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ギリシャ投票結果に対するFBへの投稿

クルマに文明を感じない

 今日は葬儀が12時からあります。10時から、スタバで休憩です。そのために駐車場に行った時に。やたら混んでいた。この混在には、とてもじゃないけど、文明を感じない。時間も無駄だし、空間も無駄。クルマという、こんな不便な道具はない。

ギリシャに民主主義が生まれた

 メテルナで見た時に感じたのは、支配者のトルコと奴隷としてのギリシャの文化。ギリシャはずっと、支配されてきた。今回の選挙で、それをやっと、断ち切る。

 日本人は、「民主主義」という言葉を知らない。下からの民主主義を支えるのは、個人レベルのプライドです。格差が拡大するやりかたには断固反対する。自由と平等を追い求めるのが、本来の「民主主義」。

 作るだけの「休まないウサギ」の世界には民主主義は育たない。存在する意味がない。

日本のコメンテーター

 日本の世論はまるでなっていない。日本でコメントを発する連中のレベルは本当に低い。それを言って何になるのかを考えずに、マスメディアにのっています。

 それだけ、民主主義が育っていない。育つ土台がないのです。攻撃すること、攻撃するつもりになることで、自分の有罪を隠しています。これは政治だけでなく、テレビに対するコメントにしても同様です。自分を持っていない。

 自分としてのベースを作り上げてから、発言してもらいたい。それを人に認めさせるとかは関係ない。あくまでもロジックです。

 そして、最終的には、どういう方向に持って行くのか、そのために直接的にそこへ持って行かなくても、そちらに持って行くための努力をしていくこと。

明日は岡崎市図書館

 明日は、とりあえず、岡崎市図書館に行きましょう。婚姻届を出すだけでしょう。とkに何もないみたいです。どっち道、木曜日は2週間後だから、行かないといけないので、2日間、繰り上げましょう。

母親が亡くなる意味

 私は、母親がなくなった時に世の中が変わった。私が亡くなった時に、本当に泣いてくれる人が居なくなったから。だから、世の中の義理の関係を全て、断ち切った。次の時の年賀状はゼロにした。

 それから、「独我論」に入っていった。本来、私が持っている、私は私の世界。母親が居る限りは、「独我論」が成り立たないのは、分かっていたから。

 奥さんの母親への認識はほとんどない。だから、当然のように感慨はないです。

ギリシャ投票結果に対するFBへの投稿

 ギリシャに民主主義がはじめて発揮された、気がします。

 姪の玲子が2007年にソホクリスと結婚して、アテネに行って以来、ギリシャを見てきました。私のブログ「未唯への手紙」で「ギリシャ」で検索すると482項目、「ギリシャ人」で79項目あります。

 今の「常識」で最後尾に居るギリシャが、方向が変わることで最前列になると予感していた。その最初になることが起きようとしている。ナチの時のドイツとは異なり、全体の熱狂ではなく、個人のしあわせを求めて。これは次の日本に必要になることです。与えられた「民主主義」の国として。
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武藤・田中の独ソ戦の評価 永田と石原の引力の下で

『昭和陸軍全史3』より 武藤・田中の戦略構想とその対立 独ソ戦の評価をめぐる亀裂

 武藤・田中の独ソ開戦後における対独姿勢、対米姿勢の相違は、どこから生じたのだろうか。

 その相違は、一面で、彼らのドイツ駐在時期と関係があるように思われる。

 武藤のドイツ駐在は、一九二三年(大正一二年)から三年間で、ワイマール共和国が安定に向かう時代だった。ドイツ到着直前に、ヒトラーらナチ党のミュンヘン一揆失敗があり、「ヒトラーは狂気だ」との評判などを聞いていた。ヒトラーやナチスヘの評価がもっとも低い時期だったといえよう。

 これに対して田中は、一九三四年(昭和九年)初めから約一年半ベルリンに駐在した。この時期は、ナチスの政権掌握、授権法成立、国際連盟脱退と続いたあとで、ナチス政権は深刻な失業問題を改善させ、ヒトラーが国家元首「総統」に就任。国民投票によって圧倒的支持をうるなど、ドイツは、ヒトラーとナチスを高く評価する熱狂的な雰囲気の中にあった。

 二人は、そのドイツ駐在期間中のナチス評価の雰囲気から、無意識のうちに影響を受けていたのではないだろうか。なお、武藤は、帰国途中、約ニカ月間アメリカを視察し、最新の文明とその躍動性に強い印象を受けたようである。

 さらに、このドイツ駐在時期の問題とならんで、二人の見解の違いの背後には、永田鉄山と石原莞爾の構想の相違が伏在していた。

 武藤は永田の後継者として自他ともに認める存在で、その考えを直接継承していた。一方、田中は、大きくは永田の構想の下にあったが、かつて近い関係にあった石原からも潜在的に強い影響を受けていた。

 武藤は永田情報部長時代に直属の綜合班長として密接な関係にあり、その構想を直接継承し展開させた。

 田中も、武藤や冨永を通して永田の構想を受け入れ、統制派系となっていた(田中は一夕会メンバーでもあった)。だがそれに加え、早くから石原の影響を受けており、日中戦争期に石原と挟を分かってからも、その影響を残していたのである。

 武藤にとっては、次期大戦すなわち第二次世界大戦に日本がどのように対処し、それをどのように切りぬけるかが最終的な課題であり、その戦略構想の最終目的だった。それは次期大戦にどう対処するかという永田の根本的な観点を継承したものだった。したがって、三国同盟や大東亜共栄圏は、あくまでもその手段であり、戦略的な選択肢の一つとして位置づけられていた。武藤にとって、やむをえなければまた別の選択もありえたのである。

 一方、石原の最終目的はあくまでも世界最終戦争に勝ち残ることだった。そして、当面の欧州大戦はその世界史的プロセスと位置づけられていた。田中は、石原の在華権益放棄論中欧州大戦絶対不介入論には批判的だったが、世界最終戦論には強く執着していた。

 田中は敗戦後においてもなお、石原の世界最終戦論を「雄渾で説得力に富んだ未来像」だとし、「多くの魅力を感ぜざるをえない」と述べている(田中新一「石原莞爾の世界観」『文藷春秋』一九六五年二月号)。

 石原と田中は、同じ仙台幼年学校出身(石原が四歳年上)で、かつ石原は田中の陸大時代の教官だった。そして田中は満州事変前から石原に関東軍に誘われ、満州事変翌年(一九三二年)、石原関東軍作戦課長の下で作戦参謀となっている。このように田中と石原は、きわめて近い関係にあった。

 しかし、日中戦争をめぐって、拡大・不拡大で対立し、田中は石原から離反する。ことに石原の在華権益放棄、欧州大戦絶対不介入の主張は、田中には受け入れることはできなかった。この面では、永田の華北分離方針、次期大戦不可避論の立場に立っていたといえよう。以後、田中と石原の個人的関係は切れる。田中にとって、石原のような「中立政策」(欧州大戦絶対不介入)は、「空想」といわざるをえないものだった。だが、石原の世界最終戦争論の影響は残ったのである。

 田中からすれば、世界最終戦に生き残るには大東亜共栄圏の掌握、三国同盟堅持は絶対に必要なものだった。

 将来の世界最終戦に対処するためには、大東亜共栄圏は不可欠である。大東亜共栄圏の放棄は世界最終戦での勝利への道を断念することを意味する。その大東亜共栄圏建設はイギリスとの戦争を必須とし、英米不可分の現状では、対英戦は自動的に対米戦となる。したがって対米戦は不可避だ。

 だが、日本は、「米国へ押し渡って、彼を屈服させる決定的な手段は持だない」(田中『大戦突入の真相』)。アメリカを軍事的に屈服させることは不可能であり、アメリカとの持久戦を戦いながら、イギリスを屈服させ、アメリカの継戦意志を失わせる。それ以外に方法はない。そのためにはドイツとの同盟が絶対に必要となる。

 田中にとって、それが三国同盟堅持に固執した理由だった。

 田中においては、世界最終戦への執着が、大東亜共栄圏建設と三国同盟堅持に強く固執させたといえる。

 これが田中の主張する対米戦不可避論、対米主戦論の一つの要因だった。また、その対米戦不可避論が三国同盟を不可欠とさせたのである。

 また、石原は世界最終戦の前提として、長期の対米持久戦争を想定していた。田中は、その対米持久戦争論から、みずからの対米戦略構想についての示唆をえていた。

 石原は日米による世界最終戦の前段階として、アメリカが西洋の覇権を握り、日本が東洋の指導権を掌握する準決勝戦がおこなわれると考えていた。そして、日本が東洋で指導権を確立する過程でアメリカが介入し、日米持久戦となる可能性が高いとして、日米持久戦計画(「対米戦争計画大綱」)を立てた。

 その計画は、日本が中国を勢力下におき、その資源と収入で、アメリカとの長期持久戦を遂行しようとするものだった。

 中国からの税収・鉄道収入などで、必要な物資や資源を調達し、さらにその収入や資源によって日本本土の工業化・産業発展をはかる。そのサイクルによって蓄積される国力と軍事力で、アメリカとの戦争を持続させる。また現地の収入、物資によって軍の自活自給をはかる(いわゆる「戦争により戦争を養う」方式)。

 この日米持久戦は、日本のアジアでの指導権を認めさせるためのものであり、西太平洋の制海権を確保し、米領フィリピンーグアムなども占領する。したがって、対米戦の主力は海軍であり、陸軍は中国や米領植民地の占領・統治をおこなう。

 また、日米持久戦は最終戦争ではないので、ある時点での戦争終結を想定しておかなければならない。それゆえ、あらかじめ限定的な戦争目的を確定しておく必要がある。

 そう石原は考えていた(詳しくは、拙著『昭和陸軍全史』1参照)。

 この石原の対米持久戦論からも、田中は少なからぬ示唆をえたとみられる。田中は石原の対米持久戦争論について、こう述べている。

 「彼[石原一は……支那問題解決の鍵は、アメリカの軍事干渉の排除に必要な軍事力の建設と、対米戦略の創造にある、という結論をえた。

 また対米戦略は、……政治や経済が大きな比重をもつ持久戦争で……あると彼は確信した。」(田中「石原莞爾の世界観」)

 そのうえで田中はいう。「彼のいう最終戦争は大東亜戦争とはちがう。……今日の段階は[ニ〇世紀末の]世界最終戦争への道程における準決勝戦時代」だ、と(田中新一「石原莞爾と東条英機」『文藪春秋』一九六六年新年特別号)。

 つまり「大東亜戦争」すなわち太平洋戦争は世界最終戦への準決勝戦にあたり、最終戦に生き残るには、太平洋戦争を乗り越えなければならない。それによってアジアの指導権を掌握しなければならないのだ。

 対米持久戦となる太平洋戦争では、中国や東南アジアを占領下におき、その資源や物資によって自給自足体制を確立し、アメリカとの長期持久戦を戦い抜く。対米戦の主力は海軍となり、陸軍は占領地の統治や資源開発・物資調達に当たる。それが海軍戦力の物的基礎ともなる。そのさい、軍政下での税収その他の現地収入を財源に充てると同時に、占領軍の現地自活をはかる(まさに石原のいう「戦争により戦争を養う」考え方である)。

 また、太平洋戦争によってはアメリカを完全に打倒することはできず、世界最終戦とはなりえない。したがって、限定的に、継戦意志を喪失させることを戦争目的として、戦争終結を想定しておかなければならない。

 田中はそう考えていた。

 石原とは異なり、中国のみならず東南アジアも含めた領域が、資源や物資の供給地とされているが、明らかにその対米持久戦論の影響を受けている。

 当時の武藤・田中の見解の相違には、このような背景があったのではないかと考えられる。
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未曾有の「関特演」大動員計画

『昭和陸軍全史3』より 独ソ開戦確実情報への対応とナチス・ドイツ 対ソ開戦準備と南部仏印武力進駐方針--「関特演」と「南方施策促進に関する件」

 田中ら作戦部は、「帝国国策要綱」で対ソ戦準備を公式に認められたことから、北方武力行使を念頭に満州への陸軍の大動員を計画・実施する。

 当時関東軍は、平時編制の一二個師団で、三五万の兵力をもっていた。田中らは、この関東軍を戦時編制にするとともに、朝鮮軍の二個師団と内地から派遣する二個師団をあわせて一六個師団で対ソ戦備を整えようとした。総兵力は、戦時編制一六個師団に、重砲隊・高射砲隊など軍直轄部隊と後方部隊を加え、八五万に達した。さらに馬一五万頭も動員され、それらの輸送用に船舶九〇万トンが徴用された。

 未曾有の陸軍大動員である。これら人員・物資の移動は極秘とされ、動員目的を秘匿するため、名称も「関東軍特種演習」(関特演)とされた。

 田中ら作戦部は、対ソ作戦期間を約ニカ月と想定し、戦闘予想地域が冬季に入る一一月までには大勢を決しなければならないと考えていた。そのためには九月初頭には武力発動が必要であり、その作戦開始の意志決定は、八月上旬から中旬までにおこなわれることが必須だと判断していた。

 また、武力介入の基準として、極東ソ連軍が対独戦への西方転用によって兵力が半減し、ことに航空機および戦車が三分の一に減少した場合とした。

 ちなみに独ソ開戦前の極東ソ連軍の兵力は三〇個師団、戦車二七〇〇輛、航空機二八〇〇機。これに対して関特演前の在満鮮日本軍戦力は、一二個師団、戦車四五〇輛、航空機七二〇機で、関特演による増強を加味しても、戦局の帰趨を決する戦車・航空機は圧倒的に劣勢だった。

 「対ソ武力行使は総じて、在極東ソ連総合戦力が半減することをもって武力発動の条件とする。

 すなわち八月上中旬どろにおいて、極東ソ連(樺太、カムチャッカ方面を含む)の地上軍(狙撃三〇個師団)が半減して一五個師団となり、航空(ニ八○○機)その他軍直属部隊(戦車二七〇〇両など)が、三分の一に減ずる情勢を判断し得るに至ったならば、九月初頭から武力発動に移りうるものと想定する。」(田中「大東亜戦争への道程」)

 もし対ソ開戦に踏み切るのなら、一気に極東ソ連軍を撃破する必要があった。かりに緒戦で大打撃を受けるようなことがあれば、北方武力行使が失敗するだけではなく、南方武力行使も不可能になる。その場合は、大東亜共栄圏も、国防の自主独立も夢想と消える。緒戦での勝利は絶対条件であり、それには、ノモン(ン事件の経験などから、師団数のみならず、戦車・航空機の比重が決定的な重要性をもつと考えられていたのである。

 対ソ武力発動は、八月上中旬までの意志決定と、この極東ソ連軍減少の基準がクリアーされるという、二つの条件によって事実上制約されていたといえる。

 当初作戦部は、二十数個師団を基幹とする案を考えていたが、陸軍省の同意がえられずに断念された。

 武藤ら軍務局は、もともと独ソ戦は長期の持久戦となるとみており、北方武力行使には消極的だった。また、「帝国国策要綱」の北方武力行使の条件についても、こう解釈していた。ドイツ軍によってソ連軍が決定的な打撃を受け、関東軍の現有勢力(三五万)のみで極東ソ連軍を撃破し、さらに占領地維持。も同兵力で可能な情勢となった場合だ、と(「石井秋穂大佐回想録」)。

 したがって、軍務局は、関東軍の現行一二個師団の戦時動員実施にも慎重だった。六月二九日に、田中作戦部長が主務課長である真田穣一郎軍務局軍事課長に、本格動員(戦時動員)実施を強く迫ったさいにも、真田は応じなかった。軍務局では、本格動員には国家レべルでの開戦意志決定が必要だと考えられていた。のみならず、「国策要綱」が想定している北方武力行使の条件(短期間でのソ連崩壊)が満たされる可能性に否定的な見方をしていたからである。

 ところが、武藤軍務局長が、七月上旬、たまたま眼病治療のため勤務を休んでいた間、田中作戦部長は、真田穣一郎軍事課長に再度圧力をかけ、在満鮮部隊一四個師団の本格動員と内地航空部隊、一部の軍直轄部隊の動員派遣に同意させた。だがそれ以上は真田ら軍事課は譲歩しなかった。

 やむなく田中作戦部長は、七月四日、東条英機陸相と直接交渉し、東条の了承をえた。翌七月五日、一六個師団を基幹とする総兵力八五万人の本格動員実施が陸軍内で決定された。北方武力行使に否定的な武藤軍務局長病休中のことだった。

 なお、陸軍省でも、重要ポストにあった冨永恭次人事局長は、対ソ主戦論で田中に積極的に協力して動いていた(西浦『昭和戦争史の証言』)。冨永は、東条の腹心の部下であり、田中とは陸士同期で、ことに親しい関係にあった。

 また、梅津美治郎関東軍司令官も、七月上旬、「この際北方問題の根本的解決を決行するを要する。……A「こそ対ソ国策遂行のため千載の好機である」、との意見を陸軍中央に寄せている(田中「大東亜戦争への道程」)。

 関特演の動員命令は、七月六日と一六日に分けて発せられた。こうして総兵力八五万、馬一五万頭、徴用船舶九〇万トンにのぼる大動員が実施されたのである。田中ら作戦部は、たとえソ連軍の崩壊が起とらなくとも、一定の条件が整えば、何らかのきっかけをつかんで対ソ武力行使を実施し、日独による対ソ挟撃を実行する考えだった。その条件は、極東ソ連軍の兵力が半減し、ことに航空機・戦車が三分の一の状態になることだった。

 それが、先に好機を「作為捕捉」すべきと田中が主張したさいの「作為」の具体的な意味であったといえよう。「帝国国策要綱」では、事実上独ソ戦によるソ連軍の崩壊が、北方武力行使の好機として想定されていたからである。ちなみに海軍は、そのような陸軍の謀略的措置により対ソ戦に突入していくことを警戒していた。

 だが、極東ソ連軍の西方対独戦線への移動は、田中作戦部長らの期待通りには進まなかった。七月中旬の段階で西送されたのは五個師団程度で、開戦前三〇個師団の一七パーセント、戦車・航空機その他の機甲部隊の西送は、三分の一程度に止まっていた。後述するように、対独戦線の状況が、ソ連にとって極めて厳しい状況に追い込まれていたにもかかわらずである。ソ連側も日本の参戦を強く警戒していたといえよう。

 また、参謀本部情報部は八月初めに、本年度中にドイツがソ連を屈服させるのは不可能だろうとする情勢判断をまとめた。

 それでも田中作戦部長は計画を断念せず、なお東条陸相と協議し、八月一〇日前後までに、対ソ武力行使を実施するかどうかを決定しようとしていた。

 しかし、参謀本部は、八月九日、年内の対ソ武力行使を断念する方針を決定した。

 七月二八日に実施した南部仏印進駐に対して、八月一日、アメリカが石油の対日全面禁輸措置を発動したからである。そのため、陸海軍・政府にとって、対米対応が第一義的な問題として浮上してきた。これが主因となって北方武力行使は延期されることになったのである。

 田中自身もまた、八月六日のメモに、「北方を今年やらず」と記している(「田中新一中将業務日誌」)。アメリカの対日石油禁輸によって、石油保有の現状から対ソ作戦を優先的に考えることはできなくなったと判断していた。

  「一、統帥部情報関係の判断によれば、ソ連の屈服を本年中に期待することはできない。またウラル以東にスターリン政権が亡命することも予期できない。

  要するに、独ソ戦関係の推移の関係からみれば、今年中に日本の対ソ武力発動を期待することは無理である。

  二、米国の資産凍結、石油禁輸の影響、日本の石油保有の将来判断から、今や対ソ作戦、しかも持久化するような今の状況では、これを優先的に考えることは到底できなくなった。

 従って八月上旬頃に予定した対ソ開戦の決定は、全く不可能となり、今年の秋はこれを放棄するほかはない。」(田中「大東亜戦争への道程」)

 ただ、「対ソ十六師団の警戒は益々厳ならしむ」とされ、関特演により動員された一六個師団は、ほぼそのままの状態で満州配置が継続された(戦争指導班『機密戦争日誌』、八月九日)。南進時の北方安全確保のためだが、また「先ず南をやり、[来年早春]反転して北方を討つ場合もあり得る」との想定も伴っていた(「田中新一中将業務日誌」)。
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睡眠メソッド

『睡眠メソッド100』より

  寝ながら瞑想 応用の宇宙編

   短時間で疲れをとりたい。そんな人にオススメなのは、宇宙と一体になる瞑想です。

   自分が宇宙の一部であるという小さな意識から、自分が宇宙であるという大きな意識に移行していく瞑想法です。

   宇宙のエネルギーを自分の体に充満させましょう。

  ダニ対策は乾燥・吸引・洗濯

   アトピーやぜん息の原因となるハウスダスト。

   小さなホコリのようなイメージですが、ハウスダストに含まれるダニの死がいやフンは、アレルギー原因のトップです。

   ダニは高温多湿を好むため、布団はダニの温床となりやすく、布団やマットレス、枕にいるダニの数は数万匹以上ともいわれています。ダニは温度20~30度、湿度50~75パーセントで最も繁殖するので、梅雨時から夏にかけて、どんどん増えていきます。

   ダニは温度50度以上、湿度50パーセント以下で死滅するので、天日干しをしたり布団乾燥機をかけたりして、できるだけ乾燥した状態を保ちましょう。湿度が上がってきたら、寝室に除湿機をかけておく工夫も大切です。

   干したあとは、掃除機でダニの死がいを吸い取ります。頭のフケやアカがエサになるので、枕を中心に掃除機をかけましょう。

   ダニが卵からかえるのに1~2週間かかります。週に1度は、カバーやシーツの洗濯もしましょう。ダニのフンは、水に溶けやすい性質を持っています。

   生きているダニよりも、実はダニの死がいやフンのほうが問題です。生きているダニは、体の中に水分があるので比較的重たく、直接吸い込むことはないのですが、乾燥している死がいやフンは次第にパウダー状になって、ホコリと一緒に吸い込みやすいからです。

   ダニ対策の基本は、布団をよく干し、乾燥させて掃除機をかけることと、週に1度はシーツやカバーを洗うこと。

   清潔な環境で、気持ちよく眠りにつきましょう。

  手作り抱き枕で背中を涼しく

   背中の通気性を高めるもうひとつの方法、それは横向きに寝ることです。

   抱き枕を使うと体の重さが分散されて、横向きでもリラックスできます。

   横向きで寝るとき、通常は体の下側に圧力が集中しますが、抱き枕を使うと体の重さが分散されるのでリラックスできます。腕の重みを分散できるのもポイントです。

   使っていない布団で、抱き枕を手作りできます。

   クルクル丸めて、開いてこないように3~4ヵ所ヒモで縛るだけでできあがりです。長さは100センチ以上、厚みは10センチくらいが快適です。背中がガバッと開くうえ、わきの下やヒザの間にもすき間ができるので、涼しく眠れます。

   見た目にボリュームがあるほうが抱き心地がよさそうに感じますが、実はそうではありません。足を挟んだときに股関節が開きすぎて苦しくなるからです。

   ただし、冬は選ぶポイントが変わります。かけ布団からはみ出すほど大きいと、すき間から冷気が入って寒いので、80センチくらいの短めのものがオススメです。

   私がプロデュースした抱き枕「長さが変えられてクッションにもなるふわふわ抱き枕」(ニッセン)は、これらのポイントを押さえ、中身のクッション数を調整することで、長さが変えられる仕様です。抱き枕は、体型や用途に合わせて選びましょう。

  睡眠を「ひらめき」に変える

   アインシュタインの「相対性理論」や、ビートルズの「イエスタデイ」など、偉大な発明や発想は、睡眠中の夢がヒントなっていることが数多くあります。

   人生で壁にぶち当たったら、眠りに身を任せましょう。

   睡眠中は顕在意識のフィルターが外れるため、思ってもみないアイデアが浮かんでくることがあります。

   枕元にメモ帳を用意して、起きたらすぐ、浮かんだアイデアを書きとめましょう。

   ドイツの実験で、興味深い報告があります。

   被験者に「ひらめき」を必要とする、難易度の高い数列ゲームを出題しました。

   3つのグループに分け、訓練したあと、①8時間睡眠するグループ、②眠らずに夜8時間起き続けたグループ、③眠らずに昼間8時間起きていたグループの3つに分けて、再び同様のゲームを実施するというもの。

   数列ゲームに隠された法則を見抜いた人の数が、グループによってかなり差があったのです。

   なんと、①の睡眠をとったグループは、眠らなかった②③グループの3倍近い好成績だったそうです。

   この研究者は、睡眠中の情報整理のプロセスの中で、起きているときには思いもつかなかった「ひらめき」が得られたのではないかと結論づけています。

   睡眠をひらめきに変える。

   そんなワクワクする可能性を生かして、あなたの悩み解決の糸口を見つけてみませんか。
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