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『正法眼蔵』迷いと悟りは一体である

NHKテキスト『正法眼蔵』より ⇒ 仏の世界に投げ入れろと言われているけど、元々は、この世界に放り込まれた身としては、原因と結果が間違っているような気がする。溶け込めと言われている、角砂糖はなぜ、創られたのか野説明が内。

自分を仏の世界に投げ入れる

 さて、冒頭の二つの言葉に戻れば、要するに、生死というものをあるがままに見ることができれば、生死そのものが消滅するということです。なぜなら、わたしたちが生きているあいだは死なないし、死んでしまえば生はないからです。道元が言うように、「生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし」なのです。

 逆に、生死の中にあって、それを超越しよう、克服しようなどと思わなければ、わたしたちは迷わずにすみます。わたしたちが迷うのは、生死を超越したいと思うからです。

 だとすると、次のような結論が導き出されます。

  ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こゝろをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。

 わたしたちはいっさいの妄想--妄想というのは、生死にこだわり、生死を超越しようなどと考える心の働きです--をやめて、すべてを仏にまかせて、仏の心のままに生きるようにすればよい。そうすれば、わたしたちは凡夫ではなくなり、仏になりきっている。道元はそう言います。

 「わが身をも心をもはなちわすれて」とは、まさに前回のテーマであった「身心脱落」と同じことです。「仏のいへになげいれて」とは、仏に「なりきる」ということ。道元が直接「なりきれ」と言っているわけではないのですが、この〝なりきる〟は道元を理解するうえでのもう一つのキイ・ワードだとわたしは考えています。たとえば幾何の問題を解くとき、図形にはない補助線を加えると、うまく問題が解けることがありますね。それと同じように、道元の言葉にはない一つの言葉を補ってみると、道元が何を言いたいのかよく分かる。その補助線が「なりきる」だとわたしは思っています。

 道元は、生死を超越しようなどと思わず、仏になりきってしまえばいいと言っています。前回の蜘蛛の糸の譬えで言えば、下からのぼってくる人のことなど気にせず、蜘蛛の糸になりきってしまえばいいということです。そしてこの「なりきる」も、仏の世界に溶け込んでいくということで、身心脱落と同じ意味です。

仏教の根本義そのものになれ

 道元はこの「なりきる」ことの重要性を、「祖師西来意」の巻でも説いています。おもしろい内容ですので、見てみることにしましょう。この巻は、いわゆる禅の試験問題である公案を評釈した巻の一つで、次のような公案を取り上げています。

 一人の男が樹の上で、口で枝をくわえ、手も足も枝から離れて宙ぶらりんになっている。そこに人がやってきて、樹の下から、

  「いかなるか、これ、祖師の西来の意」

 と質問しました。祖師というのは、インドから中国に禅を伝えた達磨大師のことで、彼は何のためにインドから来たのか、と尋ねたのです。

 これは「仏教の根本義は何か」といった問いだと思ってください。樹の枝に口でぶら下がっている男は、この質問に答えて口を開くと樹から落ちて死んでしまいます。かといって答えなければ、彼は仏教の修行者でなくなります。さあ、どうするか……?

 この公案を評釈して、道元は次のようなことを述べるのです。一人の男が樹にのぼっているとき、その男は樹そのものになりきればよい。そうすると、樹が樹をのぼるのであり、逆に樹そのものが男になりきるなら、男が男をのぼっている。そういう理屈になります。

 そして、樹の下から問いかける人がいます。樹の上で答える人がいます。ですが、問者が答者になりきり、答者が問者になりきれば、そこには通常の意昧でいう問いも答えもないのです。問う必要もなければ、答える必要もありません。

 同様に、人が「西来意(仏教の根本義)」そのものになりきれば、「西来意」をわざわざ勉強する必要はないのです。「西来意」が「西来意」を問い、「西来意」が「西来意」を答えます。そうすると、そこには言葉が不要です。

 分かりやすく解説するなら、道元は、「おまえさん、あれこれ考えるな。そのものになりきってしまえばいいではないか」と言っているわけです。たとえば、わたしたちが病気をしたら、病気になりきればいい。何とかしてこの病気を軽くしようとするから苦しみが増すのです。苦しみのときは苦しみになりきればいい。暑いときには暑さそのものになりきればいいし、寒いときには寒さそのものになりきればいいのです。寒さそのものになりきるなんておかしいという人もいるかもしれませんが、スキーに行くことを考えてみてください。スキーをするときは、寒ければ寒いほど楽しいでしょう。同じように、海水浴は暑ければ暑いほど楽しい。なんとか涼しくしようなどと思わず、暑さを暑さとして楽しむ。それが「なりきる」ということです。
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