goo

『正法眼蔵』全宇宙が仏性である

NHKテキスト『正法眼蔵』より ⇒ 仏教は哲学なのか。存在と時間を扱っているけど、仏教界の内で論議しているのか。そして、その哲学は進化してきているのか。ヘーゲルの歴史哲学では無いけど、社会が変われば、哲学も変わらないといけない。

「有時」の巻に見る道元の時間論

 「時節因縁」は、道元が時間というものをどう捉えているかという議論につながっていきます。「仏性」の巻において道元は、「悉有」をすべての存在、全世界だと捉えました。

 この「有」ということについてさらに考察を進めているのが、「有時」(〝有時〟には〝ゆうじ〟〝うじ〟の二通りの読みがありますが、わたしは〝うじ〟と読んでいます)の巻です。ここで道元は、『存在と時間』で知られるドイツの哲学者ハイデガーをも超える哲学的な時間論を展開しています。十三世紀の日本語でここまで考えていたとは、本当に驚くべきことです。この巻は内容的に「仏性」の巻を補完するものでもありますので、ここで紹介しておくことにしましょう。

 〝有時〟は、訓読すれば〝あるとき〟です。そして、その〝あるとき〟には二つの表記があります。

  A 或る時

  B 有る時

 わたしたちはたいてい、Aの表記にしたがって「あるとき」を考えています。「或る時、わたしは大病をしました」「或る時、わたしは会社の社長でした」「或る時、わたしは貧乏でした」……と。しかし、この「或る時」は過去の話です。すなわち、すでに過ぎ去った出来事として時間(或る時)を考えているのです。

 だが、時間というものは、そういうものではないぞ!というのが道元の主張です。

 そういう「或る時」に対して、道元は「有る時」を言います。いま現在、そこに有る(存在する)時間です。

  いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。

 〝有る時〟というのは、「時(現在)」が「有(存在)」であり、「有(存在)」が「時(現在)」である。

 道元は、時間というものは「現在」という意昧なのだと言っているのです。わたしたちはたいてい、時間というものは、「過去→現在→未来」へと流れていくものだと考えています。しかし道元は、そうではない、「現在・現在・現在……」なのだと言っているのです。この考え方では、「現在1」には「自己1」が、「現在2」には「自己2」が、「現在3」には「自己3」が対応します。過去について思い悩むのは、たとえば、「自己1」を「現在2」と対応させようとするようなもので、それは仏法を知らない凡夫の考え方だ、ということです。これはまさに時節因縁です。そのときそのときのあり方ということです。あるいは、「法位によりて」の法位ということです。つまり、ことごとくすべての存在が、「いま現在」なのです。

 病気のときには病気という現在がある。苦しみのときには苦しみという現在がある。苫しみから逃れようとするのは、これを過去のものにしたいと思うことです。そうではなく、苦しみも仏性なのだから、その仏性をしっかり生きよ。道元はここでもそう言っているのです。

生も仏性、死も仏性

 すべての存在が「いま現在」であり「仏性」であると道元は言いました。では彼は、仏性と死の関係についてはどう考えていたのでしょうか。

 道元は言います。「仏性は生きているあいだだけあって、死ねばなくなると思うのは、まったく認識不足である」。生きているという状態も仏性であり、死んでいるという状態も仏性です。「生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり」。そしてこう述べます。

  仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性なるべきと邪執せるは、外道なり。

 要するに、人間が認識できるか否かによって仏性が仏性であったりなかったりするといった考えに固執するのは、外道のすることだ、というのです。認識主体がいる・いないにかかわらず、あるいは認識主体が人間である・なしにかかわらず、仏性は仏性であり続けるのです。

 「悉有仏性」の解釈のとおり、道元によれば、悉有(全宇宙)が仏性なのです。仏性イコール大宇宙。だとすれば、わたしたちは仏性のなかで生まれ、老い、死んでいくのです。ですから、生も仏性、死も仏性です。仏性とはそういうものなのです。

 わたしは、いま高齢者の方々がさかんに行っている「終活」について、そんなものはおやめなさいという本を書きました。仏教の立場からいえば、あなたはまだ生きているのだから、そんなことを考える必要はないのです。生きているときはしっかり生きて、死ぬときにしっかり死ねばいいのです。それが、道元の言う「有時」ということです。わたしたちには、いまここしかないのです。過去でも未来でもなく、その瞬間、瞬間に存在しているわけです。それを、わたしたちはつい、映画のフィルムを回したときのように連続して動いているものとして見てしまう。そうではなく、フィルムのひとコマ、ひとコマを見ればよいのです。

 これは、道元だけでなく釈迦も言っていることです。「過去を追うな、未来を求めるな。過去はすでに過ぎ去ったのだ。未来はまだやって来ない。あなた方は、いま為すべきことをしっかりとせよ」({マッジマーニカーヤ』一三二)。道元はいわばそこに帰っているわけです。

 わたしは講演でこの言葉を紹介し、「もっと分かりやすく言えば、反省するな、希望を持つな、ということです」と言っています。よくプロ野球の選手がエラーをしたあとに反省すると言うけれど、エラーしたのと同じゴロは二度と転がってきません。いくら反省したって次は必ず違う球がくるのだから、反省なんかしなくていいのです。同じように、希望も「こうあってほしい」という欲望の一形態ですから、よけいなことでもあるわけです。そんなばかなことは考えるな。まさに「莫妄想」です。やはり、いまを生きることが大切なのです。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 『正法眼蔵』... 『正法眼蔵』... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。