未唯への手紙

未唯への手紙

社会サービスヘの転換

2015年07月12日 | 3.社会
『若者の貧困・居場所・セカンドチャンス』より 若者が自立できる環境をどうつくるか

 家族責任から社会サービスヘの転換

  2010年には子ども・若者育成支援推進法が成立し、子どもから若者まで、困難を抱えている人たちにこれまでバラバラに機能してきた制度やサービスをまとめて有機的なネットワーク体制をつくり、早期に発見をしてサポートする仕組みをつくることになりました。全国の40~50の自治体がその体制づくりをやっていますが、これまでまったく別々の世界であった福祉・保健・医療・雇用・教育・警察などの関係機関を横につなげながら、一人ひとりの人間をみんなでいっしょになってサポートする体制をつくるのは、本当に手間ひまがかかります。

  私もいろいろなところにかかわっているのですが、こういう行政施策ほど難しいものはないと感じています。横浜市はそのなかでもかなり先進自治体だといわれていますが、それでも370万人もの人口を抱えるところで、くまなく市内にそのネットワークをつくり、どんな状態にあってもそのネットワークに入れれば、だれでも支援サービスが受けられる仕組みをつくるのは難しいことだというのが私の実感です。

  それから2012年に、生活困窮者への取り組みが始まりました。先ほどの生活保護の受給の増加率を見ていただければわかりますが、小さい子どもから高齢者まで、生活に困窮する人たちが相当数います。重要なことは、生活困窮は経済的困窮と社会的孤立がセットだという点です。お金がなく社会的に孤立し、親子3人で生活保護も受けず、1週間食べるものもなく家のなかで閉じこもって、最後は無縁死する。そういう問題に取り組まなければならないという認識が高まって、2013年の生活困窮者自立支援法に至ります。

  これまで家族セクターが担ってきた受け皿機能やコーディネート機能は、家族の変容が進むにしたがって十分とはいえなくなった。そればかりか、家族はときには憎悪や憎しみや恐怖や暴力に満ちた場にさえなる。家族に頼ることのできない人びとが増加するなかで、家族にかわって家族的機能を果たすような社会サービスが求められています。

  現在の社会保障制度や社会サービスでは、対象や制度にあわせて問題を限定してとらえて支援したり、あるいは他の支援機関に回しがちですが、それでは問題の悪循環から抜けだして自立に結びつけていくことが難しいケースが多数あります。

  では、どのような社会資源が必要か。当事者の抱える問題の全体を構造的に把握したうえで、当事者のニードにあわせて、制度横断的に個々人にあった支援策を立て、資源を調達し、あるいは資源を開拓するなどのコーディネートをおこなうことです。さらに、当事者の状況変化に応じて、ひとりの人間あるいは世帯を継続的にサポートしていくような支援システムが必要とされています。これを伴走型支援といいます。それは、従来の行政組織や専門機関の弱点を衝くものです。対象別(高齢者・障害者・女性・若者・子どもなど)や制度別(介護・福祉・医療・就労支援など)に構築した支援体制では、複雑にからみあった問題の全体的な構造を把握し受けとめることが難しいからです。

  人間を丸ごと把握し、そのニーズに丸ごと応えるようなパーソナルーサポートーサービスの営みが地域社会で豊富になれば、事後的な対応を余儀なくされていたこれまでの状況から一歩踏みだすことができるでしょう。そして、新たなリスクに対する早い段階での予防的施策がとられ、真の意味でのセーフティネットの構築につながることになるでしょう。さらにこの営みは、人口減少社会、とりわけ現役稼働年齢層が急速に減少するなかで、人びとが社会の死角に落ちこむことを防ぎ、労働市場や社会への参画を促進して、一人ひとりのもつ潜在的な能力を引きだし、全員参加型の社会を構築するという意味で重要だと思います。

  このような社会システムをつくることは、あらゆる課題を家族責任として押しつけることをやめ、家族の力に負うことのできない人びとを放置しない社会づくりといえます。

 仕事につながる学び、社会とつながる学び

  若者に対しては、将来の長期失業者を生まない予防的対策という位置づけが重要な意味をもちます。しかし、日本の現状では、学校を離れた若者が個々の状況にあわせた支援サービスを受けられる体制にはありません。このような現実をふまえれば、学校教育の責任は大変大きいと思います。

  ところが、日本では普通高校への期待が高く、そこからはずれた教育機関は、「劣等」のレッテルが張られやすい。このような世論を恐れ、教育制度に「差別」や「格差」を持ちこまないことを優先するあまり、自立の困難に直面する若者に対して必要とされる教育・訓練がないがしろにされています。「仕事に就くための学び」が担保されているとは言い難い現実があり、この難問をどうやって突破したらよいかを真剣に考えなければなりません。

  不利な条件を抱える生徒が実社会で生きていける力を獲得できる高校教育への改革と、学校と実社会をつなぐ多様で持続性のある社会システムヘの改革を進めていく必要があります。

  その際、就労困難な要因をもった若者には、通常の手法とは異なる手法が、学校教育においてさえ必要だと思います。その手法とは、ソーシャルワークとしての就労支援です。その中核には、多様な主体が関与するケア(ケース)マネジメントが位置づけられる必要があり、それを支える組織間連携が不可欠です。また、就職にあたっては面接への同行、職場の見学や体験就労などのメニュー、求人内容を本人にあわせてアレンジする作業(つまり援助つきマッチング)などが必要で、ときには求人企業との共同作業が必要だと思います。

  現状のようなキャリア教育一般では、目的を達成できないことは明らかではないでしょうか。教育・労働・福祉をセットにした包括的支援教育が必要なのです。

若者の社会保障

2015年07月12日 | 3.社会
『若者の貧困・居場所・セカンドチャンス』より 若者が自立できる環境をどうつくるか

 露わになった新しい貧困

  私が子どもや若者の問題にかかわるようになって10年あまりになります。この10年間、だれが支援を必要としている人だちなのか、というよりも、だれが支援が必要な人なのかがだんだん見えてきました。

  10年まえ、「支援の必要な若者」というのは、かなりシンプルに考えられていました。たとえば、学校を卒業したがひきこもっている若者たち。その前段階として学校に行けない子どもたち。それから卒業期に就職が決まらない、決まっても不安定な仕事しかない若者たち。そうした若者たちがいる。この現象に対して国や地方自治体がなんらかの手を打たねばならない、と認識されるようになります。

  ところが、この10年で見えてきたことは、そんな簡単な話ではないということですね。たとえば、若年の生活保護受給者、それから生活保護世帯のなかで育つ子どもたちが、じわじわ増えています。いま、全国の生活保護受給者は216万人、過去最多です。6人に1人の子どもは貧困状態で、卜ップのアメリカやイギリスに近い状態。2013年に子どもの貧困対策法が成立して、国や地方自治体が子どもの貧困問題を解決する責務を負うことが、明示されました。

  貧困で私たち日本人がまず思い浮かべるのは、ホームレスのような人びとです。衣食住の最低限を満たせない絶対的貧困層。しかし、いま露わになっている新しい貧困は、かなり様態が違います。家もあれば身なりもきちんとしていて、携帯電話も持っている。ふだん接して貧困者とはまず気づきません。しかし、実際は電気・ガス・水道料や社会保険料の支払いに追われ、毎月のやりくりで暮らしにまったく余裕がない、人とのつきあいができない、借金も抱えている、ときには金銭が底をつく。子どもは、毎日洗濯をしてないと見える同じ服を着ている、給食の食べ方が普通ではないなどの様態がありますが、教員でも生徒の背後にある家庭の問題に気づかないことが少なくないのです。

  若者支援だけでなく、貧困の問題にどう対処するのかという段階にきています。

 30年で激変した若者の状況

  そもそも私がこういう子ども・若者の問題に深入りしたきっかけを少しお話しします。研究者にはつねに、現実を知らないで研究をやることのリスクがあります。私はつねにこのことを自覚して、本日ここにおられる、すぐれた現場の実践をしながら発言をしている方たちとのネットワークのなかで、いろいろ見せていただきながら仕事をしてきました。

  1980年代はジャパン・アズ・ナンバーワンといわれ、「世界で日本がいちばん豊かな国」という時代がありました。実質的にはアメリカのほうが当然豊かだったのですが、そのアメリカさえ日本に脅威を感じた時代でした。たとえば原宿に大型店ができ、そのオープンの朝、暗いうちから若者たちが長蛇の列をつくる。テレビ取材が「今日いくら持ってきてますか?」と聞くと、若者の財布に1万円札が何十枚も入っていた。これが日本の光景としてあったのです。若い人には仕事がある、お金がある、親の家にいる、親もお金があるーそれがすべての若者の状況だったわけではないけれども、いまの時代から比べると、それがあたりまえと思えるような状況がありました。「独身貴族」という流行語が生まれたころです。

  ところが、時代は変わりました。先日発表された調査報告によると、私立大学に通うひとり暮らしの学生に親が仕送りする金額は、2013年に過去最低を更新し、Iか月の平均が9万円を切っている。それで家賃を払うと、残った生活費は2万円ちょっと。それを日で割ると、8百数十円。そのお金でひとり暮らしをして、生計を立てなければいけない。アルバイトをしなければ、大学生活を送れない。仕送り額のピーク時が1994年で、そのときから3割落ちているそうです。

  半分以上の大学生が、いわゆる奨学金を借りているといいます。それは膨大な借金になる。それでも就職が決まらなかったり、不安定な低収入を余儀なくされる可能性があって、借金をどうやって返すのか。その上の30代後半はいわゆる就職氷河期世代で、3分の1がフリーター状態のままだといいます。

  それから、社会的に孤立する子どもや若者の増加という問題がある。ホームレス問題では、若年から中年でホームレス状態となる人がじわじわ増えているといわれていますが、実際の数値はなかなか把握できません。若年の場合、路上生活になるまえに、ネットカフェやファミレス、友人の家を点々と泊まり歩いていたり、女性の場合は風俗業に入るなど多様な形態があり、なかなか数字で把握できないのですが、関係者の話を集めてみると、安定した住まいがなく、今夜泊まる場所が定まらない若者たちがかなりいる。日本のホームレスはだいたいが中高年者で若者は関係ない、といわれてきたのですが、その若者たちのなかに住まいが定まらない人たちが増えているということはあと10年するとその人たちが路上生活になっていく危険性をもっているといえるでしょう。

 日本は若者の社会保障がほとんどない国

  青少年・若者の課題とは、自立のリスクです。これは「成人期への移行のリスク」と国際的にいわれています。現代は大人になるための移行の時期が長くなり、移行期をどう乗り切ることができるかが大きな課題となる時代です。

  それをもう少し言い換えてみたいのですが、1990年代に入ると工業化の時代は完全に終わび、つぎの段階に入りました。若者が自立に向かう体制は、時代時代で違うわけですが、日本の場合、工業化の時代は家族と会社が自立を保障してきました。こういう国はめずらしいと思います。ヨーロッパのような福祉国家型の社会では、家族と会社ではなく、福祉国家が若者の自立を保障する枠組みを戦後つくりました。ですからたとえば、高校を卒業した、または高校を中退した生徒が、明日から行くところがない、というときに飛びこむ場所があります。たとえばオーストラリアには、センターリンクという公的機関があり、赤ん坊から高齢者まで、経済給付に関係する業務は全部センターリンクがやる方式です。行政改革の結果、1か所にまとめられたのです。大きい市だと何か所もあり、人びとはまずはそこへ行く。日本で若者がそうやって飛びこめる場所は、ないと言ったほうが正しいですね。親が扶養するという前提があるからです。

  日本は、若者の社会保障がほとんどない国です。それで問題が起こらなかったのは、親が扶養し、学校を卒業すれば会社が待っていて仕事を与えてくれる。4月を過ぎれば第1回目の給料が入る。これが標準型として工業化時代に確立していたからです。ジャパン・アズ・ナンバーワンの80年代は、中高年者は失業しやすくても若者には仕事が潤沢にあるという最後の時代ですが、その完成度がかなり高かった。ところが、このような枠組みからこぼれ落ちる若者たちが目立ってきたのが、90年代後半から2000年代でした。この10年間で若者支援がようやく登場し、いろいろな人たちの支援活動が始まってはじめて、困難を抱えている子どもや若者たちの現実の姿、その広がりが見えてくるようになったわけです。

  このあいだ聞いた話では、あるNPOに役所から依頼があり、ある家庭が問題を抱えているのでちょっと行ってみてきてほしいと。行くと、お母さんと子ども2人の母子家庭で、お母さんは精神疾患で社会生活ができない状態。子ども2人はかなり重い発達障害と思われる。ひとりは高校に在籍しているはずだが、学校にはぜんぜん行っていない。1週間ほとんど食べていない、生活保護も受給してない。こういうケースがいま、日本の社会でじわじわ増えているのですが、ヨーロッパ型の社会と違うのは、本人がその気になって救済を求めなければそのままになってしまうということです。学校に在籍している子どもにさえ、手が届いてはいないのです。

メールやラインに返信がなくて不安になることありませんか?

2015年07月12日 | 7.生活
『孤独はチャンス!』より

 相手からどう思われているかを過度に気にする人に典型的に見られる特徴の一つが、メールやラインに対する過剰な反応です。

 自分が出したメッセージに反応がないと、なぜだろうと気になって仕方がない。1時間も返信がないと、

  「何で返信がないんだろう……」

  「どうして既読にしてもらえないんだろう……」

 と、反応がないことに何か意味があるかのように思い込む。極端な場合は、10分や凹一分返信がないだけで、何度も携帯電話を確認して、どうしたんだろうと落ち着かなくなるという人もいます。

 しかし、このようにネガティブに考える必要はありません。相手がどのような状況にあるかなど、わかるはずがないからです。

 相手は大事な会議中で、携帯電話の電源を切っているのかもしれませんし、歩いていて、連絡が来ていることに気づいていないのかもしれません。人と喋っていて、返信できるような状況にないのかもしれません。

 そうした事態の可能性は容易に想像できるはずです。しかし、自分がどう見られているかを気にするあまり、相手の都合や状況を想像する心の余裕を失い、すべてを自分に結びつけてしまいます。その不安はどんどん強まり、自己中心的な見方しかできなくなります。

 そして、

  「何か怒ってるんだろうか……」

  「この前会ったときの雰囲気はよかったのに、さっきのメールで気に障るようなことがめったのだろうか……」

  「気分を害するようなことを、最近言ってしまっただろうか……」

  「だれかから何か悪い情報を吹き込まれたのかも……」

 などと、勝手な意味づけをして、ますます不安を強めてしまいます。

 不安が高じて、自己防衛的な攻撃反応が出る場合もあります。相手が自分を無視している、わざと反応してこないと受けとめることで、

  「あの人は、いつも感情的で、ちょっとしたことで機嫌を損ねるからイヤだ」

  「何か失礼なことがあったかもしれないけど、なんでこんな細かなことで、大人げない態度をとるんだろう」

 などと非難がましい気持ちが湧いてきます。不安が攻撃的な心理を生み出すのです。それによって、せっかくの関係にヒビが入ってしまうこともあります。

 メールやラインはとても便利なツールですが、相手の様子まではわかりません。そこでよけいな憶測をしては、ネガティブ思考の悪循環に陥ってしまい、せっかくの関係を台無しにしてしまいかねません。

 不安が強いほど、勝手にネガティブな憶測をしてしまいがちです。不安になったら、今、相手はメールやラインを見たり返したりできない状況にあるのだろう、そのうち返事が来るだろうとポジティブに気持ちを切り替えて、振り回されないことが大切です。

生きている感じ

2015年07月12日 | 7.生活
公共の元での「所有」

 「所有」ではなく、「所属」。公共の元での「所有」。だけど、共産主義ではない。

生きている感じ

 入力を生かすカタチにしましょう。生きている感じを伝えるには、極端なことをしないとダメかもしれない。この暑いのに。

万年筆のカートリッジ

 コクーンの万年筆のインクがなくなるのも早い。もう、インクが亡くなっている。今から買ってきます。カートリッジは5本で200円と安いし、ピンクを含めて、4色もあります。

 持ち運びは、コクーンのボールペンを予備にしましょう。カートリッジはあくまでも、家に置いておきます。

月曜日に出ていくみたい

 長男が未唯に月曜日に家から出ていくんだねと念を押していた。自分の駐車場の位置が気になっているだけだけど。そうか、明日なんだ!