楽しいことを考えよう!
楽しいことを考えよう。今の私にとって、楽しいことは、と考えて出てきたのが、未唯宇宙の見出しをポエムにすることです。イメージと言葉がつながる。私は私の世界の俳句を作り出す。
私の世界のポエムをつくる
シチュエーションは暗闇の中で、布団の中で、ICレコーダーにつぶやいた。
ポエムは副にするか正にするか。自分の世界だから、全て頭の中に入れるために、ポエムを正にします。そのウラの膨大な情報を入れ込みます。それこそ、何十年の時間と何万冊の本とシンプルな行動の結果です。
ヤフーのコメントは人を落し込む
ヤフー・ニュースのコメントは、なぜ、あのように貶すような言い方をするのか。前を見て、新しい世界を創るなどの目的がない。自分のことだけ考えて話すから、まるで深みを感じない。
議論する必要はない。自分の内なる世界で全てを考えた上で話せばいいだけなのに。
ポエムにするのは難しい
例えば、「真理は単純なモノ」「真理は数学に中にある」これらの言葉だけで空間が見えるようにしましょう。自分編はポエムになりやすい。
決して、説明にならないようにします。「てにをは」は省く。あくまでもポエムの追求する。例えば、「数理的思考を具現化」。これをどう変えれば、ポエムになるのか。イメージに沿って、言葉を創り出すことですね。
ただし、「循環モデル」の代わりに、「めぐりめぐっていく」とすると、字数が多くなりすぎ。こう見ると、「化」が多いですね。具体化とか抽象化とか。これはイメージを湧きにくい。
「支配を配置」を変える場合、「支配」が言いたいのか、「配置」が必要なのか。「配置で考えよう」とするのか、「支配って何」と考えるのか。
「私のために準備」みたいなモノは「準備されている」。持って回った言い方は避けます。
乃木坂の題名をつなげるようなもの
「14歳の君へ」というような文章ですね。池田晶子さんが居れば、そうなります。「存在の意味」とかいうのは、そのまま使います。歌の題名だと思えばいいでしょう。「サヨナラの意味」と一緒ですね。
乃木坂の歌の題名でつなげる人がいます。それぞれが意味を持っているから、イメージを持っているからでしょう。
イメージと言葉をつなげる
目的は楽しくすることと、イメージと言葉をつなげること。あくまでも、事実と認識がバックにあります。参考資料も添付されている。この世で考えたこと、感じたことをいかに表現するのか。
こうして、言葉を並べてみると、本当に跳んでいますね。どこから現れるかわからない。だけど、自分の中では底辺でつながっている。言葉は不思議です。思考とは違う。思考を表していない。だけど、言葉にして、初めてわかることもある。言葉にしないと現れない
ポエム化は新しい俳句かもしれない。言葉とイメージをつなぐ。そして、先をつなぐ。ポエムにするルール。あくまでも中身は変えずに見出しだけを変える。参考資料との関係は別個に進めていきます。
寝らながら考える
寝らながら考える。半分寝ているけど、言葉に重力を感じない。半分以上の脳は眠っています。この心地よさ。
もっと、身が軽ければいいのに。生ちゃんのように、アッシュのように、そして蘭世のようになればいい。寝ながらならば、それができます。いくらでも変わります。何しろ、半分以上は寝ているんだから。
放り込まれた理由
なぜ、放り込んだのか。意思の世界から変えたいのでしょう。いつまでも甘えるな! それが言いたくて、見てもらうために放り込んだんでしょう。
配置における順番はさほど重要ではない
順番も見直さないといけない。見直しばかりやっている。「私は正しい」「私は間違っていない」「何が正しいのか」「未来を預言」「自己肯定」。これの順番はどうなるのか。
この順番でも、説明できる。配置の世界においては、順番はさほど、重要なものでないではないかもしれない。
紙の世界から脱する
未唯宇宙が紙であれば、すぐに直すんだけど、そこまで、ツールは発達していない。すぐにそういうことができるようになるんでしょうけど。
アマゾンが「本を変える」というならば、本の特徴は書き込めることです。マックの当初のパーシュエーションであれば、レイアの発想で可能だった。それらの発想に助けられた。
ツールを作ることから始める
日本の世界にはマイクロソフトのソフトしかない。ワードで十分だと思っている。会社ではエクセルをワード代わりにしているモノが多い。それはハイアラキーの世界の産物です。ツールに使われている。
それに対して、アップルの考え方は納得です。ハイパーカードは、自分の思考にツールを会わせている。本を順番に書いていくことに違和感を感じた。なにしろ、思考はランダムに起こってくる。それらをどうつなげるかは後から考える。それにあった道具がなかった。
だから、ハイパーカードを作った。これがすごい考え方です。なければ作る。自分は正しい。道具を合わせる。人間は最初、自分のために道具を作る。次にそれから縛られる。原爆のように。
クルアーンはおとぎ話
クルアーンはおとぎ話ですね。聖書も仏典も違います。おとぎ話はクルアーンだけです。それに近いのは、北欧神話でしょう。
乃木坂のブログのコメント
乃木坂のブログのコメントを見るには時間が掛ります。それぞれが長い。これを見る限りは、紅白というのは、歳の最後にゆったりできる。同時に、乃木坂が出ていることに喜びを感じている。本当に、皆、本当に長い文章を書きますね。これはいいことです。
クリスマスライブのチケットはなかなか、当たらないみたいですね。チケットなんだから、ドンドン出せばいいのに。何回にも当たって、抽選するから、一回当たりの辺りが少ないんでしょう。
乃木坂は乃木坂とそれが楽しい人間の集まりです。それを皆に知らせたくてやるだけです。ブログのコメントを見ていて、そう思います。受験シーズンの真っ只中にいる、学生にとって、これは唯一の楽しみです。そこでは、目標にしていた人間が居るから、それを支援する、一緒に楽しむ。
そういうことに対して、ヤフーニュースは何にも役に立っていない。あのばかげた人間の飯の種を提供しているだけです。ヤフーニュースのコメントのアホさ加減に比べるとはるかに前向きです。
紅白には未来はない
紅白が一番悪いのは、お客です。いまは、一体型の歌手が多い。歌手毎に、お客の総入れ替えが必要です。典型はベビメタルです。人間をドンドン分化させないといけない。それに合っていない。
そのために、5ヶ所ぐらいで切り替えていかないと、ベビメタルも乗ってこれない。
私には年末年始がない
私の場合は年末年始がない。母親が亡くなった時に、年賀状を止めました。現役だったけど、名刺を全て捨てました。
私が亡くなった時に、唯一、泣いてくれる人がいなくなった。そこから、他者の世界には縛られない。
パートナーからのメール
パートナーのメールは、3カ月ぶりに合った時から、早、二ヶ月。ピタッと止っています。もう、冬ですよ。
部分が全体になる
表現も「部分と全体」と言うことでなく、「部分が全体」となれば、イメージが湧きます。元々、部分は全体よりも大きいというのが基本概念です。これは部品表のロジックの基本です。
複雑性の「周縁から中核」も同じです。意味するモノは部分よりも全体が大きい。それを時系列で並べると、「原因と結果」になります。「結果は原因」です。数学的事実を言葉で述べる。言葉で拡張する。なんなら哲学まで。
楽しいことを考えよう。今の私にとって、楽しいことは、と考えて出てきたのが、未唯宇宙の見出しをポエムにすることです。イメージと言葉がつながる。私は私の世界の俳句を作り出す。
私の世界のポエムをつくる
シチュエーションは暗闇の中で、布団の中で、ICレコーダーにつぶやいた。
ポエムは副にするか正にするか。自分の世界だから、全て頭の中に入れるために、ポエムを正にします。そのウラの膨大な情報を入れ込みます。それこそ、何十年の時間と何万冊の本とシンプルな行動の結果です。
ヤフーのコメントは人を落し込む
ヤフー・ニュースのコメントは、なぜ、あのように貶すような言い方をするのか。前を見て、新しい世界を創るなどの目的がない。自分のことだけ考えて話すから、まるで深みを感じない。
議論する必要はない。自分の内なる世界で全てを考えた上で話せばいいだけなのに。
ポエムにするのは難しい
例えば、「真理は単純なモノ」「真理は数学に中にある」これらの言葉だけで空間が見えるようにしましょう。自分編はポエムになりやすい。
決して、説明にならないようにします。「てにをは」は省く。あくまでもポエムの追求する。例えば、「数理的思考を具現化」。これをどう変えれば、ポエムになるのか。イメージに沿って、言葉を創り出すことですね。
ただし、「循環モデル」の代わりに、「めぐりめぐっていく」とすると、字数が多くなりすぎ。こう見ると、「化」が多いですね。具体化とか抽象化とか。これはイメージを湧きにくい。
「支配を配置」を変える場合、「支配」が言いたいのか、「配置」が必要なのか。「配置で考えよう」とするのか、「支配って何」と考えるのか。
「私のために準備」みたいなモノは「準備されている」。持って回った言い方は避けます。
乃木坂の題名をつなげるようなもの
「14歳の君へ」というような文章ですね。池田晶子さんが居れば、そうなります。「存在の意味」とかいうのは、そのまま使います。歌の題名だと思えばいいでしょう。「サヨナラの意味」と一緒ですね。
乃木坂の歌の題名でつなげる人がいます。それぞれが意味を持っているから、イメージを持っているからでしょう。
イメージと言葉をつなげる
目的は楽しくすることと、イメージと言葉をつなげること。あくまでも、事実と認識がバックにあります。参考資料も添付されている。この世で考えたこと、感じたことをいかに表現するのか。
こうして、言葉を並べてみると、本当に跳んでいますね。どこから現れるかわからない。だけど、自分の中では底辺でつながっている。言葉は不思議です。思考とは違う。思考を表していない。だけど、言葉にして、初めてわかることもある。言葉にしないと現れない
ポエム化は新しい俳句かもしれない。言葉とイメージをつなぐ。そして、先をつなぐ。ポエムにするルール。あくまでも中身は変えずに見出しだけを変える。参考資料との関係は別個に進めていきます。
寝らながら考える
寝らながら考える。半分寝ているけど、言葉に重力を感じない。半分以上の脳は眠っています。この心地よさ。
もっと、身が軽ければいいのに。生ちゃんのように、アッシュのように、そして蘭世のようになればいい。寝ながらならば、それができます。いくらでも変わります。何しろ、半分以上は寝ているんだから。
放り込まれた理由
なぜ、放り込んだのか。意思の世界から変えたいのでしょう。いつまでも甘えるな! それが言いたくて、見てもらうために放り込んだんでしょう。
配置における順番はさほど重要ではない
順番も見直さないといけない。見直しばかりやっている。「私は正しい」「私は間違っていない」「何が正しいのか」「未来を預言」「自己肯定」。これの順番はどうなるのか。
この順番でも、説明できる。配置の世界においては、順番はさほど、重要なものでないではないかもしれない。
紙の世界から脱する
未唯宇宙が紙であれば、すぐに直すんだけど、そこまで、ツールは発達していない。すぐにそういうことができるようになるんでしょうけど。
アマゾンが「本を変える」というならば、本の特徴は書き込めることです。マックの当初のパーシュエーションであれば、レイアの発想で可能だった。それらの発想に助けられた。
ツールを作ることから始める
日本の世界にはマイクロソフトのソフトしかない。ワードで十分だと思っている。会社ではエクセルをワード代わりにしているモノが多い。それはハイアラキーの世界の産物です。ツールに使われている。
それに対して、アップルの考え方は納得です。ハイパーカードは、自分の思考にツールを会わせている。本を順番に書いていくことに違和感を感じた。なにしろ、思考はランダムに起こってくる。それらをどうつなげるかは後から考える。それにあった道具がなかった。
だから、ハイパーカードを作った。これがすごい考え方です。なければ作る。自分は正しい。道具を合わせる。人間は最初、自分のために道具を作る。次にそれから縛られる。原爆のように。
クルアーンはおとぎ話
クルアーンはおとぎ話ですね。聖書も仏典も違います。おとぎ話はクルアーンだけです。それに近いのは、北欧神話でしょう。
乃木坂のブログのコメント
乃木坂のブログのコメントを見るには時間が掛ります。それぞれが長い。これを見る限りは、紅白というのは、歳の最後にゆったりできる。同時に、乃木坂が出ていることに喜びを感じている。本当に、皆、本当に長い文章を書きますね。これはいいことです。
クリスマスライブのチケットはなかなか、当たらないみたいですね。チケットなんだから、ドンドン出せばいいのに。何回にも当たって、抽選するから、一回当たりの辺りが少ないんでしょう。
乃木坂は乃木坂とそれが楽しい人間の集まりです。それを皆に知らせたくてやるだけです。ブログのコメントを見ていて、そう思います。受験シーズンの真っ只中にいる、学生にとって、これは唯一の楽しみです。そこでは、目標にしていた人間が居るから、それを支援する、一緒に楽しむ。
そういうことに対して、ヤフーニュースは何にも役に立っていない。あのばかげた人間の飯の種を提供しているだけです。ヤフーニュースのコメントのアホさ加減に比べるとはるかに前向きです。
紅白には未来はない
紅白が一番悪いのは、お客です。いまは、一体型の歌手が多い。歌手毎に、お客の総入れ替えが必要です。典型はベビメタルです。人間をドンドン分化させないといけない。それに合っていない。
そのために、5ヶ所ぐらいで切り替えていかないと、ベビメタルも乗ってこれない。
私には年末年始がない
私の場合は年末年始がない。母親が亡くなった時に、年賀状を止めました。現役だったけど、名刺を全て捨てました。
私が亡くなった時に、唯一、泣いてくれる人がいなくなった。そこから、他者の世界には縛られない。
パートナーからのメール
パートナーのメールは、3カ月ぶりに合った時から、早、二ヶ月。ピタッと止っています。もう、冬ですよ。
部分が全体になる
表現も「部分と全体」と言うことでなく、「部分が全体」となれば、イメージが湧きます。元々、部分は全体よりも大きいというのが基本概念です。これは部品表のロジックの基本です。
複雑性の「周縁から中核」も同じです。意味するモノは部分よりも全体が大きい。それを時系列で並べると、「原因と結果」になります。「結果は原因」です。数学的事実を言葉で述べる。言葉で拡張する。なんなら哲学まで。