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第7章生活篇の構成(前半)

第7章生活篇の構成

 7.4までで言いたいことを言っている。7.5以降の苦しいこと。

 7 生活

  7.1 考える生活

   独りぼっち
    他者は存在しない
    一人で生きる
    ロマンチスト
    未唯への手紙

   好奇心
    考える
    考え抜く
    扉を開ける
    非日常的な毎日

   ツール
    アナログ
    デジタル
    ハイブリッド
    超アナログ

   与えられた存在
    放り込まれた
    与えられた時間
    多くを得たい
    単純にする

  7.2 内なる世界

   内なる世界
    私は私の世界
    目的のある生活
    奥さんの存在
    絶対的存在

   外なる世界
    身体は外
    生活は外
    会社というもの
    社会は対象

   ミッション
    社会をモデル化
    考えるだけ
    まとめるだけ
    組織を攻撃

   四つの役割
    数学者
    社会学者
    歴史学者
    未来学者

  7.3 生活

   社会との接点
    パートナーの存在
    パートナーを支援
    未唯空間でつながる
    根本を知る

   まとめる
    偶然の意味
    社会に提言
    歴史というテーマ
    サファイア社会の姿

   家庭の状況
    ギリギリの状態
    依存しない
    海外に行く
    家庭環境

   自分を律する
    未唯空間を活かす
    トレース可能
    生き抜く
    生まれてきた

  7.4 存在の力で生きる

   内で起こる
    考えること
    全体を知る
    もう一人の自分
    無為に過ごす

   外に向かって
    言葉を作る
    生きる意味を発信
    言い切れる
    歴史にアプローチ

   外からくみ取る
    孤立と孤独を楽しむ
    組織を使いこなす
    啓示を得る
    問いに応える

   内・外の関係
    存在と無に帰結
    一緒になる世界
    体系化を図る
    ノマドとして行動
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「物体論」場所と時間について

『ホッブズ 物体論』より

存在しない諸事物をその名称によって理解したり計算したりできるということ

 自然に関する学説の端緒は、(既に示したように)除去によって、すなわち宇宙が消去されたと仮構してみることによって最もよく把捉されるであろう。しかし、、諸事物のそのような無化か前提されると、おそらく次のように問う人がいるであろう。すなわち、(諸事物のこの全般的消滅から唯一除外される)誰かある人間が、それについて哲学したり、またそもそも推論したりできるような、あるいは推論するためにそのものに何かある名を冠したりできるような、そのような残余物は一体何なのか、と。

 それゆえ私は次のように言う。すなわち、上述の人間にとっては、世界とあらゆる物体を消去する以前に彼が目で見たり他の感覚によって知覚したりしていたこの世界と諸物体の、その諸々の観念が残るであろう、と。これはつまり、大きさ・運動・音・色等々の記憶や表象像が残るであろうし、またそれらの順序や諸部分の記憶や表象像も残るであろう、ということである。そしてこれらはみな、それを思い描く当の人に内的に生じる観念および表象にすぎないとしても、それにもかかわらずあたかも外的であって心の力には決して依存していないかのように見えるであろう。それゆえ、彼はこれらに名を冠し、それらを差し引いたり合成したりすることになる。なぜなら、他の諸事物は滅せられてもこの人間だけは存続すると、すなわち彼は思考したり思い描いたり思い出したりすると仮定した以上、彼の考えることは過人のこと以外に何もないからである。じっさい、推論する際に私たちのしていることに注意深く心を向けてみれば、諸事物はたしかに存続しているが、私たちの計算しているものは自分の思い描く表象にほかならない、ということはもちろんである。なぜなら、天または地の大きさと運動を計算する場合、私たちは天に上ってそれを諸部分に分割したり、それの運動を測定したりするわけではなく、図書室や暗室の中で静かにこのことを行なうのだからである。ただしこれらの表象は2重の資格において、考量されうる、ということはつまり計算に入ってくることができる。それらはすなわち、心の諸能力が問題となっている場合のように、心の内的な出来事として考量されるか、もしくは外的諸事物の外観として、言いかえれば、あたかも存在していないのに存在しているように、つまり外にあるように見えているのであるかのように考量されるかのどちらかである。今はこの後のほうの仕方で考量がなされなければならない。

空間とは何か

 いま仮に私たちが、外的諸事物の仮定上の消去以前に存在していた何かある事物を思い出した、ということはつまりその事物の表象を持ったとし、しかもその事物がどのようなものであったかを考えようとはせず、ただそれが心の外部にあったということだけを考えようと欲するとすれば、私たちは空間と呼ばれるものを持つ。これは私の表象であるからたしかに想像上の空間であるが、しかし万人が空間と呼んでいる当のものである。なぜなら、それが既に占められているということのゆえに空間であると言う者は誰もおらず、占められることが可能であるということのゆえにそう言うのだから、言いかえれば、物体はその場所をそれ自身とともに持ち運ぶとは誰も考えず、同一の空間の中に、ある時にはあるものが、またある時には別のものが、含まれる--空間中に空間と同時に存在する物体を空間が常に連れ歩くとしたら、こういうことは起こりえない--と考えるのだからである。

 さて、このことは非常に明らかなことであって、哲学者たちが空間の間違った定義のせいで次のようなことをやっているのを見なかったら、説明の必要があるなどとは私も決して考えなかったであろうほどCである。それは1つには、この間違った定義からただちに、世界は無限であると推論していることで、彼らがそうするのは、空間とは諸物体そのものの延長であると考え、なおかつ延長には常にそれ以上の延長がありうると考えるかぎり、諸物体そのものが無限の延長を持つと主張することになるからである。さらにもう1つは、この同じ定義から、1つの世界よりも多くの世界を創造することは神にとってさえ不可能であるということを、根拠なく結論していることである。なぜかというに、仮に他の世界が創造されなければならないとすると、この世の外には何物も存在しておらず、それゆえ(空間の定義からして)いかなる空間も存在しないので、無の中に世界が置かれなければならないことになるが、しかし無の中には何も置くことができないのであるから、というのがその言い分である。けれども、どうして無の中には何かを置くことができないのかは示されていない。実のところはかえって、既に何物かが存在するところにはそれ以上何も置くことができないので、それだけ空虚のほうが充実よりも新しい物体を受け入れるのに適しているのである。そういうわけで、上述のような哲学者たちと彼らに同調する人々のために、これらのことを述べたのである。そこで私は、「空間とは現れている事物の、それが現れているかぎりにおける表象である」という空間の既定の定義へと戻ってきたと申し立てる。この「現れているかぎりにおける」とはすなわち、それを思い浮かべる人の外部にあるように見えるということ以外に、その事物のいかなる他の偶有性も考量されない場合の、ということである。

時間

 物体がその大きさの表象を心のうちに残すように、動く物体もまたその運動の表象を心のうちに残す。この運動の表象とはすなわち、今はこの空間を、次の瞬間には他の空間を通って連続的継起によって移行する物体の観念のことである。さて、このような観念ないし表象こそ、--人々の通常の言説からはかけ離れ、またアリストテレスの定義からはなおさらかけ離れてはいるが--「時間」と私が呼ぶものである。なぜ私が時間をこのようなものとして理解するかというと、人々は年が時間であるということは認めているが、しかし時間が何かある物体の偶有性か変様かもしくは様態であるとは考えておらず、したがって時間が諸事物自体のうちにではなく、心の思考の中に見出されなければならない、と認めることが必要になるからである。また人々は、自分よりも年長の人々の時間について語る場合、この年長者たちが死んだら故人の時間が、故人のことを思い出す人々の記憶の中以外のところに存在しうると考えているであろうか。これに対して、日や年や月は太陽と月の運動そのものであると主張する人々は、運動に関しては「過ぎ去った」というのは消滅するというのと同じことであり、「これから存在することになる」というのはまだ存在していないというのと同じことである以上、自分の言いたくないこと、すなわち、いかなる時間も全然存在していないし、存在したことがなかったし、これからも存在しない、ということを言っていることになる。

 なぜなら、「存在した」もしくは「これから存在する」と言われうるものについては、「存在している」ということもまた、かつて言うことができたか、もしくはやがて言うことができるようになるからである。それならば、日や月や年は、心の中で行なわれた計算の名称でないとしたら、どこにあるのであろうか。したがって、時間は表象である。ただしそれは、運動の表象である。なぜなら、どのような動因によって時間mが経過するのかを認識したい場合、私たちは何かある運動、たとえば太陽や自動機械や水時計の運動を用いたり、線を記してこの線の上で何かあることが起こるのを思い描いたりするからであり、これに対してその他の仕方では、いかなる時間も現れないからである。けれども、私たちが「時間は運動の表象である」と言う場合、これは定義のためには十分でない。なぜなら、私たちは「時間」というこの語によって、最初はここに、次にはあそこに存在するかぎりでの物体の運動の先後関係すなわち継起を指し示すからである。それゆえ、時間の完全な定義は次のとおりである。「時間とは、私たちが運動のうちに先後関係すなわち継起を思い描くかぎりでの、運動の表象である。」この定義は「時間は先後関係に従っての運動の数である」というアリストテレスの定義とも一致する。なぜなら、数を数えるというこのことは心の働きであり、それゆえ「時間は先後関係に従った運動の数である」と言うのと、「時間は数えられた運動の表象である」と言うのとは同じことだからである。これに対して、「時間は運動の尺度である」と言うのは上のような正しい言い方ではない。なぜなら、私たちは時間を運動によって測定するのであって、運動を時間のよって測定するのではないからである。
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「物体論」哲学について

『ホッブズ 物体論』より

私の見るところ、人々の間にあって哲学は今日、穀物や葡萄の実が太古の時代に自然界においてあったと語り伝えられているようなありかたで存在している。というのは、葡萄も穀物の穂も諸事物の始まりのときから地上に点在していたが、栽培されたものは皆無であったので、人は堅い木の実を食べて生きており、あるいはもしまだ知られていない、食べられるかどうかわからない果実を思い切って食べてみた人がいたとすれば、彼はそのことで自分の健康を損ったのであるが、これと同様に、哲学すなわち自然的理性は、各人があるいくつかの物事に関してあるところまでは論理的に思考する以上は、万人に生得のものであるが、しかし長い一連の合理的思考が必要な場合になると、ちょうど作物の栽培法のような正しい方法が欠如しているために、大多数の人々は正道から逸れてさまよってしまっており、そのせいで、〔食べ慣れた〕堅い木の実のような日常的経験に満足して、哲学などは捨て去るか、熱心に求めようとしない人々のほうが、決して通俗的ではないが疑わしい、軽率にも入り込まれてしまった諸見解に染まって、冷静な分別に乏しいかのように絶えず議論や論争をしている人々よりも、健全な判断力の持ち主であると一般にみなされ、また事実そのとおりであるという結果が生じているからである。もちろん私は、哲学のうちでも大きさ同士や図形同士の比率を算出する部門はすばらしく洗練されている、ということを認める。しかしそれでもなお、私はその他の諸部門ではこれと同じような業績がうち立てられたのをまだ見たことがない。それゆえ私は、私のなしうるかぎり、純粋かつ真正な哲学が徐々にそこから生じてくることができると思われる、いくつかの種子のような全哲学の少数の第1根本諸原理を、説明するという目論見に着手する。

変ることなく続いてきた、そして最も弁の立つ著述家たちの権威によって裏打ちされた諸見解を、人々の精神から払いのけることがいかに難しいか、私は知らないわけではない。ことに、本物の(ということはつまり、正確な)哲学というものは、雄弁そうな見せかけのみならず、ほとんど一切の文飾をも職業的に忌避するものであり、またあらゆる学問の第1の基礎は、見た目が美々しくないばかりでなく、飾り気なく無味乾燥で、ほとんど見苦しいように見えるものでもあるからには。

しかしそれでもやはり、万事において真理と合理的思考の堅固さそのものとをそれ自体として愛好する人々も、少数とはいえ、たしかに存在する以上は、この少数の人々のために、既存の諸見解を精神から払いのけるという上の仕事の手助けをしなければならないと、私は考えた。それゆえ私は企てにとりかかる。さてそこで、私が話を始めるのは、哲学の定義そのものからである。

哲学とは、諸々の結果ないし現象の知得された原因ないし発生の仕方から正しい推論によって獲得された、これらの結果ないし現象の認識、およびこれと反対に、認識された諸々の結果から正しい推論によって獲得された、ありうる発生の仕方の認識である。

この定義を理解するために考量しなければならないことは、第1に、人間とあらゆる動物とに共通な、諸々の物事についての感覚と記憶は、認識であるとはいえ、自然からただちに与えられたものであって、推論することによって獲得されたものではないから、哲学ではない。

第2に、経験とは記憶にほかならず、これに対して予見ないし未来への展望とは、私たちが既に経験した物事に類似した物事の期待にはかならないから、予見もまた決して哲学とみなされてはならない、ということである。

さらに私は、推論を計算という意味に解する。しかるに、計算するとは、足し合わされた複数のものの合計を見積もること、もしくは、あるものを他のものから引いた残りを認識することである。それゆえ、推論することは足すことおよび引くことと同じであるが、この2川こ掛け弔ことと割ることを付け加える人がいてもヽ私はそれを退けるつもりはない。なぜなら、掛け算は諸々の等しいものの足し算と同じであり、割り算は諸々の等しいものの引き算-それをすることができる場合の話だがーと同じだからである。それゆえ、あらゆる推論は足し算と引き算という、心の2つの作用に帰着する。
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OCR化した13冊

『経済学論集』

 民主主義社会における企業―だれの利益のため?

『科学による反革命』

 科学主義的アプローチの歴史主義

『活動的生』

 消費者社会
 世界の持続性
 世界疎外の開始
 デカルトの懐疑

『人口蒸発「5000万人国家」日本の衝撃』

 地方の生活インフラの崩壊

  拡大する「無居住地区」
  人口減少の現実
  「生活インフラ」を維持する最小限の人口とは
  生活インフラが消えていく……

 全国の事例を参考としつつ、地域独自の取り組みが必要となるだろう。

  IT活用で活路も
  「単身高齢化」、そして「孤立化」

 地域の人口減少にビジネスで対抗する

『現代社会論』

 家族--なぜ少子高齢社会が問題となるのか

  「少子化」--減りゆく子どもと変わりゆく家族
   社会問題としての「少子化」
   未婚化・晩婚化とその背景
   少子化対策は結婚支援から?
  「婚活」--結婚はお金? それとも愛情?
   日本における結婚の歴史
   結婚の不安定化
  「近代家族」--孤立する家族と子育ての困難
   「近代家族」と家族の愛情
   家族の孤立と「マイホーム主義」
   イクメンの理想と現実
   子育ては誰の責務なのか?
  「家族難民」--家族を超えるセーフティネットは可能か?
   家族からこぼれ落ちる人々
   家族だけで高齢期を支えられるのか?
   「家族からの疎外」と「家族への疎外」
   家族を超える共同生活の試み
  子育てと共同生活の再編へ

 居場所 個人と空間の現代的関係

  “どんな人にも「居場所」”がある東京
   東京には「居場所」がない!?
   「居場所」とは?
  「居場所のなさ」と生きづらさ
  「居場所」化する社会
   職場という[居場所]
   自立支援化する「居場所」/「居場所」化する自立支援
   「居場所」化する社会運動/社会運動化する[居場所]
  地元は「居場所」の終着地点か?
   空間性の差異の縮小と地元志向
   日本中が「居場所」になる
   地元つながりという財産
  「居場所がある」ことと「居場所がない」こと

『20世紀物理学史』

 アインシュタイン相対論

 特殊相対論から一般相対論へ

 鈎十字の陰で

 量子宇宙論

『パラレルキャリアを始めよう!』

 自分のキャリアの時間軸は自分で決める
  60歳を過ぎてもいきいき働ける人
  キャリアの時間軸は自分で決める
  身近なコミュニティヘの参加から始める
 「cafeから始まるおもしろまちづくり」--港南台タウンカフェ

『チャップリンとヒトラー』

 プロローグ 四日違いの光と影
 『独裁者』結びの演説

『傾聴術レッスン』

 傾聴場面にあらわれやすい心理 ホンネを隠す防衛機制
 無意識に追いやる「抑圧」
 つらい現実を回避しようとする 現実から逃げる防衛機制
 現実を否定する防衛機制
 未熟な発達段階に戻る防衛機制
 都合の悪いことは置き換えようとする 言い訳し、正当化する防衛機制
 かわりのもので充足を得る防衛機制
 知識でカハーしようとする防衛機制
 置き換えた欲求で高みを自指す かわりの行動で補おうとする防衛機制
 社会的価値の高い欲求にかえる防衛機制
 他者と自分を重ねて心を安定させる 他者の行動を取り入れる防衛機制
 自分の感情を相手に重ねる防衛機制
 気まずい雰囲気か続くとき表面化されない抵抗もある
 理由を探って関係をつくりなおす
 過去に生じた感情が転移する 以前抱いた感情が向けられる
 マイナスの感情転移は抵抗と感じられる
 転移じた感情にふりまわされる逆転移 転移に気づかす起こる逆転移
 解決していない問題が逆転移を生む
 情報は無意識にゆがめられる 世界に一つの認知フィルター
 柔軟な心で受け止める
 物事をゆがめる認知フィルター
 くらべた対象で評価か変わる対比効果 認知の仕方にはクセかある
 比較価値は本当の価値ではない
 好みか価値を左右する真実をゆがめるハロー効果
 評価を甘くする寛大効果
 ある一面が全体評価に結びつく わすかな経験で認知する過度の一般化
 単純にして理解する過度の単純化
 欠点を際立たせるレッテル貼り 人はレッテルを貼りたがる
 不安な心がレッテルを貼らせる
 強迫観念に駆られるすべき思考 すべき思考はやる気を奪う
 自分のものさしは他者には通用しない
 受容を妨げる劣等感強い劣等感は問題を引き起こす
 劣等感から生まれる引き下げの心理
 過度の甘えは依存を生む社会が甘えを許容する
 甘えは悪いことではない
 互いに依存し合う関係とは
 メサイア・コンプレックヌという落と穴 自分が救われたいから人を助ける
 自己中心的な動機による行いは不安定
 対人援助職へと導く不健全な動機 動機は仕事の質に影響する
 感情を処理するための動機
 不健全な動機に気づき修正する
 仕事として感情を管理する 対人援助職は感情労働
 感情規則に則して感情を管理する
 人としての感情を押し殺す
 感情労働は心を消費する対人援助職に多いバーンアウト
 共感疲労にはサポートか必要
 ストレズを理解しよう ストレスは毒にも薬にもなる
 人間関係はストレスのもとになりやすい
 ストレスとうまくつきあう ふだんの生活の中でストレスを解消する
 職場でストレスを解消する
 専門家に橋渡しをしたほうがいいとき 誰が対応するのかよいかを適切に判断する
 未解決の問題を抱えたまま支援はできない

『ゴーストタウンから死者は出ない』

 被災自治体財政の分析--宮城県南三陸町を事例に

  歳出入の変化
  今後の南三陸町財政に関する予測
  災害公営住宅整備事業が財政に与える影響
  岩手県との比較
  インフラの維持補修の問題
  固定資産税に関する問題

 再生可能エネルギーの意志ある波のゆくえ--エネルギー政策の経路依存と構造転換

  再生可能エネルギー固定価格買取制度による市場環境の変化
  県外資本のメガソーラーが全体の八割
  木質バイオマスの供給問題
  中央と地方の関係が温存された再生可能エネルギー・ブーム
  社会的側面から見た再生可能エネルギー政策の刷新
  原発政策の守旧と再生可能エネルギー政策の危機
  二〇一六年・電力小売り自由化を見すえて

『理系社員のトリセツ』

 理系の悲しい性分
 理系は怖い?
 言っていることがわからない
 専門家による技術予測はなぜ外れるのか
 戦略を保守化させる
 実は理系内部の対立もある
 「にわか理系」と「本物の理系」

『死に方の思想』

 無縁社会とは何か
 無緑死は寂しい死なのか
 無緑死の増加は世界共通
 ヨーロッパのキリスト教離れ
 ますます増える単身者世帯
 孤独死は男のほうが多い
 無緑死は自由だった証
 無緑死は時代の必然
 無緑を求めた人たち
 都会における有縁
 葬式とは何か
 葬儀不要を説いた人たち
 簡素化していく葬儀
 火葬と土葬
 葬儀の形は時代の必然

『ホッブズ 物体論』

 哲学について

  哲学の明瞭な定義
  心中の推論
  特性とは何か
  どのようにして発生の仕方から特性が、また逆に特性から発生の仕方が導出されるか
  哲学の目的
  哲学の効用
  哲学の主題
  哲学の諸部門

 方法について

  方法と知識の定義
  普遍的なものについてよりも特殊的なものについてのほうが、それらが何であるかはよく知られているが、反対に特殊的なものについてよりも普遍的なものについてのほうが、それらがなぜあるか、すなわちそれらの原因が一体何であるかは、よく知られている。
  哲学する人々は何を知ろうと求めているのか
  原理の発見は第1の部分によってなされるが、この部分は純粋に分析的である
  各々の類の中で最も普遍的な原因は、それ自身によって認識される
  発見された諸原理から知識へと端的に向かう方法とは何か
  国家学と自然科学の方法は、感覚から出発して学問の諸原理へと
  眼前のものが物質か偶有性かを問い求める方法
  眼前の偶有性があれやこれやの主体のうちに存在するかどうかを問い求める方法
  眼前の結果の原因を問い求める方法
  単語は発見のためには目印として、証明のためには表現する言葉として役立つ
  証明の方法は総合的である
  第1の普遍的〔全称〕命題は定義のみであること
  定義の本性と定義
  定義の諸特性
  証明の本性
  証明の特性と諸々の証明されるべき物事の順序
  証明の過誤
  幾何学者たちの分析的方法をこの箇所で論じることができないのはどうしてか

 場所と時間について

  存在しない諸事物をその名称によって理解したり計算したりできるということ
  空間とは何か
  時間
  部分
  分割すること
  -なるもの
  数
  合成すること
  全体
  隣接している空間・時間と連続している空間・時間
  始め・終り・途中・有限・無限
  潜在的に無限なものとは何か
  分制可能な最小のものは与えられないこと
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未唯宇宙項目の見直し 7. 生活 7.1~7.2

考える生活

 独りぼっち

  他者は存在しない
   理解されない
   生きてきた
   他者の存在は信じない
   誰も分からない

  一人で生きる
   生活実感がない
   奥さんは分からない
   h取りに甘える
   先は考えない

  ロマンチスト
   北見枝幸を故郷に
   夜汽車で寄り添う
   孤立と孤独の世界
   ロマンで生きる

  未唯への手紙
   μが生まれた
   数学者になって欲しい
   動物病院のナース
   全てを未唯に託す

 好奇心

  考える
   歩きながら考える
   会社で考えた
   考えるのが商売
   テーマを考える

  考え抜く
   思いを継続する
   ギリギリまで考え抜く
   考える力を信じる
   理解者はいない

  扉を開ける
   扉があれば、開ける
   ローカルの原風景
   好奇心のまま
   全ジャンルが対象

  非日常的な毎日
   ロヴァニエミまで行く
   SFPLには天使が住む
   Win2000発表会
   日常的な非日常

 ツール

  アナログ
   文房具
   雑記帳は継続
   日記帳は続かない
   デジタルに進化

  デジタル
   デジカメはQV10Aから
   OCRはMacReaderJapan
   パソコンで記憶力補強
   ハイブリッドに進化

  ハイブリッド
   アナログは手間
   デジタルで保管
   リテラシーが必要
   より身近に

  超アナログ
   視力低下
   考える道具
   寝ながら操作が基本
   ICレコーダーの進化

 与えられた存在

  放り込まれた
   時間を止めたい
   意趣返しをしないと
   大きな意思の力
   永遠回帰

  与えられた時間
   外向けと内向けの時間
   時間は自分で使う
   いい加減な時間感覚
   考えることに集中

  多くを得たい
   本の処理が生活の基本
   処理する感覚
   多読から生まれる世界
   読み飛ばす

  単純にする
   知的な成長
   読書と図書館に集中
   人間関係はなし
   余分なものだらけ

内なる世界

 内なる世界

  私は私の世界
   昼になく、夜になく
   ゼロから考える
   承認は不要
   自分だけの世界

  目的のある生活
   土日は本の処理
   社会を変える
   目的のための生活
   食事・服装は適当

  奥さんの存在
   素直で、繊細な人
   突破できない
   余計なことは考えない
   奇跡の一年もあった

  絶対的存在
   最後の拠り所
   未唯に全てを渡す
   存在の位置づけ
   内なる世界の懸け橋

 外なる世界

  身体は外
   視力低下
   前立腺肥大
   糖尿病が根源
   悪くなる一方

  生活は外
   シンプルに行動
   世界観に基づいた生活
   プロとしての生活
   私のための偶然を生かす

  会社というもの
   仮説・実証の場
   サファイア循環
   理念を通した
   会社は救われる

  社会は対象
   行動の影響を無視
   組織を再構成
   組織を外と見る
   外から圧力

 ミッション

  社会をモデル化
   社会はバラバラに見える
   数学思考を活かす
   数学モデルを創生
   仮説・実証で鍛える

  考えるだけ
   私は行動しない
   対人関係はない
   他者とベースが異なる
   理解できるはずがない

  まとめるだけ
   自分の理念をカタチに
   チームでまとめる
   組織の押し付けに対抗
   コラボが日本を変える

  組織を攻撃
   組織のリソース活用
   成果は関係者に戻す
   存在を武器にする
   社会の根底を変える

 四つの役割

  数学者
   20・30代は数学
   数学的思考
   哲学を含む理念を進化
   社会の位相化

  社会学者
   40・50代は社会学
   社会へのクレーマー
   新しい行政を具現化
   社会変革をイメージ

  歴史学者
   60・70代は歴史学
   過去から未来を語る
   歴史哲学を変える
   歴史の変節点

  未来学者
   役割を統合させる
   未来の答を出す
   未唯空間から預言
   全てを残しておく
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