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本当のつながり

『自己肯定感、もっていますか?』より 自己肯定感が高まる「本当のつながり」の作り方

 近すぎるのは「本当のつながり」ではない

  例 彼と「本当のつながり」を持ちたいから、なるべく頻繁にLINEするようにしている。

  「本当のつながり」とは、心のつながりのこと。ですから、LINEを何回送ったとか、何回遊びにいったかとか、「形のつながり」にとらわれる必要はありません。

  逆に、「形のつながり」にとらわれてしまうことで、「本当のつながり」を感じることができなくなってしまう、というのが現実だと思います。

  そこには、「形のつながり」がなければ「つながり」とは言えない、という「決めつけ」があるからです。

   例 夫はキレると、ひどい暴力をふるうが、普段は優しいので我慢している。

  「本当のつながり」を感じるためには、「適切な距離」が必要です。

  ひどい暴力をふるうパートナーと密着しながら「本当のつながり」を感じるのはほとんど不可能でしょう。まず、「ひどい暴力」を我慢してしまっていることが、状況として自己否定的です。自己肯定感の高い人であれば。「この状況から自分を守りたい」と思うものだからです。

  そうは言っても、相手と別れる、という選択肢をとる場合、実際には「形のつながり」を失う、ということになります。

  そのことがつらくて、自分を傷つける相手とでも一緒にいる、というケースは少なくありません。

  もちろん、「形のつながり」を失うことは、喪失体験となりますから、寂しさは強く感じるでしょう。「自分にはもう二度とパートナーが現れないのではないか」と思ってしまうかもしれません。

  しかし、これらは誰かと別れる場合に共通する感じ方であり、単に「喪失体験中」ということを示すだけです。

  暴力をふるう相手と別れる、ということは、自分の安全を確保すること。人は、安全の中でしか「ありのまま」でいられません。

  そして、自分が「ありのまま」でいられるときにしか、相手の「ありのまま」を受け入れることができない、ということも事実です。

  一見矛盾するようですが、こんなケースでは、「形だけのつながり」を絶つことではじめて、相手の「ありのまま」を受け入れることができる場合が多いのです。

  「自分がダメだから、なぐられるのだ」「自分さえ我慢できれば、うまくいく」から、「ああ、相手は相当心を病んでいたんだな」という具合に、「相手の事情」として見ることができるようになるのです。

  「形のつながり」を維持しようとしている間は、「自分が相手を怒らせた」と自分を責めてしまうことが多いのですが、「形のつながり」へのとらわれを手放すと、相手の現状は、しょせん「相手の事情を反映しただけのこと」として見ることができるようになるでしょう。

  ポイント 距離を置くと、相手の事情が見えてくる

 家族と「本当のつながり」を作る

  臨床的に自己肯定感が低い人を見ていると、とても身近な人たち、つまり、家族と「本当のつながり」を作れていない場合が多いと感じます。そのことが、ますます自己肯定感を低下させているようです。日常的に関わる人との関係にリスペクトがないと、繰り返し否定されることになるからです。

  逆の言い方をすれば、身近な人との間に「本当のつながり」を育てることが、自己肯定感を高める上でポイントとなります。

  しかし、相手が家族になると、ますます「領域」意識を持つことが難しくなる、というケースも多いでしょう。

   例「 お母さん、この大学がいいと思う」「公務員なら安心ね」など、母が進路を決めようとしてきて、苦しい。

  ですから、思春期になると、親にとっては「子どもの領域は、子どものもの」という意識を持つことが、ひとつの課題です。「まああの子ももう大人だから……」と思えることが「子離れ」と言えるのですが、それができていない親は案外多いもの。

  また、子どもは一生懸命親の顔色を読みながら成長することが多く、それに慣れた親はいつまでも言葉や--伝えるのではなく顔色を読ませようとすることがあります。

  親の顔色通りに振る舞わないと不機嫌になる、などというのもそのひとつ。

  きょうだいの間でも、昔の関係性をそのまま引きずって、「領域」に入り込まれっぱなしということもあると思います。年長のきょうだいが、「あなたのことは私が一番よくわかっている」という姿勢でいることも多いでしょう。

  それでも、お互いの「領域」を尊重しなければ「本当のつながり」は得られない、という原則は変わりません。

  家族が自分の「領域」に踏み込んでいると感じる場合でも、自分は家族の「領域」に踏み込んでいないか、と考えると発見があるかもしれません。

  たとえば、他の人に言われても傷つかないけれども、家族に言われると傷つく、という場合は、「家族なのだからわかってほしい」と、相手の「領域」に入り込んでいる結果であるとも言えます。

  まずは、お互いの「領域」を守る伝え方をしましょう。「そういうふうに言わないで」「どうしてそういうことを言うの?・」と「相手」について話すのではなく、「そういうふうに言われると悲しい」と「自分」の気持ちについて話すのです。「家族だから何を言ってもよい」のではなく、「家族だからこそ『領域』に気をつけたものの言い方が必要」だと言えます。

  ポイント 「自分が相手の領域に踏み込んでいないか」も疑う
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二つの中心をもつ楕円形の存在である人間

『生きづらい時代と自己肯定感』より 自己肯定感のいま--いのちの世界と自己肯定感

 人間は「二つの中心」をもって生きている

  「ひきこもり・不登校--家族や周りの人たちができること」をテーマの講演会とNPOなど民間団体による活動紹介・交流会がありました。私はそこで「ひきこもり・不登校の若者にどう接するのか?」と題するお話をする機会がありました。

  最初に白板に楕円形を描き、そのなかに二つの中心を描き入れました。二つの中心の上に、「社会内存在」「宇宙内存在」と書き、それぞれその下に、「自我」「いのち」と書きこみました。私たち人間はこの二つの中心をもって生きている存在です。そして、この二つの中心から問いが生じるのです。「自我」の問いは「どういうふうに生きるのか? 何を生きがいにして生きるのか?」という問いであり、「いのち」の問いは「生きるとは何か? いのちはどこからきてどこへ行くのか?」という問いなのです。

  登校拒否やひきこもりの子どもや若者の問いとまともに向き合い深く考えると、この二つの問いと向き合うことになります。そういう構図をバックにしてお話しするので、そのつもりで話を聞いてほしいと前置きをしたのです。

 「宇宙内存在」としての自分

  遠い昔、一三八億年前に宇宙が誕生し星が爆発して、肉体生命を作る炭素をはじめすべての材料が宇宙空間にばらまかれました。星の爆発から生まれ、星のうえに育った「いのち」は「宇宙内存在」だといえます。生物学的には「いのち」はつねに細胞が入れ替わりつつ、つねに動的平衡をたもっているといいます。「動的平衡」とは、「それを構成する要素は絶え間なく、消長、交換、変化しているにもかかわらず、全体として一定のバランス(恒常性)をたもっている」ということです(福岡伸一著『生物と無生物の間』講談社現代新書、二〇〇七年)。それはイメージとして川に似ています。「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」(鴨長明「方丈記」)。

  私の体もそうです。一年前の私の体をつくっていた細胞はほとんど入れ替わっています。消化管だと二、三日、血液細胞だと数カ月で入れ替わるそうです。だから、「お変わりないですか?」なんて肉体レベルでいえば意味がありません。大いに変わっているのです。いのちのレベルではまったく別人です。だが、私はそういう自分を変わりない「自分」だと思っています。それは私が人間特有の「ことば」をもっていて、それで生全体の流れを区切って、「私」というふうに固定しているからです。

 自分という存在を環境と自分に区切れるのか

  環境と私はつながっていて、本当は区切れません。その区切れない全体を生態系といいます。コメをつくるのは農家の人ではなくて、イネです。私は田んぼで育つイネがつくるコメを食べて生きています。そのコメや野菜、豚や牛の細胞が私の体内で私の細胞に生まれ変わります。そういう私を「自分」ということばで区切れるのでしょうか? そんなことを考えることがあります。

  「自分(「私」)」ということばを立てるから、それと区切って「自分」の外側に「環境」というものがあることになるのです。人間の細胞の数は六〇兆個ほどと言われています。だが、その三倍の一八○兆個もの細菌や微生物が私の体のなかに住んでいるらしいのです。当然、私の口のなかや腸の中にはいっぱいいろんな細菌・微生物が住んでいます。寄生しているのです

  彼らにとって、私の体は環境です。私の体も一つの生態系をなし、一つの宇宙をなしています。そうだとすれば、いったい私の体は「私のもの」なのか、それとも「細菌や微生物たちのもの」なのか? 私が「これは私の体だ」といえば、そこに住んでいる細菌や微生物は「いや、私たちが地主だ」と抗弁するかもしれません。そういう宇宙を単純に「自分」ということばでくくれるのでしょうか? 要するに「自分」とは言葉によって区切りをつけたものだということです。

 「いのち」と「自我」の二つの中心を生きる

  人間は、流れてとどまることのない、つかみ所のない「いのち」という存在に身をゆだねることが不安で、変わらない自己同一的な存在にしがみつこうとします。それが脳のつくり出した「私」(自我・自意識)というものです。「いのち」という大きな川の流れのなかに、「私」という杭を立てて、それにしがみつこうとするようなものです。

  だから、私という存在は、物質的に絶え間なく細胞が入れ替わりながら、バランスをたもっている「いのち」と、社会的・文化的に構成された「自我」という少なくとも二つの存在から成り立っているといえます。「いのち」という「宇宙内存在」として、「自我」という「社会内存在」として、二つの側面を抱えつつ生きています。その両方の目で見て、私は自分の人生を生きたいと思うのです。

  近代の人間は、「社会内存在」として「自我」にとらわれ、自我を肥大化させる文明を築いてきました。国や都会や巨大建築物、諸々の「金品」、それらを所有することによって、自分が確固たる何者かであることを証明しようとしています。後で立てられた自我(「私」という言葉で区切られる存在)が、はるか以前から存在する「いのち」を自分のものであるかのように、「私のいのち」などと偉そうなことを言い始めます。「私」が「いのち」を所有しているのではありません。「私の故郷」という場合、「私」が故郷に所属するように、「私」が「いのち」に所属しているのです。

  「私」は言葉とつくりもののルールとによって構成されたいわば実体のないものですから、それを支えるものがないと砂上の楼閣のようにくずれます。だから、さまざまな所有物によって、支えられなければならないのです。「われ所有する、ゆえにわれあり」というのはそういう意味です。
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「承認依存」とコミュニケーション力

『生きづらい時代と自己肯定感』より 自己肯定感のいま--いのちの世界と自己肯定感

 若い世代の「コミュ力」偏重

  精神科医の斎藤環氏は、若い世代のコミュニケーション力偏重と「承認依存」の問題について述べています(斎藤環『承認をめぐる病』日本評論社、二○一三年)。ひきこもり問題や就活の悩み、「新型うつ」などの問題の背景にも、この「承認依存」があると指摘します。若者の就労動機も「生活の糧」を稼ぐことよりも、他者から承認されるために働く傾向があること、現代の若者においては、「自信」や「自己肯定感」のありようが、ほぼ全面的に「他者からの承認」に依存しているかに見えるといいます。昔は「自信」の拠り所たりえた家柄、資産、自分の才能や能力といった客観的要素すらも、他者からの承認を経なければものの役に立たないというのです。

  そして、この「承認依存」はコミュニケーション力偏重と対で進行した風潮だと指摘します。ここでいわれる「コミュニケーション力」(コミュ力)とは、適切な自己主張や議論・説得などの技術を必ずしも意味しません。「場の空気を読む能力」や「笑いを取る能力」を意味します。

  私なりに理解した表現でいい直せば、グループのなかで自分に回ってきた「キャラ」(役割)をうまく演じて、それにふさわしい当意即妙のやりとりをする力を意味するものであるようです。ですから、このコミュ力は「キャラ」と相互依存的な関係にあるわけです。そうなると斎藤氏が指摘するように、問題はこの「キャラ」が若者流のコミュニケーションをスムーズにする反面、「キャラ」からはみ出す言動を抑圧する副作用をもつことであり、人間的な成長や成熟を抑え込む「枠」になってしまうことです。

  斎藤氏によれば、このような承認依存とコミュ力偏重が進んだ背景にはコミュニケーション力や承認を可視化できるインフラの発達があります。一九九五年以降、商用インターネットとケータイの爆発的普及に伴い、コミュニケーションは多層化し、流動化したのです。

  SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)などによって近い他者と「承認力」や「コミュニケーション力」が容易に比較可能になりました。投稿への「いいね」の数やフォロワーの数で承認の度合いを容易に数値化できるSNSサービスの流行、定着ぶりをみると、「承認依存」と「コミュニケーション力偏重」の密接な関係が見て取れるというわけです。

 「いいね」依存が「自分が自分であって大丈夫」を壊す矛盾

  だが、そこにはディレンマがあります。私に言わせれば、他者からの承認によって自分の存在を肯定する限り、他者に自分の存在を依存するという不安定を生きなければなりません。それは決して自分の存在そのものを肯定する「自分が自分であって大丈夫」という安心を与えません。また、「いいね」をもらい続ける「よい子」であるために、その枠に自分をはめ込み、そこから動けなくなるという「落とし穴」にはまることにもなります。

  その「承認」は、私のいう自分の存在そのものを「あるがまま」に肯定するのとはわけがちがうのです。「あるがまま」の肯定は、自己を自由にし、変化への柔軟性をもたらします。だが「自己肯定」の他者への依存は、自分を他者の「いいね」をもらえる「よい子」の枠に閉じ込め、自分をがんじがらめに縛ることにしかなりません。

  それに、フェイスブックなどで得られる「いいね」の意味は挨拶程度のものから、深い共感まで千差万別です。そのような他者からの「いいね」は決して自己の存在そのものへの「いいね」ではありません。自己の所有する属性や作品への「いいね」、それもその組織や集団の「友だち」の移ろいやすい雰囲気的な好感度にそった「いいね」でしかないケースも多いことでしょう。

  また家柄、資産、自分の才能や能力などのいずれをとっても、自己を説明する属性でしかありません。つまり、もって生まれたぢのであろうと、獲得されたものであろうと自分の所有物です。「われ所有する、ゆえにわれあり」のレベルのものでしかないのです。

 「天地一杯のいのち」に根ざす自己肯定感

  それは、「天地一杯のいのち」を生きるかけがえのない個の存在としての自己、その「あるがまま」の全体を受けとめ、それと共に生きる自己ではありません。要するに資本主義システムという「コップ」の中をせせこましく生き、種々の悩みをくっつけた自己でしかないのです。そういう自己を相対化するもっと大きなスケールのモノサシで自己をとらえる目を持たないと、たとえ一瞬であろうと「コップ」のなかから脱出することができないのではないでしょうか。

  自らがその気にならないと仕方がありませんが、「コップ」のなかの窮屈な生き方から自らを解き放つためには、自分の「あるがまま」をみとめ、自分を狭く決めつける自己像から自己を解放することを励ますメッセージや受容的・共感的な生身の支援を受ける必要があります。それはネット上の単なる言葉だけではなく、非言語的な眼差しや声の表情や雰囲気を感じ取れる「生身の顔と顔を合わせる」関係のなかで提供されることが大切です。
  先日の講演会でフロアから若者の発言がありました。--雑草は他者から踏まれても起き上がろうとはしない。踏まれっぱなしである。そうして、人間の靴に踏まれて、その靴底に種をくっつけて、自分の子孫を繁殖させることを図っているのだ。ただ踏まれているのではない、なにか大切なものを護るために、踏まれてもそれを受け入れる--。

  私もなるほどと思いました。目立たなくてもよい、目立つといろいろな余計な干渉や関与をうける。それだけ、余計なことにエネルギーを使わなければならない。また干渉や関与によって、自分が大切にしているものを汚されたり、傷つけられたりする危険も生じる。だから、おとなしく目立たないように、じっとしていることによって、大切なものを護っている戦略もありえるのです。

  目立って「いいね」をもらうことに必死にならなくてもよい。なにも世間の基準で目立って、「いいね」をもらうことが、ほんとうに自分の存在を大切にすることになるとは限らないのですから。
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デジタルで「所有」から脱却

デジタルで「所有」から脱却

 デジタル・アーカイブの一番重要な概念は、一冊という概念をなくすということです。一気に皆に見せる。自分で作ってみてわかるけど、夫々のアーカイブを作り上げれるようにするということです。

 ここでも「所有」という考え方をなくすことです。ポイントだけを持っていて、物理的なモノは持たない。公共というものはそういうことです。

ICレコーダのバッテリーの持ち

 金色のICレコーダーはバッテリーの消費が早い。やはり、二つ持つべきかな。

 3分のチャージで1時間の録音がウリでしたよね。

未唯はいつもの通り

 夜に10時になっても、未唯が戻ってきていなかったので、いよいよ、未唯が居ない生活が始まるのかと思ったけど、10時半に部屋の前の廊下を歩いていた。どうなっているのか。
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