未唯への手紙

未唯への手紙

ノート術で大切な3つの心構え

2015年07月19日 | 7.生活
『マッキンゼーのエリートはノートに何を書いているのか』より プロフェッショナル・ノートの流儀

自分の頭の中にある知識や思考を誰かのために使う=問題解決をする目的で、ノートを使ってアウトプットをすることが、マッキンゼー流のノート術だということは理解していただけたと思います。

そのときに何を心がけてノートを使っていけばいいのでしょうか。

ノート術で大事なのは、次の3つの心構えです。

1 仮説を考えながらノートを取る

 すべては仮説から始まる、というのが問題解決の大前提です。仮説とは、問題解決をするときの「問題」に対する「仮の答え」です。

 ただし、仮の答えといっても、思いつきのようなフワッとしたものでは意味がありません。マッキンゼーでいう「仮説=‥仮の答え」とは「こうすれば、このような理由で、こうなるだろう」という論理的な見通しの立つものです。

 なぜ、そのような「仮説」を立てることが大前提になるのでしょうか。

 たとえば、自社の売り上げ不振の問題を解決したいときに、何の仮説も立てずに情報収集や分析をすると、どこまで何を調べれば「真の問題」を見つけることができ、その問題解決の鍵となる「イシュー(もっとも重要な課題)」につながるのか、なかなか見えてきません。

 情報は調べようと思えば、どこまでも調べられるし、問題もあげていこうと思えばいくつでもあげることができてしまいます。

 そうなってしまうと、時間の無駄ですし、なかなか問題解決ができないことでモチベーションが下がったり、やっと解決の糸口が見つかったと思っても、解決策(打ち手)のクオリティが低くなってしまいます。

 そこで必要になるのが「仮説」です。何か「真の問題」なのかを発見するときも、問題解決の鍵となる「イシュー(もっとも重要な課題)」を探すときも、どちらも「仮説」を立てることから入っていくのです。

 たとえば、あなたが「毎日、1時間ウォーキングをしよう」と決めたのに、続けられないという問題を抱えていたとしましょう。

 ウォーキングそのものは「健康のため」「体形を維持するため」によいことなので、自分でも続けたいと思っています。なのに続けられないのは、どこに「問題」があるのでしょうか。それを探るのが「問題発見のための仮説」です。

 問題発見のための仮説

  ・ウォーキングのコースに問題がある

  ・ウォーキングの歩き方に問題がある

  ・ウォーキングをする時間帯に問題がある

 他にもいくつかあるかもしれませんが、仮説を立てるときには、これまでのリサーチや集めた情報から可能性の高そうな仮説に絞って考えます。そのうえで、検証を行ってみて、もっとも有力な仮説の「当たり」をつけるのです。

 この場合なら、ウォーキングのコースは気に入っているし、歩き方はとくに体に負担もなさそうなので、「ウォーキングをする時間帯に問題がある」という仮説がいちばん有力だったとします。

 ここでは、あなたが思いつく「ウォーキングを続けられない要因」の中から、そもそもどこに真の問題があるのかという「問題の在りか(Where)」を特定することがポイントになります。

 ウォーキングの時間を検証すると、夜に帰宅後1時間という設定をしていたのですが、仕事の都合で、どうしても帰りが遅くなったときは疲れているので、ついウォーキングをサボってしまったり、実行してもなんとなく気分が乗らないことが多かったのです。

 そうすると、「ウォーキングをする時間帯に問題がある」という問題に対して、何をすれば「問題解決」につながるのかを考えることができます。つまり、より課題解決策につながる本質的な仮説に進むわけです。

 この場合なら「ウォーキングをする時間帯を見直すこと」がウォーキング継続の鍵となるイシュー(もっとも重要な課題)を探すための仮説です。

 「夜は疲れているので、朝の出勤前のウォーキングにすれば必ず時開か確保できるのでは?」「電車に乗らずに通勤そのものをウォーキングにしてしまうといいのでは?」といった、問題の本質から外れない仮説を立てることができれば、問題解決に大きく弾みがつきます。

 このように「問題解決のためのノート術」では、常に仮説を意識することが重要な要素だと覚えておきましょう。

2 アウトプット志向

 問題解決のためにノートに何かを書いていくという行為は、ノートに書くことがゴールではありません。

 何らかのエンドプロダクト(最終成果物)をつくるというゴールに向けて、アウトプットを意識して行うのが「問題解決のためのノート術」です。

 マッキンゼーでは常に、最終的にクライアントに何を提案するのか、つまりエンドプロダクトというアウトプットを意識して仕事をすることを徹底させられてきました。だからこそ、ノートの使い方もアウトプット志向になるのです。

 アウトプットというのは、自分以外の第三者(上司や協カメンバー、あるいはクライアントなど)に対して、プレゼンテーションや問いかけ、報告などを行うこと。つまり、自分のために行うインプットとは逆のベクトルを持つ行為です。

 一般的なノート術では、ノートを取る行為は自分の記録や情報整理のために行うことが多いと思います。それらも大切なのですが、マッキンゼー流のノート術では、ノートを取る行為の先にある「第三者へのアウトプット」という目的を常に意識してほしいのです。

3 ストーリーラインで考える

 マッキンゼー流のノート術の特徴は、すでに起こった過去の記録ではなく、問題を解決すること、つまり、未来をよくするための「プロアクティブ」なノートというところにもあります。

 それは、常にさまざまな要素がノート上で活性化している「生きたノート」だということです。生きたノートというのは、言い換えると時開か止まったノートではなく、常にライブで現在進行形のノートだということ。

 こんな問題を解決したい、こんなことが実現できればいいな、という「未来」のことに対して「これをこうすればできるのでは?」という可能性がノートの中で生まれてくるのが「生きたノート」です。

 「生きたノート」をさらに言い換えると「ストーリーライン」で思考できているノートです。

 限られた時間の中で問題解決に向けて突き進むために、ノートの中でも問題解決の基本プロセスに沿った「ストーリーライン」で考えることはとても重要です。

 ストーリーラインで考えるというのは、二鄙分だけを見て物事を考えるのではなく、全体像をつかんだうえで、物事が置かれている状況を見て、それからその物事がどう変化していくのか、その「流れ」を考えること。

 問題解決の基本プロセスである《問題設定とイシューを決める⇒課題を整理して構造化する⇒現場の情報をリサーチする⇒解決策(打ち手)の仮説を立てる⇒仮説を検証する⇒解決策を決める⇒解決策を実行する》というストーリ圭ツインに沿って、ノートを使い分けながらゴールに向かっていきます。

 つまり、ノートそのものが問題解決のストーリーが描かれた脚本になっていることが大切なのです。

分人民主主義(Divicracy democracy)

2015年07月19日 | 5.その他

『開かれた国家』より 分人民主主義(Divicracy democracy)

新しい投票システムを通して実現する未来の民主主義の姿について考えていきたい。

近代民主主義は、国民としてのメンバー・シップを厳格にする代わりに、参政権を与えて個人としての自律的判断と愛国心を要請する。個人と国家の相互依存関係は大きな成功をもたらしたが、他のつながりの可能性を縮減させてきた。そのひずみを解消するために、分人民主主義(分人とは個人ょり細かい認知単位)という新しい民主主義像を描こうというのが、本節の目的である。

本節では、伝播委任投票システムという動的でネットワーク型の新しい投票システムを提案する。これにより、組織の境界や所有の概念がなめらかな民主主義の仕組みを検討していく。

個人(individual)という幻想

 近代民主主義は、一貫した思想と人格をもった個人(i乱ividual)が独立して存在している状態を、事実論としても規範論としても理想として想定している。個人に矛盾を認めず、過度に人格の一貫性を求める社会制度は、人間が認知的な生命体としてもつ多様性を失わせ、矛盾をますます増幅させてしまう。そして、一貫性の強要は、合理化、言い訳を増大させ、投票結果を歪めることになる。

 そうした近代的な個人(individual)に代わって、分人(dividual)という概念を提示してみよう。〝dividual〟は、ジル・ドゥルーズ(哲学)が「管理社会について」という短い論考の中で使った概念である。彼は、現代社会は規律社会から管理社会へ移行しているというミッシェル・フーコー(哲学)の分析に着目した。権力のあり方が、学校、監獄、病院、工場といった閉鎖された空間における規律訓練から、生涯教育、在宅電子監視、デイケアといった時空間に開かれた管理へと変容していくという。

 こうした、日常生活の中で流動的に異なるシステムにアクセスするようになると、もはや個人/大衆(indiviual/mass)ではなく、分人(diviual)というべき存在が生まれてくる。ドゥルーズはこのように分人(diviual)を導入する。

 そもそも〝indiviual〟は、否定の接頭語〝in〟と「分割できる」という意味の〝diviuus〟が合体し、「これ以上分割できない」すなわち個人という意味になった。しかし、神経科学の知見にあるように、人間は本来は分割可能であり、しかもかりそめにも個人として統合してきた規律社会のタガが、もはや外れようとしている。

 近代民主主義が前提としている個人(indiviual)という仮構が解き放たれ、今や分人(diviual)の時代が始まろうとしている。人間の矛盾を許容してしまおう。そして、分人によって構成される新しい民主主義、分人民主主義(Divicracy=dividual democracy)を提唱することにしよう。

伝播委任投票システム

 この節では、分人民主主義〝Divicracy〟を実現するための新しいネットワーク型投票システムを提案する。従来の間接民主制は委任の関係が多層的ではあるが、ダイナミックさに欠け固定化しやすい。そこで、よりダイナミックでネットワーク型の投票システムを考えてみたい。

 多層間接民主制では委任構造が一方通行だが、ネットワーク型民主制では委任がループすることもありうる。委任票は、ネットワークの上を次々と伝播していく(図1。そこでこの投票システムを、伝播委任投票システム(Propagational Proxy Voting System)と呼ぶことにしよう。

 このシステムでは、自分のもつI票を好きなように分割して投票できるようにする。もちろん矛盾した意見にO・6票とO・4票と分けて投票してもかまわない。悩んだら悩んだ度合いで投票すればいい。そのテーマに詳しい人は直接政策に投票すればいいし、そうでない人は詳しそうな人に委任すればいい。人に委任する気楽さが投票率をあげる要因になる。

 委任された票はさらに別の人へと伝播していく。たとえばAさんがBさんにO・6を投票して、BさんがCさんにO・2を投票したとすると、AさんからCさんにO・12を投票していることになる。

 委任関係はいつでもリアルタイムに変更できるので、関係性がよりダイナミックになる。委任関係が固定化されないように、投票は時間が経つと減衰していく。

 このような委任ネットワークが、議題ごとに構成される。委任関係がダイナミックなため、いつでも誰でも少しずつ代議士になることができる。たとえば、ある議題についてブログなどでいい意見を書いておくと、その人にその議題に関して委任してくれる人がたくさん現れるかもしれない。その人は数万票の委任を得て、自分の1票とあわせて投票することになるため、ある種の代議士とみなしてもよい。委任した人たちを裏切るような行動をとれば、たちまち委任票の量は減ることだろう。代議士になるのに一定以上の票が必要なわけではない。たとえ委任票が2票と少なかったとしても立派な代議士である。いわば、専任の職業政治家ではなく、何百万人もの兼業の素人政治家が現れると考えてもよい。

 伝播委任投票システムは中間団体を仮想化、透明化する。中間層としての代議士は、単に投票システム上で何票か委任を受けているかだけの存在であり、その値はダイナミックに変動する。こうして政党や代議士、利益団体の存在が仮想化されることになる。

 伝播委任投票システムの実装例をみることによって、具体的なイメージがより捉えやすくなるかもしれない。

 ある議題の投票で、A案、B案、C案という3つの案があるとする。画面では右側のバーがそれにあたる。人々は、この3つの案に直接投票するだけでなく、他の人に投票することができる。その人が誰に何パーセント投票しているかは、画面の下側に表示されている。その人の票が伝播委任の結果として最終的に、A案、B案、C案のどれに投票をしていることになるかは、画面の左やや下に表示されている。この場合はA案26パーセント、B案22パーセント、C案41パーセントである。この数字は、委任のソーシャルネットワークがもつ集合知を使ったその人の暗黙知的な判断を明示化したものともいえる。また、その人が受けた委任票の合計が23票であることが画面左やや上に表示されている。この23票が誰から受けたものかは、画面の上側に表示されている。

 この委任関係はリアルタイムにいつでも変更することができる。誰かが投票を切り替えると、リアルタイムに右側のバーの最終投票結果の数字も変化する。では、どのように最終結果を計算したらいいのであろうか。ひとりひとりは最初1票ずつもっている。人から人への委任投票のネットワークに沿って、その票が移動していく。I回の移動だけでは決まらないが、この移動操作を何度も繰り返すと、最終的にその票は3つの提案に分かれて落ちていくことになる。この値が投票結果になる。

複雑な世界を複雑なまま生きること

2015年07月19日 | 2.数学
『開かれた国家』より なめらかな社会

この複雑な世界を複雑なまま生きることは、いかにして可能か。本稿はこの問題を対象としている。

この世界に境界が引かれていることへのナイーブな違和感、少年時代のそうした原体験の多くを、人々は忘れてしまう。世界をあるがまま観ることはもはや許されず、他の人がそうであるように世界を単純化してみるようになっていく。

境界を引いて世界を2つに分割するのは物理的な壁だけではない。人間の心の中にも壁は築かれるし、さらにいえば、生命の本質は線を引いて世界を分けることでさえある。あらゆる生命は細胞から成り立っているが、細胞膜とは、細胞の内側と外側を分けてリソースを囲い込むためのものである。人間を含めた生命にとって、「膜」をつくること、境界を引くことは、生きることそのものと等しいある種の業なのである。

細胞の中には核があり、核にはDNAという生命の設計情報と科学者が呼ぶものが入っている。DNAという小自由度の情報が、タンパク質の生成を通して個体全体という大自由度を制御している。すなわち、「核」によって他者や社会を制御しようというシステムもまた、人間が生命であるということから由来する業から始まっている。

人間は動物である。動物は生命である。生命は細胞から成る。この単純な事実から導かれる存在することの業に、私はどう向き合うべきなのだろうか。生きることは食べることであり、資源を囲い込むことである。哺乳類にとって、社会的に生きることとは、幼少時にただそこに存在するだけで一方的に守られるという体験から始まり、愛されることを拒否することはできない。心に壁を築き、世界を単純化して観ることは、あまりにも生物学的な起源をもつ。

それでは、他者を他者として受け入れたまま生きていくこと、すなわち他者の他者性と多様性を認めて生きることはできないのであろうか。ヒントもまた生物学的起源に隠されている。「膜」と「核」は私たちの認知が作りだす仮構的な存在であり、その背景には複雑な化学反応のネットワーク、すなわち「網」が広がっている。「網」に着目し、「膜」と「核」はそこから生まれる現象にすぎないと気づけば、この世界の観え方は、以前とはまったく違ったものとして立ち上がってくる。

境界をまたいでリソースや情報が行き来をするようになれば、事態は多少はよくなるかもしれない。だが、そもそも境界自体を消し去り、なめらかな社会をつくることはできないのだろうか。それは、今までの社会がもっていた、世界を単純に観ることによって成立してきた秩序を破壊することに他ならない。複雑な世界を複雑なまま生きることを可能にする新しい秩序、それがなめらかな社会である。

世界を単純なものとして認識することは、人間のもつ認知的な限界に由来している。したがって、なんらかの技術的な方法によってその限界を突破することができれば、その突破した具合に応じて世界を複雑なまま生きることができるはずである。コンピュータやインターネットの登場は、桁違いに破壊的な突破を現代社会にもたらしつつある。それは、検索やショッピングが便利になるといった利便性だけではない。経済や政治や軍事など社会のコアシステムに本質的な変容を迫る、近代のメジャーバージョンアップなのである。

本稿が挑戦するのは、膜と核という2つの社会現象がインターネットによって打ち破られるのか、もし可能だとしていったいどのような方法で可能なのかという問題である。インターネットがもつオープンな特性は、資源の囲い込みを嫌い、あらゆるものをシェアしていこうとする。だが現実社会はまだまだ資源の囲い込みに満ちあふれている。これを「膜」の現象と呼ぼう。また、インター不ットの自律分散性は、中央集権的な制御を排除する。だが現実社会では、中央集権的な組織に満ちあふれている。これを「核」の現象と呼ぼう。この膜と核の2つが、水の流れのようによどみがない権力や貨幣を実体化させ、静的でどうしようもなく横暴なものへと変質させてしまう。だが、こうした膜と核を生み出すのは背景にある複雑な反応ネットワークである。この複雑な反応ネットワークを「網」と呼ぼう。網こそがこの世界の本性であって、膜や核は仮の姿としてあるいは一時的な現象として生まれてくる。膜は網の中の一部分が切り取られた自己維持システムであり、核は網の中から全体に影響を与える小さな部分が生まれることによって生じる。だが、いったん膜や核が生まれた後に、その本性が網であることを知覚することは難しい。膜は資源をある空間に溜め込み、核はある空間内部の資源を制御することを可能にする。本稿が試みようとしているのは、この膜をなめらかにし、溜め込む機能を弱くすることである。世界があくまでも代謝ネットワーク(網)であることを思い出し、越境する力強い流れを生み出すことである。 ソーシャルネットワークという概念は、この問題にヒントを与えてくれるかもしれない。ちょうど、膜が生み出される背景に膜を超えた化学物質の反応ネットワーク(網)があるのと同様に、社会組織の背景にはソーシャルネットワークがあるからである。ソーシャルネットワークサービスは、世界全体のソーシャルグラフをデータベース上に再現しようとしている。その中で情報は、組織や国の境界を意識することなくなめらかに伝播していく。このなめらかなメッセージングの仕組みは、既存のマスメディアの情報発信と大きく異なっている。マスメディアは、情報が伝達される対象が国や言語、デバイスなどに応じた特定の視聴者に限定されている(膜の性質)。ごく少数の発信者と多数の受け手とに分かれる非対称性もあり、発信者側にまわれるのはごく一部の人だけである(核の性質)。

これがソーシャルグラフ上のなめらかなメッセージングでは、誰もが情報発信ができて誰もが受信者になることができる。どの情報が直接の知人だけで留まりどの情報が世界中に波及するかは、実際に発信されてみるまでわからない。つまり、ソーシャルネットワーク上のコミュニケーションは、通常のコミュニケーションとマスコミュニケーションがなめらかにつながっているのである。完全にフラットで対等なコミュニケーションと、マスコミュニケーションを二律背反に捉える思考様式は、ここにきて古めかしく見えてくる。

そのため、ソーシャルネットワークサービス以降の時代において、情報は基本的に管理できない。組織を前提として社会を理解するよりも、ソーシャルネットワークを前提として理解したほうが、社会に起きている現象が説明しやすくなっているのである。

境界なき政治は可能か

2015年07月19日 | 3.社会
『開かれた国家』より 開かれた国家・境界なき世界の実現

情報技術革命の本質は「境界を壊していく」ことにあります。企業、国家、家族、あらゆるレベルにおいて、組織の内外が直接につながり、従来の境界が無効になっていく。それがいま起きていることです。そして、境界が消えていくそのような世界において、国家はどうなるのか。それがこの巻のテーマです。

国家について考えるということは、政治について考えるということです。ここでドイツの法学者で政治学者のカール・シュミットと、政治哲学者ハンナ・アーレントを例に出しましょう。カール・シュミットは思想的には保守・右翼だと思われており、ハンナ・アーレントはリペラル・左翼だと思われています。しかしこの両極にいる2人の共通した考えが、「政治は境界を作る」、より正確に言えば「境界がなければ政治は生まれない」ということです。

カール・シュミットはその著書『政治的なものの概念』のなかで、「政治は友と敵を分割することである」と語っています。これは1930年代のヒトラー政権における理論的支柱にもなった考えで、戦後社会ではたいへん評判が悪い。友と敵を分割し、敵の存在論的な殲滅をするのが政治であるというこの考えは、ナチスによるユダヤ人虐殺の容認の発想につながっていきました。ですから、取り扱いには注意が必要です。けれども、彼の議論は今もさまざまな示唆を与えてくれます。

そもそも、シュミットはなぜ「政治は友と敵の分割」といった極端な主張をしたのでしょうか。じつは彼は「グローバル化」に対立していました。むろん当時はそんな言葉はありませんでしたが、自由経済の進展によってモノの流通が加速し、最終的には国境なんて消えてしまうのではないかという議論は、20世紀のはじめにもたくさんあったのですね。そもそも、国際連盟の思想が登場したのが1910年代です。それに対して、シュミットは、いくら経済でつながったとしても政治的な境界は決してなくならないのだ、なぜならば人間は共同体を作り「友」と「敵」を分割する生き物だからだ、人間が人間であるかぎり国家は消えないのだと論陣を張った。これは、今の反グローバリズムのひとつの雛形を形作っています。

他方でアーレントは、著書『人間の条件』のなかで、政治の理想を古代ギリシアのポリスに求めました。古代ギリシアでは、経済と政治が厳密に切り離されて考えられていました。経済はあくまでもオイコス=家の問題、つまり非政治的な問題であり、ポリスの問題、すなわち共同体の統治を扱う政治(ポリティクス)とは異なるものだと考えられていたのです。共同体というのは、当然「内」と「外」の分割を前提とします。そしてアーレントは、そんな思想が現代に甦るべきだと主張しました。アーレントが理想とする政治家像は、経済とか労働とかいったモノの問題をすべて横に置いて、「わたしたちの生き方」についてアゴラで討論する人々です。この観点からすると、アベノミクスばかりが話題になる日本の政局は、そもそも本質的に「政治」の名に値しないということになるのかもしれません。

これはあながち冗談ではありません。『人間の条件』の出版は1958年。ユダヤ人のアーレントは、亡命先のアメリカで英語でこの本を出版します。彼女がこのような本を書いた背景には、社会の大衆化が進み、哲学が語られなくなり、経済ばかりが肥大した戦後世界に対する強い危機感がありました。アーレントの考えでは、政治というのは、決して経済政策に還元できるものではなかった。それは生き方を問うものだった。つまりは哲学だった。シュミットと同じく、ここでもまた、自由経済に対する危機感が政治思想を形作っています。

シュミットはナチ。アーレントはユダヤ人。政治的、イデオロギー的な立場はまったく異なる2人ですが、ヒトとモノをどんどん流通させ、共同体の境界を壊しつなげていく経済の力から政治の領域をどう「守る」か、そのように議論を組み立てている点は共通しています。そして、今のぼくたちも、基本的にはまったく同じ枠組みのなかでものを考えています。

経済はすべてをつなぎます。政治は境界を作ります。そして情報技術はつながりを加速します。だとすれば、すべてがつながる世界で、政治とは、統治するとは、今後どのような行為になっていくのでしょうか。言い換えれば、ヒト、モノ、情報が境界なくつながっていく世界において、境界は必要なのでしょうか。人間は境界がなくても生きていけるのでしょうか。

情報時代の国家を主題としたこの巻の議論は、最終的にはそんな哲学的で抽象的な問いかけにつながっています。