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未唯宇宙項目の見直し 6. 本と図書館 6.1~6.3

本と図書館

 本へのこだわり

  本との出会
   豊田市中央図書館
   毎週30冊の新刊書
   本にこだわり
   返本ボランティア

  著者の思い
   一冊一冊に人生
   物語に出会う
   読書は格闘技
   本のDNA

  本の蓄積
   NDC、題名、著者、金額
   OCRでテキスト化
   雑記帳にエッセンス
   Kindleで読み込み

  全ジャンル
   全てを対象
   概念を言葉にする
   本の威力
   土日は本の処理

 多読から得たこと

  役割を担う
   ジャンル分け
   先を知りたい
   全体を知りたい
   生まれてきた理由

  もうじき、2万冊
   年間1500冊
   91で倍増
   全ジャンルの読み込み
   図書館を評価

  本を処理
   OCRを20年継続
   ICレコーダーで感想
   本を片付ける
   DNA抽出技術の開発

  言葉を与える
   概念を言葉に変える
   言葉は思考
   作者に共感
   人間の幅を広げる

 図書館のあり方

  さまざまな図書館
   調査型図書館は専門書
   滞在型は居心地
   貸出型は新刊書
   図書館を訪問

  ロヴァニエミ図書館
   日本の80館訪問
   ロヴァニエミ図書館
   豊田市の10倍の来館者
   公共図書館が未来を拓く

  図書館の活用
   図書館への攻撃
   本が行動を起こす
   図書館を使い切る
   市民を変えるシナリオ

  有数な図書館
   豊田市中央図書館
   新刊書1億を10年
   市民は感じていない
   文化のバロメーター

 図書館に提案

  図書館に入り込む
   返本ボランティア
   職員に先は見えてない
   館長は持ち回り
   司書はいない

  停滞は退化
   職員はパートが前面
   設備は新館のまま
   市民は変わってきた
   貸出件数も変わらない

  協議会へ参画
   人員配置は変わらず
   新刊書予算が半減
   図書館協議会で意見
   市に依存する体質

  コミュニティを提案
   図書館は時代を先取り
   コミュニティを作ろう
   市民とつながる
   電子図書館のシナリオ

知識と意識

 本の意味

  哲学思考
   デカルト『方法序説』
   一人で作る世界
   孤独が思考を深める
   軋轢を避ける生活規範

  未来の歴史
   アタリ『21世紀の歴史』
   バックキャスティング
   今、何をするか
   超国家思想

  社会を観る目
   モラン『複雑性とは何か』
   変化は周縁から起こる
   複雑性で分析
   私の世界に言葉を与える

  愛を求める
   トルストイ『戦争と平和』
   ナターシャへの愛
   多様性と平和を求める
   様々な世界観

 読む意味

  多様な分野を拓く
   多様な考え方
   読書は格闘技
   新しい分野を拓く
   未唯空間が前提

  先の世界を知る
   なぜ、本があるのか
   思いをつなげる
   先の世界をめざす
   行動を変える

  未唯空間に反映
   ブログ表現
   ネットのライブラリ
   共有環境にコンテンツ
   未唯空間を構成

  未唯空間に歴史観
   思考を数学で表現
   社会学で循環を表現
   経済の状況認識
   多様な意見の存在

 知識を武器に

  生涯学習
   生涯学習審議会
   生涯学習センター構想
   図書館を中核に生涯活動
   地域づくりに発展

  情報共有基盤
   コミュニティと連携
   知的創造空間
   地域のプラットフォーム
   図書館システム展開

  電子書籍に対応
   電子書籍が社会に影響
   読書経験が進化
   新しい合意形成
   共同で読む社会

  電子図書館
   個人環境と接続
   空間を超えた情報提供
   クラウドの世界
   図書館での電子書籍

 意識をまとめる

  共有意識
   近傍系で拡がり
   公共図書館の機能
   意思決定
   知識の伝承

  シェア社会
   場としての図書館
   社会の先駆け
   地域で試される
   社会を誘導

  地域に寄り添う
   学校図書館は教育拠点
   県立は環境社会を体現
   市立図書館の存在は多様
   アウトリーチで展開

  人類の知恵
   アレキサンドリア図書館
   人類の知恵を集積
   公共をアピール
   身近で役立つ

公共図書館

 本がある

  新刊書
   まとまった情報
   多様な視点
   ネット検索
   二週間後に入庫

  還付金
   新刊書争い
   14年で18千冊
   年間二百万円の還付金
   電子図書館の先取り

  本がそこにある
   市の財政に左右
   新刊書を削減
   本屋などの関係
   出版される意味

  全てを知るため
   好奇心はめげない
   常に30冊抽出
   新刊書で方向付け
   新しい境地開拓

 生活そのもの

  米国公共図書館
   滞在型のSFPL
   調査型のLAPL
   知の入口のNYPL
   UCバークレーの書庫

  フィンランド図書館
   生活と一体化
   10倍以上の来館者
   EUにインパクト
   多様なニーズに対応

  八重山図書館
   観光マップに記載
   風通しのいい畳部屋
   地域における観光開発
   来島者にアピール

  豊田市立図書館
   人が集まる場所
   豊富な新刊書
   語り合えるアゴラ
   交流館と接続

 本との接点

  図書館の役割
   本棚で探せる
   チーム活動ルーム
   生涯学習のハブ
   どこでも図書館

  本を処理
   机で読む
   ベットで読む
   DNAを抽出
   一日に20冊
 
  ゲームから始める
   地下鉄の読書風景
   ゲームが主流
   すきま時間の活用
   コミュニティ化

  スタバで読書
   どこでも読書
   ラテにキンドル
   女子高生の勉強部屋
   議論できるスタバ

 図書館を守る

  社会変革の拠点
   図書館はブランド
   教育委員会を超える
   所有からシェアへ
   サファイア循環を提案

  町を変える
   町全体を図書館に
   美術館の庭で読書
   コーヒーハウス文化
   花屋、喫茶店から発信

  図書館経営
   経営は曲がり角
   指定管理者制度
   図書館マネジメント
   CCCのジョイント経営

  市民が守り抜く
   本と図書館のつながり
   知恵の発生源
   図書館戦争
   多様な活用での存在感
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OCR化した14冊

『バルトの国々』

  エストニア人とは

  ラトヴィア人とは

  リトアニア人とは

社会主義と戦争』

  知識人と社会主義

  知識人とはだれか

  知識人のおよぼす影響

  知識人はなぜ社会主義に魅了されるのか①--その思考方法

  知識人はなぜ社会主義に魅了されるのか②--ユートピアヘの想像力

  自由主義はなぜ敗れたのか

  自由主義の復権にむけて

『日本海ものがたり』

  ロシア人の海への渇望

   ヨーロッパ半島?

   パルテック艦隊の基地

   『ハムレット』の舞台

   内海から外洋への隘路

   黒海は地中海ではない?

   蛸地図に見るロシア

   とうとう来た! 日本海へ

   「トラブル海」での釣り

   バルチック艦隊のその後

   日本海の荒波が黒海へ

   日本海は「赤い」海?

   いきなリソ連の対日参戦と日本の敗戦へ

   なぜ太平洋か?

   黒海は、あの「トラブル海」?

  日本海への新しい欲望

   ウラジオストクは太平洋沿岸?

   中国と日本にとっての「西太平洋」

  日本海とはなにか--むすび

   「他者」性ゼロの日本海

   天気予報の日本海

   稀にやってきた怖るべき「他者」

   日本海にもっと島があったら?

   ウラジオストクの日本人

『国際協調の先駆者たち』

  共産主義

  環境政治--国際主義の黄昏

  スピネッリの夢--過去と未来のヨーロッパ

  グローバル・ガバナンスの神秘

『生きづらい時代と自己肯定感』

  自己肯定感のいま--いのちの世界と自己肯定感

  「承認依存」とコミュニケーション力

   若い世代の「コミュ力」偏重

   「いいね」依存が「自分が自分であって大丈夫」を壊す矛盾

   「天地一杯のいのち」に根ざす自己肯定感

  二つの中心をもつ楕円形の存在である人間

   人間は「二つの中心」をもって生きている

   「宇宙内存在」としての自分

   自分という存在を環境と自分に区切れるのか

   「いのち」と「自我」の二つの中心を生きる

  コップの中の物語と「いのち相場」の物語

   コップの中の人生を相対化する文化を

   まどみちおの詩と自己肯定感

  「いのち」と「自我」

   「自我(エゴ)」は社会への適応装置

   「自我」という適応装置を身につけさせる試み

   「いのち」にフィットする「宇宙服」

   「いのち」が自由に動ける「着物」がよい

  「いのち相場」「宇宙内存在」のイメージ

   一日一日「まっさらな自分」

   「存在価値」と「使用価値・交換価値」

   「あるがまま」のイメージ

  「あるがまま」ということ

   「あるがまま」ということは

   私はどんな意味で「あるがまま」ということばを使うのか

  「あるがまま」を見る目をもっているか?

  自己肯定感と「あるがまま」

   「あるがまま」の自分であることは「成長しない」こと?

   「あるがまま」は「わがまま」?

   その人らしく生きることを励ます自己肯定感

   「ありのままの自分」でいいのだと思えて自分が好きになりました

   「よい子」はなぜ寂しく自分が嫌いなのか?

  ゆるされて生きる

   人ひとりの人生のゴールはみんな違う

   他人と比べることで苦悩が大きくなる

   「ゆるし」の自己肯定感

   フリースタイルの僧侶だちと「絶対的自己肯定感」

   「大きなものに生かされている」という感覚

   「もったいない」の心

   「おのずから」と「みずから」

『自己肯定感、もっていますか?』

  自己肯定感が高まる「本当のつながり」の作り方

  「本当のつながり」「ニセのつながり」とは何か?

  「心の病」を持つ人の対人関係

  「本当の自分」を見せていく

  「本当のつながり」で自己肯定感が育つ

  「共鳴」ではなく「共存」する

  近すぎるのは「本当のつながり」ではない

  同調しない、ということ

  「本当のつながり」を作る話し方

  家族と「本当のつながり」を作る

  大切なのは、適切な距離感

  「もっと近づきたい」と思ったら

  相手のプロセスを尊重する、とは?

  よかれと思って相手を変えたくなるとき

  相手が許してくれないとき

  自己肯定感が高まる「ノー」の伝え方

  リスペクトし合えていれば、わかり合えなくていい

  理解できなくても、沈黙を楽しもう

  迷ったら、「べき」と思わないほうを選ぶ

『孤独はチャンス!』

  〝相手の反応〟プラス思考でとらえる!

  メールやラインに返信がなくて不安になることありませんか?

『若者の貧困・居場所・セカンドチャンス』

  若者が自立できる環境をどうつくるか

  露わになった新しい貧困

  30年で激変した若者の状況

  日本は若者の社会保障がほとんどない国

  社会的に孤立し困窮する20代・30代

  「学校から仕事への移行」は各国の重要課題

  とリ残された若者、社会に入りこめなかった若者

  OECDが提案する若者政策

  学校と会社以外に若者を育てる場がない

  家族責任から社会サービスヘの転換

  海外の教育の取り組みを例に

  仕事につながる学び、社会とつながる学び

『受け入れない』

  自分の孤独

  本当の表現者

  宇宙

『戦争思想2015』

  「アラブの春」の潜勢力

  前線から遠く離れて--ヤン・パトチカを楕円化する

『チェムスキーが語る戦争のからくり』

  中東とアラブの春

『満州暴走 隠された構造』

  雪玉はだれにも止められぬ雪崩となった

  軍略家石原莞爾の最終戦争論とは

  陸軍エリート、総力戦を恐れる

  自ら転がした雪玉に弾き飛ばされた石原莞爾

  開拓しない開拓団

  破綻する傀儡国家

  デタラメな金融

  脈々と受け継がれる錬金術

  関東軍の圧力に苦しむ満洲重工業開発

  「やめられない」戦争の原因とは

  守る王から守られる王へ

  王を軍が守り、その軍を国民が守る

  逆転のイデオロギーの源泉

  立場主義社会を看破した文豪

  日本立場主義人民共和国

  立場主義三原則

  「立場上、仕方ない」がループを廻す

  暴走の本当の原因とは

『信用される人が絶対にやらない44のこと』

  一見すると問題がなさそうで、実は信用されない「口ぐせ」

  「大事な用があって」と断る

  口を開けば、いつも「忙しくて」

  [あとにして]とあしらう

  「知らなかったので……」と言い訳する

  「できるだけ早く」という曖昧な期限

  「なぜ、してくれないのか」と相手を責める

  「それでいい」

  「しましょうか」と判断を委ねる

  義理や義務の「行かなくては」

『中国史』

  最近世史

  一 中華民国

   辛亥革命                                      

   新文化運動

   孫文と三民主義

   中国人の異文化受容

  二 国民政府

   孫文の活動

   国民党の改組

   国民政府の北伐

   日本とアメリカ

   日中戦争

  三 中華人民共和国

   整風運動

   文化大革命

   批林批孔運動

   中ソ論争

   中国の現状
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中ソ論争

『中国史』より 最近世史 中華人民共和国

 共産軍が陝西の山奥から、急に北京、上海などの先進地帯に進出した時は、外国滞在の経験ある少数の幹部を除き、大多数の党員は素朴な田舎者であったので、新局面に対処して戸惑いせざるを得なかった。中には早くも都市の栄光に眩惑されて、過去の国民党の失敗の跡を追おうとする者さえあり、政府は早くも建国の翌々年には三反運動、すなわち汚職、浪費、官僚主義の三害追放運動を起さざるを得なかった(一九五一年)。

 対外的にも認識がまだ十分でなく、確固たる方針が立てられなかった。大陸の平定が意外に早く片付いたので、勢いに乗じて台湾の国民政府平定に着手するつもりで、ソ連にも通告し、日本共産党にも動員令を出した。台湾は日本が放棄した以上は中国の領土であるから、そこへ進攻してもどこからも苦情の出るはずはなかった。ただし実際問題としてはそうするにはアメリカとの正面衝突を覚悟しなければならない。しかしソ連から教わったマルクス主義では革命のために犠牲を惜んではならないはずだったから、ソ連が当然援助してくれると思っていたところ、かえって待ったをかけられた。中国の問題のために自己を危険に曝すのは嫌だと見て取られた。次いで起った朝鮮戦争にもソ連は手をつかねて見物するばかりで、中国だけが兵を出してアメリカと戦った。中国はソ連を世界革命のための同盟国とばかり信じていたから、これまでも種々の譲歩をしてきたのだが、ソ連の方は世界革命を題目にして他国を煽って、その実自分は帝政時代の口シア民族膨脹政策をそのまま続行していることがやっと分ってきたのだ。これでは中国としても国際政治の現実に対して目を開き、これまでの考え方を変えざるを得ない。ソ連修正主義、沙皇專制度という言葉がしきりに用いられるようになった。

 決定的な決裂となった主要原因は、外モンゴル問題である。外モンゴルは清朝の康煕帝の時に帰服して以後、清朝に対して最も従順な藩部となり、秦漢の匈奴以来二千年にわたる中国と北方民族との対立が解消して一体となり、清末に至った。

 ロシア革命の際、まず白系ロシア軍が外モンゴルを占領すると、これを追いかけて赤軍が入って外モンゴルを占領し、住民に独立政権を樹立させたが、これがモンゴル人民共和国の起原である。中国はソ連と同盟して世界革命を指向する一枚岩の団結を誇った時代、このモンゴル人民共和国の独立を承認し、対等の国交を結んだのであるが、中ソ決裂となって、さて気がついて見ると、モンゴルは完全なソ連衛星国となり、中国に対し敵対の態度を現わすようになっていた。もちろんこれはソ連の差金で、しかもソ連軍が駐屯して中国に対し守りを固めているのだ。これは中国として我慢できない事態である。中国はソ連に対し、外モンゴルについては共同の指導、若しくはソ連軍の外モンゴルからの撤退を要求して何度か激しい応酬があったらしい。しかしソ連は真面目にこれを受け止めようとせず、かえってあらゆる敵対態度を示して嫌がらせを繰返した。これはちょうど日本の北方領土返還要求に対するソ連の反応と全く同じである。ただ中国は日本よりも誇り高き民族である。しかも日本は今世紀に入って、短時日ではあったが、ひとたびは民族主義の昂揚を経験し、同時にその空しさを味わったが、中国はいま民族主義が正に開花しようとしている時である。もし孫文以後、毛沢東に到るまで、あまりにも民族主義が強すぎるような感じがあったとしても、何人もそれを咎めることはできぬであろう。中国こそは四方の国の民族主義によって最も長く自己の民族主義を抑圧されてきた国であるからだ。

 中ソ決裂の時期は一九六〇年頃である。この年にモスクワにおいて国際中国学会が開かれる予定であったのが、開会の直前になって中国人学者が一人も参会せぬことが明らかとなり、急に取止めとなった。中国におけるソ連人の技術指導員は仕事を中途で放棄して全員が引き揚げて行った。中国の産業の恢復はこのために手痛い打撃を受けたが、しかしついに自力で計画を続行するに成功した。

 清朝の藩部で独立の動きを見せたのは、外モンゴルの外にチべットがある。従来チペットはインドの宗主国ィギリスの後援によって中国からの分離を計ってきたのであるが。大戦後インドが独立国となると、チペットは保護者を失って孤立した。中国はチベットがダライ・ラマ〔十四世〕の下にいつまでも封建的な圧政が行われているのを黙視し得ず社会革命をここにも遂行するため、兵を出してチべットを占領し、ダライ・ラマをインドに追い、そのあとに人民の自治政府を樹立させた(一九五九年)。さらにダライ・ラマ時代にチべットの領土が、英領ィンドのために蚕食されている点を問題とし、特にラダク地区をめぐって、両国の間に紛争が続いている。そしてガンジー女史首班のインド政府は従来の中立政策を棄て、ソ連寄りの路線に改めたことが、一層中国人の反ソ感情を高ぶらせたのであった。今や中国の当面する敵対国は、アメリカは二の次にして、ソ連が第一となっている。

 ひところ共産主義理論をめぐって中ソ論争が闘わされ、このことは日本においても一時大いに話題に上った。しかし正直のところ、両者がどう違うのか、私にはさっぱり分らないのだ。私の理解する所では、中ソ決裂はそんなイデオロギーの問題からではない。もっと現実な領土問題である。これについては外モンゴルの問題の外に、もう一つ中国として我慢のならぬのは、ソ連によるタンヌウリャンハイ(唐努鳥梁海)地方の合併である。この地は歴とした清朝の領土であるから、従って中華民国を通して中華人民共和国が相続するはずであるが、外モンゴルと同じようにソ連軍援助の下に独立し、やがて一九四四年、トウワ自治州としてソ連に併合され、一九六一年以来自治共和国になっている。十七万平方キロメートルの面積に人口は二十二万余であるから、非常に過疎の地であり、同時に将来開発性の大いにある地域だということもできる。

 外モンゴルを通じて、中国領の内モンゴル自治区に対する、ソ連の擾乱工作が絶えず繰返されていることは十分考えられる。しかし両者の中間にはゴビ大砂漠が横だわっているので、工作には甚だ不便である。これに対し新装はソ連に含まれた西トルキスタン、すなわちキルギスなどのトルコ人地区とは原野でつながっている場合が多く、民族も同じところから、絶えず妨害工作が行われている。これもソ連が中国人の神経を苛立たせる原因となっている。注意すべきことは、現今中国はソ連と、政府間には曲りなりに国交があるが、両国共産党の間は全く断絶している事実である。
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蒋介石政権における日本とアメリカ

『中国史』より 最近世史 国民政府

 蒋介石政権を動揺させ、最後には中国における足場を失わせてしまったのは、内政の行詰りからではなく、かえって当時の複雑な世界情勢の作用であった。特に日本が大きな責任を負わなければならないが、しかしその背後にあってもっと大きな働きをしたのはアメリカの外交である。

 アメリカは日露戦争までは、日本に好意を示し、この戦争の終結もアメリカの仲裁の努力に頼る所が多かった。しかるに戦後アメリカの満洲鉄道中立案に日本が反対し、かえってロシアと結んで、アメリカが狙っていた満洲への進出を拒否してから、アメリカの政策は一転して日本敵視の方針に変った。そこへ起ったのか第一次世界戦争であり、アメリカも日本も連合国側に立ったがその役割は違っていた。アメリカはヨーロッパ戦線に軍隊を送り、それが勝敗を決定する原動力となったが、日本はドイツの膠州湾を占領した外は、もっぱらその海軍力をもって海上警備に当り、イギリスの同盟国として、いわゆる東洋の番犬の役目を勤めた。これと同時に日本の商品も広く欧米の植民地の間に行き渡った。さて大戦が終了すると、各国はその植民地から日本を締め出しにかかるのであるが、特にアメリカは戦中に獲得した世界に対する指導者の地位を利用し、戦時成金の日本を屈服すべく全力を傾倒してきた。軍備縮小を名とするワシントン会議(一九二一-二二年)、ロンドン会議(一九三〇年)は実は日本圧迫を目的とするものであり、排日移民法案(一九二四年)はもとより、中国における日本の特殊地位を認めた石井〔菊次郎〕・ランシング協定の廃棄(一九二三年)など、これでもか、これでもかというほどに露骨な日本敵視政策が次々と実施された。ことにアメリカにおける株式大暴落(一九二九年)に続く世界経済の大不況は各国の保護貿易政策強化の傾向を招き、こうなると植民地を持たない日本やドイツ、イタリアなどの諸国の立場が困難になってきた。当時商品市場として有望な地域は、インド、中東、ラテン・アメリカなど、すべてイギリス、アメリカの植民地、もしくは勢力範囲内にあり、日本に残された市場は中国より外になかった。しかしここも各国の競争が激しく、特に日本は日本の進出を好まない中国人民、及び外国資本家による排日運動によって商権が脅かされる立場にあった。そして安全に商業を営もうとすれば、いわゆる勢力範囲を設定するより外なく、勢力範囲設定の政策はますます排日運動の激化を招くのであった。

 こういう情勢になってくると、日本はいよいよ中国における既得権益に固執せざるを得なくなる。奉天の張学良の態度に希望を失った日本は楊宇霜を擁立して親日地方政権を樹立しようとしたが、張学良は先手を打って楊宇霜を殺してしまった。そこで日本軍は最後の奥の手を出して武力発動に踏切り、張学良軍を追い出して全満洲を占領した二九三一年)。そのあとここへ天津に塾居中の宣統廃帝溥儀を連れ出して執政とし、やがて皇帝の位に即かせ、満洲帝国を造るという、時代離れのした大芝居を打った(康徳元年=一九三四年)。

 この頃南京の国民政府は前面に日本軍の圧力を受けている外、裏面にも江西の瑞金を根拠地とする共産紅軍の脅威を受けていた。何度か大軍を動かして包囲攻撃するが、いつも敗北し、殺された師団長黄紹雄の首が板にのせられ上流から流れ下るという一幕もあった。最後に物資の流入を断ち、封鎖作戦を行うと、紅軍は食塩の不足に苦しみ、包囲を突破して湖南に出で、いわゆる大長征の結果、陝西に入って保安に根拠を構えた(一九三五年)。
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