『世界天才紀行』より ⇒ アテネには、奥さんと一緒に行って、アテネ在住の姪夫婦とアクアポリスとかタベルナでの食事を楽しんだ。いつかは古代ギリシャの町を歩いてみたい。アゴラが町の中心だったみたい。
ありふれた日常のなかで、天才たちはじっくりと才能を熟成させる。ジークムント・フロイトは、ウィーンのカフェ「ラントマン」で好物のケーキをほおばる。アインシュタインは、スイスのベルンにある特許庁の窓からじっと外を眺める。レオナルド・ダ・ヴィンチは、フィレンツエの蒸し暑くてほこりっぽい工房で額の汗をぬぐう。彼らはいずれも、世界を一変させる偉大なものを生みだした。だがその舞台はじつに狭い場所だった。彼らが才能を発揮したのは、まさに〝今いる場所〟だ。どんな天才も、あらゆる政治家と同じく、その土地に根ざしているのである。
この新たな、地の利を得た場所から、私は古代ギリシア人について多くを学ぶ。彼らがダンスをこよなく愛していたと知り、現代の曲を聴いたらどんな反応を示すだろうかと想像してみる。古代ギリシアの若い男たちは運動をする前にオリーブオイルをからだに塗っていたことを知り、運動場にただようオリーブオイルの男らしい香りは香水よりもかぐわしいとされていたことを学ぶ。肌着をつげず、一本につながった眉が美の象徴で、イナゴをぺッ卜兼食材として楽しんでいたことも。こうして多くを学び、ちょっとした勘ちがいはともかくとして、彼らがーどうやって〟生みだしたのかではなく、〝何を〟生みだしたかを知る。そしてこれこそが、私が選んだ方法なのである。
とはいえまずは、何はさておき、古代ギリシアになかったものを欲している。コーヒーだ。だがこの〝神の飲み物〟は、飲めさえすればどこで飲んでもいいというわけではない。どこで飲むかが重要だ。
私にとって、カフェは第二の家に等しい。まさに社会学者のレイ・オルデンバーグが言うところの「とびきり居心地のよい場所」だ。食べ物や飲み物それ自体は重要ではない、といっても過言ではない。大切なのは雰囲気だ。テーブルクロスや調度品の話ではなく、もっととらえどころのない空気のようなもの。罪悪感なく長居ができて、周囲の騒々しさと思索に没頭できる沈黙の絶妙なバランスをとることができる、そんな雰囲気である。
古代ギリシア人が早起きだったかどうかは知らないが、二一世紀のギリシア人はそれほど早起きではない。私は朝八時にホテルを出て、眠気とたたかう臨時の店番や警察官の一団がいる通りを進む。暴徒にそなえてロボコップのような装備に身を包んだ警察官のいでたちを見て、古代と同じく、現代のアテネも緊張状態にあることを思い起こす。
相変わらず大げさで、身振り手振りのやたらと多いトニーの道案内にしたがい、活気あふれる歩道橋に足を運ぶ。カフェや小さな店が軒を連ね、まさに古代アテナイ的なコミュニティを示す縮図が目の前に広がっている。しばらく歩くと、とびきり居心地のよい場所が目に留まる。「橋」という名のカフェ。まさに私にふさわしい。なにしろ、いくつもの世紀にかかる橋を渡って旅をするという、荒唐無稽な使命を背負っているのだから。
そのカフェはいたってふつうの店で、ドラコ通りに面していくつかテラス席が設けられているだけだった。さながら、客は芝居の観客で、店に面する通りが舞台だ。こうしたカフエでは、ギリシア人にはおなじみの時間のすごしかたがある。座ることだ。ギリシア人は仲間とでも、一人でも座る。夏の太陽の下でも、冬の寒空の下でも座る。椅子がなくても平気だ。歩道の縁石や道端の段ボール箱で十分。こんな習癖は、ギリシア以外ではまずお目にかかれない。「力リメーラ(こんにちは)」と、たどたどしいギリシア語で挨拶をして「橋」の先客の仲間に加わる。エスプレッソを注文し、カップで両手を温める。朝の空気は身を切るように冷たいが、今日もギリシアらしい爽平かな一日になる予感がする。「たしかにこの国は破綻寸前ですが、天候には恵まれています」と、トニーは私に得意げに言ったものだ。たしかに一理ある。この心地よい陽光に加えて、三〇〇日のからりとした晴天。ひょっとしたら、アテネに天才が生まれた理由はこの気候なのかもしれない。
しかし、残念ながら答えは「ノー」だ。古代ギリシア人の才能を磨くには、たしかに快適な気候も一役買ったかもしれないが、その理由とまでは言えない。そもそもギリシアでは、紀元前四五〇年から現在にいたるまで気候が本質的には変わっていないが、今なお〝天才の国〟と呼べるわげではないからだ。それに多くの〝黄金時代〟は、決して快適ではない環境のもとでも栄華を誇ってきた。たとえば、エリザベス時代のロンドンでは、陰影なイギリスの空の下で吟遊詩人たちが美声を響かせていた。
二杯目のエスプレッソを口に運ぶと、ようやく頭が働きぱじめ、少し先走りしすぎていたことに気づく。私はこうして天才を追っているか、その意味をほんとうに理解しているだろうか。すでに述べたとおり、天才とは〝知的あるいは芸術的な飛躍を導く者〟を意味するか、ではいったい誰が、それを飛躍と判断するのだろうか。
その答えは「私たち」だ。フランシス・ゴルトンの説にはたしかに誤りが多く、性差別的な側面もいなめないか、ゴルトンは天才の定義について重要な点を指摘してもいる。すなわち「天才とは、世界じゅうがその功績に対して大きな恩義を感じるような人物」である。天才の世界にかかわれるのは天才自身だけではない。その仲間や、世の中の人たちもかかわれる。一個人の主張ではなく、世間の評価に意味がある。「天才の流行理論」とでも呼べる理論が、これを明白に物語っている。天才たるには、その時代に特有の気まぐれ、いわば嗜好がものをいう。「創造性は評価と切っても切れない関係にある」というのは、この理論を支持するハンガリー出身の心理学者、ミハイ・チクセントミハイの言葉だ。端的に言えば、私たちが認めれば天才なのである。
この考え方は、一見すると直観とは相いれない。それどころか、冒漬的とさえ言えるかもしれない。たしかに、天才というある種の神聖なものは、大衆の評価とは無縁でなければならない側面もある。
ありふれた日常のなかで、天才たちはじっくりと才能を熟成させる。ジークムント・フロイトは、ウィーンのカフェ「ラントマン」で好物のケーキをほおばる。アインシュタインは、スイスのベルンにある特許庁の窓からじっと外を眺める。レオナルド・ダ・ヴィンチは、フィレンツエの蒸し暑くてほこりっぽい工房で額の汗をぬぐう。彼らはいずれも、世界を一変させる偉大なものを生みだした。だがその舞台はじつに狭い場所だった。彼らが才能を発揮したのは、まさに〝今いる場所〟だ。どんな天才も、あらゆる政治家と同じく、その土地に根ざしているのである。
この新たな、地の利を得た場所から、私は古代ギリシア人について多くを学ぶ。彼らがダンスをこよなく愛していたと知り、現代の曲を聴いたらどんな反応を示すだろうかと想像してみる。古代ギリシアの若い男たちは運動をする前にオリーブオイルをからだに塗っていたことを知り、運動場にただようオリーブオイルの男らしい香りは香水よりもかぐわしいとされていたことを学ぶ。肌着をつげず、一本につながった眉が美の象徴で、イナゴをぺッ卜兼食材として楽しんでいたことも。こうして多くを学び、ちょっとした勘ちがいはともかくとして、彼らがーどうやって〟生みだしたのかではなく、〝何を〟生みだしたかを知る。そしてこれこそが、私が選んだ方法なのである。
とはいえまずは、何はさておき、古代ギリシアになかったものを欲している。コーヒーだ。だがこの〝神の飲み物〟は、飲めさえすればどこで飲んでもいいというわけではない。どこで飲むかが重要だ。
私にとって、カフェは第二の家に等しい。まさに社会学者のレイ・オルデンバーグが言うところの「とびきり居心地のよい場所」だ。食べ物や飲み物それ自体は重要ではない、といっても過言ではない。大切なのは雰囲気だ。テーブルクロスや調度品の話ではなく、もっととらえどころのない空気のようなもの。罪悪感なく長居ができて、周囲の騒々しさと思索に没頭できる沈黙の絶妙なバランスをとることができる、そんな雰囲気である。
古代ギリシア人が早起きだったかどうかは知らないが、二一世紀のギリシア人はそれほど早起きではない。私は朝八時にホテルを出て、眠気とたたかう臨時の店番や警察官の一団がいる通りを進む。暴徒にそなえてロボコップのような装備に身を包んだ警察官のいでたちを見て、古代と同じく、現代のアテネも緊張状態にあることを思い起こす。
相変わらず大げさで、身振り手振りのやたらと多いトニーの道案内にしたがい、活気あふれる歩道橋に足を運ぶ。カフェや小さな店が軒を連ね、まさに古代アテナイ的なコミュニティを示す縮図が目の前に広がっている。しばらく歩くと、とびきり居心地のよい場所が目に留まる。「橋」という名のカフェ。まさに私にふさわしい。なにしろ、いくつもの世紀にかかる橋を渡って旅をするという、荒唐無稽な使命を背負っているのだから。
そのカフェはいたってふつうの店で、ドラコ通りに面していくつかテラス席が設けられているだけだった。さながら、客は芝居の観客で、店に面する通りが舞台だ。こうしたカフエでは、ギリシア人にはおなじみの時間のすごしかたがある。座ることだ。ギリシア人は仲間とでも、一人でも座る。夏の太陽の下でも、冬の寒空の下でも座る。椅子がなくても平気だ。歩道の縁石や道端の段ボール箱で十分。こんな習癖は、ギリシア以外ではまずお目にかかれない。「力リメーラ(こんにちは)」と、たどたどしいギリシア語で挨拶をして「橋」の先客の仲間に加わる。エスプレッソを注文し、カップで両手を温める。朝の空気は身を切るように冷たいが、今日もギリシアらしい爽平かな一日になる予感がする。「たしかにこの国は破綻寸前ですが、天候には恵まれています」と、トニーは私に得意げに言ったものだ。たしかに一理ある。この心地よい陽光に加えて、三〇〇日のからりとした晴天。ひょっとしたら、アテネに天才が生まれた理由はこの気候なのかもしれない。
しかし、残念ながら答えは「ノー」だ。古代ギリシア人の才能を磨くには、たしかに快適な気候も一役買ったかもしれないが、その理由とまでは言えない。そもそもギリシアでは、紀元前四五〇年から現在にいたるまで気候が本質的には変わっていないが、今なお〝天才の国〟と呼べるわげではないからだ。それに多くの〝黄金時代〟は、決して快適ではない環境のもとでも栄華を誇ってきた。たとえば、エリザベス時代のロンドンでは、陰影なイギリスの空の下で吟遊詩人たちが美声を響かせていた。
二杯目のエスプレッソを口に運ぶと、ようやく頭が働きぱじめ、少し先走りしすぎていたことに気づく。私はこうして天才を追っているか、その意味をほんとうに理解しているだろうか。すでに述べたとおり、天才とは〝知的あるいは芸術的な飛躍を導く者〟を意味するか、ではいったい誰が、それを飛躍と判断するのだろうか。
その答えは「私たち」だ。フランシス・ゴルトンの説にはたしかに誤りが多く、性差別的な側面もいなめないか、ゴルトンは天才の定義について重要な点を指摘してもいる。すなわち「天才とは、世界じゅうがその功績に対して大きな恩義を感じるような人物」である。天才の世界にかかわれるのは天才自身だけではない。その仲間や、世の中の人たちもかかわれる。一個人の主張ではなく、世間の評価に意味がある。「天才の流行理論」とでも呼べる理論が、これを明白に物語っている。天才たるには、その時代に特有の気まぐれ、いわば嗜好がものをいう。「創造性は評価と切っても切れない関係にある」というのは、この理論を支持するハンガリー出身の心理学者、ミハイ・チクセントミハイの言葉だ。端的に言えば、私たちが認めれば天才なのである。
この考え方は、一見すると直観とは相いれない。それどころか、冒漬的とさえ言えるかもしれない。たしかに、天才というある種の神聖なものは、大衆の評価とは無縁でなければならない側面もある。