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未唯への手紙

未唯への手紙

追い込みを可能にするμ空間

2014年05月20日 | 5.その他
追い込みを可能にするμ空間

 技術者の追い込み技術をどのようにデータ配置するのか。そこで考えたのはμ空間です。

 技術者は仮説を立てて、実証していく。そのプロセスをどのように持ってくるか。人間の思考に合わせた、データの保管方法がなかったので、それをμ空間上の置く形にして。その時の位相空間の次元は無限です。

 無限次元空間のイメージをなるべくカタチにしたかった。結果に対して、緒元をくっつけて、そのペアをひとつの要素として、その周辺に関連する実証結果を配置するカタチにした。

 すべて、予測と実験とシミュレーションをかませる。特に実験データとのかますために、設計室と実験室をつなげた。データはいつでもグラフにすることができるようにした。コンポーネント技術者が何を考えて、何をしているかの思考パターンを分析して、それに合わせた。MATLABというシミュレーターも手に入ったので、それらを研究部に持って行って、つかわせるようなことも考えた。

 コンピューターにしても、何しろ、発想豊かにしました。現在のようにエクセルしかない世界ではなく、グラフにしてもクリケットグラフとかデルタグラフなどのシミュレーションできるものを用意しました。

英国のコーヒーハウス文化をスタバに展開

 スタバを新しいコミュニケーションの場にしたら、その次に、情報共有の場にしていく。昔のイギリスのコーヒーハウスです。当時は、コーヒーハウスに印刷物が必要だったけど、無線LANがあれば、何を見るかのパンフレットなり、インデックスがあれば十分です。皆はそのための端末を持っています。

 モバイルだから、どこでもできるけど、敢えて、スタバでお互いがコミュニケーションする場にしていく。それとどこでも図書館が合体するようなカタチです。

 いかにして、存在の力を、国民国家の次のカタチをどう作っていくのか。

25年前はやりたいことをやっていた

 この最近、二つほど、25年前を思い出すことがあります。

 一つはFISCO(富士スピードウェイ)です。FISCOを借り切って、ECUの挙動解析の関係で、レース用のエンジンのリアルタイム計測を行っていた。直線600mのデータをレースカーからとばしていた。

 もう一つは、エンジンのシリンダー内の可視化です。アニメーションです。

 エンジンの基本的な考え方で、制御に頼らない、素のいい、エンジン設計を作りたいという思いがありました。給排気シミュレーションで、マニフォールドの長さにより、空気の流れをスムーズにさせることを検討していた。

 どの時点でガソリンを入れ込むのか、点火するのか、排ガスをいかに流すかがポイントです。そのためにシミュレーション結果を可視化した。スーパーチャージャーみたいなものもそこから出てきました。

 こういったことは電気自動車になると、全て関係なくなり、制御一本になり、ノウハウがなくなります。自然に中に入り込んで、チューニングしていく世界からリニアな制御になっていく。

 2サイクルでもって、いかに排気していくのか。燃やせばいいのではなく、いかにきれいに片づけるかの地道なテストです。

パラメーターセッティング

 エンジンの3つの要素、ドラビリとエミッションと性能をいかにチューニングするかの人間の工夫です。パラメーターセッティングです。神様が地球創造でパラメーターを決めたように、生きていくためにはパラメーターが重要です。エンジンも同じです。

 人間が生きてきたことは、地球原理で、後ろから追っていけるけど、エンジンの場合はそういうわけにはいきません。自然淘汰的にやっていくしかない。膨大な実験とそれから作られた空間が必要だということで、μ空間とつながりました。

ポスト国民国家

 情報が国民国家を作り、プロパガンダが全体主義を作った。その轍を踏まないように、次は情報共有でポスト国民国家を作っていかないといけない。

小分類変更 6. 本・図書館 6.1~6.4

2014年05月20日 | 6.本
6. 本・図書館

 6.1 本と図書館の生活

  6.1.1 本と図書館に関わる

   1.新図書館で本と関わる

   2.テキスト化し、読み込み

   3.全ジャンルが読書の対象

   4.著者との対話は格闘技

  6.1.2 多読が可能

   1.年間1000冊以上を借出

   2.テキスト化で本を処理

   3.多読で分化

   4.曖昧な概念に言葉を付与

  6.1.3 図書館の可能性

   1.調査型・滞在型・貸出型

   2.ロヴァニエミ図書館を調査

   3.図書館は文化のバロメーター

   4.無知・無関心から図書館を守る

  6.1.4 図書館を観察

   1.返本しながら観察

   2.市民・設備・職員の三つの観点

   3.予算半減で協議会へ参画

   4.図書館コミュニティを提案

 6.2 図書館が町を活性化

  6.2.1 新刊書が興味を満たす

   1.まとまった、新鮮な情報

   2.年間二百万円の還付金

   3.財政悪化で新刊書が半減

   4.全てを知るために

  6.2.2 多様なニーズに対応

   1.NYPLは知の入口

   2.ロバニエミでは生活と一体化

   3.石垣島では観光マップに掲載

   4.駅前図書館は生涯学習センター

  6.2.3 本が読める環境

   1.図書館は知的活動の拠点

   2.一日で20冊を処理

   3.公共交通機関でKindle読書

   4.スタバで、どこでも図書館

  6.2.4 町の活性化につなぐ

   1.図書館はシェア社会に先行

   2.どこでも読書で町の活性化

   3.図書館に経営の感覚

   4.市民が図書館を守り抜く

 6.3 著者の思いを市民につなげる

  6.3.1 著者の世界観をつなげる

   1.「方法序説」で哲学思考

   2.「21世紀の歴史」で未来思考

   3.「複雑性とは何か」で社会分析

   4.「戦争と平和」で愛を求める

  6.3.2 本への思いをつなげる

   1.一冊の本から新しい分野

   2.本は先の世界を示す

   3.本から発信

   4.未唯への手紙で本のDNAを発信

  6.3.3 生涯学習につなげる

   1.図書館を中核に生涯学習

   2.地域先行で社会に変化

   3.電子図書館に対応

   4.電子書籍の可能性追求

  6.3.4 共有意識に地域に展開

   1.共有意識を体現

   2.各種図書館の特性

   3.公共図書館は身近で役立つ

   4.地域の情報共有のインフラ

 6.4 図書館はコミュニティを支える

  6.4.1 コミュニティの知識と意識

   1.著者と向かい合う

   2.多様な意見から意識を共有

   3.本のDNAを抜き出す技術

   4.時空間を超えて、知識の蓄積

  6.4.2 コミュニティという場

   1.先を見て、考える役割

   2.図書館パートナー

   3.知の入口の図書館コミュニティ

   4.コミュニティ化を支援

  6.4.3 本から知恵を習得

   1.見る、知る、考えるポータル

   2.滞在型図書館で活性化

   3.感動を発信し、つながる社会

   4.ローカルの支配から支援

世界を変えた哲学 ニーチェ/ウィトゲンシュタイン

2014年05月20日 | 2.数学
『世界を変えた50の哲学』より

フリードリヒ・ニーチェ

 超人の概念を考案する

 ニーチエといえば、まず思い浮かぶのは「神は死んだ」という宣言かもしれない。 しかし、あまり知られていないことだが、この主張は神の不在を形而上学的に宣言したというよりは、彼の時代の道徳と価値観についての批判的発言という性格が強かった。彼は道徳や価値観が危機におちいっていると考えていた。そして、道徳体系を支える歴史と思想を説明することをとおして、方向性を見失った道徳観の土台をゆるがすに+分なだけ学べるだろうと期待した。

 自分の理論を説明するために、ニーチエは主人の道徳と奴隷の道徳を区別した。主人の道徳では権力、誇り、誠実さなどが「善」として価値がおかれる。それが支配する側の人たちの最善の部分を示すからだ。反対に謙虚さ、弱さ、臆病さなどは軽蔑される。これらが奴隷のメンタリティと結びつくからだ。しかし、奴隷にされた者たち自身は、物事を別の見方で見ている。そして、実際に起こったことは、とくにキリスト教世界では主人の道徳の裏返しだった。

 「善」の概念は弱者を肯定的にとらえる謙虚さ、同情、忍耐のような質を表すだけでなく、弱さ、柔和さ、苦しみの同義語にもなった。これに対して「悪」は、弱者がもっとも軽蔑する権力者の性格、つまり健康、力、権力に対して乱用される言葉になった。この逆転の結果として、人々は奴隷の道徳をもつことになった。ニーチエは主人の道徳に戻ることがいいと思っていたわけではないものの、あきらかにそれに近いことが必要だと考えていた。

 人間の将来についてのニーチエの考えは、「超人」の概念にもっともよく表現されている。崩壊しつつある価値体系で定義される今ある状態の人間は、「のりこえられるべき」存在だ。超人は人類の将来のために立ち上がり、「人間をおおう暗い雲の隙間から差しこむ光」となる。超人の運命は現在の崩壊しつつある価値観の枠組みをすてさり、「力への意志」に従って世界のなかに自分の居場所を記すことだった。

 ニーチエは矛盾を抱えた哲学者だ。あいまいで、謎めいていて、論争をまきおこすと同時に大きな影響力をもつ。「大陸哲学」とでもよぶべき伝統のなかで取り組む哲学者としては、もっとも重要な人物だろう。

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

 言語の混乱を分析する

 死後に出版された『哲学探究』のなかで、ウィトゲンシュタインは、哲学は「言語という手段を使ってわれわれの知性をまどわしているものとの戦い」なのだと主張した。彼がその哲学的研究のなかで発達させた観念と、そこから見いだした根本的な心の変化は、おもにこの戦いに役立てるためにとりいれたものだ。

 初期に発表したすぐれた哲学書『論理哲学論考』のなかで、ウィトゲンシュタインは意味の写像理論として知られることになるものの概要を記した。簡単にいえば、言語の論理的構造は現実の構造を写し出している、という主張だ。簡単な命題--たとえば「猫がマットの上にいる」--は、世界で起こる出来事のひとつの可能な状態を選び出している。その命題が真実か否かは、その状況が現実世界に成立しているかどうかによる。ウィトゲンシュタインは、意味のある言語は最終的にこの簡潔な命題の形に凝縮されなければならないと論じた。これには哲学として通用しているほとんどすべてのことがふくまれる。そして実質的には、『論理哲学論考』を構成する発言さえもふくまれる。そうすると、哲学の役割はわたしたちが意味ある発言と意味のない発言を混同しないようにすることになる。

 ウィトゲンシュタインはのちの著作のなかで、言語はそれが使われる背景と切り離すことはできないという見解にいたった。たとえば、軍の練兵場で叫ばれる「早足進め!」という言葉は、母親が子どもたちに早くベッドに入ってほしいと願って口に出すときとは、大きな違いがある。

 言語についての彼の後期の思想は、おもに『哲学探究』のなかで述べられているが、そこで彼は、『論理哲学論考』の研究課題は根本的に誤った前提にもとづいていたと認めている。言語は彼が当初考えていたような、論理的な言葉で明確に特定できるような確立した体系ではない。言葉は生きた習慣で、さまざまな目的のために無数ともいえる背景で使うことができる。

 このように、ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の主張の大部分を否定するようにはなったものの、初期と後期の著作が完全に分裂状態にあると考えるのはまちがっている。彼はその研究生活を通じて、哲学の役割は、わたしたちが言語に混乱させられ、誤った方向に導かれるさまざまな状況を解き明かし分析すること、したがって、哲学的研究は言語の混乱を明らかにし解体することだと信じていた。

世界を変えた哲学 カント/ヘーゲル

2014年05月20日 | 2.数学
『世界を変えた50の哲学』より

イマヌエル・カント

 超越論的観念論を創始する

 ジョン・ロックの流れを継ぐ経験主義の哲学者たちによれば、心は本来「なにも書かれていない白紙」で、その上に外の世界から入ってきたものが経験として書かれていく。ということは、そこに書きこまれた経験が世界を表現する分だけ、わたしたちは知識をもつことになる。しかし、この考え方には問題がひとつある。知識は感覚印象からは得られない概念的な内容を求めるらしいということだ。

 この問題を明らかにしたのがイマヌエル・カントだった。『純粋理性批判』のなかで、彼は事物そのものの世界である「叡智界」と、人間が経験する世界である「現象界」を区別し、叡智界にある事物の本質は「わたしたちにはまったく未知のまま」だが、現象界についてはなにかを知ることができると論じた。

 カントによれば、経験はわたしたちの頭のなかで空間と時間の概念に従って、また因果関係や実体のような、さらなる理解のための分類に従って整理される。空間を例にあげれば、世界それ自体、すなわち叡智界は、空間的な関係をもたない。そのかわりに、現象界の空間的特性がわたしたちの心の働きによって感覚的な経験の生のデータとして記録される。そのため、わたしたちは世界を空間的なものとして把握するのである。

 この一般論によって、カントは知識を支える概念の問題を解決し、感覚的な経験だけから知識を得ることがどうして可能なのかを示そうとした。基本的には、多くの「直観の形」のメカニズムによって、知ることのできる世界を形作り構成することに心が積極的な役割を果たす、というのがカントの主張だった。

 もちろん、カントの説明にもいくつかの問題がつきまとう。その最大のものは、生の感覚データと頭のなかでの概念的処理の区別が相対主義をおびやかすことだ。人それぞれの思考によって世界を整理する方法がばらぱらになる可能性があるためである(カントはそれを否定した)。さらに、永遠に理解できない現実(叡智界)があるという考えは受け入れがたいと感じる哲学者もいた。

 カントの哲学の影響は、倫理学や美学、そして自由意志や因果関係のような問題まで広範囲におよぶ。そして、彼はもっとも偉大な啓蒙主義の哲学者として広く認められている。

ゲオルク・F・ヘーゲル

 絶対観念論を促進する

 ゲオルク・ヘーゲルの哲学は弁証法的理性の体系に基礎をおいている。もっともわかりやすいのが、「定立(テーゼ)」「反定立(アンチテーゼ)」「綜合(ジンテーゼ)」の概念だ。簡単にいえば、いかなる現象(定立)も、それ自体のなかに矛盾する側面(反定立)がふくまれ、その解決のための動き(綜合)が求められる、とする概念である。

 ヘーゲルは、この種の弁証法のプロセスに従えば、現実の理解を深められると信じた。それは彼の有名な「主人と奴隷」の弁証法で説明することができる。

 ヘーゲルの見解では、自己意識、あるいは自己意識をもつものとしての人間は、他者(ほかの自己意識)によって認められることで自己の存在に確信がもてる。しかし、この種の自己意識間の相互認識は簡単に勝ちとれるものではない。最初はどちらも相手の自己意識については不確かで、そのためにどちらも自己の存在を確認する根拠を奪われる。その結果、双方が相手の認識を得ようとするが、相手の自己意識を認めることはしない。

 ヘーゲルによれば、その結果として生じる一方的な認識を求める闘争は、死へと向かう。なぜなら、自分の命を危険にさらすことによってのみ、こうした自己意識をたがいに示すことができるからだ。そして、彼ら自身にとっては、特定の肉体的な形から解放される自由と、自立した存在としての自己が得られる。しかし、この状況では、どちらかの側の死という結果が見当ちがいであることは明らかだ。そうなれば、生存した側から存在の認識を奪うことになるのだから。それゆえ、両者の命を危険にさらす必要のある闘争への解決策は、一方を奴隷に、もう一方を主人にすることになる。一方は自立した自己に、もう一方は相手に依存した存在になる。つまり前者が主人、後者が奴隷だ。

 しかしヘーゲルは、個人間の対立はやがては克服されることになると考えていた。主人と奴隷の弁証法はひとつの段階にすぎず、それをへて、自意識は自己確信への道を進まなければならない。

 ヘーゲルの思想は19世紀を通じて大きな影響力をもった。しかし、それ以降はこの種の哲学、つまり大きな形而上学的な推論を好む伝統は、苦戦を強いられてきた。したがって、これからしばらくはヘーゲル派の哲学者がふたたび登場することはなさそうだ。

クラウドソーシングする~大衆の知恵

2014年05月20日 | 3.社会
『難題解決の達人たち』より

最近のアイスランドでは、「セッタ・レッダスト」という表現をよく耳にする。ざっと訳すなら、「心配ないよ、何もかもひとりでに解決する」という意味だ。これは一部のアイスランド人には、危険なあきらめの境地のように感じられるだろう。あるいは別の人たちにとっては、この国特有の不屈の精神の表れに思えるかもしれない。いずれにしろ、数年前のアイスランドには、たしかになんらかの解決が必要だった。風吹きすさぶ北大西洋のこの小さな島国は、二〇〇八年、世界的な金融危機に巻きこまれたのだ。

金融破綻が起こる前のアイスランドは、史上最大の勝ち運に乗っていた。あらゆる銀行や企業が外国のライバルを呑みこんでいった。一夜にして生まれた大富豪たちがヨットや自家用ジェット機、スーパーカーやペントハウスのアパートメントにしこたま金を注ぎこんだ。冴えない街だった首都レイキャビクに世界有数の豪華なオペラハウスが建ちはじめた。消費のお祭り騒ぎに踊らされ、ごく普通のアイスランド国民までが、まるで明日がないかのように金を借りて使いまくった。だが、奇跡ともてはやされた好況は蜃気楼にすぎず、実態とは遠くかけ離れたはかないバブルだった。ブームの最盛期には、アイスランドの銀行が抱える負債額はGDP(国内総生産)の九倍にも達した。やがてバブルがはじけたとき、国はデフォルトぎりぎりのところでかろうじて救済されることになった。

二〇〇八年の惨劇を契機に、世界は鏡に映る自らの姿をじっくり見なおした。多くの国が反省から、収支のバランスをとって金融部門の手綱を引く方向へ向かった。アイスランドの自省の念はさらに深かった。人口わずか三二万のこの国には、社会階層の分離はほとんどなく、裏切られたという感情はそのぶん強かった。権力の座にある人問たちも、もともとは多くが同じ学校の仲間だったというのに、どうして銀行の暴走を許してしまったのか? アイスランドの人々はそう問いかけた。国全体がどうして道を踏み誤ってしまったのだろう? 新たな政府を選出し、銀行部門を改革し、予算の均衡を図ることがすべての第一歩となるlそうした合意が早期になされた。今のアイスランドに必要なのは、土台から国を立て直すことなのだと。

なかでも喫緊の課題は、選挙民から乖離してしまった政治体制の改革だった。これは目新しい問題ではない。アイスランドに限ったことでもないし、世界最古の議会にも存在する。世界のどこででも、有権者はかならず為政者の粗を見つけ出すものだが、ここ数十年間は選挙で選ばれた政府高官への不信感がとりわけ急増した。各種世論調査によると、政治家は国益より自分の利益を優先していると考える英国人は、一九八〇年代に比べて四倍にも増えた。経済が比較的順調なドイツのような国でも、有権者と為政者との関係は悪化する一方だ。二〇一〇年にはドイツ語協会が、今年を表す言葉として Wutburger(怒れる大衆)を選んだ。「政治的な決定が自分たちの頭ごしに行われている」ことへの有権者の怒りを表す一語だった。

この問題に抜本的に取り組むために、アイスランドのあるグループが考え出した抜本的な解決策は、私たちがスロー・フィックスのつぎの要素を理解するのに役立つものだろう。このグループは選挙民に対し、政策の立案や新憲法の作成に直接関与するよう呼びかけたのだ。

これはいささかばかげた案のようにも思える。一般の有権者が法案作成の何を知っているのか? まして憲法や政治哲学の細かな論点などわかるはずがあるか? だが、このアイスランドの実験は決して無謀なものではない。8章で見たように、専門家は自らの専門分野のなかでも、そうした分野を超えた相手とも実りあるコラボレーションができる。しかしその範囲をずっと大きく、なんの区別もせずにどんどん広げていったとしても、同じことが当てはまる。不特定多数の人々、つまり群衆は、うまく扱いさえすれば驚くほどの知性を発揮するのだ。この事実はしかし、なかなか受け入れにくい。私たちには群集心理への恐怖がある。一九世紀にトーマス・カーライルは、「無知な個人が集まったところに英知が宿るなどと信じてはならない」と警告した。カーライルの同時代人ヘンリー・デイヴィッド・ソローも、憲法の起草に大衆を関わらせるなどという案は鼻であしらっただろう。「大衆の水準は、そのなかの最上の成員に等しい水準まで上がることはなく、逆に最低の成員の水準まで下がるものだ」

OCR化した10冊

2014年05月20日 | 6.本
159.4ドデ『「型を破る人」の時代』
 「人の心を揺さぶる仕事」が、桁外れの結果を出す--「新しいものに飢える社会」の必勝パターン

336.3ホン『上司になってはいけない人たち』
 上司になってはいけない人たち
 1 問題があるのに「ない」という《無責任上司》
 2 自分が「問題そのもの」になっている《鈍感上司》
 3 何もしないで会社の評論ばかりする《負け犬上司》
 4 「ほかにやることがある」でごまかす《煙幕上司》
 5 その場しのぎの対応に終始するくお調子者上司》

302.4ア 『アフリカ社会を学ぶ人のために』 2014/05/19 3:48 午後
 民族と文化
 人類誕生
  アウト・オブ・アフリカ
  繰り返される「拡散」
  人類の誕生
  ホモ属の進化
  ホモ・サピエンス
  文化の中心
  アフリカと古人類学研究
 ライフスタイル
  同時代としてのアフリカ
  携帯革命
  情報革命
  送金革命
  求職革命
  インフォーマル世界の変貌
 相互扶助

372.1ヤマ 『日本教育史』 2014/05/17 8:25 午後
 「近代教育」の混迷-国家統制と市場原理
 一 臨時教育審議会とその後の教育改革
 二 「ゆとり教育」の推進とその問題
 三 教育政策の今日的動向

675.3ミズ 『センスは知識からはじまる』 2014/05/17 9:10 午後
 「センス」とは「知識」からはじまる
 すべての仕事において〝知らない〟は不利
 ひらめきを待たずに知識を蓄える
 イノベーションは、知識と知識の掛け合わせである
 センスとは、知識にもとづく予測である
 客観情報の集積がその人のセンスを決定する

019.12トヤ 『乱読のセレンディピティ』 2014/05/17 9:29 午後
 もっともおもしろい読書法
 本は身ゼニを切って買うべし
 不健康な読書
 知識と思考

121.6ワカ 『池田晶子 不滅の哲学』 2014/05/17 10:36 午後
 哲学が生まれるとき
 言葉と宇宙
 「私」とは考える精神である
 言葉はそれ自体が価値である

336ミズ 『明日使える世界のビジネス書をあらすじで読む』 2014/05/18 1:30 午後
 『MAKERS』
 『たまたま』
 『ビル・ゲイツの面接試験』
 『スターバックス成功物語』
 『フェイスブック若き天才の野望』
 『銃・病原菌・鉄』

130.2ス 『世界を変えた50の哲学』 2014/05/18 8:00 午後
 ピュタゴラス
 ソクラテス
 プラトン
 アリストテレス
 アウグスティヌス
 トマス・アクィナス
 マキャヴェッリ
 デカルト
 スピノザ
 ジョン・ロック
 バークリー
 ヒューム
 カント
 ペンサム
 ヘーゲル
 J・S・ミル
 キルケゴール
 ニーチェ
 ラッセル
 ウィトゲンシュタイン
 サルトル
 ホッブズ
 ヴォルテール
 ルソー
 アダム・スミス
 エドマンド・バーク
 トマス・ペイン
 メアリ・ウルストンクラフト
 ダーウィン
 マルクス
 マックス・ヴェーバー
 ガンディー
 グラムシ
 ハイエク
 ボーヴォワール
 ケイト・ミレット
 ピーター・シンガー
 フロイト
 デューイ
 ユング
 ピアジェ
 B・F・スキナー
 マズロー
 ローレンス・コールバーグ
 チョムスキー
 ジョージ・サンタヤナ
 ヘルベルト・マルクーゼ
 アドルノ
 フーコー
 ジャック・デリダ
336.2ナ 『難題解決の達人たち』 2014/05/18 7:36 午後
 クラウドソーシングする~大衆の知恵

『銃・病原菌・鉄』

2014年05月19日 | 4.歴史
『明日使える世界のビジネス書をあらすじで読む』より

1万3000年にわたる人類史の謎

草思社、2000年刊、倉骨彰(訳)

★この本を一言でいうと

 1万3000年以上にわたり異なる発展を遂げた、壮大な人類史!

★この本が名著とされる理由

 世界にはそれぞれの国に「歴史」が存在する。また世界の歴史は他国との歴史であるが、それぞれの大陸によって紡がれる歴史が異なることにスポットを当てた本は少ない。本書ではそれぞれの国の人びとの優位性を排除し、あくまで「大陸ごと」に歴史を紐解くことによって、歴史は環境によってつくられることを解き明かしている。現代社会が築かれた背景を論じた知的興奮を掻き立てられる一冊である。

★繁栄の要因となった「銃・病原菌・鉄」

 タイトルの「銃・病原菌・鉄」はヨーロッパ人が他の大陸を征服できた直接の要因を凝縮して表現しており、具体的には次のことを示している。

  ・銃→重機・鉄製の武器、そして騎馬などにもとづく軍事技術

  ・病原菌→ユーラシアの風土病・伝染病に対する免疫

  ・鉄→製鉄技術

 たとえば、1533年にスベイン人のコンキスタドール(探検家・征服者)であるフランシスコ・ピサロは、インカ帝国を滅ぼし、指導者であるアタワルパを絞首刑に処した。突き詰めるとこの勝者と敗者を分けた要因も「銃・病原菌・鉄」などにある。つまり、スペイン人は「持てる者」であり、インカの人々は「持たざる者」だったわけだ。

 では、どうして「持てる者」と「持たざる者」の差が生まれたのか。異なる歴史の経路を辿る過程で、両者の間には何があり、何がなかったのか。

 本書ではその差異と直接の要因を探り、分析を進めていく。

★各大陸の農耕・畜産の発展

 人類の発展が大陸によって異なると同時に、農業・畜産・文字に至るまでの文化の発展も異なる。大陸ごとに出発した植物や動物は、以下のようなものである。

 <動物>

  ①東南アジア:羊・山羊/②中国:豚・蚕/③中央アメリカ:七面鳥/④アンデス、及びアマソン川流域:ラマ、テンジクネズミ

 <植物>

  ①東南アジア:小麦、エンドウ、オリーブ/②中国:米、雑穀(アワ・コーリャン)/③中央アメリカ:トウモロコシ、イングンマメ、カボチャ類/④アンデス、及びアマソン川流域:ジャガイモ、キャッサバ/⑤アメリカ合衆国東部:ヒマワリ、アカザ

  狩猟採集生活に終止符を打ち、食糧生産を先んじて始めた人々は、他の地域より一歩先に銃器や鉄鋼製造、各種疫病に対する免疫を発展させているという。

  これが「持てる者」と「持たざる者」を誕生させた要因の一つである。

『スターバックス成功物語』

2014年05月19日 | 6.本
『明日使える世界のビジネス書をあらすじで読む』より

日経BP社、1998年刊、小幡照雄/大川修二(訳)

★この本を一言でいうと

 シアトルの小さなコーヒー屋さんが原点。「スターバックス」のCEOが語る、成長と成功の記録

★この本が名著とされる理由

 シアトルでたった6店舗だったスターバックスが北米で1400店舗、さらに世界進出させた原動力は「このコーヒーの味をより多くの人に知ってもらいたい」という、ひたむきで真っ直ぐな想いである。受け入れるべき変化に対応しつつも、目指すピジョンや譲れない信念を曲げずに進むことは想像以上に難しい。1998年に刊行された本だが、著者が語る言葉は今でも色初せない情熱に溢れている。

★スターバックスの成長秘話

 著者とスターバックスとの出会いは1981年、当時、別の会社の営業本部長をしている時にシアトルの小さなコーヒー豆の小売店が大量のコーヒーメーカーを購入したのに興味を持ったことがきっかけである。

 当時のスターバックスはシアトルにわずか数店舗を展開する規模だったが、ヨーロッパ風の深煎りコーヒーの味に惚れこんだ著者は、3人の創業者と結婚したばかりの妻を説き伏せて転職した。

 ここから現在までの成功物語がスタートするのだが、「著者がスターバックスを買収してCEOになるまで」「株式公開以前」「株式公開後」の三部構成で、それぞれの時代に起きた出来事が当事者の視点で綴られている。

★「従業員」ではなく「パートナー」へ

 著者の父親はブルーカラーの労働者として職を転々とし、年収が2万ドルを超えることがなかったという。著者自身、国営低所得者共同住宅で育ったことにコンプレックスを抱いていた時期もあったようだが、同時に父を深く尊敬していたと述べている。

 少年時代の私は、いつの日か自分が会社の経営者になろうとは夢にも思わなかった。しかし、何かできる立場になったときには決して人々を見捨てるようなことはしないと固く心に誓っていた」と言うだけあり、従業員の福利厚生やストックオプション制度には積極的である。

 著者は、「小売業やレストラン業にとって、顧客サービスは死活に関わる問題である。それにもかかわらず、これらの業界の給与や福利厚生の水準は全産業中で最低というのは、なんとも皮肉な話だ。この業界の社員は会社の中核を担っているだけでなく、会社の顔として世の人々と接する存在なのだ。売上金はすべて彼らの手を通さなければならないのである」と述べている。

 著者は、この言葉を理想論として語っていない。スターバックスでは週20時間勤務のパートでも健康保険が適応されているし、全社員が基本給に応じた自社株購入権(ピーンストック)が与えられ、こうした取り組みが全社員に貢献の実感を与え、労働意欲の向上と信頼関係に繋がり、今日の成功の基盤となったのである。

 企業にとって、そこで働く人々は最大の資産である。経営者やリーダーには利益を追求するだけでは得られない教訓を本書から学んで欲しい。

池田晶子 「私」とは考える精神である

2014年05月19日 | 1.私
『池田晶子 不滅の哲学』より

最晩年に行なわれた講演で池田晶子は、魂の問題にふれながら、「人生の味わい」をめぐる発言を残している。

 たぶん年齢的なこともあるのかなという気もしますね。四十半ばまで来まして、やっぱりいろいろありますし、人生の味わいというか……、そう味わいですね、味わいとしか言えないな。そういうものが非常に面白く感じられるようになってくると同時に、どうも魂の事柄を考えたくなってきたんです。 (『人生のほんとう』)

ここでは一言も記されていないが、味わうべき何ものかである、と池田が言っているのは、わが身とその生涯である。かつて池田は、重要なのは言葉であって、わが身はその通路に過ぎないと言ったりもしていた。だが、そうした思いに変化が現われてくる。「味わい」を感じるのは、魂以外ではあり得ない、日増しに魂が身近に感じられ、魂を考えざるを得ない毎日を送っている、というのである。魂で味わう、というより、魂を味わう、と池田は言う。

かつて、世界に存在するのは、無数の魂ではなく、「世界霊魂」ともいうべき一なるものである、と考えた哲学者がいた。神秘哲学の巨星プロティノス(二〇五頃~二七〇)である。

存在には、一者→叡知→霊魂→自然→質量と、五つの階梯があり、万物は一者から、それぞれの段階を経て「流出」すると考えられた。いずれの段階にも一者の働きが「分有」されている、その働きこそが「存在」それ自体である、万物は、一者の力を分かたれることによって存在している、とプロティノスは考えた。一なるものの中にはすでに多があり、多の中にも一がある。彼の思想には、仏教の華厳哲学「一即多・多即一」の世界観がそのまま生きていることから、学者のなかには、彼の生涯のどこかで、事実として仏教との交流があったことを指摘する者もいる。

プラトンヘの言及にくらべれば、池田がプロティノスにふれた言説は少ない。だが、次の言葉を読めば、その影響の深さは疑い得ない。「『精神世界』と称して騒ぐのは、間違っても世のためにならない。なぜなら、『精神世界』なるものは、世界のどこにも存在しないからである。世界はもとから、『世界精神』でしかないからである」(『残酷人生論』)。ここでの「世界精神」は、先に見た「世界霊魂」と同義である。

この一節のほかにも『考える人』の「神秘主義」の章、その前半はプロティノス論である。その一文も、従来の哲学研究者とは異なる場所からの「読み」に貫かれていて、折にふれ、池田がプロティノスの作品に親しんでいたことがわかる。池田は、プロティノスの言葉を「美しい」という。彼女はプロティノスの言葉をいくつか引いているが、次の一節は幾重にも重なる意味で、彼女には「美しい」と感じられただろう。池田が引いたままに記してみる。

 われわれがここに説いていることは別に新しいことではないのであって、今ならぬ昔においてすでに言われたことなのである。ただそれはすっかり明けひろげては言われなかったので、今ここに説かれているようなものが、それの解説として出て来たわけなのであるが、ここに説かれている思想そのものが昔からあったということに関しては、プラトンその人の書物が証拠となって、われわれの説くところに保証を与えてくれるのである。(『考える人』)

「読む」とは、池田にとって、それを書いた人を魂に感じることでもあり、また、その人を扉に、彼方なる世界をかいま見ることだった。「ここに説いていることは別に新しいことではない」、「今ならぬ昔においてすでに言われたことなのである」、それがプロティノスの立脚地だった。彼はその場所をけっして離れない。プロティノスは、新しい思想をひっさげて登場したのではない。むしろ、「古い」哲学をよみがえらせようとした。真に古いものは、けっして古びることはないとするプロティノスの態度に、池田は強く共鳴する。

池田晶子 言葉と宇宙

2014年05月19日 | 1.私
『池田晶子 不滅の哲学』より

 哲学は、美醜、善悪、優劣などの相対性を超える「統一性」を志向する。哲学とは「統一性」へと還ってゆく道である。かつて哲学は、聖なる学問だった。学問とは知識を積み重ねることではない。人間によって一歩一歩、歩かれることによってのみ開かれてゆく道だった。この世にあらわれる「意味」を道しるべに、混沌の深みから、「統一性」に帰還しようとする、その営みそのものが哲学だった。同じことが、リルケにとっては「詩」だったのである。

  死とは私たちに背を向けた、私たちの光のささない生の側面です。私たちは自らの存在世界が生と死という二つの無限な領域にまたがっていて、この二つの領域から尽きることのない糧を摂り込んでいるという、どこまでも広大な意識をもつようにつとめなくてはなりません。〔中略〕真実の生の姿は、〔生と死の〕二つの世界を架橋し、また、貫いていて、そこには終わりなき「血」の循環があるのです。この世というものがなければ、あの世というのもありません。あるのはただの大いなる統一体だけで、そこには私たちを凌駕する存在、「天使」が住んでいるのです。(『リルケ書簡集 1910-1926』、筆者訳』

 消滅としての死は存在しない。存在は、「死」のあとも「存在」する。生と死を分けているのは言葉である。あるのは「存在」ばかりである、とは池田晶子の本を開けば、どこでも語られている主題である。飽かず、彼女はこのことを語った。

 人は、生と死を分けることに疑問を感じない。生は理解できるが、死は不可知であると言って終わりにしてしまう。果たしてそれでよいか。私たちが「生」と呼ぶあり方は、「死」を完全に離れているものなのだろうか。「死」とは、「生」から消滅への道行きなのだろうか。「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」といった『論語』の言葉は、こうした地平でもう一度読まれなくてはならないのではないだろうか。人が、生のみを絶対視し、死を疎ましく言うのを止めるまで、「巫女」にコトバは降り続けた。なかでも次に引く、ソクラテスの口を借りて、彼女が生と死を語るところは印象的だ。そのままリルケに聞かせたい。ここで池田が言う「存在」とは、リルケが先に言った「統一体」であり、それは先に、彼女が小林秀雄に向かって書いた「統一性」と同じものを指している。

  ソクラテス 存在するということは、無ではないということなのだ。存在しないという ことは、存在しないのだ。

  検死官 死後の世界は存在すると。

  ソクラテス 違う。死がないのだから死後もない。世界はここに存在するのだ。

  検死官 やはり世界は生きている間だけ存在すると。

  ソクラテス 違う。存在するということは生存するということではない。死がないのだ から生もない。 (『無敵のソクラテス』)

 詩作を離れたリルケは、病みがちな、静かな、しかしどこか人を魅惑する男だったが、詩人リルケは、現世の悲しみと絶望に意味と光を掘り当てる、力強き魂の穿暫者である。リルケの周辺にいた人々は皆、詩人が切り開く荘厳なる世界に、戦慄にも似た感動を覚えた。その言葉の先に、未踏の場所が開かれるのを見た。リルケは旅に生きた詩人だった。人々は、それぞれにできる方法で、詩人リルケを擁護した。ある富者は、城を自由に使うことを許し、ある者は、詩が書けないとなげく彼に、幾度も書簡をおくって励ましつづけた。それはあたかも、聖地を守るかのようでもあった。喩えではない。ライナー・マリア・リルケとは、詩人の名であるとともに、この世に開かれた、「宇宙」へとつながる「生ける場所」だったのである。

 同じことは、池田晶子にもいえる。池田晶子を「場所」だと思ってみる。彼女によって書き続けられた言葉を、その場所でさえずる鳥、芽吹く植物、流れる風のように読む。読むというよりも、その場所にたたずむように、言葉に向き合う。すると言葉が、静かに、しかし確かに、つぼみが開いて花になるように、コトバヘと変じていくのを見るだろう。