐれ、いわば嗜好がものをいう。「創造性は評価と切っても切れない関係にある」というのは、この理論を支持するハンガリー出身の心理学者、ミハイ・チクセントミハイの言葉だ。端的に言えば、私たちが認めれば天才なのである。
この考え方は、一見すると直観とは相いれない。それどころか、冒漬的とさえ言えるかもしれない。たしかに、天才というある種の神聖なものは、大衆の評価とは無縁でなければならない側面もある。
ありふれた日常のなかで、天才たちはじっくりと才能を熟成させる。ジークムント・フロイトは、ウィーンのカフェ「ラントマン」で好物のケーキをほおばる。アインシュタインは、スイスのベルンにある特許庁の窓からじっと外を眺める。レオナルド・ダ・ヴィンチは、フィレンツエの蒸し暑くてほこりっぽい工房で額の汗をぬぐう。彼らはいずれも、世界を一変させる偉大なものを生みだした。だがその舞台はじつに狭い場所だった。彼らが才能を発揮したのは、まさに〝今いる場所〟だ。どんな天才も、あらゆる政治家と同じく、その土地に根ざしているのである。
この新たな、地の利を得た場所から、私は古代ギリシア人について多くを学ぶ。彼らがダンスをこよなく愛していたと知り、現代の曲を聴いたらどんな反応を示すだろうかと想像してみる。古代ギリシアの若い男たちは運動をする前にオリーブオイルをからだに塗っていたことを知り、運動場にただようオリーブオイルの男らしい香りは香水よりもかぐわしいとされていたことを学ぶ。肌着をつげず、一本につながった眉が美の象徴で、イナゴをぺッ卜兼食材として楽しんでいたことも。こうして多くを学び、ちょっとした勘ちがいはともかくとして、彼らがーどうやって〟生みだしたのかではなく、〝何を〟生みだしたかを知る。そしてこれこそが、私が選んだ方法なのである。
とはいえまずは、何はさておき、古代ギリシアになかったものを欲している。コーヒーだ。だがこの〝神の飲み物〟は、飲めさえすればどこで飲んでもいいというわけではない。どこで飲むかが重要だ。
私にとって、カフェは第二の家に等しい。まさに社会学者のレイ・オルデンバーグが言うところの「とびきり居心地のよい場所」だ。食べ物や飲み物それ自体は重要ではない、といっても過言ではない。大切なのは雰囲気だ。テーブルクロスや調度品の話ではなく、もっととらえどころのない空気のようなもの。罪悪感なく長居ができて、周囲の騒々しさと思索に没頭できる沈黙の絶妙なバランスをとることができる、そんな雰囲気である。
古代ギリシア人が早起きだったかどうかは知らないが、二一世紀のギリシア人はそれほど早起きではない。私は朝八時にホテルを出て、眠気とたたかう臨時の店番や警察官の一団がいる通りを進む。暴徒にそなえてロボコップのような装備に身を包んだ警察官のいでたちを見て、古代と同じく、現代のアテネも緊張状態にあることを思い起こす。
相変わらず大げさで、身振り手振りのやたらと多いトニーの道案内にしたがい、活気あふれる歩道橋に足を運ぶ。カフェや小さな店が軒を連ね、まさに古代アテナイ的なコミュニティを示す縮図が目の前に広がっている。しばらく歩くと、とびきり居心地のよい場所が目に留まる。「橋」という名のカフェ。まさに私にふさわしい。なにしろ、いくつもの世紀にかかる橋を渡って旅をするという、荒唐無稽な使命を背負っているのだから。
そのカフェはいたってふつうの店で、ドラコ通りに面していくつかテラス席が設けられているだけだった。さながら、客は芝居の観客で、店に面する通りが舞台だ。こうしたカフエでは、ギリシア人にはおなじみの時間のすごしかたがある。座ることだ。ギリシア人は仲間とでも、一人でも座る。夏の太陽の下でも、冬の寒空の下でも座る。椅子がなくても平気だ。歩道の縁石や道端の段ボール箱で十分。こんな習癖は、ギリシア以外ではまずお目にかかれない。「力リメーラ(こんにちは)」と、たどたどしいギリシア語で挨拶をして「橋」の先客の仲間に加わる。エスプレッソを注文し、カップで両手を温める。朝の空気は身を切るように冷たいが、今日もギリシアらしい爽平かな一日になる予感がする。「たしかにこの国は破綻寸前ですが、天候には恵まれています」と、トニーは私に得意げに言ったものだ。たしかに一理ある。この心地よい陽光に加えて、三〇〇日のからりとした晴天。ひょっとしたら、アテネに天才が生まれた理由はこの気候なのかもしれない。
しかし、残念ながら答えは「ノー」だ。古代ギリシア人の才能を磨くには、たしかに快適な気候も一役買ったかもしれないが、その理由とまでは言えない。そもそもギリシアでは、紀元前四五〇年から現在にいたるまで気候が本質的には変わっていないが、今なお〝天才の国〟と呼べるわげではないからだ。それに多くの〝黄金時代〟は、決して快適ではない環境のもとでも栄華を誇ってきた。たとえば、エリザベス時代のロンドンでは、陰影なイギリスの空の下で吟遊詩人たちが美声を響かせていた。
二杯目のエスプレッソを口に運ぶと、ようやく頭が働きぱじめ、少し先走りしすぎていたことに気づく。私はこうして天才を追っているか、その意味をほんとうに理解しているだろうか。すでに述べたとおり、天才とは〝知的あるいは芸術的な飛躍を導く者〟を意味するか、ではいったい誰が、それを飛躍と判断するのだろうか。
その答えは「私たち」だ。フランシス・ゴルトンの説にはたしかに誤りが多く、性差別的な側面もいなめないか、ゴルトンは天才の定義について重要な点を指摘してもいる。すなわち「天才とは、世界じゅうがその功績に対して大きな恩義を感じるような人物」である。天才の世界にかかわれるのは天才自身だけではない。その仲間や、世の中の人たちもかかわれる。一個人の主張ではなく、世間の評価に意味がある。「天才の流行理論」とでも呼べる理論が、これを明白に物語っている。天才たるには、その時代に特有の気まぐれ、いわば嗜好がものをいう。「創造性は評価と切っても切れない関係にある」というのは、この理論を支持するハンガリー出身の心理学者、ミハイ・チクセントミハイの言葉だ。端的に言えば、私たちが認めれば天才なのである。
この考え方は、一見すると直観とは相いれない。それどころか、冒漬的とさえ言えるかもしれない。たしかに、天才というある種の神聖なものは、大衆の評価とは無縁でなければならない側面もある。
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天声人語 2016年1月-6月 米大統領選挙
歴史は2度繰り返す? 1・12
ヘーゲルの『歴史哲学講義』によれば、国家の大変革というものは、それが2度繰り返される時、「確かな現実」になる。最初は単なる偶然かと思えていたことが、繰り返されて定着する。ナポレオンの2度の敗北、ブルボン家の2度の追放がその例だ、と。
先哲の言葉を、安倍首相の年頭の記者会見で思い出した。首相は4日、憲法改正を夏の参院選で訴えると語った。一昨日のNHKの番組では、改憲の発議に必要な3分の2の議席を確保したいと踏み込んだ。改憲を選挙の争点に据えるという宣言だろう。
あの時と同じだ。第1次内閣だった2007年の年頭会見である。首相は自分の内閣のうちに改憲を目指すとし、参院選で訴えると語った。言うまでもなくこの選挙は惨敗し、安倍氏の退陣につながった。
「究極の護憲派」。当時、民主党は首相をそう皮肉った。年頭会見以降、憲法論議での与野党協調はぶち壊しになった。改憲には野党も含む広い合意が必要なのに、選挙の争点にすれば実現が遠のくだけというわけだ。
今回も、与党内には野党との丁寧な合意づくりを望む声がある。しかし、安保法制を強引に成立させたことで、その芽はすでに摘まれている。おおさか維新の会のような援軍への期待があり、首相は再び争点化に挑むのだろう。
首相の狙いがどうあれ、私たち有権者は安保法制の是非を含め、憲法にかかわる重い判断を参院選で下すことになる。ヘーゲルの言った「確かな現実」が姿をあらわすかどうか。
米大統領レースの号砲 2・2
橋を撮るために片田舎にやってきたカメラマンと、農家の妻との4日間の切ない恋。大ベストセラーで映画にもなった『マディソン郡の橋』に胸を熱くした方もおいでだろう。情感あふれる物語は、米アイオワ州が舞台だった。
一面にトウモロコシ畑が広がる地味な農業州へ、4年に1度、世界のメディアが参集する。うるう年のイベントといえば五輪夏季大会と米大統領選挙だが、長く熾烈な選挙戦の幕が毎回、この州で切って落とされる。
そのタフなレースの号砲が、きのう鳴った。本日昼頃には初戦の結果が出る。民主党のクリントン氏にとっては、8年前に3位に沈んだ州である。当初は本命視されながら、結局は候補者指名でオバマ現大統領に敗れた。年齢的にも、今回がラストチャンスだろう。
共和党のトランプ氏は異色だ。当初は取るに足りないと見られていたが、本音を代弁する言いたい放題で支持を伸ばしてきた。「トランプ現象」は、憎悪や偏見をあおって膨らむ怪物を思わせて不気味である。
米国の大統領とは、多様な国民がその時々に求める「あるべきアメリカ」の象徴といえる。さらに世界に責任を持つ人でもある。影響力が衰えたとはいえ、世界を左右しうる最たる人物なのは変わらない。
それを思えば選ぶ側の責任は重い。今のケリー米国務長官がかつて大統領選候補だったとき遊説中によく「皆さんには世界に対する責任がある」と語っていたのを思い出す。アイオワの人々の吟味は、さてどうなる。
米国の「民主主義の祭り」 2・12
アメリカ大統領に最高齢で就いたのは、第40代のレーガン氏で69歳だった。2期目の選挙のとき、討論会で年齢について聞かれ、ユーモアたっぷりに「私はライバルの若さや経験不足を政治利用する気はありませんよ」と切り返して爆笑を誘ったのは語りぐさだ。結果は、大差で相手を退けた。
さて、第45代を決めるレースは、序盤の2州を終えて高年の3人を軸とする展開となっている。共和党のトランプ氏は69歳。民主党のクリントン氏68歳、サンダース氏は74歳。勝ち抜けば、就任年齢は歴代最高並みかそれを上回る。
8年前にはオバマ氏が若き彗星だった。サンダース氏は失礼ながら「老いたる彗星」か。無名に近かった候補が、格差に反発する若者らの支持を集めて輝きを増している。その風貌と口調には「希望の種をまく人」の印象が強い。
一握りの人々への富の偏りを指弾し、医療保険の拡充や公立大の授業料無償化などを主張する。福祉や公的保護の手厚い「大きな政府」の路線で、それもとびきり大胆だ。
初戦アイオワでは若者の8割が氏に投票したという。「理想主義にすぎないとも言われるが、我々には理想が必要」と語る23歳の声を国際面が伝えていた。2戦目ニューハンプシャーではクリントン氏を抑えた。
老いたる彗星は、米政界の夜空をいっときかすめて消えるのか。それともワシントンの既成政治を直撃するのか。トランプ旋風といい、「民主主義の祭り」は超大国のかかえる現実を世界にあぶり出す。
音楽と政治の危うい関係 5・10
すでに多すぎるほどの物議をかもしてきた不動産王トランプ氏が名だたるバンドからかみつかれた。エアロスミスなどに続いて今度はローリングーストーンズから「おれたちの曲を勝手に使うな」と抗議された。
思い出すのは1984年の米大統領選。再選を狙ったレーガン陣営が、ヒット曲「ボーン・イン・ザ・USA」を運動に使おうとし、歌手ブルースースプリングスティーン当人から拒まれた。
力強いリズム。しぼり出すような声。「おれはアメリカに生まれたんだ」という叫びに陣営が飛びついた。「スプリングスティーン氏は若者の心をつかんだ。曲にこめられた思いは米国の未来そのものだ」。大統領白身、遊説先で名をあげてほめそやした。
しかし歌詞の内容は政治不信そのものである。戦地ベトナムで死んだ若者の無念を代弁し、帰還兵に仕事も敬意も与えない政治の冷たさを告発した。そんなメッセージの曲と知っても、陣営は再選の道具として欲した。
音楽が人々を飢わせる様子を目にすると、政治は禁欲を忘れる。ヒトラーは自国の指揮者フルトベングラーに一方的に心酔した。ナチスが策をろうしヒトラーの生誕を祝う会でタクトを振らせる。ベートーベンの「第九」を指揮する姿を映画に収め、国威発揚に使った。指揮者は戦後、ナチスに協力した疑いで法廷に立たされる。
さて共和党内で優位に立ったトランプ氏だが、選挙戦は11月まで続く。この先、抗議を受けずに使える曲の手持ちはあるのだろうか。
大統領選とアメリカ資本主義 6・9
経済的な不平等を分析し、金持ちに高い税金を払わせることを主張する。そんなフランスの経済学者トマ・ピケティがなぜアメリカで人気になったのか。ちょうど2年前、シカゴの学者と話をしたことがある。
自由競争の好きなこの国に似つかわしくないと感じたからだ。地元でピケティの読書会を始めたばかりだった彼は言った。「資本主義は自然の力ではなく、変えられるものだ。そう教えてくれるからだろう」
多くの米国民が、リーマン・ショックで突然仕事の場を奪われた。若者は教育ローンの返済にあえぐ。一方で政治は富裕層を優遇しているように見える。「努力すれば報われるなんて、信じられなくなったんだ。まだアメリカの多数派とは言えないが」
変化は起きつつあった。ただ、これほど早く政治の表舞台に現れるとは。それがサンダース氏の躍進だった。民主党の大統領候補選びに挑んだ老政治家が訴えたのは、公立大学の無償化や国民皆保険制度の実現、巨大銀行の分割など。アメリカ資本主義の修正である。
大健闘だったが、7日、本命のクリントン氏の優位が確実になった。政策の実現可能性や経験などに、弱さがあった。しかし、既存の政治で異端とされた政策に焦点をあてた功績は小さくない。
背筋を伸ばしてよどみなく話す多くの政治家に比べ、前のめりで懸命に訴える演説のスタイルは決してかっこいいとは言えない。そんなことも魅力に変わるのが、米政治の閉塞を示しているのかもしれない。
ヘーゲルの『歴史哲学講義』によれば、国家の大変革というものは、それが2度繰り返される時、「確かな現実」になる。最初は単なる偶然かと思えていたことが、繰り返されて定着する。ナポレオンの2度の敗北、ブルボン家の2度の追放がその例だ、と。
先哲の言葉を、安倍首相の年頭の記者会見で思い出した。首相は4日、憲法改正を夏の参院選で訴えると語った。一昨日のNHKの番組では、改憲の発議に必要な3分の2の議席を確保したいと踏み込んだ。改憲を選挙の争点に据えるという宣言だろう。
あの時と同じだ。第1次内閣だった2007年の年頭会見である。首相は自分の内閣のうちに改憲を目指すとし、参院選で訴えると語った。言うまでもなくこの選挙は惨敗し、安倍氏の退陣につながった。
「究極の護憲派」。当時、民主党は首相をそう皮肉った。年頭会見以降、憲法論議での与野党協調はぶち壊しになった。改憲には野党も含む広い合意が必要なのに、選挙の争点にすれば実現が遠のくだけというわけだ。
今回も、与党内には野党との丁寧な合意づくりを望む声がある。しかし、安保法制を強引に成立させたことで、その芽はすでに摘まれている。おおさか維新の会のような援軍への期待があり、首相は再び争点化に挑むのだろう。
首相の狙いがどうあれ、私たち有権者は安保法制の是非を含め、憲法にかかわる重い判断を参院選で下すことになる。ヘーゲルの言った「確かな現実」が姿をあらわすかどうか。
米大統領レースの号砲 2・2
橋を撮るために片田舎にやってきたカメラマンと、農家の妻との4日間の切ない恋。大ベストセラーで映画にもなった『マディソン郡の橋』に胸を熱くした方もおいでだろう。情感あふれる物語は、米アイオワ州が舞台だった。
一面にトウモロコシ畑が広がる地味な農業州へ、4年に1度、世界のメディアが参集する。うるう年のイベントといえば五輪夏季大会と米大統領選挙だが、長く熾烈な選挙戦の幕が毎回、この州で切って落とされる。
そのタフなレースの号砲が、きのう鳴った。本日昼頃には初戦の結果が出る。民主党のクリントン氏にとっては、8年前に3位に沈んだ州である。当初は本命視されながら、結局は候補者指名でオバマ現大統領に敗れた。年齢的にも、今回がラストチャンスだろう。
共和党のトランプ氏は異色だ。当初は取るに足りないと見られていたが、本音を代弁する言いたい放題で支持を伸ばしてきた。「トランプ現象」は、憎悪や偏見をあおって膨らむ怪物を思わせて不気味である。
米国の大統領とは、多様な国民がその時々に求める「あるべきアメリカ」の象徴といえる。さらに世界に責任を持つ人でもある。影響力が衰えたとはいえ、世界を左右しうる最たる人物なのは変わらない。
それを思えば選ぶ側の責任は重い。今のケリー米国務長官がかつて大統領選候補だったとき遊説中によく「皆さんには世界に対する責任がある」と語っていたのを思い出す。アイオワの人々の吟味は、さてどうなる。
米国の「民主主義の祭り」 2・12
アメリカ大統領に最高齢で就いたのは、第40代のレーガン氏で69歳だった。2期目の選挙のとき、討論会で年齢について聞かれ、ユーモアたっぷりに「私はライバルの若さや経験不足を政治利用する気はありませんよ」と切り返して爆笑を誘ったのは語りぐさだ。結果は、大差で相手を退けた。
さて、第45代を決めるレースは、序盤の2州を終えて高年の3人を軸とする展開となっている。共和党のトランプ氏は69歳。民主党のクリントン氏68歳、サンダース氏は74歳。勝ち抜けば、就任年齢は歴代最高並みかそれを上回る。
8年前にはオバマ氏が若き彗星だった。サンダース氏は失礼ながら「老いたる彗星」か。無名に近かった候補が、格差に反発する若者らの支持を集めて輝きを増している。その風貌と口調には「希望の種をまく人」の印象が強い。
一握りの人々への富の偏りを指弾し、医療保険の拡充や公立大の授業料無償化などを主張する。福祉や公的保護の手厚い「大きな政府」の路線で、それもとびきり大胆だ。
初戦アイオワでは若者の8割が氏に投票したという。「理想主義にすぎないとも言われるが、我々には理想が必要」と語る23歳の声を国際面が伝えていた。2戦目ニューハンプシャーではクリントン氏を抑えた。
老いたる彗星は、米政界の夜空をいっときかすめて消えるのか。それともワシントンの既成政治を直撃するのか。トランプ旋風といい、「民主主義の祭り」は超大国のかかえる現実を世界にあぶり出す。
音楽と政治の危うい関係 5・10
すでに多すぎるほどの物議をかもしてきた不動産王トランプ氏が名だたるバンドからかみつかれた。エアロスミスなどに続いて今度はローリングーストーンズから「おれたちの曲を勝手に使うな」と抗議された。
思い出すのは1984年の米大統領選。再選を狙ったレーガン陣営が、ヒット曲「ボーン・イン・ザ・USA」を運動に使おうとし、歌手ブルースースプリングスティーン当人から拒まれた。
力強いリズム。しぼり出すような声。「おれはアメリカに生まれたんだ」という叫びに陣営が飛びついた。「スプリングスティーン氏は若者の心をつかんだ。曲にこめられた思いは米国の未来そのものだ」。大統領白身、遊説先で名をあげてほめそやした。
しかし歌詞の内容は政治不信そのものである。戦地ベトナムで死んだ若者の無念を代弁し、帰還兵に仕事も敬意も与えない政治の冷たさを告発した。そんなメッセージの曲と知っても、陣営は再選の道具として欲した。
音楽が人々を飢わせる様子を目にすると、政治は禁欲を忘れる。ヒトラーは自国の指揮者フルトベングラーに一方的に心酔した。ナチスが策をろうしヒトラーの生誕を祝う会でタクトを振らせる。ベートーベンの「第九」を指揮する姿を映画に収め、国威発揚に使った。指揮者は戦後、ナチスに協力した疑いで法廷に立たされる。
さて共和党内で優位に立ったトランプ氏だが、選挙戦は11月まで続く。この先、抗議を受けずに使える曲の手持ちはあるのだろうか。
大統領選とアメリカ資本主義 6・9
経済的な不平等を分析し、金持ちに高い税金を払わせることを主張する。そんなフランスの経済学者トマ・ピケティがなぜアメリカで人気になったのか。ちょうど2年前、シカゴの学者と話をしたことがある。
自由競争の好きなこの国に似つかわしくないと感じたからだ。地元でピケティの読書会を始めたばかりだった彼は言った。「資本主義は自然の力ではなく、変えられるものだ。そう教えてくれるからだろう」
多くの米国民が、リーマン・ショックで突然仕事の場を奪われた。若者は教育ローンの返済にあえぐ。一方で政治は富裕層を優遇しているように見える。「努力すれば報われるなんて、信じられなくなったんだ。まだアメリカの多数派とは言えないが」
変化は起きつつあった。ただ、これほど早く政治の表舞台に現れるとは。それがサンダース氏の躍進だった。民主党の大統領候補選びに挑んだ老政治家が訴えたのは、公立大学の無償化や国民皆保険制度の実現、巨大銀行の分割など。アメリカ資本主義の修正である。
大健闘だったが、7日、本命のクリントン氏の優位が確実になった。政策の実現可能性や経験などに、弱さがあった。しかし、既存の政治で異端とされた政策に焦点をあてた功績は小さくない。
背筋を伸ばしてよどみなく話す多くの政治家に比べ、前のめりで懸命に訴える演説のスタイルは決してかっこいいとは言えない。そんなことも魅力に変わるのが、米政治の閉塞を示しているのかもしれない。
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「律」の精神で現代日本を見直す
『無葬社会』より 日本仏教の特殊な成り立ち
仏教が二五〇〇年永続している理由
--「地方の寺が、地方の衰退とともに消える」。先生はこのことを、どう捉えていますか。寺は消滅するのですか。
佐々木 なくなるでしょう。過疎化に比例して、数はぐっと減るでしょう。支えるのは檀家さんですから、檀家さんが高齢化し、地域に人がいなくなれば、寺もなくなるのは自明のことです。寂しいことですがどうしようもありません。今、限界集落の寺の中には、檀家が全部街に出ていき、寺だけがぽつんと残っている、なんていうところがありますね。
--先祖代々の墓だけが荒廃した寺に残ってしまう。そして、最終的には寺や墓は「野に還る」ということですね。
佐々木 そうでしょうね。それはもう自然現象だから、仕方がないことです。その一方で少数ですが、「人の人生を受け入れるぞ」という覚悟を持ったプロの僧侶、本式の僧侶が存在するのも確かでしょう。
--僧侶の兼業についてはどうでしょう。僧侶の多くが食べられずに兼業をしている状況ですが、これも勇気を持ってやめるべきでしょうか。
佐々木 いや、私はそんなことは言いません。なぜかというと、今の時代は、昔と違って「修行という道を取るか、職業を取るか」という二者択一になっていないからです。
言ってみれば、朝九時から夕方五時まで仕事をしても、その後に僧侶としての修行はできる時代です。それに仏教を学ぶ方法も、ネットの発達によって、あまり制限されません。
情報収集が非常に楽な時代になっていますから、兼業でありながら本式の僧侶として生きることは十分可能だと思います。つまり誰にでも仏教を学び、修行する余裕が与えられる時代だということです。ですから、そういった生活さえ堅持していけるなら、私は僧侶の兼業は問題ないと思っています。
要するに、兼業しながらも、残りの時間を僧侶として誠実に使っているかどうかにかかってくるわけです。兼業して稼いだ金を持って、残った時間にパチンコ屋に行っているというのじゃ、ダメでしょうけれど。
--そうですか。
佐々木 僧侶というのは、人の人生を引き受ける力がある仕事ですし、誇りのある生き方だと考える気構えこそが大事だと思います。誇りもなく、「ただの仕事だ」と考えている僧侶の存在が一番の問題なのです。
--仏教はビジネスに生かすことはできるのでしょうか。
佐々木 生かせるでしょうね。
--たとえば、どういうところにですか?
佐々木 まず、組織論です。ビジネスは一人でやることはあまりありませんね。ビジネスをする上では組織が必要です。その組織を、どう運営するかが問題です。組織を拡大し、シェアを広げて大きくすることが第一の目的というならば、仏教を使わずに、たとえば孔子とか老子などの教えを学ぶほうがいいかもしれません。
しかし、持続可能な組織を作りたいと考える場合には、仏教が大いに役に立ちます、それはサンガの理念です。サンガは二五〇〇年続いている組織です。世界で一番寿命の長い組織です。しかも、その組織運営のための「律」と呼ばれる規則は、二五〇〇年前に成立した時からずっと、使われてきているわけです。社会が変わっても、組織の基本的骨格が揺るがないという意味で、仏教は大変、柔軟で強靭な力を持っています。ですから、仏教サンガがなぜ生き残ってきたのか、なぜ今も変わらず存在し続けているのか、その理由を分析していくことが、組織を継続させる上で、非常に役に立つのです。
--特に経営者は、仏教を学ぶことが大事だということですか。
佐々木 いえ、経営者だけでなく、社会の人たちが等しく知識を共有することが理想です。仏教サンガの理念は、会社組織に限らず、社会の様々な組織に有効なのです。
自浄作用を組み込んだ組織が生き残る
佐々木 仏教の組織運営法が役立つ代表的な例が、科学者の世界です。科学者の組織は、組織を拡大させることを第一義とはしません。科学研究が正しく行われ続けることを一番の目的にするのですから、仏教がよい手本になります。〝小保方問題〟を起こした理化学研究所などは、基本が全く理解できていませんね。
科学者というのは、自分が好きで選んだ生き甲斐の道を追求するために、世俗の仕事をせず、研究に身をささげる人たちですから、その本質は出家です。科学者というのは一種の出家者なのです。一見、相反するような存在ですが。
佐々木 成果が、たまたま役に立つことも多いものですから、「科学は社会にとって有益な活動だ」と思いがちですが、科学は本来、何の役にも立たないものです。
科学の発展は、一生かけて真理を発見したいと願う出家的科学者によって最初の種がまかれ、それが受け継がれ応用されていくうちに、次第に社会に役立つ技術として実用化されていく、というプロセスの繰り返しです。ですから出家的な生き方が理解されない社会では、直]の意味での科学の発展は起こhソ得ません。そこでは、単なる技術の改良だけが重視されるからです。
たとえばビッグバンの研究なんて、今の社会にとって何の役にも立たないですよ。しかしながら、そのビッグバンを研究している宇宙物理学者を一般の人が見ると「なんて素晴らしいことをしている人なんだ、格好いいなあ」と思う。さらにビッグバンの研究が、今は役に立たなくても一〇〇年後、二〇〇年後にひょっとしたら素晴らしい利益を我々に与えてくれるんじやないかという、遠い先の果報も期待します。
その期待感でビッグバンの研究者を支えるわけですよ、税金で。日本にまだこういう気風が残っているのは幸せなことです。しかし、それもだんだん危うくなってきています。
--そう聞けば、一緒ですね、僧侶と。
佐々木 まさに、「お布施」です。研究費も給料も全部ね。何十億円、何百億円の研究費、これは全部、社会から科学者への布施なのです。
こうして見れば、仏教と科学は、組織的に同じ構造を持っていることが分かります。一般社会からお布施をもらう代わりに、何をリターンとして与えるかといえば、僧侶の場合なら、正しく誠実に修行をしている姿。そして科学者ならば、うそ偽りなく堅実に誠実に研究する姿ですよ。
--それが理研のような事件があると、科学の根幹が揺らぐ。
佐々木 そうですよ。あれは言ってみれば、生臭で不誠実で、律の規則を根底から否定するような僧侶が出てきて悪事を働いたのに、サンガがその僧侶を処分しなかったということと同じなのです。
仏教サンガに律があるということは、サンガが自浄作用を持っているということの証しです。律では規則に反した僧侶がいれば自分たちで処罰し、場合によっては追放するということを決めています。そのことを社会もよく知っているから、サンガの自浄能力を信用します。だから皆、喜んでお布施して、サンガを支えようと考えるのです。
ところが理研は、律を何も持っていなかったし、持つ気もないということを世間に知られてしまった。その時、社会は、理研というのはインチキな人間がたくさんいる場所だと感じたのです。本当に問題があったのは小保方さん一人かもしれないけれど、他にも同じような研究者がたくさんいるだろうと考えました。
その結果、社会全体として、もうお布施を上げるのはやめようと考えるようになる。お布施を差し上げるに値しない出家者だと思われるようになるのです。理研がこの先どうなっていくのか私には分かりませんが、よほど厳しい自浄システムを構築しなければ、いずれ自然消滅す
--一般企業でも、これは同じことですね。結局、客に見放されれば、つぶれる。社会から後ろ指さされるようなことをせず、誠実に企業活動をしていることが重要だということでしょう。
佐々木 そうですね。やはり、自浄作用があるかないかが、生命線ですよ。そのためには自動的に自浄作用が働くような規則を、最初から組織に組み込んでおかなければならないと思います。
何かあった時に初めて自浄作用を構築する、なんてことではダメです。企業のトップが自分の気分次第で社員を罰するなんて組織は、もっとダメですね。そもそも、社長自身を罰する規則が企業にないといけません。
--なるほど、社長自身を罰することが可能でないといけないのですね。
佐々木 はい、社長自身が、社員と同じように罰せられるような組織体でないと。
--ブラック企業と言われているところは、それができていないのですね。
佐々木 そうです、だから最終的にはブラック企業はつぶれるんです。組織に自浄作用がないところは、崩壊するのです。それは歴史が証明しています。
オウム真理教元代表、松本智津夫死刑囚(麻原彰晃)も同じで、律をつくらずに、全部自分が物事の是非を勝手に決めていったでしょう。すると全ての運営が恣意的に決まっていきますから、最終的に暴走を招くわけです。
だから、組織運営する上では、自動的に、全てのメンバーに平等に適用できる法治主義的システムが絶対必要です。それが組織の自浄効果を生み出し、社会的な信用につながっていく。
仏教の律は、まさにそういった自浄作用のための法律集なのです。
--こうしたことを大衆が勉強するには、どうしたらいいんでしょう。どこで勉強すればいいのでしょうか。
佐々木 実は律の研究が仏教学で一番遅れているのです。なぜかというと、日本仏教には律がありませんので、律を学ぶ仏教学者がほとんどいませんでしたし、日本以外の、実際に律を守っている仏教国では、律とは覚えて守るべきものであって、学問の対象として分析すべきものではない、という風潮が強いからです。
それがようやく是正されてきたのがここ二〇年ほどの話ですよ。だから律を学びたいという場合、これ一冊読めば大丈夫などという虎の巻はありません。私は、いくつか一般向けの解説書を書いていますけれども、それも一部を示しているだけであって、このインタビューでお話ししたような話はどこにも書いてないのです。こういう話はとても面白いんですけどね。
--とても面白いです。
佐々木 時代にぴったり合うんですよ。実は先はどのビッグバンの話もちゃんとモデルがいます。私、物理学者の佐藤勝彦さんと懇意にさせてもらっているのですが、佐藤さんに「先生のやっていることって、社会的にはあまり役に立ちませんね」と言うと、佐藤さんは楽しそうな顔をして、「そうなんです、だけどそういうことを、皆さんからの支えでやらせてもらっていることをとてもうれしく思っています」とおっしゃる。つまり、純粋に生き甲斐だけを追求している自分の人生に対して、誇りを持っておられるからそういう言葉が出るんですね。
仏教が二五〇〇年永続している理由
--「地方の寺が、地方の衰退とともに消える」。先生はこのことを、どう捉えていますか。寺は消滅するのですか。
佐々木 なくなるでしょう。過疎化に比例して、数はぐっと減るでしょう。支えるのは檀家さんですから、檀家さんが高齢化し、地域に人がいなくなれば、寺もなくなるのは自明のことです。寂しいことですがどうしようもありません。今、限界集落の寺の中には、檀家が全部街に出ていき、寺だけがぽつんと残っている、なんていうところがありますね。
--先祖代々の墓だけが荒廃した寺に残ってしまう。そして、最終的には寺や墓は「野に還る」ということですね。
佐々木 そうでしょうね。それはもう自然現象だから、仕方がないことです。その一方で少数ですが、「人の人生を受け入れるぞ」という覚悟を持ったプロの僧侶、本式の僧侶が存在するのも確かでしょう。
--僧侶の兼業についてはどうでしょう。僧侶の多くが食べられずに兼業をしている状況ですが、これも勇気を持ってやめるべきでしょうか。
佐々木 いや、私はそんなことは言いません。なぜかというと、今の時代は、昔と違って「修行という道を取るか、職業を取るか」という二者択一になっていないからです。
言ってみれば、朝九時から夕方五時まで仕事をしても、その後に僧侶としての修行はできる時代です。それに仏教を学ぶ方法も、ネットの発達によって、あまり制限されません。
情報収集が非常に楽な時代になっていますから、兼業でありながら本式の僧侶として生きることは十分可能だと思います。つまり誰にでも仏教を学び、修行する余裕が与えられる時代だということです。ですから、そういった生活さえ堅持していけるなら、私は僧侶の兼業は問題ないと思っています。
要するに、兼業しながらも、残りの時間を僧侶として誠実に使っているかどうかにかかってくるわけです。兼業して稼いだ金を持って、残った時間にパチンコ屋に行っているというのじゃ、ダメでしょうけれど。
--そうですか。
佐々木 僧侶というのは、人の人生を引き受ける力がある仕事ですし、誇りのある生き方だと考える気構えこそが大事だと思います。誇りもなく、「ただの仕事だ」と考えている僧侶の存在が一番の問題なのです。
--仏教はビジネスに生かすことはできるのでしょうか。
佐々木 生かせるでしょうね。
--たとえば、どういうところにですか?
佐々木 まず、組織論です。ビジネスは一人でやることはあまりありませんね。ビジネスをする上では組織が必要です。その組織を、どう運営するかが問題です。組織を拡大し、シェアを広げて大きくすることが第一の目的というならば、仏教を使わずに、たとえば孔子とか老子などの教えを学ぶほうがいいかもしれません。
しかし、持続可能な組織を作りたいと考える場合には、仏教が大いに役に立ちます、それはサンガの理念です。サンガは二五〇〇年続いている組織です。世界で一番寿命の長い組織です。しかも、その組織運営のための「律」と呼ばれる規則は、二五〇〇年前に成立した時からずっと、使われてきているわけです。社会が変わっても、組織の基本的骨格が揺るがないという意味で、仏教は大変、柔軟で強靭な力を持っています。ですから、仏教サンガがなぜ生き残ってきたのか、なぜ今も変わらず存在し続けているのか、その理由を分析していくことが、組織を継続させる上で、非常に役に立つのです。
--特に経営者は、仏教を学ぶことが大事だということですか。
佐々木 いえ、経営者だけでなく、社会の人たちが等しく知識を共有することが理想です。仏教サンガの理念は、会社組織に限らず、社会の様々な組織に有効なのです。
自浄作用を組み込んだ組織が生き残る
佐々木 仏教の組織運営法が役立つ代表的な例が、科学者の世界です。科学者の組織は、組織を拡大させることを第一義とはしません。科学研究が正しく行われ続けることを一番の目的にするのですから、仏教がよい手本になります。〝小保方問題〟を起こした理化学研究所などは、基本が全く理解できていませんね。
科学者というのは、自分が好きで選んだ生き甲斐の道を追求するために、世俗の仕事をせず、研究に身をささげる人たちですから、その本質は出家です。科学者というのは一種の出家者なのです。一見、相反するような存在ですが。
佐々木 成果が、たまたま役に立つことも多いものですから、「科学は社会にとって有益な活動だ」と思いがちですが、科学は本来、何の役にも立たないものです。
科学の発展は、一生かけて真理を発見したいと願う出家的科学者によって最初の種がまかれ、それが受け継がれ応用されていくうちに、次第に社会に役立つ技術として実用化されていく、というプロセスの繰り返しです。ですから出家的な生き方が理解されない社会では、直]の意味での科学の発展は起こhソ得ません。そこでは、単なる技術の改良だけが重視されるからです。
たとえばビッグバンの研究なんて、今の社会にとって何の役にも立たないですよ。しかしながら、そのビッグバンを研究している宇宙物理学者を一般の人が見ると「なんて素晴らしいことをしている人なんだ、格好いいなあ」と思う。さらにビッグバンの研究が、今は役に立たなくても一〇〇年後、二〇〇年後にひょっとしたら素晴らしい利益を我々に与えてくれるんじやないかという、遠い先の果報も期待します。
その期待感でビッグバンの研究者を支えるわけですよ、税金で。日本にまだこういう気風が残っているのは幸せなことです。しかし、それもだんだん危うくなってきています。
--そう聞けば、一緒ですね、僧侶と。
佐々木 まさに、「お布施」です。研究費も給料も全部ね。何十億円、何百億円の研究費、これは全部、社会から科学者への布施なのです。
こうして見れば、仏教と科学は、組織的に同じ構造を持っていることが分かります。一般社会からお布施をもらう代わりに、何をリターンとして与えるかといえば、僧侶の場合なら、正しく誠実に修行をしている姿。そして科学者ならば、うそ偽りなく堅実に誠実に研究する姿ですよ。
--それが理研のような事件があると、科学の根幹が揺らぐ。
佐々木 そうですよ。あれは言ってみれば、生臭で不誠実で、律の規則を根底から否定するような僧侶が出てきて悪事を働いたのに、サンガがその僧侶を処分しなかったということと同じなのです。
仏教サンガに律があるということは、サンガが自浄作用を持っているということの証しです。律では規則に反した僧侶がいれば自分たちで処罰し、場合によっては追放するということを決めています。そのことを社会もよく知っているから、サンガの自浄能力を信用します。だから皆、喜んでお布施して、サンガを支えようと考えるのです。
ところが理研は、律を何も持っていなかったし、持つ気もないということを世間に知られてしまった。その時、社会は、理研というのはインチキな人間がたくさんいる場所だと感じたのです。本当に問題があったのは小保方さん一人かもしれないけれど、他にも同じような研究者がたくさんいるだろうと考えました。
その結果、社会全体として、もうお布施を上げるのはやめようと考えるようになる。お布施を差し上げるに値しない出家者だと思われるようになるのです。理研がこの先どうなっていくのか私には分かりませんが、よほど厳しい自浄システムを構築しなければ、いずれ自然消滅す
--一般企業でも、これは同じことですね。結局、客に見放されれば、つぶれる。社会から後ろ指さされるようなことをせず、誠実に企業活動をしていることが重要だということでしょう。
佐々木 そうですね。やはり、自浄作用があるかないかが、生命線ですよ。そのためには自動的に自浄作用が働くような規則を、最初から組織に組み込んでおかなければならないと思います。
何かあった時に初めて自浄作用を構築する、なんてことではダメです。企業のトップが自分の気分次第で社員を罰するなんて組織は、もっとダメですね。そもそも、社長自身を罰する規則が企業にないといけません。
--なるほど、社長自身を罰することが可能でないといけないのですね。
佐々木 はい、社長自身が、社員と同じように罰せられるような組織体でないと。
--ブラック企業と言われているところは、それができていないのですね。
佐々木 そうです、だから最終的にはブラック企業はつぶれるんです。組織に自浄作用がないところは、崩壊するのです。それは歴史が証明しています。
オウム真理教元代表、松本智津夫死刑囚(麻原彰晃)も同じで、律をつくらずに、全部自分が物事の是非を勝手に決めていったでしょう。すると全ての運営が恣意的に決まっていきますから、最終的に暴走を招くわけです。
だから、組織運営する上では、自動的に、全てのメンバーに平等に適用できる法治主義的システムが絶対必要です。それが組織の自浄効果を生み出し、社会的な信用につながっていく。
仏教の律は、まさにそういった自浄作用のための法律集なのです。
--こうしたことを大衆が勉強するには、どうしたらいいんでしょう。どこで勉強すればいいのでしょうか。
佐々木 実は律の研究が仏教学で一番遅れているのです。なぜかというと、日本仏教には律がありませんので、律を学ぶ仏教学者がほとんどいませんでしたし、日本以外の、実際に律を守っている仏教国では、律とは覚えて守るべきものであって、学問の対象として分析すべきものではない、という風潮が強いからです。
それがようやく是正されてきたのがここ二〇年ほどの話ですよ。だから律を学びたいという場合、これ一冊読めば大丈夫などという虎の巻はありません。私は、いくつか一般向けの解説書を書いていますけれども、それも一部を示しているだけであって、このインタビューでお話ししたような話はどこにも書いてないのです。こういう話はとても面白いんですけどね。
--とても面白いです。
佐々木 時代にぴったり合うんですよ。実は先はどのビッグバンの話もちゃんとモデルがいます。私、物理学者の佐藤勝彦さんと懇意にさせてもらっているのですが、佐藤さんに「先生のやっていることって、社会的にはあまり役に立ちませんね」と言うと、佐藤さんは楽しそうな顔をして、「そうなんです、だけどそういうことを、皆さんからの支えでやらせてもらっていることをとてもうれしく思っています」とおっしゃる。つまり、純粋に生き甲斐だけを追求している自分の人生に対して、誇りを持っておられるからそういう言葉が出るんですね。
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所有権放棄は誰のため
所有権放棄は誰のため
なぜ、所有権放棄を要請するのか。それは自分の覚醒であって、今の政権に言うことではない。内なる世界を創り出さない限り、シェア社会は維持できない。それが答えだからです。人類を持たせるためには、所有権放棄が必要です。
車のように、場所を占有するモノについては、所有という権利に疑問が湧きます。何しろ、共有財産のインフラの道路を占有しているのだから、所有はおかしいでしょう。
それが故に、ペテルスブルグのソ連時代のアパート群にしてはいけない。決まり切ったカタチでなく、多様性のもとに、それぞれが自分の未来を見る目にしたがって行動していく。
共産主義での行動は幼稚だった
マルクス・エンゲルスの行動を見ても、暴力的な政治行動よりも、宣伝活動と組織化を呼びかけることで、それぞれが覚醒することを求めています。
だけど、現実に飢えているモノに対しては、それらはあまりにも遠かった。上がなくなった時点では、内なる世界は感じられるかもしれないけど、外に向ける方が手っ取り早い。その流れに従った。だから、これはいかに効率よくやっていくかの問題です。
答えを示すという意味では、マルクスもエンゲルスも一生懸命答えを探したが、その先を見ていなかった。革命をどう維持するか。革命が当たり前になった時の進化のシナリオまで考える前に現実が歪んでしまった。
仏教のお布施
仏教のお布施。お布施というのは結局、分けるモノです。修行する者と相でない者、金を与える者と受ける者。見返りが満足できなければ、世の中はいつまで経っても良くならない。
キリストの場合は来世が在ります。その時に選ばれるという報酬。一括バーゲンみたいなものですね。ユダヤの選民思想は極端ですけど。
本の処理
やっと、どうにか、借りた本の処理が終わりました。
ヘモグロビンが心配
間食しないことを忘れました。次の診断まで2週間もないです。ヘモグロビン対策しないと。歩行と接触ですね。特に空腹がポイントになります。
『無葬社会』「律」の精神で現代日本を見直す
仏教をムスリムの戒律のように、コミュニティ存立の糧にできないか。多神教は何を民衆に望むのか。「戒」「律」の「戒」はあるのかなどを考えていた。
『天声人語 2016年1月-6月』米大統領選挙関係の抜き出し
天声人語では米国大統領選挙をどう見ていたのか。論説にストック情報はあるのか。フローでおしまいになるのか。新聞は言ったことがその場でおしまいになる。新聞というメディアの脆弱さを感じると同時に、忘れ去るという日本人の特質に合っているかもしれない。
ネットの世界ではいつまでもくすぶっている。乃木坂の松浦の「路上チュー事件」は未だに出てくる。生田と松浦のからあげ姉妹『無表情』でアンサーしているのに、幽霊のように出てくる。
『世界天才紀行』アテネ 天才は単純 散歩を楽しむ
アテネには、奥さんと一緒に行って、アテネ在住の姪夫婦とアクアポリスとかタベルナでの食事を楽しんだ。いつかは古代ギリシャの町を歩いてみたい。アゴラが町の中心だったみたい。まだまだ、見てみたい景色はあります。太平洋から処断されて、地中海が湖だったころがある。ジブラルタル海峡に穴が空き、海水がどっと流れ込んできた風景はすごかった。
彼らはいずれも、世界を一変させる偉大なものを生みだした。だがその舞台はじつに狭い場所だった。彼らが才能を発揮したのは、まさに〝今いる場所〟だ。どんな天才も、あらゆる政治家と同じく、その土地に根ざしているのである。
なぜ、所有権放棄を要請するのか。それは自分の覚醒であって、今の政権に言うことではない。内なる世界を創り出さない限り、シェア社会は維持できない。それが答えだからです。人類を持たせるためには、所有権放棄が必要です。
車のように、場所を占有するモノについては、所有という権利に疑問が湧きます。何しろ、共有財産のインフラの道路を占有しているのだから、所有はおかしいでしょう。
それが故に、ペテルスブルグのソ連時代のアパート群にしてはいけない。決まり切ったカタチでなく、多様性のもとに、それぞれが自分の未来を見る目にしたがって行動していく。
共産主義での行動は幼稚だった
マルクス・エンゲルスの行動を見ても、暴力的な政治行動よりも、宣伝活動と組織化を呼びかけることで、それぞれが覚醒することを求めています。
だけど、現実に飢えているモノに対しては、それらはあまりにも遠かった。上がなくなった時点では、内なる世界は感じられるかもしれないけど、外に向ける方が手っ取り早い。その流れに従った。だから、これはいかに効率よくやっていくかの問題です。
答えを示すという意味では、マルクスもエンゲルスも一生懸命答えを探したが、その先を見ていなかった。革命をどう維持するか。革命が当たり前になった時の進化のシナリオまで考える前に現実が歪んでしまった。
仏教のお布施
仏教のお布施。お布施というのは結局、分けるモノです。修行する者と相でない者、金を与える者と受ける者。見返りが満足できなければ、世の中はいつまで経っても良くならない。
キリストの場合は来世が在ります。その時に選ばれるという報酬。一括バーゲンみたいなものですね。ユダヤの選民思想は極端ですけど。
本の処理
やっと、どうにか、借りた本の処理が終わりました。
ヘモグロビンが心配
間食しないことを忘れました。次の診断まで2週間もないです。ヘモグロビン対策しないと。歩行と接触ですね。特に空腹がポイントになります。
『無葬社会』「律」の精神で現代日本を見直す
仏教をムスリムの戒律のように、コミュニティ存立の糧にできないか。多神教は何を民衆に望むのか。「戒」「律」の「戒」はあるのかなどを考えていた。
『天声人語 2016年1月-6月』米大統領選挙関係の抜き出し
天声人語では米国大統領選挙をどう見ていたのか。論説にストック情報はあるのか。フローでおしまいになるのか。新聞は言ったことがその場でおしまいになる。新聞というメディアの脆弱さを感じると同時に、忘れ去るという日本人の特質に合っているかもしれない。
ネットの世界ではいつまでもくすぶっている。乃木坂の松浦の「路上チュー事件」は未だに出てくる。生田と松浦のからあげ姉妹『無表情』でアンサーしているのに、幽霊のように出てくる。
『世界天才紀行』アテネ 天才は単純 散歩を楽しむ
アテネには、奥さんと一緒に行って、アテネ在住の姪夫婦とアクアポリスとかタベルナでの食事を楽しんだ。いつかは古代ギリシャの町を歩いてみたい。アゴラが町の中心だったみたい。まだまだ、見てみたい景色はあります。太平洋から処断されて、地中海が湖だったころがある。ジブラルタル海峡に穴が空き、海水がどっと流れ込んできた風景はすごかった。
彼らはいずれも、世界を一変させる偉大なものを生みだした。だがその舞台はじつに狭い場所だった。彼らが才能を発揮したのは、まさに〝今いる場所〟だ。どんな天才も、あらゆる政治家と同じく、その土地に根ざしているのである。
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