goo

仏教に他者がありうるか

4.5「未来方程式」

 4.5「未来方程式」ですけど、4.5.4は「歴史の進化」としましょう。それに従って、方程式を解くカタチです。未来方程式は今までのことをまとめています。未来方程式のパラメーターを明確にするのが目的です。

「休まないウサギ」は退化

 「休まないウサギ」が故に、全体を考え、先も見えない組織になってしまった。これは進化ではなく、退化です。

仏教に他者がありうるか

 今日は通夜です。読経を聞きながら、ひたすら、「仏教に他者がありうるか」を考えていた。一番前だけど、半分は寝ていたけど。

ブログで「ギリシャ」を検索

 「未唯への手紙」ブログで「ギリシャ」を検索したら、2007年の4月27日が最初であった。「ギリシャへ行く姪に感動」となっていた。「1501冊を達成した」ときです。


 それまでは、ギリシャという言葉はブログにはなかった。玲子がアデレードからアテネに行ったことの衝撃は大きかった。未唯に託した夢を玲子が達成してくれた。

 EUはもたもたしていると、中国が介入してくる。湾岸と国鉄はかなりの部分を中国が抑えている。テッサロキニアからEUに入り込もうとしている。ここからヨーロッパとイスタンブールに入り込むのは容易。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

日韓関係とそっくりなトルコ・ギリシア関係

『世界史で学べ!地政学』 永遠の火薬庫中東 トルコ、イラン、イスラエル

 日韓関係とそっくりなトルコ・ギリシア関係

  第二次世界大戦後のトルコは、アメリカから軍事援助を受けてNATOに加盟し、ソ連の脅威から地中海を守る防波堤の役割を果たしてきました。ちょうど日本が、ソ連・中国の脅威から西太平洋を守る防波堤の役割を果たしてきたのとよく似ています。
  ギリシアは、中世まではビザンツ帝国(東ローマ帝国)、14世紀以降はオスマン帝国の支配下に置かれ、19世紀にようやく英・仏の支援を受けて独立を達成しました。ナショナリズムに目覚めたギリシア人は、「トルコ人による圧政」を糾弾し、ギリシア系住民が多いアナトリア西部のオスマン帝国からの奪回までも叫ぶようになります。
  第一次世界大戦でのオスマン帝国の敗戦は、ギリシア人にとっては好機到来。連合国側についたギリシアは、戦勝国としてトルコ本土(アナトリア)に進軍して領土を要求しますが、あっけなくケマル軍に撃退されてしまいます。結局、ギリシア軍の介入は何も得ることがなかったどころかトルコ人の恨みを買い、逆にトルコ領内のギリシア人は追放されてしまいます。このとき、ギリシア領内の卜ルコ人も追放されています。
  こうして、やっかいな隣人同士となってしまったギリシアとトルコ。しかしいずれも黒海の出口に位置し、ロシアの南下に対する防波堤になる、という地政学的役割は同じです。アメリカは、第二次世界大戦直後にギリシアとトルコに対する大規模な軍事援助を開始し(マーシャル・プラン)、両国をNATOに加盟させます。
  1960年にイギリスから独立したキプロス島(島民の8割がギリシア、2割がトルコ系)では内戦が発生し、トルコ軍が介入してトルコ系の北キプロス共和国を樹立します。エーゲ海の海底油田開発を巡っても両国はにらみ合いを続けています。
  キプロス紛争はNATO加盟国同士の領土紛争ですから、アメリカも頭を抱えます。ギリシアを韓国、トルコを日本、キプロスを竹島、ロシアを中国と考えれば、よくわかります。日韓両国も歴史的な対立を抱えていますが、いずれも「中国に対する防波堤」という地政学的役割を持っています。両国が争うことはアメリカの国益に合致しません。竹島問題や慰安婦問題でアメリカが煮え切らない態度を取るのは、そういうわけです。

 「トルコはヨーロッパではない」と見ている欧州諸国

  トルコにはもう一つ、日本とよく似た点があります。もともと非西欧文化圏に属していながら、19世紀に欧米列強の侵略にさらされ、かなり無理して西欧文化を受容した、という点です。日本の場合は伝統的な君主制度とともに独自の文字体系--漢字仮名交じり文を維持し、西欧語を漢語に翻訳することによって西欧文化を移植しました。しかしトルコの場合はケマルが革命で君主制を廃止し、伝統的なアラビア文字を廃してラテン文字(口ーマ字)に替えてしまったのです。そのほうが西欧文明の需要には手っ取り早いと考えたのです。
  ケマルはイスラムをトルコ近代化の障害と考えていたので、徹底的な政教分離体制を敷きました。公立学校での宗教教育の禁止、公務員のスカーフ着用禁止、宗教政党の活動禁止などです。脱イスラムにより、トルコを西欧近代国家に脱皮させようとしたのです。
  しかしこれは、木に竹を継ぐような無理な話です。
  欧州統合が進む過程で、トルコは欧州連合(EU)加盟をずっと求めてきました。ところがEU側はトルコの加盟をずっと拒絶してきたのです。トルコ国内の人権状況などを口実にしていますが、本音ではトルコとの経済格差による安い労働力の流入、それによる自国民の失業率増大を恐れているのです。その背景には、「いかに近代化しても、トルコはヨーロッパではない」という意識があるのは明白です。
  これは、捕鯨問題や歴史認識で事あるごとにバッシングを受ける日本の立場とよく似ています。西欧化しても西欧社会から拒絶されるもどかしさ、欧米型の自由主義経済がもたらす貧富の格差、冷戦終結による対ソ防波堤意識の希薄化。これらを背景に1990年代からトルコ人の間に伝統回帰、イスラム復興の風潮が高まってきました。この流れに乗って登場したのが、エルドアン政権です。
  イスラム神学校に学んだエルドアンは、イスタンブル市長時代にイスラム賛美の詩を朗読したとして宗教扇動罪で告発され、実刑判決を受けて服役したこともあります。
  イスラム色の強い公正発展党を率いて2003年に首相に就任。米英のイラク戦争や、イスラエルのガザ攻撃を激しく批判し、反米、反イスラエル感情の高まりと好景気に支えられて10年を超える長期政権となりました。イランの核開発問題で仲裁役となるなど独自外交を展開し、中東の大国としての存在感を増しています。
  2014年には初の直接選挙で大統領に選ばれました。任期5年で再選可能なので首相時代と合わせて20年の長期政権になる可能性があり、欧米諸国は警戒を強めています。これは「日本を取り戻す」をスローガンに再登板した安倍政権とも相通ずるところがあります。
  トルコ民族は中央アジアで兵を起こし、数百年かけて現在のトルコまでたどり着きました。だからトルコ共和国から中央アジアのウズべキスタン、中華人民共和国新疆ウイグル自治区まで、同じトルコ語が通じるのです。トルコには亡命ウイグル人が流れ込んでいますし、ウイグル独立問題は、中国・トルコ関係の問に埋め込まれた時限爆弾です。
  一方、トルコ人の親日感情は明治初年のエルトゥールル号事件以来で、日露戦争の勝利をトルコ人は我が事のように喜び、ケマルは明治天皇を賞賛していました。
  エルトゥールル号事件とは、1890(明治23)年、日本を親善訪問したオスマン帝国海軍の軍艦エルトゥールル号が紀伊半島沖で暴風のため座礁、沈没し、五百数十名の犠牲者を出した事件のことです。和歌山県串本の漁民たちは生存者69名の救出に全力を尽くし、遭難者は日本海軍の軍艦で無事に帰国できたのでした。
  イスタンブルのボスフォラス海峡に架かる吊り橋も、海峡の下を通るトンネルも、日本企業が受注しています。西欧化した非西欧国家の成功例として、日本とトルコの連携は歴史の必然ともいえるでしょう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ギリシア危機を地政学で読み解く

『世界史で学べ!地政学』より 拡大しすぎたヨーロッパ--統合でよみがえる悪夢

 ギリシア危機を地政学で読み解く

  「ヨーロッパは半島だ」と本章の最初でお話ししましたが、そのヨーロッパからさらに南に突き出している三つの半島があります。西から、イベリア半島、イタリア半島、バルカン半島です。
  イベリア半島は、対岸のモロッコとの間のジブラルタル海峡が幅14キロメートルしかなく、横断が容易なので、北アフリカのイスラム勢力から脅かされ続けました。中世を通じてイスラム諸王朝が半島を支配し、これに対するキリスト教徒の反撃--レコンキスタ(再征服)が数百年続いた結果、スペインとポルトガルが成立しました。彼らキリスト教徒が逆に北アフリカに打って出たのが、大航海時代の始まりです。
  イタリア半島は北部をアルプス山脈によって守られ、フランスやドイツからの侵入者をなかなか寄せ付けませんでした。このことがイタリア人を安心させ、半島内の統一を遅らせた側面があります。ローマ帝国の崩壊以後、19世紀にいたるまでイタリアでは分裂と内紛が続きました。
  一番大きなバルカン半島は、山がちではありますが外からの侵入を拒むほどではなく、フン、アヴァール、マジャール、ブルガール、オスマン帝国、オーストリア帝国、ロシア帝国が侵攻を繰り返しました。
  この結果、バルカンに住む諸民族の間で分裂が起こったのです。
  ・クロアチア人(カトリック教徒)……ドイツ・オーストリアと結ぶ。
  ・セルビア人やブルガリア人(正教徒)……ロシアと結ぶ。
  ・ボスニア人やアルバニア人(ィスラム教徒)……オスマン帝国と結ぶ。
  第一次世界大戦の勝者となったセルビアがユーゴスラヴィア(南スラブ人国家)という国を無理に作り上げ、クロアチア人やボスニア人、アルバニア人を抑圧した結果、あの陰惨なユーゴスラヴィア紛争を引き起こしました。
  バルカン半島の最南端からさらに突き出た半島がギリシアです。2009年に始まるギリシアの財政危機は、統一通貨ユー口による欧州統合を目指すヨーロッパ各国を震撼させました。
  半島国家は、その「付け根」を制した大国から常に脅かされています。よってバルカン半島を大国が支配するとき、ギリシアの自由と独立は失われるのです。朝鮮半島の命運を、中国が握っているのと、地政学的には同じことです。
  古代においてそれはローマ帝国であり、中世においては東ローマ(ビザンツ)帝国であり、15世紀以降はオスマン帝国でした。ですからギリシア人は進んでローマ人になり、ビザンツ人になり、オスマン人になることで生き延びてきたのです。

 バルカン半島をめぐる奪い合い

  19世紀、ギリシアからエジプトまでの地中海沿岸を支配したオスマン帝国の衰退が始まります。黒海からの南下政策を取るロシア、エジプトを通ってインドヘ向かうルートを握りたいイギリス・フランスが、虎視沈々とギリシアを狙っていました。
  半島の「付け根」でA・B二つの大国が交代するとき、半島国家の中でもかならずA派とB派との内紛が起こります。朝鮮王朝末期にも、親清派の事大党と、親日派の開化派の党争が続きました。日本から独立したあとも、親米派の李承晩と、親ソ・親中派の金日成が激しく対立し、同胞が殺し合う朝鮮戦争を引き起こしました。
  ギリシア国内でも親ロシア派と親イギリス派、親フランス派が抗争を続けますが、強力なイギリス海軍の支援でオスマン帝国から独立したあとは、親英王政が続きます。
  二つの世界大戦でギリシアを脅かしたのはドイツでした。第一次世界大戦では、ドイツ帝国とオスマン帝国が同盟し、ギリシアはイギリス海軍の力でかろうじて独立を維持します。
  第二次世界大戦でギリシアはイタリア軍の侵入を撃退しますが、助っ人として参戦したドイツ軍にあっという間に占領されてしまいます。
  大戦末期、ソ連が「付け根」のバルカン半島を占領し、ギリシア本土にはイギリス軍が上陸します。ドイツ軍が敗走したあと、今度はイギリスと結ぶ王党派と、ソ連(ロシア)と結ぶ共産党が、血みどろの内戦を始めます。
  東地中海へのソ連の進出を嫌うイギリスのチャーチルは、ソ連のスターリンと直談判し、両者はギリシアをイギリス勢力圏、ブルガリア以北のバルカン半島をソ連勢力圏と相互承認します。
  このためソ連の支援を失ったギリシアの共産ゲリラは掃討されました。このときの凄惨な内戦は、朝鮮戦争のギリシア版です。ギリシアを代表する映画監督テオ・アングロプロスの名作『旅芸人の記録』の背景となった内戦です。
  大戦後はイギリスに代わって米国がギリシア防衛を請け負いました。ギリシア・ブルガリア国境が「38度線」となり、その南のギリシア=韓国に対して米国は、マーシャル・プランで莫大な軍事経済援助を行ない、トルコとともにギリシアをNATOに加盟させたのです。ギリシアとトルコを押さえておけば、ソ連黒海艦隊の地中海進出を阻止できるからです。

 ギリシアに公務員が多い理由

  ギリシア国内では、親米右派と反米左派との激しい対立が続きます。1964年の選挙で中道左派の(日本で言えば民主党的な)パパンドレウ政権が生まれると、危機感を抱いた親米右派の軍部がクーデタを起こし(1967)、74年まで軍事独裁体制を敷きました。韓国でも1965年に朴正煕が軍事クーデタを起こし、79年まで独裁体制を敷きました。
  ギリシアは王制だったのですが、19世紀にデンマーク王家からやってきた外国人の王さまなので、国民の支持は薄く、軍事政権と対立した国王コンスタンティノスニ世は、あっけなく追放されてしまいます。
  1974年にキプロス併合問題でNATOの同盟国であるトルコと一触即発の状態になり、米国の不興を買った軍事政権が崩壊します。10年ぶりに民主化されたギリシアは、欧州統合への参加が認められて、EC(のちのEU)に加盟します。
  そのあと中道左派のパパンドレウが政権に返り咲きます。パパンドレウが率いる政党--全ギリシア社会主義運動(PASOK/パソック)は公務員の労働組合を支持母体にしていたため、選挙でPASOKに投票する見返りに、公務員や国営企業の社員のポストを「報酬」としてばら撒きました。この、労組べったりのパパンドレウ政権下で公務員の数が激増し、国民の五人に一人が公務員という異常事態になり、組合が要求する過剰な福祉政策とともに、ギリシアの国家財政を破綻させたのです。
  それでもPASOK政権はGDPの13%を超えていた財政赤字を「1%まで削減できた」とEUに報告し、従来の通貨ドラクマから欧州統一通貨ユーロヘの切り替えを認められます。同じユーロ圏諸国との貿易が拡大するのはもちろん、ユーロは国際通貨として信用があるので、ギリシア経済自体の健全性の証明にもなり、外国からの投資が拡大し、ギリシア国債もどんどん売れることを期待したのです。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

教育分野のICTことば

『ICTことば辞典』より

 教育SNS

  教育分野のテクノロジーやWebサービスを「EdTech (エドテック)」と呼びます。 EdTechは教育の現場で新たなコミュニケーション方法を生み出しており、その中のひとつが教育や学校に特化したSNS(ソーシャルネットワーキングサーピス)です。「教育SNS」や「学校向けSNS」と呼ぶこともあります。教育環境における情報交換を円滑にし、教室でもインターネット上でも先生や子どもたちが気軽に交流し合うことをめざすWebサービスです。
  こうした教育SNSの分野が注目されるきっかけとなったのは、2008年に米国でサービスを開始した『Edmodo (エドモド)』です。Edmodoでは先生が授業ごとにグループを作成します。グループは先生や子どもたちといった関係者のみがアクセスすることのできるプライベートな空間となっており、授業の内容に特化した情報交換を行うことが可能です。子どもたち同士の個人間のメッセージのやり取りは行えず、基本的にはグループ内で公開しながらのコミュニケーションとなります。宿題の提出や小テスト、授業に関連する資料の共有などの機能も備えています。また、子どもたちの保護者をグループ内に招待することが可能なため、保護者は授業の動向を知ることができます。連絡事項があれば先生から保護者たちへ一斉に送信したり、保護者から先生ヘメッセージを送って子どもの様子を聞いたり相談したりすることも可能です。
  日本でもこうしたWebサービスが増えています。2013年に設立されたEdnityが運営する『Ednity (エドニティ)』は、クラス単位など限定的なグループ内のみで情報交換やコミュニケーションを行うことのできる、クローズドな教育SNSです。子どもたちには参加するための「グループコード」と呼ばれるIDが発行されますが、IDを知った外部の者が参加しないよう、全員がそろった時点で参加を打ち切ることができるなど、安全面に配慮した機能が備えられています。
  同じ2013年に設立されたLOUPEが運営する教育SNS『SENSEI NOTE(センセイノート)』は、先生同士のコミュニケーションに特化したSNSです。学校や授業における情報交換や教材だけでなく、先生の経験や蓄積された授業のノウハウを広く共有することが可能です。また、先生独自の質問や悩みを共有したりお互いにアドバイスしたりすることができます。悩みや課題をひとりで抱え込むのではなく、同じ境遇の先生たちと共有することで解決の促進や悩みの軽減へとつながり、先生と子どもたちがコミュニケーションをとるための時間と余裕を生み出すことが可能とな、ります。

 反転授業

  講義と宿題の役割を反転させる教育方法。従来の学校では、授業時間内に教室で先生が講義し、そこで得た知識をもとに宿題として家で復習する形式が一般的でした。こうした講義と宿題の関係性を反転させた教育方法が「反転授業」です。
  子どもたちはまず始めに、デジタル教材などを用いて家で事前に学習します。そこで得た知識をもとに、授業内に教室でディスカッションやプレゼンテーションを行ったり、応用問題のテストやグループワークを実施したりします。授業時間の多くを知識の定着や共同学習の場として活用することで、知識のインプットだけで終わらせることなく、知識をアウトプットする機会をより多く与える点が特徴です。
  授業時間の多くが講義に費やされて、それだけで時間がなくなり授業が終了することもある従来の教育方法を見直すことで、同じ時間、同じ空間に子どもたちが集まる教室という場のメリットが最大限に活用できるようになります。先生と子どもだちとのコミュニケーションが増え、ひとりひとりの学習速度に合わせた対応やきめ細かい指導が可能になると期待されています。
  また、事前学習で疑問点や関心が出た点において授業内で子ども同士が互いに意見し教見合う「ピア・インストラクション(Peer Instruction)」や、互いの成果を評価・検証し合う「ピア・レビュー(Peer Review)」といった、相互作用を活用した教育方法を組み合わせることで、子どもたちの学習意欲を向上させることが可能となります。それに合わせて先生は子どもたちの共同学習をうながす役割を担うため、ファシリテーターとしてのスキルが求められます。
  反転授業は欧米を中心に普及しており、その背景に『Khan Academy(カーンアカデミー)』や『iTunes U(アイチューンズ・ユー)』のほか、『Coursera (コーセラ)』、『edX(エデックス)』など、インターネット上で無料で講義を受講できる「MOOCs(ムークス)」と呼ばれるオンライン講座の台頭があります。当初は大学の講義が中心でしたが、こうしたMOOCsの手法に基づき、小学生から大学受験生までそれぞれを対象とした多くのオンライン講座が生まれています。また、情報端末の高性能化や、家庭や学校のネットワークの整備が進んだことも反転授業の普及を後押ししています。
  日本でもこうした反転授業を複数の学校が導入しており学習の効率化が期待されるいっぽうで、情報端末の費用負担や家庭の学習環境の違い、基礎学習の重要性など課題も多く、議論がなされています。

 STEM教育

  理系分野に重点をおいた教育。科学(science)、技術(technology)、工学(engineering)、数学(mathematics)の頭文字を取って「STEM(ステム)教育」と呼ばれています。理系分野のスキルの強化や次世代を担うリーダーの育成などを目標に、世界各国で取り組まれています。
  米国ではオバマ政権が教育改革の中枢としてSTEM教育に力を入れており、それを後押しするための非営利組織「CTEq(Change the Equation)」も設立されています。CTEqは理系の先生の大幅増員や授業へのSTEM教育の導入など、STEM教育の質の向上と優秀な人材の育成を推進しています。
  米国におけるこうしたSTEM教育の強化は、米国内で貧富の差が深刻化していることも関係しています。貧しい家庭では高度な教育を受ける機会に恵まれず、そのためにそうした状況を打破できない悪循環が続いていることから、解決の糸口としてSTEM教育が取り入れられるケースが増えているのです。たとえば学業支援のための財団「The Posse Foundation」は各大学と連携して資金を出し合い、低所得層と中所得層から選抜した500人の学生にSTEM教育を施したうえで、大学へ進学させるプロジェクトを開始しています。
  いっぽう日本でもSTEM教育は広まっています。たとえば、レゴを教材とする「レゴスクール」では、8歳~10歳の子どもたちを対象としたカリキュラムにおいて、レゴを使って手を動かし遊びながらロボット製作やプログラミングを行う学習方法を導入しています。ロボットには米国のマサチューセッツエ科大学とレゴ社が共同開発した『マインドストーム』が使用され、子どもたちは創造性を働かせながら、論理的な思考や数学的な思考を身につけていくことができます。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

退職は人生観をがらりと変えるとき

『心の病、初めが肝心』

 生活スタイルの切り替えは、定年退職を迎えた人にとっても大切です。退職で、「オフだけになって、これからは毎日が日曜日みたいに気楽だ」と思うのは大間違いです。逆に今までは仕事があったからこそ、気持ちのうえでのオンーオフの切り替えの場があったのに、退職後は平坦な気分の波が続きます。
 ある企業経営者は、還暦を機会に、会社を息子に譲ってゴルフ三昧の生活をすることに決めました。
 しかし、仕事という重圧がなくなっても、経営者のときから感じていた不安、イライラは変わらず、精神科医を受診すると「適応障害」と診断されました。睡眠はゆっくりとれないし、ゴルフは下手になり、それどころかゴルフをする気力さえ失われてしまいました。
 そのうえ、90歳を超えた父親が寝たきりとなり、今までは妻と兄嫁が協力して介護してくれていたのですが、仕事を引退してからは自分もその責任からのがれることができなくなりました。そのことで、ますます気持ちが落ち込むようになりました。
 「仕事が忙しくて気が滅入るから、退職しよう」ではだめです。仕事が忙しいのと、気が滅入るのとは別のことです。オフだけのメリ(リのない生活では、認知症の危険も忍び寄ります。
 この方は、仕事をやめて環境が劇的に変わったのに、老後に向けて何の準備もしてこなかったことに思い当たりました。今まで、妻が担っていた家庭内の仕事を手伝うようになって、これまで気づかずに済んでいた種々の面倒な問題にも直面するようになりました。会社の経営とは違って、親の介護、子ども、夫婦関係の問題など一つひとつが別の意味で複雑でした。
 いくら仕事上の輝かしい業績や地位、自負があっても、退職したら普通の人と変わりません。これからあと20年以上を元気に乗り切るための何らかの準備が必要です。しかも、その20年はだんだん年をとって身体上の不自由が強くなります。弱くなる自分の身体機能を受け止めながら、楽しみや希望を持つようにしないといけないのです。
 それには不安にだけ注意を向けていてはだめです。視点(人生観)をガラリと変えることが大切です。人生観や生活スタイルを変えるには、半年や一年はかかるでしょう。退職直前の人だけではなく、どの世代もだんだんと、今の自分とは違う新しい自分の生き方を代替手段として考えておくことで、発想の転換がうまくなります。そのことで現在の仕事が順調に進むこともあります。
 夫の定年退職は夫だけの問題ではありません。妻にとっても大きな環境の変化です。夫の退職とともに妻の体調が悪くなり、うつ病と診断されることがしばしばあります。夫は心配して妻の通院についてくるのですが、妻だけを別室で診察すると、妻は、夫といっしょのときに限って抑うつ的になると話すことがあります。しかし、夫は自分が妻のストレスの元になっていることに気づかないのです。決して仲の悪い夫婦とは限りません(少なくとも夫はそう思っています)。夫の定年退職後に夫婦が離婚することも少なくなく、その場合、妻のほうから離婚を申し出るケースがほとんどのようです。夫婦仲がよくても、退職は夫婦ともに環境変化を乗り越え、価値観を変えるときです。
 定年退職後の生活を、多くの人が無計画に迎えています。学校を出て就職するときには人生設計を考えるのですが、退職するときは、一抹の淋しさとともにほっと一息といった感じで、長い休暇として迎える人が多いと思います。
 これが落とし穴になります。もともと日本人は、数週間まとめて長期休暇をとる習慣がなく、せいぜい数日から長くて10日も連続してとれればラッキーです。そのうえゴールデンウイークや夏期休暇にいっせいに休みをとりますから、どこに行っても人込みで、勤勉に休暇をこなすので疲れ切ってしまうことがしばしばです。
 欧米人は、どんなに忙しくても毎年1ヵ月前後の休暇をとるのがふつうですし、1年かけて休暇の計画をつくり、楽しみにします。休暇中は驚くほどお金をかけず、旅行しても一カ所滞在型でゆっくり骨休みします。いわば休暇と仕事を均衡させたライフスタイルを築いています。それに比べて日本人は、長期のブランクに慣れていないのに、定年退職後はとつぜん「毎日が日曜日」状態になりますから、あり余る時間を何に使っていいのかわからず、かえって不安と焦燥にかられるようになります。
 日本のサラリーマンの多くがそれまで「会社人間」で、「家庭生活」より「会社生活」を優先してきました。退職後、大きな意識変革をしないかぎり、その価値観を家の中にもち込もうとします。そこで夫は夫で、妻は妻で精神状態が不安定になります。
 夫は、今までの会社生活では見えなかった家庭の中のさまざまな問題(近所づき合い、介護、家事など)が見えてくると、日常的な出来事に目がとまり、口を出すようになります。健康、老後の蓄え、遺産相続などいろいろな不安にかられもします。
 職場にいるときは、ストレスや不安はあっても、やるべきことは多く、ときにはチヤホヤされもして、さまざまな刺激の中で一日があっという間に過ぎていきました。
 それが明日から、あるいは来月から何もする予定がないということになると、気持ちがついていけずに、いろいろな精神症状が出ることがあります。
 まじめに仕事をこなしてきた人は、同じようにまじめに自分の未来を考えます。今まで仕事に向けてきたエネルギーを、家庭や自分の健康管理に向けます。動悸、血圧、糖尿病の検査値、夜中にトイレに行く回数などを気にして、自らストレスと心配を見つけ出します。そうなると、〝うつ〟になりやすく、早く治したいというモチベーションも低いので薬の効きが悪く、治りが遅くなります。女性の定年退職でも同じ状況が起こります。
 退職した人が精神科の外来に来ても、日常生活の世話話はするものじゃないと思っています。長い会社人生を歩んできたので、退職後も「内」「外」の顔を使い分けて、一歩家を出ると「外看板」で押し通そうとします。しかし、精神科医は家庭内の事情を聞き出す必要があります。患者さんの生き方に共感しながら、患者さんの日常の中に埋もれている心の声に耳を傾けます。
 「退職したら毎日ゴルフをやるんだ」と楽しみにしていたのに、いざそうなったら焦燥感ばかり募り、ゴルフをする気を失っている人に、「退職後の男性は粗大ゴミと言われているんですよ」と言うと、はっと我に返ったりします。自分はこういう生活をするんだ、という心づもりがなく、成り行きにまかせていたことに気づきます。
 高齢者の自殺は多いのです。不安や淋しさにさいなまれるようになると、長い高齢期は持ちませんし、せっかくの長寿が何の意味もありません。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )