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未唯への手紙

未唯への手紙

中世ウィーンの記録 あるイタリア人の旅行記

2016年11月20日 | 4.歴史
『図説 ウィーンの歴史』より 中世ウィーンの都市と市民生活

中世ウィーンを訪れたある旅人の極めて興味深い旅行記録を見てみよう。一五世紀の中頃(一四三九年)一人のイタリア人アエネア・シルヴィウスと言う人物がウィーンを訪れ、そこから友人に手紙を書いている。それは当時のウィーンの都市の有様や人々の生活を、多少の思い込みを含みながらも、生き生きと描いていて、中世のウィーンを知る一級の史料である。なおアエネアなる人物は司教として一四四二年にハプスブルク家の皇帝フリードリヒ三世の秘書となり、トリエステやシエナの司教を経て一四五六年には枢機卿、一四五八年には教皇ピウスニ世となった人物である。人文主義的思考の持ち主で、その観察力は鋭いものであったと認められている。いくつかのテーマに分類して紹介していこう。

①都市の様子

 「この都市は二〇〇〇歩もの長さの城壁に守られ、大きな城外町を持ち、長大な壁と堀によって囲まれている。堀は特に深く、城壁は数多くの塔と堡塁によって強化されている。市民の家々、集会所や大きな構造物は装飾を施され、がっちりとした堅固な建て方によってつくられている。ここでは暖房が施された部屋はシュトゥーベンと呼ばれる。冬は殊のほか厳しいのだ。窓にはガラスがはめられ、ドアは鉄でできている。家々では鳴き鳥が飼われ、家具は豊富で奇麗である。馬には大きな馬小屋があてがわれている。建物の正面は壮麗に飾られているが、屋根はほとんどが木羽板葺きであり、瓦葺きはまれである。家々は石積みで、内外ともに装飾を施されている。任意にどの家に入ろうとも、人は領主の家に入ったかの錯覚を覚える」

 「通りは馬車の轍によって溝ができないように舗装されている」

 こうした描写は、後に見るショッテン教会の祭壇画の描写と一致し、ウィーンが当時都市として極めて高い水準のものに発展していたことを窺わせる。

②教会と大学

 「貴族や高位聖職者の家々は税を払わないでもよいし、市参事会は彼らに対して何の権限も持っていない。ワインケラー(地下のワイン部屋)は非常に大きく、町の下にもう一つの町があるかのようである。

 この都市には様々な聖遺物やその他の宝物を備えた数多くの教会があり、聖職者は高額な禄を食んでいる。この町はパッサウの司教区に属するが、今や子教会が親教会を凌いでいる。多くの家が独自の礼拝堂を持ち、独自の司祭を雇っている。四つの托鉢修道会は貧困とはほど遠く、ショッテン修道会とアウグスティン修道会はとても金持ちであると見られているし、『敬虔な修道女会』や『聖なるマリア会』もそうである。修道院では『聖ヒエロニムス修道院』を挙げておこう。そこは悔恨した売春婦の改宗に奉仕しており、一日中ドイツ語の賛美歌が歌われている。不法な売春婦が累犯を犯すとドナウ川に沈められ、いずれにせよ敬虔な生活が主流をなしている」

 ウィーンにおける教会の権限と支配力の強さと活動が確認されている。

 「この都市には『自由七課』、神学、教会法を教える大学があり、ハンガリーや南ドイツからの多くの学生が学んでいる。ここで教授している神学者としては、パリで学んだハインリヒ・フォン・ヘッセン(ラングンシュタィン)とシユヴァーベン人の二コラウス・フォン・ディンケルスビュールが挙げられる。また神学者のトーマス(エーベンドルファー)・フォン・ハンゼルバッハは歴史書を書いて大きな名声を得ている。

 しかしこの大学の最大の欠陥は、弁証法、音楽、修辞学、詩学についての授業がないことである。雄弁学や詩学は重視されず、学位取得と虚飾の論弁が学問を支配している。アリストテレスやその他の哲学者の本を見ることは稀である。学生たちはかなり享楽的な生活を送り、学業を全うする者は少ない。彼らは昼に夜にあちこちに出入りし、市民の翠壁を買っている」

③市民の生活

 「この都市の人口は約五万人に上る。一八人の参事会員が選出され、その後裁判官と市長が選ばれる。彼らは皆、宣誓を行なった後、支配者によって任命される。それ以外の役人はワイン税の取り立て人だけである。

 この都市に運び込まれる食料品の数は膨大なものである。荷車に満載された卵、穀物、粉、パン、肉、魚、鶏肉などが運び込まれるが、それらは夕方にはもう何処にも見当たらない。すべてが売り切れてしまうのだ。葡萄の収穫は四〇日以上続き、その際には三〇〇台以上の荷車で日に二回ないし三回運び込まれ、日に一二〇〇頭の馬が動員される。マルテイニの日(一一月一一日)まで、ワインを町に運び込むために、村々は空になる。町で飲まれたりドナウ川を通じて輸出されるワインの量は途轍もないほどである。君主はワインの価格の一〇分の一を取り、その収入は年に一万二〇〇〇グルデンに上る」

 ウィーンにおけるワイン産業の想像以上の規模と重要性が確認できる。

 「この大都市には当然ながら多くの争いごともある。手工業者と学生にせよ、宮廷人と手工業者にせよ、流血にいたることもしばしばである。遺憾ながら、市参事会も君主も喧嘩を調停することに関心を抱いていない。

 ここで非常に広まっているのは、ワインの私的販売で、ほとんどすべての市民が自宅にワイン酒場を持っていて、食事を出し、酒飲みと娼婦が一緒にやってくる。主人は娼婦に少量の料理をただで与える。そうするとワインの消費量が上がるからである。庶民たちは享楽に身を任せ、一週間で稼いだものを日曜日にすべて消費してしまう。街には娼婦があふれている。女たちは皆唯一の男では満足しない。貴族たちはしばしば市民の女とかかわる。多くの女は父親の知らぬ問に亭主を選び、寡婦はまだ喪に服している問に勝手に新しい亭主を見つけ出す」

 現在のホイリゲ(新酒のヮィンを飲ませる郊外の農家の酒場)の原型が見られる。学生や娼婦の存在や庶民の生活が紹介されている。

 「この町では先祖伝来の隣人というのは少なく、旧家は少なく、流入民が大部分である。金持ちや歳をとった手工業者は若い娘を嫁にもらうので、彼女たちはすぐに寡婦になり、寡婦は家作の中の若い男を亭主に選ぶ。彼らはたいてい以前から不貞な関係を持っていたりする。その男は一日にして金持ちになれるというわけである。こうした男はやがて男やもめになり、また若い娘を嫁にもらい、輪舞は続くことになる。息子が父親の仕事を継ぐことは稀である。

 法律では残された寡婦は亭主の財産の半分を相続できた。しかし遺産は自由に処理でき、亭主は女房に、女房は亭主に遺言で残してやることができた。遺産の裏取り引きは当たり前で、多くの者が毒をもられたりしたという。貴族が、関係のあった市民の女の亭主を毒殺することも稀ではなかった。

 人々は成文法なしで生きていて、古くからの因習を守ることを強調する。しかし、彼らはもちろんそれを自分勝手に解釈している。正義は金で買われ、悪いことをしても処罰されることはなかった。貧乏人と後ろ盾のない者は裁判で酷い目にあうことになる。証言のために行なわれる宣誓は厳格に守られるが、宣誓無しに証言されたことは守られなかった。貸し付けは期限を設けて行なわれ、その期限内では少しの損失しか生じないが、期限の切れた後の貸し付けの額は宣誓の下に高く据えられ、借りた方は大きな損失を被る。借金の形に抵当を入れればそれは利子とみなされない。破門は名声に拘る損失とそれと結びついた時間的不利が故に恐れられた。窃盗の際に見つけられた盗品は裁判官のものとなった。教会の祭日は厳格に守られている。肉製品は断食日にも売られる。渡し守には休日はない」

 これらの描写は、庶民的側面にも眼がいっている。

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