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未唯宇宙項目の見直し 6. 本と図書館 6.6~6.7

情報センター

 知の入口

  デジタル環境
   デジタル化に対応
   多岐に亘るモノ
   大量情報処理
   分散して共有

  体系化
   個人ライブラリ
   ザナドゥ空間
   ロジックの積上げ
   論理的につなげる

  個人環境を接続
   テーマの深堀
   レファレンス評価
   キンドルで個人環境
   ブログで集約

  ライブラリ配置
   分化で多様な興味
   図書館ポータルで接続
   ザナドゥ空間を具現化
   クラウドで体系化

 学ぶということ

  学ぶ意味
   興味を追求
   専門性を生かす
   知を発揮する場
   知識と意識を習得

  個人状況を把握
   学習レベルを設定
   分野チームに反映
   状況に応じた支援
   個人の役割を示す

  チームで学習
   チームの目的の明確化
   本から得るもの
   自分の考え・思い
   チームの意思決定

  支援体制
   行政サービス
   街に多くの場を保有
   交流館の生涯学習
   図書館のアゴラ

 コンセルジュ

  集合知を活かす
   シェアする文化
   ローカルな知の収集
   図書館を守る
   地域コミュニティ

  調べる専門家
   分野ごとの専門家
   寄り添う姿勢
   本棚の前で待機
   なぜ、本はあるのか

  本が書ける
   スタバで書く
   調べてもらう
   街に出て、書く
   本の書き方教室

  コミュニティ環境
   図書室の必要性
   本はセミナーに勝る
   新しい情報との接点
   著者と読者をつなぐ

 意思決定

  哲学の見識
   アレキサンドリア図書館
   アテネのソクラテス
   知的なオアシス
   デルフォイで啓示

  どこでも考えられる
   イスとラテと本
   バリスタがいる意味
   スタバでキンドル
   どこでも図書館

  悩みの解消
   本にはすべてがある
   未唯宇宙に表現
   分化で多様化
   市民の専門家

  さまざまな意見
   賛否両論
   対等に並ぶ
   意見を聞く
   自分で判断

知の体系

 愛される図書館

  市民アピール
   本のよさ
   得られるもの
   守るものがある
   公共ということ

  行政の拠点
   開放された場所
   市役所業務代行
   開館時間を決定
   市民と一緒に使う

  関係者の熱意
   NZの日本語対応司書
   ダニーデンの丁寧な司書
   オープンな大学図書館
   地域のニーズに対応

  文化の発露
   公共図書館は皆のもの
   知識の共有化
   本屋の組み込み
   地域活性化

 電子書籍

  テキスト化で先行
   借りた本を展開
   DNAの抜出
   皆に伝える
   未唯空間に展開

  未唯宇宙を可能に
   分化を活かす多読
   多くの新刊書
   多様な考え方を網羅
   知識を行動に変換

  状況は変わる
   印刷を超える
   デジタルはローコスト
   キンドルで本は変わる
   図書館と電子書籍

  体系化
   メディアミックス
   同時に読める環境
   個人レベルの体系化
   知のカプセルに向けて

 図書館クラウド

  コミュニティが対象
   生涯学習のベース
   悩みを共同で解消
   コラボで意思決定
   コミュニティの進化

  集め、整理、調べ
   集め、整理を一元化
   調べ、書くことを支援
   分散情報を活用
   二次資料を循環

  ザナドゥ空間
   電子書籍で未来を見る
   デジアナ変換技術
   図書館プロジェクト
   ネット時代の著作権

  境がなくなる
   スキップ思考
   共通機能のコスト削減
   知恵を横展開
   地域の差別化

 知の分化と統合

  ライフログで表現
   思考過程を有体に
   トレースが可能
   より多くの人が参画
   未唯空間のプレゼン

  社会ライブラリで統合
   アウトリーチ
   ビジネス変革に対応
   コーディネーター
   多様なライブラリアン

  分化をつなぐ
   検索、収集で読書環境
   承認を求めず、促進
   コミュニティで統合
   コミュニティをつなぐ

  図書館空間
   バーチャル図書館を配置
   ノウハウの体系化
   ネットワークで共有
   行政インフラの活用
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サンドイッチ理論

ぴょん吉の声の満島ひかり

 ぴょん吉の声の満島ひかりさんにはまっています。コメントを書き込んだりしています。「アンネの日記」の朗読も好きだった。

 ぴょん吉という人格ぴょん吉という人格を満島ひかりさんが演じている。16年の歳月が皆に流れると同時にぴょん吉にも流れている。カエルなりに。なぜ、16年後なのかが見えてくるはずです。満島ひかりさんなら演じきるでしょう。期待しています。

駅前スタバは女性でいっぱい

 平日の10時半だけど、駅前スタバは女性でいっぱいです。豊田市駅前でまともなところはここぐらいしかない。私はマネっこの「タリーズ」は嫌いです。バリスタも女性です。だから、ほとんどが女性の世界です。

 今日はスタバから送られてきたチケットを使って、ピチピチふらぺを頼むことにしています。Tシャツ一つで来たので、寒い。その上、冷風の換気扇の真下の席です。完全に冷えてしまった。1時間掛けて、未唯宇宙のチェックをする予定だったけど、30分で切り上げました。

 午前中に6.8まで進まないといけないけど。腹が冷えてきた。

 ピチピチふらぺは昨日、無かったそうです。祝日で大勢の女性が来たのに。思ったよりも売れたんでしょうね。バナナの時もすごかった。作るのが手間だったので、Iさんたちは大変だったと言っていた。

6.6.3「学ぶということ」

 6.6.3「学ぶということ」の①「学ぶ意味」。やはり、個人の分化、そのために興味を増やして、専門性を養う。と同時に図書館の本来の役割の知識と意識をつなげていく。併せて、行政の意味。行政よりも図書館の方がいいんだけど。

サンドイッチ理論

 ダブルから、2つ飛ばします。つまり、2レベルの関係。これも未唯空間で使っているロジックです。取り巻くものを取り巻くもの、中のものの更に中のもの、2段階がつながることで、間を挟み込むという考え方です。

 これは国というものを考えた時に出て来た。コミュニティが国の下にあり、国の上には超国家がある時に、超国家とコミュニティの関係で考えると国の意味が明確になる。それによって、コミュニティの意味も、超国家の役割もハッキリします。

 これを習ったのは、フィンランドのハメリンナのDr.ヘリからです。彼らの環境コミュニティはフィンランドという国家を超えて、EUとつながっていた。そのために、膨大な資料をEUに提出したと言っていたし、実物も見せてもらった。そこに、Dr.ヘリの思いが詰まっていた。フィンランドという国家の元にあることを縛られていると、周りが見えない。もう一つ上からの関係からすると、その制約がなくなることを知った。

 ある意味では、LocallyとGloballyの間に、一つのレイアがあるということ、それによって、初めて、LocalとGlobalがわかれる。それによって、ハイアラキカルではなく、空間として、モノが考えられる。これに名前を付けるとしたら、サンドイッチ理論とでもしておきましょうか。まだ、ぴったり来ないですね。

6.7「知の体系化

 6.7「知の体系化」はどうしても、これは固くなります。それに対して、「I lobe Library」から始めるのが私の特徴です。

Iさんへのメール

 Iさんには、13:20に今週の勤務状況をメールを確認しました。なんと、13:30には返信がありました。従来の半日以上から、様変わりです。

 フラペで寒かったことを書いたところ、名古屋には上着が要ると書かれていた。併せて、結婚した時に、私と同様に父親が寂しがっていたということも書かれていた。優しいですね。

 「魔女展」は知っているみたいです。気持ち悪がっていた。

ケプラーの法則が敗れた

 1か月後と思っていた、パートナーからのメールが8時過ぎに来ました。ケプラーの法則が敗れた。またしても、唐突です。仕事の愚痴が溜まっているみたいです。電話で1時間、話しました。

 何のテーマなのかを考えるのは止めておきます。パートナーの思いは私の想像を超えているから、構えない方がいい。何にでも対応できるようにしておきまっす。それと助言も最低限にしておきます。答は自分自身でもっているから。

 イベント状態から定常状態に入ってきたことにより、若干、方向性を失っているみたいです。あまり、他人と比較したり、どう思われてているかと考えない方がいい。他人が立派に見えて、自信を無くすだけです。
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OCRした12冊/40冊

『第二次世界大戦』

 人種戦争 ラッセンクリーク 一九四一年六月~九月

『選良たちの宴から住民の自治へ』

 教育と図書館のこと

  貧困な教育施設

  住民運動の勝利

 幸山市政五年の実績と捉え方

  市民の声が生かされた改革であったのか

  まずは弱いところから

  財政危機克服の手法

  矛盾を深める「集中改革プラン」  

  行革プランの問題点

 二一世紀の熊本市政--住民の安全に責任を負う団体自治--

  更新期を迎え危険がいっぱいの都市施設

  あらためて地方自治を問う

  要求実現は闘いによって

  逆立ちした政策の転換を

『十字軍「聖戦」秘譚』

 モンゴル勢の西方大遠征、パレスティナのキリスト教徒

  フラグ勢、アサシン団とバグダッドのカリフ撲滅

  タタール勢、マムルータ勢に敗北

  バイバルスの大構想

  バイバルス、機略によりサフェド大要塞を奪取

  信教の優劣

『哲学論集』

 複雑現象の理論

  パターン認織とパターン予測

  複雑性の程度

  パターン予測と不完全なデータ

  パターンの複雑性を扱えない統計学

  パターン予測の一例としての進化論

  社会構造体の理論

  決定論の両義性

  相対主義の両義性

  無知の重要性

  後記:複雑現象の理論における「法則」の役割

『古代ローマの庶民たち』

 服従しつつ生き抜く--貧民

 人口統計

 うまく切りぬける

 宗教

 生き残る

『開かれた国家』

 開かれた国家・境界なき世界の実現

  境界なき政治は可能か

  なめらかな社会と創発民主制

  情報革命を支える思想

  サイバースペースの限界

  リバタリアニズムの視点

  日本型情報社会に希望はあるか

  上半身と下半身の分裂

  リバタリアンとコミュニタリアンの共存

  テロリスト、ビジネスマン、観光客

 なめらかな社会

  複雑な世界を複雑なまま生きること

  網、膜、核

  ステップ、フラット、なめらか

 分人民主主義(Divicracy democracy)

  個人(individual)という幻想

  伝播委任投票システム

  分人民主主義となめらかな社会

  創発という考え方

『マッキンゼーのエリートはノートに何を書いているのか』

 プロフェッショナル・ノートの流儀

 そもそも「ノート」とは何のためにある?

 ノートは「第2の脳」

 ノートに対する誤解とは

 ノートはアウトプットのためにある

 ノートは過去の記録のためではなく、よい未来をつくるためにある

 マッキンゼー流ノート術で大切な3つの心構え

  仮説を考えながらノートを取る

  アウトプット志向

  ストーリーラインで考える

『20世紀の平和思想』

 「荒れ野の四〇年」リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー

 「荒れ野の四○年」は第二次世界大戦ドイツ敗戦四〇周年の一九八五年五月八日、ヴァイツゼッカーが行なった演説。世界各国語で翻訳された。『ヴァイツゼッカー回想録』(永井清彦訳、岩波書店)等。

『新・観光立国論』

 移動と交流という思想--観光を支える哲学移動は人間を賢くする

『教養のフランス近現代史』

 第二次世界大戦下のフランス

  奇妙な平和から奇妙な戦争へ

  ヴィシー体制の対独協力

  国民革命--モーラス主義から反ユダヤ政策へ

  レジスタンスの展開

  占領期のフランス

 ヨーロッパ統合とフランス

  二つの戦後と国民国家の限界

  フランスの「栄光の三〇年間」とヨーロッパ

  オイルショックとフランスモデルの動揺

  冷戦の終焉とEUの発足

  グローバリゼーションとEUに反発するフランス

『イギリスの歴史』

 二〇世紀のイギリス

  第一次世界大戦

  戦間期

  第二次世界大戦

  停滞と苦悩

  サッチャーとブレア

 二一世紀のイギリス

『宗教学大図鑑』

 シャーマンの力

 イスラム復興運動
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サーミのシャーマン

『宗教学大図鑑』より シャーマンの力 ⇒ 映画「ククーシュカ」の世界です

サーミのシャーマン

 シャーマニズムに関してはこのように多くの信仰が伝えられているが、記録に残っている中でヨーロッパ最古のシャーマニズムは、スカンジナビア北部のサーミと呼ばれる地域(かってのラップランド)のものである。この地域に住む半遊牧民のサーミ人は、トナカイを飼い、沿岸で漁を行う民族で、18世紀初期に至るまで完全なシャーマニズム信仰を保持していた。そして彼らは、一度は失われかけたその信仰の一部を、ここ数十年の間に取り戻している。史料を用いることで、また、北アジアやアメリカ大陸の北極地方に見られる類似した文化と詳細に比較することによって、彼らの宗教は再構築が可能だったためである。

 サーミのシャーマンはノアイデと呼ばれ、シャーマンとしての役割を親から受け継ぐこともあれば、精霊によって直接選ばれることもあった。他の文化では、このようにシャーマンになるべく「選ばれた」人間が、一定期間にわたってひどい病気やストレスに苦しめられたり、自分が殺されて生き返るという幻覚を見たりすることがしばしばある。

 サーミのシャーマンがトランス状態に入る際には、精霊が手助けをした。精霊は、狼や熊、トナカイ、魚などの姿で現れ、シャーマンはそれらの動物を真似ることでトランス状態に入る。シャーマンは、真似るというよりも、実際にそれらの動物に「なる」のだという表現がよく使われ、それは目に見える外見的な変身ではなく、内面的な変化として起きるのだと考えられた。

 サーミのシャーマンがトランス状態に入る手助けをするものが、他に3つあった。1つ目は極度の身体機能喪失である。これは、北極地方という極寒の地で裸で儀礼を執り行うために生じるものである。2つ目は「ルーン」と呼ばれる神聖な太鼓が刻むリズムである。サーミ人と類似点を持つヤクート族やブリヤート族の人々は、この太鼓を「シャーマンの馬」と呼んでいる。この太鼓には、世界樹でつながる3つの世界(人間の住む地上の世界、その上にある神々の世界、そして下にある死者の世界)の絵が描かれていた。シャーマンがトランス状態に入るのを手助けした3つ目のものは、向精神作用のあるベニテングダケ(学名「アマニタ・ムスカリア」)であった。このキノコを摂取した後、シャーマンはトランス状態に入り、まるで死んでしまったかのように身体が硬直して動かなくなる。その際、男性のサーミ人はシャーマンを守り、女性のサーミ人は歌を歌うことになっている。その歌は、シャーマンが神々の世界または死者の世界で行うべきことについてのものや、シャーマンが地上の世界に戻ってくるための道を見付ける手助けをするためのものであった。

 異界に旅立ったまま、二度と戻ってくることのなかったシャーマンたちについての物語が残されている。その原因は、多くの場合、呪文によってシャーマンを目覚めさせる役目の人間が、その呪文を忘れてしまったことであった。あるシャーマンは3年間目覚めることがなかったが、それは、彼を守る役目の人間が、彼の魂を「カワカマスの曲がりくねった腸の中の、3番目の暗い曲がり角」から呼び戻す必要があることを忘れてしまっていたためであった。3年後にようやくその呪文を唱えたところ、シャーマンの足が震え、シャーマンは目を覚まし、3年間も呪文を忘れていたその人間をなじったという。

精霊との交信

 サーミのシャーマンは、世界の中心(宇宙の軸)にある山へと飛んでいき、その山の上と下にある霊の世界に入ると信じられていた。彼らは通常、魚の精霊に乗り、鳥の精霊に導かれ、トナカイの精霊に守られた。山の上にあるサヴィオという世界に行く目的は、狩猟の成功を願うため、またはその他の助けを求めるためであった。山の下にあるヤミーモヘの旅は、病人の魂を取り戻すために行われた。魂を取り戻すには、事前に捧げもので地底の世界の女王をなだめる必要があった。シャーマンは天上界の霊とも地底界の霊とも交信することができたが、それは通常の人間には理解できない霊の言葉をシャーマンが学んでいるからである。

 北極圏文化に属するネッリク・イヌイット(現在のカナダの、ハドソン湾の西側の地域に住んでいた)のシャーマンも、サーミ人とよく似た信仰を持っていた。彼らは、嵐を鎮め、病気を治し、また、人間と地球上・空・海の精霊とをつなぐ役割を果たした。シャーマンによる降霊会は、必ず、テントやかまくらのような場所で、薄暗い灯りの中で行われた。まずはシャーマンが特殊な歌を歌い、手助けをしてくれる精霊を呼び出す。そしてトランス状態に入ると、シャーマンは普段の声とはまったく違う声で話し始める。よく響く低い声で話すことが多いが、甲高い裏声で話す場合もある。

 このようなトランス状態において、シャーマンは自分の魂を空へと送り出し、月に住むタキークを訪れる。タキークは、女性が子宝に恵まれるようにまた、狩猟が成功するようにという願いを聞いてくれる。シャーマンが差し出す捧げものに満足した場合、タキークは狩猟のための動物を与えてくれるという。空に月が出ていないときは、タキークが死者に食べさせるための動物を狩りに出かけているのだと信じられていた。

空へ、海へ

 あるネッリク・イヌイットの話によると、ある日、クキアクという偉大なシャーマンがアザラシを捕まえようとしていたム彼は、氷に開いた穴からアザラシが呼吸のために顔を出すのを待っていた。彼がふと空を見上げると、月が彼の方へと近づいてくるところであった。月は、彼の傍まで来て動きを止め、クジラの骨でできたソリヘと形を変えた。ソリを操っていたのはタキークであった。タキークはクキアクにソリに乗るようにと合図を送り、クキアクが乗り込むやいなや、上空にある自分の家へと飛び立った。家の入口は何かを食べている口のようにモグモグと動いている。ある部屋の中では、太陽が赤ん坊の世話をしていた。月はクキアクに、そこに留まってくれと頼んだが、クキアクは月に住みたいとは思えなかった。そこで月の光を滑り降りて、最初にアザラシを待っていた場所に無事に戻ってきた。

 時に、ネッリクのシャーマンは、自らの魂を海底へと送り、ヌリヤーク(別名セドナ)という海と陸の女王のもとを訪れることがあった。ヌリヤークはアザラシの数を制御する力を持っていた。そのため、アザラシを食料とし、衣類にも用いていたネッリクに対して、大きな影響力を持っていた。ヌリヤークは厳しい禁止事項を定めており、ネッリクがその決まりを破った場合には、アザラシを閉じ込めてしまうのだった。しかし、シャーマンが危険を冒して海の中へと降りていきヌリヤークの髪を結い上げると、たいていの場合、彼女は怒りをおさめ、アザラシを海に放った。

 ネッリクのシャーマン文化は、1930年代、そして1940年代に至るまで続いた。ネッリクの中で、この世界にあふれる危険で邪悪な精霊を恐れなかったのは、自らを守ってくれる精霊を持つシャーマンたち(彼らの言語では「アンガコック」と呼ばれる)のみだった。ネッリクのシャーマンの中には、複数の守護精霊を持つ者もいた。たとえば、ウナラルクという名のシャーマンは、彼の死んだ両親、太陽、犬、カジカの霊に守られていた。これらの精霊たちが、ウナラルクに、地上や地下、海や空に何か存在しているのかを教えたという。

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二一世紀のイギリス

『イギリスの歴史』より 二一世紀のイギリス

二〇〇〇年のミレニアムと二一世紀の幕開けは、イギリス各地を襲った洪水と家畜の口蹄疫の流行のために、祝祭色が色褪せてしまった。ブレア率いる労働党は二〇〇一年の総選挙にも圧勝し、長期政権へ向けて地歩を固めた。教育政策や医療制度問題の解決がその政策の柱であった。

かねてより議論のあった欧州共通通貨への参加については、二〇〇二年にヨーロッパ諸国ではユーロヘの移行が実現したが、イギリスはユーロ圏への参加を見合わせた。同じ二〇〇二年には、エリザベス二世即位五〇周年記念(ゴールデン・ジュビリー)が祝われた。祝賀行事には、旧カリブ植民地出身者による「カーニヴァル」が取り入れられ、旧来のイギリス文化とは異質な文化との融合・共存がアピールされた。同年、「コモンウェルス・ゲーム」(一九三〇年から四年ごとに開かれている英連邦参加国による競技大会)がマンチェスターで開催されたことも合わせて、ヨーロッパとは一線を画するイギリスを印象づける年となった。

ヨーロッパ各国との違いは、翌二〇〇三年三月に始まったイラク戦争にも現れた。ブレア政権は、二〇〇一年のアメリカ合衆国での同時多発テロの際に、合衆国とともにアフガニスタン攻撃を行い、両国の「特別な関係」をはっきりと示したが、イラク大統領サダム・フセインの排除を目的としたイラク戦争でも、ドイツ・フランス・ロシアなどが武力行使に反対する中、合衆国と行動をともにした。このとき、積極的な関与を目指したブレアに対して、世論だけではなく、政府内にも批判が広まり、有力閣僚の辞任が相次ぐことになる。武力攻撃正当化の根拠とされたイラクによる大量破壊兵器や化学兵器の製造などの状況判断については、その信憑性が疑問視され(戦争後、そういった事実はなかったことが明らかになった)、のちに、首相を退任したブレアの証人喚問が行われるにいたった。

イギリスは、イスラーム過激派との戦いの前向に立つことになり、その結果、二〇〇五年七月七日、ロンドンでイスラム過激組織アルカイダによる地下鉄やバスヘの同時爆破テロが起こり、五〇名以上の死者を出した。この事件をきっかけに、それまで多文化共存の流れにあったイギリス国内でのイスラーム教徒への人々の視線が厳しくなり、社会的緊張を高める結果となった。イギリスにおける移民の不満は、それまでも時折暴動という形で吹き出しており、多文化共生に比較的成功したとみられていたイギリスでも、その完全な解決への歩みはまだ道半ばである。むしろ、社会的な差別や格差への不満からイスラーム過激派の思想に影響を受ける若者が増えた。二〇一四年には、イラクとシリアで急速に力を伸ばしてきた「イスラーム国(IS)」に、イギリスで生まれ育った若い男女が参加し、西欧文明に反旗を翻したことは、イギリスのみならず世界巾に大きな衝撃を与えた。

イラク戦争への批判などから世論の支持に陰りの見えたブレアは二〇〇七年に退陣する、後継となったゴードン・ブラウンの下でも労働党への支持は低迷し、二〇一〇年の総選挙で労働党は大敗、政権の座を降りることになった。しかし、単独過半数を得た政党はなく、キャメロンの率いる保守党と自由民主党の連立政権が誕生した。第二勢力として得票率を伸ばしてきた自由民主党としては、前身の自由党が労働党に取って代わられて以来の久々の政権復帰であったが、保守党の政策への妥協を余儀なくされ、独自色を出せなくなり、かえって支持率を下げる結果となった。

二〇一〇年には、エリザベス二世の即位六〇年記念行事(ダイヤモンド・ジュビリー)が挙行された。この祝祭的な雰囲気は、三度目の開催(開催予定であったが第二次世界大戦で中止となった一九四四年の第二二期を含めると、開催決定は四度目)となるロンドン・オリンピックヘと引き継がれていった。

二〇一三年八月、内戦状態にあるシリアヘの軍事介入をめぐって、キャメロン首相はその是非を議会に諮るが、議会がこれを否決したため、軍事行動を断念せざるを得なくなった。その背景には、ブレア時代のイラク戦争への強い不信感から、シリア介入に否定的な国民世論があった。議会の反対で戦争を回避したことは異例で、将来のイギリスの軍事行動の制御に重大な意味を持つことになるだろう。

スコットランドでは、二〇一一年の選挙でスコットランドの独立を訴えるスコットランド国民党(民族党)がスコットランド議会のほぼ半数を占めるにいたり、独立を求める動きが活発化していた。ついに、キャメロン首相は独立の是非を問う住民投票の実施を約束することになる。当初は、独立反対派が優勢であるとの状況判断にもとづくものであったが、二〇一四年九月の投票が近づくにつれて独立賛成派が急伸すると、政府をはじめ、主要な支持地盤を失うことになる野党労働党も、独立阻止を計って、硬軟様々な圧力をスコットランドにかけた。いっそうの権限委譲を約束する一方で、通貨としてポンド使用を継続したいスコットランドに対し、継続使用の拒否を明確にするなど、経済的な不利益を喧伝する戦略に出た。投票直前には女王までが独立に懸念を示し左。九月に実施された投票では、スコットランド独立支持派が敗れたものの(賛成四五%対反対五五%)、投票後、かえって独立支持派が増えるなど将来に不透明さを残している。

二〇一五年五月、保守党と労働党の支持率が拮抗する中で五年ぶりに行われた総選挙では、EUからの離脱の是非が大きな争点となった。EUからの脱退を主張する英国独立党が党勢を急伸させ、自由民主党を支持率で上回り、スコットランド国民党も依然として大きな支持を集めた。政党政治の始まりから二大政党による政権交代を中心に展開してきたイギリスの政治は、多極化へと大きく様変わりを見せている。

キャメロン首相は、根強いEU離脱論に対して、総選挙に勝利すれば、二〇一七年までにEU残留を問う国民投票を実施することを公約して選挙戦に臨んだが、その結果は小選挙区制に助けられて過半数を確保、政権を維持した。労働党は、地盤のスコットランドでスコットランド国民党に議席のほとんどを奪われてしまい、スコットランド国民党の存在感が以前よりも大きなものになった。EU離脱を問う国民投票が実施されれば、その結果次第で、EU志向の強いスコットランドで独立への動きが再燃する可能性も高い。さらに、この総選挙では、政党の支持率と獲得議席数の落差が大きく、多様な民意を反映できないという小選挙区の欠点が露呈したことは、選挙制度の見直しを求める動きを加速させるだろう。近い将来、ふたたびイギリスという国のあり方の根本が問われることになる、その予兆を示した総選挙であった。

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二〇世紀のイギリス サッチャーとブレア

『イギリスの歴史』より 二〇世紀のイギリス

「サッチャリズム」の名で知られるその政策は、それまでの、経済成長のために政府が積極的に介入し、社会福祉をめがして公共支出を行い、労働組合などとの協議を重視するといった、程度の差こそあれ、労働・保守両党に共有されていた経済政策を真っ向から否定するものであった。福祉政策が労働意欲を低下させ、経済の低迷を招いたとして、徹底した市場原理に基づく経済政策がとられた。海外からの投資が積極的に誘致され、公共支出は削減され、国営企業の民営化か進められた。弱者救済(福祉)より経済の活性化が優先され、高額所得層の減税と付加価値税の引き上げが行われた。攻撃の標的とされた労働組合の反発は激しかったが、締め付けを緩めず、その抵抗を押さえ込んでしまった。

まさに、戦後の福祉国家を全否定し、ヴィクトリア時代的な自助の精神を再生しようとしたのである。こういった政策の成果は、インフレの抑制となって現れたものの、戦後最悪といわれた深刻な不況の下、企業の倒産が相次ぎ、失業率が激増、貧富の差も拡大し、サッチャー政権の支持率も急速に落ちていった。

しかし、八二年にアルゼンチンが、かねてより領有をめぐって係争の地であったフォークランド諸島を侵攻すると、断固とした対応を唱え、軍隊を派遣し、多くの将兵と艦船を失いながらも、アルゼンチンとの戦争に勝利を収めた。このナショナリズムを鼓舞する勝利でサッチャー政権は息を吹き返し、八三年の総選挙で圧勝した。八七年にも好転し始めた経済を背景に選挙に勝ったサッチャーであったが、医療制度への市場原理の導入や水道・電力の民営化を図ろうとした際には、行き過ぎた市場主義への批判が高まった。結局、サッチャー政権の命脈を絶つことになったのが、いわゆる「人頭税」の導入であった。地方税を、所得に関係なく、世帯人数に応じて課税しようというもので、導入反対のデモが全国で繰り広げられた。また、合衆国との関係を重視し、統合を目指すヨーロッパと距離を置いたことは、欧州通貨制度への反対となって現れ、ヨーロッパ統合を積極的に評価する閣僚との不一致が露わになった。九〇年の党首選で、党内の支持も得られないことが明らかとなり、サッチャーは退陣を余儀なくされた。

後を受けたメイジャー首相は、サッチャーの政策の修正に取りかかったが、九〇年前後から景気は悪化し、倒産・失業、ポンド安、貿易収支の悪化、と苦しい状況が続くことになる。九三年にはようやくEU(欧州連合)加盟を批准したものの、統一通貨への参加は見送られた。保守党への支持も下降線をたどり、トニー・ブレア新党首の下で大胆な党改革を遂げた労働党に大きく水をあけられてした。

一九九七年の総選挙は、労働党の地滑り的な圧勝で、当時四三歳、まったく閣僚経験のない首相が誕生した。ブレアが唱えた「ニュー労働党」とは、産業国営化路線を捨て、民営化による経済活力を積極的に取り入れようとするもので、すでに五○年代から労働党内で議論されながら日の目を見なかった現実主義路線であった。いわば、福祉国家とサッチャリズムの両立を狙うもので、保守・労働両党の政策の差異が小さくなったことが、広く支持を集めた原因であった。二〇○一年の総選挙の際、『タイムズ』が初めて労働党支持を表明し、「もっとも信頼に足る保守」というブレア評すら出たことが、その性格を如実に示している。

好景気にも助けられ、ブレア政権は順調な滑り出しを見せ、国制に関わる重要な改革を進めていった。九七年の選挙直後、サッチャー時代に取り決められていた香港の中国返還がなり、同年九月には、スコットランドとウェールズに独自の議会を設置し、行政権限を大幅に委譲することの是非を問う住民投票が行われた。否決に終わった前回とは異なり、両地域で賛成票が多数を占め、一九九九年には議会が設置された。この背景にはEUの統合という大きな時代の流れのなかで、大幅な自治を認めることで、逆に連合上国という国の紐帯を維持しようという意図もうかがえる。さらに、ブレア政権は貴族院の改革に乗り出し、九九年、これまで世襲貴族に自動的に認められていた議員資格を制限する法案を成立させた。これにより、世襲貴族で議席を持てるのは九〇名ほどに大幅に削減された。いずれも何百年単位での大きな変革が、二一世紀を目前に実現したのである。
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