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チェムスキー 中東とアラブの春

『チェムスキーが語る戦争のからくり』より

A・V アラブの春はじつに複雑で論争の多い問題ですが、エジプトやチュニジアでの動きをどうご覧になりますか?

N・C まず第一に言えるのは、これらの出来事が歴史的に大変意味のあることだということでしょぅ。問題も多くありましたが、すでに成し遂げられたことはそれだけでも大きな意味のあることだぅた。当然イスラーム主義者だちがほぼ議会制度を掌握しましたが、それは彼らが何十年も組織を固めてきたからです。彼らを支援しているのはサウジアラビアからの資金ですが、サウジにはほかのどこにもないような反動的なイスラーム主義が顕在化している。アメリカ合州国、イギリス、フランスはイスラーム主義のムスリム同胞団を容認するつもりだろう。それは彼らが基本的には新自由主義者だから。

チュニジアではそれよりも穏健なイスラーム主義の党であるアンナハダが政権を掌握しましたが、エジプトでは事態はまだ流動的です。しかし注意すべきことは、エジプトとチュニジアといぅいちばん事態が進展している二国には以前から強力な労働運動が存在していて、労働者の権利のために長年闘ってきたことでしょう。エジプトの夕ハリール広場でのデモを主導したのは「四月六日運動」と呼ばれた若い専門職の人たちの運動だった。なぜ四月六日かというと、二〇〇八年の四月六日にマハッラの工業団地で大きな労働争議があって、ほかの場所にも広がったのですが、それを独裁政権が潰した。専門職につく若い人たちが集まってこの名の下にその闘争を引き継ぎ、それが二〇一一年一月の蜂起、エジプトのアラブの春となったわけです。

エジプトのアラブの春が達成したことの一つには、労働運動を組織することに対する制約を減らした、というか撤廃したことがある。初めて独立した労働組合を組織することができたわけで、これは以前にはまったく不可能だったし、より独立した社会への動きと言えると思う。労働者が工場を占拠することは前にもあって、それはそれで建設的でしたが、議会政治のなかで勢力を獲得していくのはこれからでしょう。

エジプトとチュニジアでの達成としては、ほかにも表現の自由への制約が大幅に緩められたことがある。いまでは新聞もメディアもかなり自由でオープンになったし、議論も自由におこなわれるようになった。こうしたすべては重要な展開です。軍隊はまだあって、チュニジアよりもエジプトのほうが強力ですが、これまでの運動は進められていくと思いますね。まだまだ初期の段階ですが。

アメリカ合州国と西側諸国にとっては、この地域で民主主義が機能してしまうことは許しがたい。なぜかを知るのは難しいことではなくて、アラブの春が起きる前におこなわれた世論調査を見ればいい。アラブの春が起きる直前の二〇一〇年末に西側の調査機関がおこなったアラブ世界、とくにエジプトでの大規模な世論調査があって、そのあとの調査でもだいたい似たような結果が出ています。たとえばいちばん重要な国であるエジプトでは、八割がそれ以上の人々がアメリカ合州国とイスラエルを最大の脅威と見なしている。イランが脅威と答えたのは一割だけ。事実、アメリカ合州国の政策に対する敵意はとても強いので、この地域の過半数の人たちが、イランが核兵器を持ってアメリカとその属国イスラエルの力を削いでくれたほうがいいと考えている。アラブ世界全体でもだいたい似たような結果です。

民主主義が機能すれば、こうした一般大衆の意見が国の政策に影響を及ぼすようになる。だからロンドンやパリ、ワシントンが、できればこうしたことが起こらないようにしようとするのは当然です。彼らはアラブの春の民主主義的な要素をなんとしても掘り崩さなくてはならないし、事実それが現在おこなわれていることだ。これは過去の行状から一貫していて、しかもこの地域にかぎらない。西側諸国が大事にする国々は石油のある独裁政権であり、そこではほとんど何も変わっていない。人々の蜂起は素早く鎮圧されてしまったがら。バーレーンとサウジアラビアでは軍隊が動員されて、王族が抗議運動を暴力的に弾圧し、病院に押し入ったり拷問をおこなったりした。西側諸国からはおざなりな批判があっただけ。とくにサウジアラビア東部のシーア派は残酷に押さえつけられている。ここには多くの原油があるから放っておけない。

エジプトとチュニジアではアメリカ合州国とその同盟国が伝統的な作戦に従って、これまで何度もおこなわれてきたように軍隊が反乱して西洋お気に入りの独裁者が見捨てられた。ソモサ、マルコス、デュヴァリエ、ス(ルト、モブツといった支配者たちですね。彼らを最後まで支援しながらそれができなくなるとどこかに追放して、古い秩序を維持しようとする。もちろん民主主義をいかに愛しているかとか言いながら。いつものことだ。それを見ないようにするには相当な才能がいる。

実際、東ヨーロッパでも興味深いことがあったね。共産主義の独裁者としては最悪だったけれど西側諸国には可愛がられていたルーマニアのチャウシェスクは、レーガンにもサッチャーにも気に入られていた。最後の瞬間まで支援されていたのが、それが不可能となると(事実、政府は転覆されて彼は殺された)いつもの計画がふたたび導入された。まったく同じことがエジプトでもチュニジアでもおこなわれたのですが、そうした実態は見えなくされてしまっている。これも内国植民地化の一例ですね。何度起きても見えなくされている。目に見えるのは西側諸国がいかに民主主義を愛しているかということだけ。

A・V 私がアラブの春について欠如しているなと感じるのは、アラブ諸国の連帯です。反乱がかなり分断されているように見える。民衆の進歩的な蜂起も断片的ではありませんが。

N・C アラブの春はまだ初期の段階だと思う。ラテンアメリカがヨーロッパによる征服以来、初めて本物の統合と独立に向かったのはここ一〇年のことでしょう。国内の膨大な社会問題に対してもやっと対処を始めたばかり。これは歴史的に見てきわめて重要な動きであって、もしアラブの春が同じ方向に進むのなら、世界の秩序は劇的に変わるだろう。だから西側諸国はなんとしても止めたがっている。

私の予想ではアラブ諸国の政府はほどなく信用を失い、民衆蜂起の原因であるネオリベラリズム政策とその影響という根本の問題に対処できなくなるのではないが。そうした政策を容認することしかできないから。そうなると害悪が続くだけで、限定付きとはいえ現実に成功を収めてきたここ数年の経験が生きてきて、新たな蜂起が起きるのではないかな?
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ウィトゲンシュタイン 死んでも死なない「わたし」

『戦争思想2015』より 前線から遠く離れて--ヤン・パトチカを楕円化する

第一次世界大戦が起こると、ウィトゲンシュタインは志願して義勇兵として参加した。一九一六年六月四日、ロシア帝国軍による、いわゆるブルシーロフ攻勢が始まった。ウィトゲンシュタインが一等砲兵として配属されていたプランツァー=バルティン麾下の第七軍は将兵の数が六月十二日までに二割に激減し後退戦を余儀なくされた。七月八日、自分が戦死していたとしても少しも不思議のない前線においてウィトゲンシュタインは「死は生の出来事ではない。死は世界の事実ではない」(奥雅博訳)とノートに記した。

「死は生の出来事ではない。人は死を体験しない」という『論理哲学論考』の命題(六・四三一--奥雅博訳)はウィトゲンシュタイン自身の「すぐれてわたしの経験」(「倫理学講話」杖下隆英訳)を語ったものなのではないか。それは「「わたしは安全であり、何が起ころうとも何ものもわたしを傷つけることはできない」というような精神状態」(同前)である。《わたしだけは何ものかに庇護されて戦死を免れるだろう》という楽観ではない。《このような情況ではわたしも間違いなく戦死するだろう》とあきらめているのだ。その上でくわたしは、たとえ死んでも死ぬことはない》と感じているのである。むろん、《死んでも死なない》と言うのは《何ごとが起ころうとも何も起こるまい》と言うのと同じくらいナンセンスな言い方だ。しかし、言葉で論理的に言い表わそうとするとこのようにナンセンスに導かれるほかないような「すぐれてわたしの経験」がわたしにはあったとウィトゲンシュタインは言いたいのだろう。かりにわたしが死んでいたとしても、決して死なない「わたし」があのときわたしにはあったのだ、と。

この「わたし」を宗教は不死と呼ぶのかもしれないが、それを経験することなく、つまり「すぐれてわたしの経験」なしにただ口先でそう言うのならお喋りにすぎない。しかしまた、それを本当に経験したなら、不死と呼んでも、その言葉は《何ごとが起ころうとも何も起こるまい》と言うのと同じくらいナンセンスでしかないことに困惑せざるをえなくなるはずだ。

やはり前線でウィトゲンシュタインがノートに書き込んだ「幸福に生きよ!」(一九一六年七月八日)も、《死を目前にしても恐れないでいられたあの状態、あの「すぐれてわたしの経験」を維持できるように生きよ!》ということなのだろう。彼がそのノートに最初に「幸福」という言葉を書き込んだのはその二日前だ。「そして幸福な人は現に存在することの目的を満たしている、とドストエフスキーが語る限り、彼は正しいのである」(一二九二六年七月六日)。ウィトゲンシュタインは、五十回以上読んだという『カラマーゾフの兄弟』でゾシマ長老がホフラコーワ夫人に語った言葉(「人は幸福のために創られるのだし、真に幸福な人こそが、『自分はこの世で神のお言いつけを果たした』と言いきれる資格をもつのですからな」江川卓訳)を、直接的には踏まえているらしい。だが、「時間の中にではなく永遠の中に生きる、という具合に、人が生きることは可能であろうか」と塹壕で自問するウィトゲンシュタインはむしろ『悪霊』で語ったキリーロフに似ている。

死の恐怖を克服して自殺するのなら、人はその死の直前、自分が幸福であることを知るはずだ、その瞬間には、世界の何もかもがすべていいと思える永久調和の幸福感に捉えられるだろう、それは、たぶん今の人間の肉体が変化でもしないかぎり十秒ももちこたえられないほどに強烈な感覚だ、だから人はすでにつねに幸福であるほかない楽園にこの世で生きているのに、それを知らぬようにすごしている、人が不幸なのは、たんに自分が幸福であることを知らないからなのだ、死に対する恐れを拭い去ってこの単純な事実にさえ気づけば、人はただちに幸福になる、餓死する者がいようが、少女を凌辱する者がいようが、赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩き潰す者がいようが、この世界の何もかもすべてがいい、陽の光にきらきら輝いて葉脈をくっきり浮かび上がらせている一枚一枚の緑の木の葉をはじめ、何もかもがすべて素晴らしいのだということがわかるだろう、云々。

まさしく、本に書かれでもしたら、すぐさま爆発し、世界中のあらゆる本を粉々にしてしまうような「すぐれてわたしの経験」だが、ドストエフスキーはこれと同じ、時間を超越する数秒の至高の感覚を『白痴』のムイシュキンの癇癪発作の一段階に割り振っていた。ムイシュキンの場合は、自殺ではなく死刑執行の寸前の感覚に関心が集中しており、ドストエフスキーが自身、青年時代にセミョーノフスキー練兵場で経験した銃殺刑の直前の五分間をムイシュキンに語らせていることは周知のとおりだ。「何かどうしても忘れられない一点があって、それがあるために気絶することもできず、あらゆるものはこの一点のまわりを歩きまわったり、回転したりしている」(木村浩訳)。

この「一点」については中村昇「ある一点」(『小林秀雄とウィトゲンシュタイン』所収)が次のように述べて『論理哲学論考』の「主体は世界に属さない。それは世界の限界である」という命題(五・六三二)に接続している。この「何かどうしても忘れられない一点」は、どんなときにでもすべてを見通している静謐な点だ。ここだけは、誰にも何によっても侵害されない。死刑囚の首が、その胴体から離れるときでさえ(いや、そのあとでも--「ひょっとすると、頭は切り離されたときでも、一秒くらいのあいだは、切り離されたことを知っているかもしれないなんて」)、絶対に傷つけられることなく、じっと状況を見つめている。この視点を成立させている源は、おそらく、われわれが生きているこの世界のすこし外側にあるにちがいない。この「一点」は、肉体としての「わたし」とはべつに、その肉体としての「わたし」も含まれている事実的な「世界」の外側に存在しているにちがいない。

ムイシュキンの言う「一点」は、死んでも死なないあの「わたし」である。死刑囚は不可避的に処刑されるのだが、たとえ殺されたとしても、決して死なない「わたし」が彼にはあり、このすぐれて彼の「わたし」は、死刑の執行によって何ごとが起ころうと、何ものによっても傷つけられることがない、死は彼の生の出来事ではない、彼は死を体験しない、という一点にムイシュキンも注意を集中してゆくのである。彼も、これを不死とは呼んではない。だが、ウィトゲンシュタインのように「幸福」と呼んでも反対はしなかっただろう。一九一六年七月六日にドストエフスキーという固有名とともに記入されて以降、繰り返しノートに書き込まれることになる「幸福」という言葉はすぐれてドストエフスキー的なものなのだ。

ウィトゲンシュタインの場合に重要なのは、彼がそのような、死んでも死なない「わたし」を経験したのが第一次世界大戦の、あの致命的な前線においてだったということである。だが、前線において同じような「すぐれてわたしの経験」を持ったのはウィトゲンシュタインだけではない。たとえば、テイヤール・ド・シャルダンもウィトゲンシュタインと似た経験を記録している。
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「アラブの春」の潜勢力

『戦争思想2015』より

「アラブの春」を見て、私の念頭にあったのはブランショの『明かしえぬ共同体』です。六八年五月でワッと盛り上がったけれど、夏休みが過ぎたら元の木阿弥で何も残らないじゃないかと、六八年なんて虚妄だと誰もが言ったときに、ブランショは一人で、あれが絶対的出来事なのだと言う。後で潮が引くのはあたりまえだと。アラブの春はまったくそういうものだったと思う。エジプトでついにムバラク政権が倒れた日、夕ハリール広場にいた中学校の先生が大はしゃぎしながら日本人のジャーナリストに、「今日だけは喜ばせてくれ」と言ったという報道がありました。「今日だけは」と強調したというのですね。その人にとってはその日は絶対的解放の瞬間だった。明日になれば何らかの形で秩序が戻ってくる。その秩序はロクでもないかもしれない。それでもこれができる、これが起こったということが、消せない集団的経験として国に刻み込まれるわけです。それが「潜勢力」のあかしです。ある意味ではまた起こせばよい。それは大変なことだけれども、そして権力がなくなることはないけれども、これを起こすということ、これが起きるということは否定しがたく、そこに希望がある。

チュニジアで最初に焼身自殺したアブハジという青年がいました。彼は警官に悪しざまに扱われ、そのうえ耐え難い侮辱を受けた。そのために焼身自殺したということが、チュニジア人なら誰でも知っている、小学校で習うエピソードを連想させた。第三次ポエニ戦争でカルタゴが最終的に滅亡するとき、ローマのスキピオの軍に攻められて、ハンニバルの副将だったハスドルバルという優れた武将が討ち死にしたという報が自宅に伝わった。ローマは自分を受け入れて服属する者には寛大だったけれども、最後まで逆らったところには滅茶苦茶な殲滅戦をやった。亭主が死んだという報を受けて、ハスドルバルの妻は「もはやこれまで」と意を決する。男たちは殺され、女たちは戦利品になります。だから「恥辱よりはむしろ火を」と言って、家に火を放った。これを見て怒ったローマ軍はカルタゴの町に火をつけた。この話はチュニジア人ならみんな小さいころから知っているんだそうです。だからアブハジ青年の行為はすぐにこの話に結びついて、誰もが「恥辱よりはむしろ火を!」という標語を思い起こし、こんな恥辱の政府と体制に我々は三十年も虐げられてきたという反発が広がった。これはフェティ・ベンスラマに教えてもらったことです。エジプトの夕ハリール広場に集まる民衆の行動で、三十年間戒厳令のムバラク政権が倒れた。誰も倒れると思っていなかった。それを非武装の民衆が倒したというのは、今後のエジプトの記憶に刻まれます。そういう意味で、そこに人が生きている限り、やっぱり重みを持つわけです。
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ルールとともに 生きていくことは 受け入れたくない

『受け入れない』より

 自分の孤独

  自分の孤独をこえられる人間はいない
  孤独はいつだって そこにいて自分を見つめている
  よくよく見ると それは孤独じゃなくって 本来の自分の姿かもしれない
  よくよく見ると それは孤独じゃなくって 話しかけたら、ぱあっと華やいで 明るい春の陽ざしになるかもしれない
  自分の孤独なんて 自分にうりふたつ 双子のさみしがり屋の弟だ
  話しかければ元気になり 自分よりも明るくなるかもしれない
  自分の孤独を こえられる人間はいない
  孤独は自分の等身大で 自分によく似た他人よりも 自分そっくり
  よくよく見ると あいつが見ている自分こそが 孤独の正体かもしれない
  オレが孤独なんだ
  オレが見つめているオレが孤独なんだ
  孤独とは 仲良くしよう
  明るい日の明るい自分とよく似た 双子の真っ黒い弟と 手をつなごう

 本当の表現者

  孤独が表現だ
  孤独こそが表現だ
  孤独ではない表現はない
  表現のふりをしているものばかり
  町を歩けば目につく 表現のふりをした歌
  表現のふりをしたパフォーマンス ものまねぽかり
  既視感のない孤独をさまよう事を おまえは知っているか?
  おまえにはできるか? 言葉を慎め
  おまえが本当の表現者になりたいのなら 表現するとは 世界を変えたいという意志だ
  既視感をうろついていても 世界は変わらない
  君色の世界にこの世を変えたいという 強烈な意志こそが 孤独のマグマの存在する理由
  世界を変えたくないのなら 表現はやめるべきだ
  流されたほうがいい
  既視感をうろつけ
  孤独とはおさらばして 他人の祭りごとではしやいでいろ
  いいか 何をやったってたいてい 何も残らない 百年たったら、何も
  なら、やらしてもらおう! なんだって、やらしてもらおう!
  旅は恥のかきすてとはいったもんだ
  人生の旅、恥をかく事を恐れておどおどしてたら 時が追い越してしまう
  いいか 何をやったって 何も残らないんだ
  君はまだ若いから 五十年も百年もどういうかんじで たっていくのかしらないんだろ
  いいか 五十年たったら 今あるもの たいていは消えてるんだぜ?
  人もかわるし 町もかわる 人気のある町も別の町に移る
  服のセンスもかわる 音楽もまったくかわる
  映画だって 道徳だって まったくかわる
  政治もかわるし すべてかわる 白が黒になり黒が白になる
  昨日のすべてがあべこべになる
  若いころはこんなことした こんなアートがはやった こんなものきいた よんだ
  次の世代はぜんぶしらない
  そんな世界を想像した事あるかい?
  何をしても残らない
  だれも読まない だれも聴かない
  百年たったら 何も 残らない
  なら、なら、やらしてもらおうじやないか!
  心ゆくまで この世を俺色に 染めてみたいと思わないか?
  俺ならそう思う
  すべて消え去るなら やらせてもらおう 勝手にやらせてもらう

 宇宙

  宇宙はばくぜんとしている だだっぴろい
  人生なんて 何かがわかったようでいて 何もわからない 結局何も
  小さいことから大きいことまで
  昔はあたり前だった 宇宙は広く 地球は狭い
  漠然とした 霧の中で たった一人で生まれて たった一人で死んでゆく
  タバコのポイ捨てをしていいのかもわからない
  賃貸マンションで家賃を払い続けるべきかもわからない
  家を買うべきかもわからない
  宇宙は広い とにかく広い
  空を見上げる ぱあっと宇宙が広がっている
  ばくぜんと まっくらだ ただただ広がっている
  宇宙はでかすぎる
  宇宙ってやつは 何をしていいかよくわからない
  人間の良し悪しなんてわからない
  不倫をしていいのかもわからない
  善と悪って何なんだ
  自殺をしてはダメらしい
  人を殺すのも悪らしい
  動物を殺して食べることはいいらしい
  ものを盗むのは悪いこと
  でも人の心をたぶらかすのは悪くないらしい
  宇宙は暗い ばくぜんとしている だだっぴろい
  広がりすぎている 何もわからない
  18歳未満は酒を飲んでもいいのかもわからない
  死んだら和式の墓に入っていいのかもわからない
  天体望遠鏡でずっと遠い宇宙を見ると 晴れてんだよ
  宇宙はすうーっと晴れ渡っている
  でも人間は死ぬほど不安だ
  日本にいていいかもわからない だからといって
  外国にいることの意味もわからない 国境とか宗教とか まったく
  死んだらどこに行くの まったく
  誰も答えられない まったく
  殺人を犯してはいけない理由もわからない まったく
  飛び降り自殺してはいけない理由もわからない まったく
  自爆テロしてはいけない理由もわからない まったく
  宇宙は思ったよりずっとでかいじやないか
  自分が生まれた国を美化する理由もわからない
  自分が生まれただけなのに その国を支える理由もわからない
  国を守るという論点は ビーカーの中の水滴より小さい
  あじさいの葉っぱにしたたる水滴より小さい
  唇についた雨滴より小さい
  オレたちは小さすぎる
  自分の安全を必死に守ろうとする場合すら ばくぜんとしている
  もう何一つわからない
  宇宙はそのくらい だだっぴろい
  清潔で 整頓された すべてのありかのわかる 場所に住んで
  ルールとともに 生きていくことは 受け入れたくない 受け入れたくない
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