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スタバのプリン

マーケティングが人生

 マーケティングが人生と言うけど、その時の人生って何?

スタバのプリン

 本を読むために。朝のスタバに来ました。何しろ、29冊在るので、寝ながらの処理は難しいので、座って読むことにしました。

 スタバのプリンが大量に売れています。1時間もしないで、チョコレートの方がなくなりました。昼前に再度、駅前スタバに行ったら、完全になくなっていた。一人一個という制限を掛けていたので、在るかと思っていた。

 帰りに、元町のスタバに行ったら、当然のように売り切れと言われた。明日の入庫は少ないので、朝、並んでも変えないかもしれないと言われた。品薄感を演出しているのでしょうか。

セブンイレブンに寄ったら、小さなプリンが多種に亘って売りに出されている。

『トイレ』TOTOウォシュレットの開発秘話

 ウォシュレットにアイシンの燃料噴射技術が使われていると聞いていたが、それはどこにも書かれていなかった。

 ミリ単位の噴射技術は素晴らしい! あれこそ、日本人にとってのイノベーションです。それと古代のトルコの公衆トイレの遺跡は現地で見ました。エフェソスの図書館と同様によく出てきます。

『ドイツの歴史を知るための50章』ドイツ史のなかの人の移動--

 どうしても、現代のイスラム国からの「移民」だけが問題になるけど、歴史から見ていかないと行けない。移民排出国から移民受入国への三つの流れ。

 移民排出国ドイツ:ドイツの外への植民、特に東方への騎士団と地中海の騎士団

 国民国家形成とその影:ドイツ系の人々のドイツヘの還流。東ヨーロッパへの侵略とその結果。

 移民受入国への変貌:ドイツヘの移民・難民の流入

『ドイツの歴史を知るための50章』ヨーロッパ大転換とユーロ危機

 ユーロが実効された2002年4月に、ヘルシンキ(フィンランド)、ペテルスブルグ(ロシア)、ロンドン〔英国)、ローマ(イタリア)、ブラッセル(ベルギー)と回った。2001年10月の予定であったが、9.11で延期になって、予算範囲ぎりぎりでいくことができた。ロシアと英国以外は新札であり、両替がなく便利であった。

 ドイツの「独り勝ち」状態はいつまで続けられるのか。メルケルの決断力にすがるしかないけど、その神通力も落ちてきた。

『スペインの歴史を知るための50章』ポエニ戦争とイベリア半島

 小説『ハンニバル戦争』の背景の整理のためにOCR化した。ハンニバルがカルタゴから出陣したと思い込んでいた。ジブラルタル海峡をどのようにして象を運んだのかなと思っていた。イベリア半島支配した上で、対ローマ戦力を結集した上、ローマに攻め入った。

 有名な殲滅作戦のカンナエの戦いの小説での描写はすばらしかった。そして、スキピオの復讐劇。それはスペインで行なわれた。

 第一次ポエニ戦争(前264~241年)でのサルデーニャ島の扱いをハンニバルは恨みに思っていたと小説には書かれていた

  ローマに敗北し、前237年にサルデーニャ島をローマに奪われると、銀を産出するイベリア半島は、傭兵を雇うための財源を必要とするカルタゴ人にとって重要な意味を持つようになる。カルタゴはイベリア半島で勢力を拡大する際、基本的には軍事力を行使していた。その一方、ハスドゥルバルやハミルカルの息子のハンニバルが地元出身の娘と結婚するなど、婚姻によってもイベリア半島との結び付きを強めている。

 第二次ポエニ戦争

  前221年、ハスドゥルバルが暗殺されたことによりハンニバルが25歳の若さでイベリア半島のカルタゴ軍を率いる最高指揮官となる。彼はまずイベリア半島の諸部族に対して戦争を行い、次いでローマの同盟市であったサグントゥム(現サグント)を攻撃する。前219年にこの都市を陥落させ、兵を連れてイベルス川を越えることで父がローマと締結したエブロ条約を破ったことが明白となり、第二次ポエニ戦争(前218~201年)が始まった。彼はガリアを通り、アルプスを越えてイタリアヘと兵を進め、前217年の卜ラスメヌス湖畔の戦いや前216年のカンナエの戦いでローマに勝利する。スキピオは父を継いでヒスハニアヘと赴き、イベリア半島におけるカルタゴの本拠地であったカルタゴ・ノウァを陥落させ、以降も戦勝を重ねたことにより、前206年にカルタゴはイベリア半島を手放すこととなる。ハンニバルも前202年のザマの戦いでスキピオに敗れ、前201年にローマと講和条約を結ぶ。これにより、イベリア半島の大半がローマの傘下に入ることとなった。

 第三次ポエニ戦争でカルタゴは抹消された。その時の焼身抗議がアラブに春の発火点につながった。
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ポエニ戦争とイベリア半島--アルタミラからローマによる征服まで

『スペインの歴史を知るための50章』より ⇒ 小説『ハンニバル戦争』の背景 ハンニバルがカルタゴから出陣したと思い込んでいた。イベリア半島支配した上で、対ローマ戦力を結集した上でのカンナエの戦いであった。

ポエニ戦争とイベリア半島--アルタミラからローマによる征服まで

 旧石器時代に描かれたアルタミラの洞窟壁画で知られるように、豊かな鉱物資源や農作物に恵まれたイベリア半島には古くから人類の痕跡が残されている。前1000年頃にはピレネー山脈を越えて来たケルト人が半島北部に住みつき、その一部は先住のイベリア人と混交してケルティベリア人と呼ばれるようになる。また、既にこの時期にイベリア半島と地中海諸地域との交易も始まっていた。

 前9世紀から8世紀には、現在のレバノンやシリアを本拠地として活動するフェニキア人が地中海西方地域へと進出を始める。この時期の地中海東方では金属の需要が高まっており、フェニキア人はイベリア半島で産出される金、銀、錫、鉛、鉄などを現地住民から入手し、東方のアッシリアヘと輸出していた・ギリシア神話では、ヘラクレスは12の功業の途中でイベリア半島南端のジブラルタル海峡の両岸にヘラクレスの柱を置き、タルテッソスに立ち寄ったとされる。旧約聖書にもタルシシュという名で登場するこのタルテッソスは、現在のグアダルキビル川流域に広がっていたイベリア人の国家であり、フェニキア人との交易によって繁栄した。タルテッソスの集落からは輸入品のアンフォラや貴金属が発掘されており、交易の痕跡がはっきりと残されている。更にフェニキア人はイベリア半島における交易活動の拠点とするために、半島南部の沿岸地域に植民市としてガディル(現カディス)やマラカ(現マラガ)などを建設した。フエニキア人に次いでイベリア半島東部で交易を活発に行ったギリシア人も、紀元前600年頃には植民市エンポリオン(現アンプリアス)を建設している。

 カルタゴの到来

  フェニキア人が前7世紀からアッシリアやアケメネス朝ペルシアの興隆の中で衰退し、前332年にテュロスがアレクサンドロス大王によって陥落した後は、カルタゴが通商国家として地中海で大きな勢力を持つようになった。このカルタゴはフェニキア人の地中海交易の拠点として北アフリカに建設された植民市に起源を持ち、イベリア半島への進出も最初は交易拠点の確保が目的であった。しかし、第一次ポエニ戦争(前264~241年)でローマに敗北し、前237年にサルデーニャ島をローマに奪われると、銀を産出するイベリア半島は、傭兵を雇うための財源を必要とするカルタゴ人にとって重要な意味を持つようになる。そこで、カルタゴの将軍(ミルカル・バルカはカルタゴ軍を率いてイベリア半島へと赴く。ハミルカルは前229/228年に戦死するが、娘婿のハスドゥルバルがカルタゴ・ノウァ(現カルタヘーナ)を建設するなど、カルタゴは半島において勢力を拡大していった。これを憂慮するローマとの間に結ばれたのが、前226/225年のエブロ条約であり、カルタゴは戦争を意図してイベルス川(現エブロ川)を渡ってはならないということを定めたものだった。カルタゴはイベリア半島で勢力を拡大する際、基本的には軍事力を行使していた。その一方、ハスドゥルバルやハミルカルの息子のハンニバルが地元出身の娘と結婚するなど、婚姻によってもイベリア半島との結び付きを強めている。

  前221年、ハスドゥルバルが暗殺されたことによりハンニバルが25歳の若さでイベリア半島のカルタゴ軍を率いる最高指揮官となる。彼はまずイベリア半島の諸部族に対して戦争を行い、次いでローマの同盟市であったサグントゥム(現サグント)を攻撃する。前219年にこの都市を陥落させ、兵を連れてイベルス川を越えることで父がローマと締結したエブロ条約を破ったことが明白となり、第二次ポエニ戦争(前218~201年)が始まった。彼はガリアを通り、アルプスを越えてイタリアヘと兵を進め、前217年の卜ラスメヌス湖畔の戦いや前216年のカンナエの戦いでローマに勝利する。一方ローマは、前212年にグナエウス・スキピオが兵を率いてサグントゥムを奪回するものの、戦死してしまう。彼の同名の息子(大スキピォ)は父を継いでヒスハニアヘと赴き、イベリア半島におけるカルタゴの本拠地であったカルタゴ・ノウァを陥落させ、以降も戦勝を重ねたことにより、前206年にカルタゴはイベリア半島を手放すこととなる。ハンニバルも前202年のザマの戦いで大スキピオに敗れ、前201年にローマと講和条約を結ぶ。これにより、イベリア半島の大半がローマの傘下に入ることとなった。

 ローマによる征服

  第二次ポエニ戦争後も、ローマはイベリア半島に駐留することでカルタゴによるこの地の奪回を防ごうとした。前197年には半島東部にヒスハニア・キテリオル、南部にヒスパニア・ウルテリオルと二つの属州が設置され、ローマから属州総督が派遣されて軍務と統治に携わるようになる。しかし、ローマの支配に対する現地住民の抵抗が頻発する。属州総督が戦死する事態も生じたことから、ローマは執政官であったマルクス・ポルキウス・カトーに反乱者たちへの対処を命じ、彼は戦勝を重ねて諸部族を鎮圧していった。前171年にはイタリア半島外で最初の植民市が半島南部のカルテイアに建設され、退役軍人が入植している。

  前154年にはルシタニア人による反乱が起こり、鎮圧の過程で多くの現地住民が命を落とす。これを生き延びたウィリアトゥスが指導者となって前139年に再度生じた反乱は、ケルティペリア人も彼に同調したことから大規模なものとなる。ローマから派遣された将軍も戦闘で彼を破ることは出来なかったが、買収によってローマ側に寝返ったルシタニア人によりウィリアトゥスは命を落とし、反乱は鎮圧される。このウィリアトゥスは大国であるローマに激しく抵抗した現地住民であることから、フランコ政権下で列強に対抗するスペインの象徴として称揚された人物でもある。前153年にはセゲダの街が行った市壁の拡張がローマが降伏都市に禁じていた都市の建設にあたると判断されたことがきっかけとなり、ケルティベリア人とローマとの間の争いも起こっている。ドゥリウス川(現ドゥェロ川)上流のヌマンティアがこの戦いの主戦場となり、前133年にスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)がこの都市を陥落させたことによって反乱は終結する。これにより、イベリア半島は北部以外の大半がローマによって平定された。

 「内乱」とイベリア半島

  度重なる反乱と鎮圧を経て、前1世紀になるとイベリア半島におけるローマと現地住民との争いは小規模なものとなった。しかし、今度はローマ人同士の内乱の舞台となる。前82年からヒスパニア・キテリオル属州総督を務めたクィントゥス・セルトリウスは、ローマで彼と敵対するスッラが政権を握ると、仲間とともに命を狙われるようになる。彼はヒスパニア住民を率いて反旗をひるがえすが、ローマはグナエウス・ポンペイウスを反乱鎮圧のために派遣し、ヒスパニアは再び戦場となる。結局、前72年にセルトリウスがローマ人の部下の裏切りによって命を落としたことにより、この混乱は終結する。

  前60年にローマでカエサル、ポンペイウス、クラッススによる第一回三頭政治が始まると、ヒスパニアはポンペイウスが管轄する属州とされ、彼の拠点となる。前49年に三頭政治が崩壊してカエサルとポンベイウスが争うようになり、前48年にポンペイウスはエジプトで暗殺されるが、これ以降も彼によって任命された属州総督たちは軍を率いてヒスパニアを拠点としてカエサルに抵抗する。最終的には前45年にカエサル自らが率いる軍隊がムンダ(現ォスーナ)でポンペイウスの息子たちを破り、この勝利によって内乱は収束した。

  前44年のカエサル暗殺後には、ヒスパニアは彼の養子のオクタウィアヌスの管轄とされる。彼はライバルであるマルクス・アントニウスを破って単独統治を確立すると、前27年には元老院からアウグストゥスの称号を授与される。そして全軍団の指揮権を獲得すると、ただちに依然として未征服であったイベリア半島北部の鎮圧に着手する。前26年にはカンタブリア人との戦争、続いてアストゥリアス人との戦争に勝利する。更に前19年にはアウグストゥスの腹心のアグリッパが反抗する現地住民との戦闘を完遂したことで長期にわたる戦いに終止符が打たれ、遂にイベリア半島全域がローマの領土となった。
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ユーロ危機とドイツ--中途半端な「覇権国」

『ドイツの歴史を知るための50章』より

∃ーロッパ大転換とユーロ危機

 1991年のソ連崩壊によって第二次世界大戦後続いた冷戦体制は崩壊し、世界政治経済は新しい時代へ移った。旧共産圏諸国など30億人超が資本主義世界経済に巻き込まれ、米英主導のグローバル金融資本主義の時代を迎えた。ヨーロッパでは西欧主導の大欧州が出現した。EUは1993年単一市場をスタート、1999年ユーロ導入、東欧諸国が04年・07年に加盟し、EUは27カ国となった。

 西欧の大銀行は、単一市場・単一通貨を利用して周縁諸国に進出、為替リスクの消えたユーロ圏で巨額の貸付や投資(証券購入など)を行なった。民間も政府も資金調達は容易になり、低金利のユーロの下スベインなどで住宅ブーム、ギリシアでは財政赤字が膨張し、米国で2008年9月に勃発したリーマン・ショックによってバブルは破裂した。周縁諸国への外資流入は突然停止し、バブルは崩壊、不況対策に出動した政府の財政赤字は、2009年米英両国でも南欧諸国でもGDP比2桁となった。

 財政赤字をファイナンスする国債の買い手がいないと、政府は資金調達や国債の利払いができず、デフォルト(債務不履行)に陥る。米英などでは中央銀行が国債を購入して政府を助けるが、ユーロ圏ではそれが制約されていて、危機は深刻化・長期化した。ユーロ危機はギリシアから始まり、アイルランド、ポルトガル、スペイン、イタリア等に波及し、12年秋まで続いた。

ドイツのユーロ制度設計の問題点と制度改革

 1990年ドイツは統一し、フランスなど西欧諸国は強大化こ早独行動を恐れ、ドイツにマルク放棄を求めた。ドイツは代償にユーロの制度設計を求めて受け入れられ、EUの基本条約に取り入れられた。ユーロ危機関連では、①非救済規定(ユーロ加盟国は財政支援の義務を負わない、つまりユーロ加盟国の自己責任制)、②中央銀行による国債の直接購入の禁止(インフレ予防の観点にょる)は、ドイツの要求による。また、③ECBに金利政策や決済制度運営など平時の権限を与えるのみで、危機管理はユーロ加盟国当局に委ねた。フランスなど他の諸国は、マルク放棄を確かなものとするために、これらの諸条件を従順に受け入れた。

 だが、ユーロ危機対応では、①によりギリシアヘの財政支援が大幅に遅れた、②によってユーロ危機第二波・第三波で危機国政府を救済できなかった。また、ユーロ導入後のクロスボーダー金融にユーロ圏各国の危機管理は対応できず、③も危機対応の障害となった。

 ユーロ制度の改革が必須となり、広範に実施された。上記の①に対して、2010年春ギリシア財政支援、危機国財政支援制度が創られ、第一波危機を沈静化、2012年10月には恒常的な財政支援制度として5000億ユーロの支援が可能な欧州安定メカニズム(ESM)が設立された。②に対して、満期3年までの危機国国債無制限購入措置(OMT)をECBが採択して12年秋にユーロ危機を沈静化、危機対策ともなっている。

 ③には銀行同盟設立により対処した。まずECBが担当する単一銀行監督メカニズム(SSM)が2014年11月スタート、ユーロ圏大銀行130行ほどの監督をECBが担当し、中小行の監督は各国担当だが、全体の監督責任もECBが持つ。危機に陥った銀行の再生・破綻処理は単一破綻処理メカニズム(SRM)に委ねられ(2015年スタート)、ユーロ制度は各国自己責任制からECB・欧州委員会が危機管理を行う体制へと転換した。預金保険制度はEU各国が預金10万ユーロまでを保証することになった。

 以上の改革によって、ユーロ圏の危機対応策はひとまず完成したと見てよい。

ポスト・ユーロ危機期のEU・ユーロ圏の課題とドイツ

 ユーロ危機によりユーロ圏は2012年から13年にかけて、リーマン危機時に続く「不況の二番底」に落ち込んだ。とりわけ南欧諸国は悲惨で、ギリシアとスペインで失業率が25%を超え、若者(15歳~24歳)の失業率はその2倍を超えた。イタリア、フランスも経済は低迷し、失業率は10%を超え、改善は遅れている。ユーロ圏の低成長とデフレ懸念、南欧諸国の不況と大量失業がポスト・ユーロ危機の主要な特徴となっている。

 住宅バブルが破裂すると銀行も家計も建設関係の企業も不良債権を抱えて、経済の回復には時間がかかる。ユーロ圏では不況期に財政緊縮を強行したため、経済成長は抑制され失業率が高まった。リーマン・ショックから7年余り、長引いた不況と賃金切り下げ・労働市場柔軟化などによりアイルランド、スベインは輸出が伸びて、経済成長が戻ってきた。イタリアも民営化など経済構造改革に本格的な取り組みを始めた。

 フランスや南欧諸国は21世紀初頭の好況期に賃上げを続けてドイツとの競争力格差が大きく開いた。競争力回復には為替相場切り下げが効果的だが、ユーロ圏では為替相場は動かせない。危機国は賃金と物価の切り下げで競争力を回復するしかなく、高失業とデフレが共存し、長期化する。その苦しみを緩和するために、高所得の西欧諸国がユーロ圏レベルで財政支援機構を設置して為替相場切り下げができない危機国を支援する制度を作るべきなのだが、西欧諸国も余裕がなく、ドイツを先頭にゲルマン諸国、バルト三国、フィンランドなどはそうした公的資金移転機構に反対しており、危機国の苦境を長引かせている。

 苦境に反発して、EU離脱やユーロ反対を唱える英仏の右翼運動、スペイン、ギリシアの左翼大衆主義運動、イタリアのポピュリズム運動など、EU統合批判の政治運動が強まっている。2014年5月の欧州議会選挙でそうした批判政党が躍進した。6年続きのマイナス成長に陥ったギリシアは2015年ユーロ圏に反乱を起こした。1月総選挙で成立した急進左派連合政府は、チプラス首相が指導して政府債務削減、経済成長重視への転換などを求めてユーロ圏と闘った。だが、ユーロ圏諸国はその要求を拒否し、2015年7月第三次ギリシア支援860億ユーロと引き換えに、ギリシアに財政緊縮・経済構造改革の継続を求めた。ギリシアの民主主義をねじ伏せた対応に、EU統合の理念に反するとの批判が強まった。他方、苦境に陥ったギリシアの極左政権でさえユーロ離脱できなかった事実により、ユーロ圏からの離脱はありえないというユーロ圏の安定性への確信が生じた。ユーロ離脱はダメージが大きすぎて現実の選択肢になりえないのである。

 ギリシアの政府債務残高はGDP比175%に膨張しており、返済は不可能である。IMFは債務の大幅切り捨てを主張しているが、ドイツは頑強に拒否し、他の北部欧州諸国もドイツに追随している。だが、このままでは、危機国の高失業が継続し、反対運動の高揚、EU統合やユーロ圏の不安定化などが懸念される。

ドイツの「独り勝ち」・「覇権国」化と問題点

 リーマン危機後、ドイツは失業率を継続的に引き下げ、15年に4%台と完全雇用状態になった。ユーロ圏でただ一国好調なので、「ドイツの独り勝ち」と言われる。

 ハルツ改革・シュレーダー改革が「独り勝ち」の原因とされる。労働市場柔軟化、社会保障制度手直しにより、競争力が上昇し、財政赤字削減にも結びついた。だが、2000年から2012年まで中国向け輸出は6倍、ロシアなど中国以外の新興大国向け4倍など、21世紀初頭の新興国高度成長が輸出を通じて経済を支えた。その背後には、中国など新興国の需要に適合したドイツ製造業の高付加価値生産というドイツ要因のほかに、中・東欧に展開したドイツ企業の生産ネットワーク、ユーロ危機・ポスト危機によるユーロ安、そして中・東欧への企業移転を労働組合に提示して賃金抑制に成功し、ユーロ圏で圧倒的な競争力優位を築いたなど、多くの要因があった。「独り勝ち」に対する欧州統合の貢献もきわめて大きかった。

 フランスなど他の諸国が冴えないこともあり、ドイツはメルケル首相の下EUとユーロ圏に対して圧倒的な影響力を持つ「欧州の盟主」、「覇権国」ともいわれている。覇権国とは多少の犠牲を払ってもみずからの勢力圏に公共財を提供し、圏域の安定と繁栄を主導する国のことである。ドイツでは国益擁護のナショナリズムが強まり、国民にユーロ圏諸国の繁栄に貢献するという気概が乏しい。中途半端な覇権国である。

 ユーロ危機にもかかわらず、ユーロ圏諸国の世論は圧倒的に予-口支持が高い。ドイツでも70%を超える支持があり、財界も政界もユーロがドイツの繁栄を支えていると認識している。だが、ルールは絶対に守るべき、景気刺激政策はいつでも(デフレの時にも)絶対反対というようなドイツ独特の価値観が強固で、経済力の弱い国への寛容の心が見られない。たとえば、財政緊縮を危機国に押しつけ続けて恥じるところがない。ユーロ圏の長期経済停滞にドイツ流の政策運営は大きな責任を負っている。

 2015年9月、フォルクスワーゲン(VW)がディーゼル乗用車の排気ガスをごまかすスキャンダルが暴露された。影響は1100万台にも及び、ドイツ経済、ひいてはEU経済への悪影響が懸念される。中国など新興大国の成長率低下やウクライナをめぐるロシアとの対立もドイツ経済にダメージを与える。2015年シリアなどから難民が大規模流入し、同年の流入難民数は100万人を超えた。2060年までに人口が1000万人以上減少するとの予想を念頭に、メルケル首相は寛大な難民受け入れ策を採用し、ドイツの良識を世界に示したが、難民排斥の右翼運動が盛り上がりを見せている。2016年6月にはイギリスがEU離脱を選択した。ドイツの経済・政治にとって2010年代後半は厳しい時代になると予想される。ドイツの狭い「国益」を超えてEU統合をリードできるかどうか、ヨーロッパの命運がドイツにかかっている。
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ドイツ史のなかの人の移動--移民排出国から移民受入国へ

『ドイツの歴史を知るための50章』より

移民排出国ドイツ--ドイツの外への植民

 ドイッヘの移民・難民の流入が話題となっているが、歴史を振り返ると、ドイツは移民を受け入れるのではなく、送り出してきた時期が長い。現在も世界各地に散らばるドイツ系マイノリティは、古くは中世に始まる移住によって生じたものである。

 ドイツ史のなかの人の移動としては、「東方植民」がよく知られる。12世紀から14世紀にかけて、神聖ローマ帝国から東欧に移住した農民、騎士団、修道会、鉱夫、都市住民などが、移住先の地に異なる文化と新しい技術を持ちこみ、新しい村や都市を建設した。ポーランドからバルト海沿岸にかけての地域がこの時期の主たる移住先だった。

 これに対して、ルーマニア、旧ユーゴスラヴィアなどの南東欧は、近世以降に植民が進んだ地域である。2009年にノーベル文学賞を受賞した作家ヘルタ・ミュラーはドイツ語で文学作品を書くが、出身はルーマニアのバナートである。ここには、17世紀末以降に南ドイツから移民したドイツ系マイノリティ(バナート・シュヴァーペン)が少数だが今も居住している。また、ロシアのヴォルガ川流域にドイツ系の人々(ヴォルガ・ドイツ人)の移住が始まったのも18世紀のことだった。

 ドイツ人が移住した先はヨーロッパ大陸内だけではない。19世紀から20世紀前半にかけては、ヨーロッパから新大陸(とくに北米)に向けて大規模な労働力の移動があった。ドイツやオーストリア=ハンガリーは、この時期の労働力の重要な供給元の一つだった。また、19世紀後半以降に植民地獲得が本格化すると、アフリカ、南洋諸島などに獲得した植民地にもドイツ人が渡った。第一次世界大戦の敗戦による植民地の喪失後に植民者の多くは引き揚げたが、その名残で、今もナミビアには3万人ほどのドイツ語話者が暮らす。

国民国家形成とその影--ドイツ系の人々のドイツヘの還流

 第一次世界大戦後になると、今度は、ドイツ系の人々のドイツヘの還流が生じた。この動きは、国民国家の理念が影響力を強める時期にあって、ドイツでは「政治的境界と民族的境界の不一致」(R・ブルーベイカー)が顕著だったことと強く関係している。すなわち、ドイツの名を冠する政治的領域の外にドイツ語話者が多く居住する一方、領域内にはポーランド語話者、デンマーク語話者などの非ドイツ系マイノリティが居住していたということである。第二帝政の時期からすでに生じていたこの状況は、第一次世界大戦の敗戦に伴う領土縮小によってさらに先鋭化し、それが、ナチ体制下の民族秩序再編計画につながることになった。すなわち、国外のドイツ系住民を包摂すべく対外的に膨張しつつ、国内ではドイツ人以外の人々を排除しようとする試みである。

 ナチ・ドイツは、東欧の一部地域を併合し、そこに主として東欧の「民族ドイツ人」(国外でマィノリティとして生活するドイツ系住民を指す当時の用語)を移住させようとした。同時に、彼らを迎え入れる土地を確保するため、受け入れ先となる地域に居住するドイツ人以外の住民を「移住」の名の下に追放することも計画した。この措置は第二次世界大戦の開戦以降に本格化し、ドイツ人ではないと見なされた人々、なかでもユダヤ人の排除は、最終的に「ホロコースト」へと急進化していくことになった。

 ただし、民族的マイノリティを排除することで国民の民族構成を単一化しようとする発想は、ナチ特有のものではなかった。マイノリティの移住を通じて国民国家を創出することが地域の安定につながるという考え方は、20世紀前半のヨーロッパでは広く共有されていた。第二次世界大戦の戦後処理では、この思想に立ち、東欧各地で多くの民族集団の移住が行われた。そのうち最大規模のものがドイツ系住民の強制移住だった。ドイツ旧東部領をはじめとする東欧一帯、およびソ連で行われた強制移住により、戦後ドイツの領域内に移住したドイツ系住民の数は1200万人にのぼる。人口の20%近くを占めるこれらの人々の統合は、建国初期の東西ドイツのいずれにとっても、内政上の大きな課題となった。

 戦後初期の移住が一段落した後も、東欧社会主義圏からのドイツ系住民の出国の波は続いた。西ドイツで「帰還移住者」と呼ばれた彼らは、緩い要件でドイツ国籍の取得が可能だった。当初は多くても年間3万人程度だった帰還移住者の数は、70年代後半から上昇を始め、90年代に急増する。20世紀をかけて行われたこうしたさまざまな移住により、東欧のドイツ系マイノリティの規模は大幅に縮小した。

 なお、東西ドイツ間にも大きな人の流れがあった。東ドイツから西ドイツヘの大量出国である。東ドイツは、無許可での出国に罰則を設けたりもしたが、西側への流出は止まらず、50年代の出国者は年平均20万人を超えた。そのうち、少なからぬ割合が、東欧から強制移住させられ、いったんは東ドイツに迎え入れられたドイツ系住民だったと言われる。人口減は国力の低下につながるため、ドイツ社会主義統一党は壁の建設に向かい、61年のベルリンの壁建設により、この人の流れは押し止められた。

移民受入国への変貌--ドイツヘの移民・難民の流入

 第二次世界大戦の終結以降、ドイツでは外国人の受け入れが増加し、今日ではドイツは自他ともに認める移民受入国になった。この間の人の流れに見られる特徴の一つは、労働移民の拡大である。そもそもドイツヘの労働移民の始まりは、近代ドイツの産業化のなかで、その中心地となったルール地方の炭鉱などに19世紀末頃からポーランド人の出稼ぎ労働者が見られるようになった時期に遡る。外国人労働者の受け入れはナチ時代にも行われたが、「経済の奇跡」と呼ばれた戦後復興期の好況のなか、1950年代半ばから60年代にかけての西ドイッでは、安価な労働力を確保するために、イタリア、ギリシア、トルコ、ユーゴスラヴィアなどの各国と外国人労働者(ガストアルバイタ-)の受け入れのための協定が結ばれた。外国人労働者の募集は石油危機後の経済低成長期に停止され、西ドイッ政府は母国への帰国を奨励するが、家族の呼び寄せなどにより、募集停止後も外国人人口は増え続けた。

 第二次世界大戦後にドイツに流入した外国人としては、「庇護申請者」も重要である。西ドイッでは、ナチ時代の経験に立脚し、政治信条等のために祖国で迫害を受ける人々を政治難民として受け入れ、庇護を与えるとの規定を基本法に設けた(第16条)。庇護申請者数は、70年代半ばまでは年間1万人を超えることはほぼなかったが、80年代に目に見えて増加し始め、90年代初頭にはついに年間40万人を超えるに至った。

 東欧社会主義圏の体制変革を受けて、国外から流入する庇護申請者や帰還移住者の数が急増した90年代初頭に、ドイツでは排外主義が顕著に強まった。外国人に対する暴行事件、極右勢力の活発化が国内に衝撃を与えるなか、ドイツは、帰還移住者の受入れ制限(93年)、庇護申請者の受入れ制限(94年)などによって流入者の抑制に向かい、その後、改正国籍法(2000年)、移住法(05年)などを通じて、高度技能を持つ移民の優遇と、受け入れた移民の統合を進める姿勢を明確にした。現実には、「移民の背景を持つ人々」(移民一世、移民の子弟、ドイツ生まれの外国人など)の統合には困難も多く、国内には移民排斥の動きも根強くあるが、極右に対抗し、移民を支援するための活動が、連邦・州レベルでも市民レペルでも積極的に展開されている。

 今日、ドイツに流入する外国人の内訳は、EU加盟国からの移民が75%と圧倒的多数を占める。そのうち目立つのは04年以降にEUに加盟した東欧、南東欧諸国からの移民である。ユーロ危機に見舞われた財政難の南欧諸国からの移民も多い。ドイツの「外国人問題」と言えば、従来は、外国人労働者とその家族、なかでも外国人人口の約四分の一を占めるイスラーム系トルコ人のことだった。しかし近年は、トルコ系移民の定着が進む一方、南東欧諸国からの移民(とくにロマ系)を「歓迎されざる」経済移民と見なす傾向が強まり、移民のイメージにも変化が生じつつある。

 また、規定改正によっていったんは減少した庇護申請だが、世界情勢の不安定化とともに、2000年代後半から申請数が再び伸びだした。現在、難民のおもな出身国はシリア、イラク、アフガニスタンなどである。継続的に生活支援を受けている難民の数は、10年以来、増加の一途を辿っている。とくに15年夏後半に難民の流入が1990年代初頭のピーク時を上回る勢いを見せて以来、こうした難民の増加にどこまで対応できるか、国内でも危機感が強い。
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TOTO ウォシュレットの開発秘話

『トイレ』より TOTO物語 ⇒ ウォシュレットにアイシンの燃料噴射技術が使われていると聞いたが、それはどこにも書かれていなかった。だけど、ミリ単位の噴射技術は素晴らしい!

家庭のトイレにも新風

 昭和30年代の住宅建設ラッシュの時代には、TOTOの熱心な衛生陶器の啓蒙活動もあり、日本人も洋式トイレに馴れはじめました。その頃に新しく建設された建物に洋式トイレが使われはじめます。

 1959(昭和34)年、水を流すと同時にタンクの上の部分で手を洗える便器が登場します。これは、日本人の画期的な発明で、水をむだにしない節水意識として、高い評価を受けました。

 その後まもない1962(昭和37)年、TOTOは、それまで商品ごとに使っていたロゴを「Toyotoki」に統一します。

 1964(昭和39)年は、日本人が待ちに待った東京オリンピックが開催された年でした。東京オリンピック開催をきっかけに、海外から多くの観光客が東京にやってくるようになります。そうした外国人をむかえるために、ホテルなどの宿泊施設建設が急ピッチで進められ、トイレは洋式になっていきます。

 そんななか脚光を浴びたのが、TOTOがホテルニューオータニに設置したユニットバスルームです。ユニットバスルームは、バスタブ(ふろおけ)はもちろん、洗面器、トイレが同じひとつの室内にそなえつけられています。今では日本じゅうで広く使われているユニットバルームスルームは、TOTOが日本ではじめて(JIS規定により)つくったものなのです。

 ホテルニューオータニのユニットバスルームの設置には、あらかじめつくられたパーツを現場で組み立てる「セミキュービック方式」と呼ばれる工法が用いられました。短い期間で設置でき、品質はどれも同じようにきれいに仕上がります。1044のバスルームが、わずか2か月でつくられました。

 このホテルニューオータニの成功が大きな反響を呼び、各地にユニットバスルームが普及していきます。このため、オーダーメード方式ではとても間に合わなくなり、標準化して量産できる体制を整えていきます。こうして、大量生産により価格を下げ、アパートなどの集合住宅に短期間で設置できるようにしました。1975(昭和50)年には便器とふろが同じ空間にあることをきらう日本人が多いことから、トイレを別にした形式のものもつくりはじめます。

 このように、TOTOは、高度経済成長、東京オリンピック、ホテルの近代化などにより、トイレやふろなどの住宅設備機器メーカーとして会社を維持・強化していくようになります。

 1966(昭和41)年に発売した便座があたたまる暖房便座や、同年に住宅公団(現都市再生機構)向けに、1968(昭和43)年に一般家庭向けに発表した化粧台に洗面器をつけた洗面化粧台など、次々にヒット商品の開発に成功しました。

 1970年代に入ると都市圏で渇水が起こり、人々の節水意識が高まりました。TOTOはこれをきっかけとして節水型トイレの開発をはじめ、1976(昭和51)年には節水型大便器を発売しました。以降も、研究・開発を重ねていきました。

ウォシュレットの開発秘話

 「日本のトイレ業界事情」を年代ごとに見てきました。そのなかでもっとも注目すべきは、高度経済成長期には住宅不足だったものが、その後解消され、住宅の建築数が減少してきたことではないでしょうか。それまではどんどん業績を伸ばしていたTOTOでも、便器の売り上げにかげりがみえてきたのです。

 なんとか業績を回復しようといろいろな手を打つなか、TOTOが新商品の開発のために参考にしたものがありました。それは、アメリカン・ビデ社が痔の患者用につくった医療用便座ウォッシュエアシートでした。TOTOはその製品を輸入して、1964年から販売することを決定しました。

 ところが、それは痔の患者用としてではなかったのです。日本人は、毎日おふろに入るほどきれい好きです。そういう日本人なら、トイレでお尻を洗うという習慣がこの製品で生まれるのではないかと考えた結果でした。

 しかし、ウォッシュエアシートを実際に販売してみると、評判がよくありませんでした。温水の温度が熱すぎたり冷たすぎたりと不安定で、発射される温水の方向も不安定だったことが、大きな理由でした。

 そこでTOTOは、独自に「温水洗浄便座」の開発に乗り出しました。これが、その後世界を驚かせる「ウォシュレット」の始まりでした。

 開発にあたってまずぶつかった問題は、温水を当てる位置、すなわち、「肛門の位置はどこか?」ということでした。平均的な肛門の位置を探すために当時の開発担当者は、腰かけ式トイレの便座に針金を張って、そこに座って肛門の位置を針金に印をつけました。そんなことを繰り返しながら、日本人の肛門の位置を探っていったといいます。

 平均的な肛門の位置を見つけ出すには、より多くのサンプルが必要です。開発担当者は、社員だけでなく家族にも依頼して、サンプル数を増やしていきました。

 「いくらなんでも肛門の位置まで知られたくない」と断る人も多くいたといいます。「はずかしい」といやがる女性社員たちに対して、開発担当者は真剣に説得。その必死な姿を見た人たちが、次第に協力するようになりました。そうして男女合わせて300人分以上のデータが集まりました。

 もうひとつの問題として、温水を噴射するノズルをどうするか? もしノズルが便が落ちる・かかる位置にあるとすると……? でも、ノズルはどうしても肛門の下側になければうまく命中しません。

 開発者たちが頭をいためていたある日のことです。開発担当者のひとりが、「お尻を洗うときだけ出てきて、使い終わったら収納されるノズルはできないか」と思いついたのです。さまざな創意工夫と試行錯誤の末、温水を噴き出す力を利用してノズルを出し、バネの力で自然に収納させるという方法が考案されました。

 一方、ノズルから温水を噴射する角度も問題でした。お尻を洗った温水が下に落ちてノズルを汚さないようにするには、噴射角を何度ぐらいにすればよいか……?角度を少しずつ変えて実験を繰り返しました。その結果、43度に決定しました。

 次に、「快適な温水の温度」を求め、実験が繰り返されます。

 「冷たいのはいやだ」「熱くてもういやだ」と、さまざまな意見が協力してくれた社員だちから出されました。そうして、温度の決定まで時間をかけて実験が繰り返されました。

 温度を一定に保つためにはどうすればよいか。気温の関係も研究されました。設置場所の寒暖のちがいに対応できるように、気温は10度から30度以上までの場所を想定して、さまざまな実験がおこなわれました。

 温度のコントロールには、電子回路(IC)を組み込むことになりましたが、ICは水がかかるとこわれてしまいます。

 そこで考えられたのは、信号機を製造しているメーカーに協力を依頼することでした。雨にさらされてもこわれない信号機を見た社員の思いつきだったといいます。結果、信号機メーカーと共同で、樹脂でICをコーティングする技術が導入されました。

 こうした苦労のかいあって、1980(昭和55)年、温水洗浄便座「ウォシュレット」がついに販売開始となりました。
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