goo

未唯宇宙項目の見直し 4.歴史 4.6~4.7

歴史哲学

 ヘーゲル

  国民国家以前
   アテナイの都市国家
   中国の農業国家
   宗教が支配する国
   フランス革命

  全体主義
   民主主義の一形態
   国民は熱狂的に支持
   大衆の国民化
   国は拡張するしかない

  専制主義
   軍事力で地域を支配
   cエネルギーを独占
   新しい政治形態
   地域で市民がつながる

  国民国家
   自由主義の出現
   民主主義で自由の破壊
   自由と平等のトレード
   グローバル化と多様化

 国家の自律

  観光立国
   トルコは観光立国
   地域主体を支援
   外貨獲得の手段
   平和が前提

  グーグルは支援
   マーケティングが変わる
   循環が生み出す利益
   リーダーシップの変質
   市民に利益を戻す

  新しい価値観
   市民がプライドを持つ
   新しい公共
   地域主体で考える
   平和に対する責任

  コミュニティ再生
   地域が自律
   Local meets Globa
   新しい都市国家
   北欧の新経済主義

 分化の始まり

  市民の覚醒
   歴史哲学の続き
   格差の認識
   グローバル危機
   存在の力で変わる

  新しい自由
   新自由主義
   歴史哲学に存在を求める
   イスラムの世界観
   ローカル世界を守る

  歴史を学習
   歴史のライブラリ
   無限次元空間を提供
   歴史の認識
   思考実験で未来思考

  コラボで行動
   コンパクトな生活
   コラボで一体感
   個人、組織、社会の関係
   歴史認識で行動

 ゆるやかな統合

  バーチャルで接続
   モノ作りからソフト化
   市民がつながる
   バーチャルコミュニティ
   生活者意識で進化

  グローバル企業の役割
   国を超える意味
   インフラ活用の見返り
   生活者マーケティング
   ローカル支援の役割

  同一価値観の国家統合
   大戦で独仏が疲弊
   異なる価値観のEU
   地方主体の超国家
   国家の存在理由

  国家の姿
   ギリシャが最先端
   事務局としての国家
   日本の姿を世界に示す
   平和を成す帖・民主主義

変えるシナリオ

 市民を変える

  多くのことを為す
   生きる目的を明確に
   自分の範囲を決める
   自由意思で行動
   範囲を超える

  間に位置するもの
   自律したコミュニティの
   ライブラリでまとめる
   行政とタイアップ
   企業に入り込む

  コミュニティの結合
   市民の状況把握
   市民の活動の場
   地域をカバーリング
   コミュニティ間の配置

  地域を変える
   特色あるコミュニティ
   市民の立体的な関係
   コラボで優先順位
   行政での意思決定

 企業を変える

  組織が分化
   コミュニティが入り込む
   教育・家庭との循環
   一緒に使うこと
   NPOのグリーン雇用

  経済の仕組み
   インタープリテーション
   持続可能性
   新しい成功体験
   企業は全体効率

  儲かる仕組み
   モノつくりと接続
   企業に方向付け
   リアライゼーション
   多様性を活かす

  地域インフラ
   社会ライブラリ
   ファシリテーション
   スマートに近傍化
   環境インフラつくり

 国を変える

  国家形態の進化
   国をつくる気概
   さまざまな民主政治
   インフラ再構成
   自由と平等でつながる

  フィンランドの場合
   ギリシャに独立心を要求
   グローバルに対抗
   シスの精神と学習意欲
   EU全体をターゲット

  ギリシャの場合
   甘えで思考停止
   EUから出て行け!
   価値観と生活スタイル
   西欧におけるギリシャ

  トルコの場合
   イスラムの民主的国家
   地域コミュニティ
   欧州・イスラムの接点
   地中海諸国の新たな核

 国家連合

  EUは再構成
   ユーロ崩壊
   北欧の新経済主義
   北欧、独仏、南欧に分割
   英連邦は柔らかい連合

  中近東は地中海連合
   地中海国家の価値観
   イスラムの国境線
   地中海は観光資源
   エネルギー・資源開発

  アジアの世界戦略
   新しい産業形態
   中国とインドの二軸
   環日本海連合
   太平洋連合は分解

  アメリカは大陸連合
   米国の国際戦略の破綻
   キューバの自活発想
   ブラジルエネルギー戦略
   カナダの北極海連合
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

環境政治--国際主義の黄昏

『国際協調の先駆者たち』より

ロナルド・レーガンのメッセージの本質は、彼の死亡記事の担当者がかならず触れたように、楽観主義だった。批判者はその楽観主義を見当ちがいと見なし、アメリカはまわりの世界を拒否して内にこもっていると考えた。カーネギー財団会長のトマス・ヒューズは「国際主義の黄昏」について語った。七五年前に平和主義の億万長者アンドリュー・カーネギーに財団を設立させた、世界を変えようというアメリカのエネルギーはどうなったのだと問いかけながら、ヒューズは、レーガンが国際司法裁判所の裁定を無視し、国連を攻撃し、条約を非難し、国際法を踏みにじっていると責め立てた。レーガンは「空威張りをしている」、アメリカの「楽観主義」の力を再軍備と無法な国外干渉、ふくれ上がる財政赤字、ドルの過大評価に振り向けていると難じた。むろんレーガンの支持者の見解は異なり、それは民主主義促進と軍拡競争の分野にとどまらなかった。彼らはアメリカが世界のリーダーシップの地位からおりるのではなく、そこに返り咲いたと見なした。ただ、レーガンの考える世界のリーダーシップに国連の入る余地はほとんどなく、グローバルな問題でそれが不利に働くことも多かった。その端的な例が環境問題だ。

ほんの一〇年前、アメリカは国連で国際環境政策の先頭に立ち、地球のまったく新しい問題について国連を優秀なリーダーに変えようとしていた。植民地独立後の南の諸国が、工業化、解放、繁栄の加速を望んだのに対し、西側の世論は成長信仰に疑問を呈し、技術的、工業的な進歩が環境を犠牲にしすぎていないだろうかと問いかけた。「科学とテクノロジーヘの信仰が、その結果に対する恐怖に置き換わった」とタイム誌は書いた。SF小説が時代精神を描き出した。フィリップ・K・ディックが一九六八年に発表した『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、数十年前に誰も憶えていない理由から最終戦争が勃発し、サンフランシスコは汚染された瓦疎に覆われ、地球上で文明生活が送れなくなった未来を想定した。その世界では、自然環境は破壊され、国連は生存者を太陽系の別の場所に移住させ、この惑星と人類の長いつき合いは終わっている。翌年、ニューヨーク・タイムズ紙が、ヴェトナム戦争に対する学生の怒りは、「環境危機」に対するさらに大きな運動で影が薄くなったと報じた。そして一九七〇年に初めて「地球の日」が宣言され、何百万ものアメリカ人(ニューヨークのセントラルパークだけで一〇〇万人が集まったとされる)が環境問題の討論会に参加した。単独のデモとしては、おそらくアメリカ史上最大である。

環境に対する懸念は、地球の人口過剰という昔ながらの心配と結びついており、それは新マルサス主義的な恐怖から新しい人口抑制の国際計画が広まって、頂点に達した。人口増加を抑えることは繁栄の前提条件であるという考えを人口統計学者が普及させ、社会は出生率が低くなって初めて現代化されるという意識が浸透した。世銀総裁のロバート・マクナマラは、人口の急増は「経済的、社会的発展にとって唯一最大の障害」とあけすけに言い、一九六六年の国連人口宣言もほとんど同趣旨だった。一九六八年、ベストセラーになった生物学者ポール・エーリックの著書『人口爆発』は、一九七〇年代には何億という人が餓死することになると警告した。国連事務総長ウ・タントも一九六九年に総会で、加盟国はあと数年のうちに「大昔からの口論を切り上げて、軍拡競争をやめ、人間環境を改善し、人口爆発を抑え、開発に必要な勢いを与えなければならない」と言った。シンクタンクのローマ・クラブが一九七二年に上梓した不吉な『成長の限界』は、コンピュータによる初歩的な世界モデルを使って、人口、資源の枯渇、汚染、工業生産、食糧の関連を描き出し、二九カ国で九〇〇万部を売り上げた。コンピュータにデータを入力すると、急激な人口増加、穀物生産量の縮小、段階的に進行する環境破壊といったものが出力された。読者が受け取るメッセージは、地球がほかならぬ人間の手で破滅的な時限爆弾になったということだった。

国際レベルの政策対応は、アメリカ、とりわけニクソン大統領が主導した。問題自体にはあまり興味を持っていなかったが、ニクソンは政治的効果がありそうなことに敏感だった。国内に環境保護庁を作り、資金を投入して、数年のうちに連邦政府内で最大の民間機関にした。それで保守派の票と、企業国家アメリカの支持を失うおそれがあることがわかると、「環境問題の流行からおりる」ことにした。だが、国際的には別の配慮があって、活動が長く続いた。失う国内の票はないし、逆にアメリカがこの件をリードして得られるもののほうが多いと踏んだのだ。より現実的には、アメリカの製造業が大統領に世界的な規制を要求していた。国内の規制が厳しかったので、ほかの国が合わせてくれないと自分たちが不利になるからだ。ニクソンは、これで票は動かないという助言を抑えこんで、環境問題の政策立案責任者のラッセル・トレインに、国際的な議論でアメリカが「リーダーシップの役割」を担うよう指示した。ニクソンもトレインも、それが地味ながら米ソ関係の改善につながる方法であることは認識していたが、多国間の議論がより重要だった。そういうときにこそ、国連のような機関が役立喘。

すでにアースデイのまえに、国連総会は環境問題に関する大きな会議の開催を決定していた。スウェーデンの発議だったが、それまで成長と開発に力を入れてきた国連にとっては、新しい分野だった。戦後いくつかの保護手段が国際法に取り入れられていたものの、ほとんどは一九四六年の捕鯨取締条約のように実効性がなかった。一九七二年のストックホルム会議も同じ状況に陥りそうだったところ、ウ・タントがカナダの実業家モーリス・ストロングを指名して、運営をまかせた。とはいえ、会議の準備段階で、かならずしも全員が差し迫った危機感を抱いていないことが明らかになった。一九七一年にブラジルのある外交官が述べたように--環境破壊は、いまも一部の先進国が理解しているように、開発途上世界では小さな局所的問題である……わずかでも環境汚染を望んでいる国など存在しないけれど、どの国もそれぞれの開発計画にしたがって発展し、みずから適切と考える資源を活用し、独自の環境基準を設けることができなければならない。個々の国や諸国グループにそのような優先順位と基準を課すことは、二国間であれ多国間であれ、非常に受け入れがたい。コートジボワール代表はもっと単純に言った--工業化が進むなら汚染が増えてもかまわない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

中野美代子 「他者」性ゼロの日本海

『日本海ものがたり』より 日本海とはなにか

「他者」性ゼロの日本海

 さきに挙げた「ユーラシア大陸の内海概念図」において、黒海と地中海の関係は、オホーツク海と日本海の関係に似ていると述べた。ただし、それは、大戦末期のヤルタ会談においてソ連参戦をにおわせ、クリル列島すべての領有をもくろんだスターリンのあたまのなかのことである。この二組の内海ペアが、地形的な概念図としては似ていても、そもそも相対的にくらべられるはずはなかったのである。

 なぜなら、オホーツク海・日本海ペアは、つい十八世紀末まで、その輪廓すら正しく描かれていなかったのだから。いわば、「他者」性はほとんどゼロの内海ペアだったのだから。遠い古代から戦争だの交流だのに明け暮れていた黒海・地中海ペアとはまるきり異なるのは、いわばあたりまえのことだった。

天気予報の日本海

 現在は、どうだろうか。日本人は、一日にすくなくとも一回や二回、「日本海」ということばを耳にする。そう、天気予報で--。シベリアからの寒気団が日本海の、とくに対馬暖流の蒸気を吸いあげ、日本列島の脊梁山脈にぶっかって大量の雪を降らせ、反対に太平洋側はカラカラの快晴という、毎度おなじみの気象パターンである。

 この細長い列島は、そこで必然的に「表日本」と「裏日本」に分かれる。「おもて」には、たまに「他者」の訪いもあり、「うらぐち」には、ご用聞か小間使の出入りしかなかった。

 「裏日本」の自然や暮らしなどをくわしく活写した幕末の『北越雪譜』は、そんな「裏日本」のなかにも、さらに陽と陰の別があるという。

  越後の地勢は、西北は大海に対して陽気也。東南は高山連りて陰気也。ゆゑに西北の郡村は雪浅く、東南の諸邑は雪深し。是田阻の前後したるに似たり。我住魚沼郡は東南の田地にして(以下略)

 「陰陽の前後したるに似たり」とは、古代中国の神話における大地の陰陽のならびかたと正反対みたいだ、ということ。それはともかくとして、西北にひろがる「大海」すなわち日本海のかなたには目を向けず、せまいせまい北越の地のなかでの陰と陽の別だけを論じている。しかし、現在の日本人も、この『北越雪譜』の著者鈴木牧之と、ほとんどかわってはいないのではなかろうか。

 天気予報で頻出する「日本海」も、その結果としての雪の降りかただけが問題となる。

稀にやってきた怖るべき「他者」

 すでに見たように、古代には沃氾国あたりの漁民が遭難し、対馬暖流に乗って漂着したこともあったらしい。秋田につたわるなまはげの奇習も、そうした異人漂着のなごりかともいわれているが、たしかなことはわからない。しかし、日本海から、ほんとうに稀なことだが、そのような「他者」としての異人がやってくることはあった。

 八世紀から十世紀にかけて、中国では唐の時代だが、かつての沃氾国のあたりに励海国がさかえていた。日本との交易を求め、おそらくは主として敦賀港にやってきて、日本からも唐への留学僧を潮海経由で送ったこともあったが、日本はそれを八一一年に打ち切った。しかしその後も、潮海からの貿易船は、百年間ほどつづいていた。ここでも、せっかくの大陸への日本海ルートを、日本の側から断ち切っているのが注目される。

 それからしばらくは、日本海はまた静かになった。それだけに、ヨーロッパから見ると地図上の謎の海となり、十八世紀末にラペルーズが、十九世紀はじめにクルーゼンシュテルンが航行し、ようやく地図上に正しく描かれるようになった。

 そしていよいよ二十世紀になったとたん、ロシアが日本海全体に目をつけた。あのバルチック艦隊の使命は、日本海全体の領有だったのである。しかしさいわい、バルチック艦隊は、日本海にはいるまえに全滅してしまった。日本海海戦のことを、欧米では「ツシマの海戦」と呼んでいるが、このほうが正しいであろう。

 そして、現代。北朝鮮からの工作員が、とんだ「他者(!)」として、日本海をひそかにわたり来り、大勢の日本人を拉致し去った。この問題は、いまだに解決されていない。

日本海にもっと島があったら?

 日本海は、ほんとうに静かな海だった。戦いといえば日本海海戦ぐらいだが、これも、いま述べたように、ツシマ海戦だった。

 なぜ、こんなに静かな海だったのだろうか。島がないからだろう。もちろん佐渡島や隠岐島。あるいは北海道の利尻島・礼文島・天売島・焼尻島・奥尻島など、いずれも日本海にあるが、どれも本土から近い。日本海のどまんなかには、なんにもない。

 これが地中海となると、シチリア島・サルデーニャ島・コルシカ島・キプロス島をはじめ、ギリシアの周辺やらスペインの沖やら、島だらけだ。バルト海も、なかなか島が多い。

 島が多いと、その領有をめぐっての戦争が古代から絶えない。つまり、武皆って「他者」と向かいあい、甲乙を決しようとする。

 そんな歴史が皆無だった日本海--。幸運だったというほかはない。そのかわり、日本海の「他者」性はゼロになったのである。

ウラジオストクの日本人

 ところが、ただ一つ例外があった。さきに、一九一八年のシベリア出兵について述べたとき、それは「赤い」ングィエト政府を倒そうという内政干渉を目的としていたにもかかわらず、おもて向きは、日本人の居留民を保護するためと謳っていた。日本人の居留民が、ウラジオストクやニコラエフスクにそんなにいたのだろうか? いたのである。

 つぎの写真をごらんいただきたい。一九〇五年撮影のウラジオストクのまちである。かなりのにぎわいだ。おどろくのは、このホテルに、日本語で「セントラルホテル」とでかでかと書かれた看板が見えることである。漢字での「□(判読できず)旅館」という看板も見える。一九〇五年といえば、日露戦争のまっさいちゅう。ロシアがこのまちを中国から領有したのは一八六〇年だから、半世紀足らずで、ウラジオストクは、たいへんな発展をとげたわけだ。おまけに、ここを起点とするシベリア鉄道も、一九〇三年に完工しているから、日本人にとっても、ウラジオストクは、ヨーロッパヘの入口となった。そこで、日本人居留民の数は、ほぼ三千人だったというから、おどろく。そういえば、アムール川河口のニコラエフスクにも、日本人が四百人ちかく住んでいた。

 それだけの数の日本人が、雪はすくないが北海道よりはるかに寒い「他者」のまちに移り住んでいたとは!

 あのシベリア出兵は失敗だったが、当時すでに日本人がこちらに三千人、あちらに四百人もいたという事実は、「他者」性ゼロに見えた日本海に、かすかな希望も浮かんでくる。

 つまり、静かな日本海を、もっと生き生きさせること。そうなれば、日本海は太平洋の「支海」だという偏見もなくなるであろうし、「天気予報」だけだった日本海に、新しい「他者」性が生まれることだろう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

中野美代子 バルチック艦隊のその後

『日本海ものがたり』より ロシア人の海への渇望

バルチック艦隊のその後

 一九〇四年十月、『ハムレット』ゆかりのエーレスン海峡を越えたバルチック艦隊は、なおもカテガットとスカゲラックの両海峡を通り抜け、やっと北海に出た。外洋である。これでひと安心かと思ったら、そうでもない。またもやせまいドーヴァー海峡を抜けきらないと、大西洋に出た! という実感は湧かないだろう。

 おまけにイギリスは、一九〇二年に日英同盟を結んでいたから、日本海をめざすロシアの大艦隊には、ことのほか神経質だったはずである。

 そのバルチック艦隊は、自分たちを待ち伏せして魚雷をぶっぱなしてくるかもしれない日本の小艦艇にびくびくしていたが、そのびくびく状態が昂じて、イギリスのブリテン島の東岸の沖ドッガー堆で操業している漁船群に、いきなり発砲したものである。日本の水雷艇がまぎれこんでいるという怪情報にまどわされたのだ。イギリスの漁船群には、当然のことながら、おびただしい被害が出たし、のちに国際査問委員会もひらかれたが、バルチック艦隊は、十月二十三日の夜の惨劇のあと、そのまま去っていった。

 ジブラルタル海峡のアフリカ側タンジールに着いた。スペイン側のマロキ岬から海岸ぞいに北東に三〇キロほど行くと、細長い小さな半島が海につき出ていて、そこがジブラルタルという、いまでもイギリス領の基地のまちである。スペインから「返せ、返せ」といわれても、イギリスは絶対に返さない。幅一六キロしかない細長い半島なのに、高さ三〇〇~四〇〇メートルの岡がつらなっているので、二、三万の住民の住居は斜面にへばりついている。その岡の上には、十六世紀ごろモロッコから連れてきたバーバリ・マカクという、ニホンザルに似たサルの群れが野生化して暮らしている(ヨーロッパには野生のサルは分布していない)。イギリス人は、このサルをジブラルタル基地のシンボルとして保護してきた。第二次世界大戦後に急速に数が減ったとき、チャーチル首相の命令で、モロッコから再輸入したほどである。

 これほどまでにイギリスがジブラルタル海峡を死守するのは、古くは、たとえばバルチック艦隊を地中海からスエズ運河へと通行させないため、第二次大戦中はドイツ海軍、とくに潜水艦のうごきを監視するためであった。

 バルチック艦隊は、吃水の浅い二隻を除いてスエズ運河をあきらめ、アフリカ南端の喜望峰を迂回してインド洋に出ることになった。十一月から十二月にかけては、南半球の夏である。ただでさえせま苦しい艦内の船室は、寒い国の水兵たちにとっては、おそろしい炎暑の地獄だったろう。おまけにまだ、日本の水雷艇の幻影に悩まされっづけてもいた。

 こうして、「トラブル海」ならぬ「わざわいの海」を半年がかりでめぐってきたバルチック艦隊は、一九〇五年五月二十七日、日本海の入口である対馬海峡にたどり着いた。そこには、日本の連合艦隊が待っていた。

 このあとの経過については、語るまでもないだろう。

日本海の荒波が黒海へ

 日本海でのバルチック艦隊の壊滅的な敗北の報は、ほとんどのロシア人に「もう、こんな戦争はいやだ!」という思いを抱かせたはずである。それは、戦争にたいする批判にはちがいないが、もっと日常感覚における「つくづく嫌気がさした」という感じに近いのではないか。太平洋戦争の末期、日本人のほとんどが、口には出さずともひそかに感じていた、あの思いである。「アメリカ兵が上陸してきたら、この槍で突き刺すように」と、竹槍突きの練習をさせられたわたしにも、はっきりとそんな「嫌気」が宿していた。

 バルチック艦隊の水兵たちも、半年ほどの長い航海、、それもアフリカをぐるりとまわり、インド洋からマラッカ海峡など熱帯の海の航海だけでもうんざりなのに、日本の水雷艇の幻影におびやかされ、……となると、「嫌気」のたまりぐあいもハンパではなかったろう。

 この種の、かたちのない「嫌気」は、当時のことだからバルチック艦隊の水兵が黒海艦隊の水兵にメールしたわけでもなかろうに、ひと月あまりで、ったわってしまったらしい。六月二十七日、黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで、水兵のスープに蛆がはいっていたとかいうことから、反乱がはじまった。

 こちらの水兵は、バルチックの水兵とちがって元気があったから、たちまち艦長やら士官たちやらを殺したというから、すごい。この反乱ポチョムキン号が、オデッサに入港し、オデッサ市民の歓迎を受けたところを、コサック兵団に鎮圧されるという、一連のわれわれのイメージは、おそらくエイゼンシュテインの映画『戦艦ポチョムキン』(一九二五)の、あの「オデッサの階段」からつくりあげられたのであろう。もっとも、この有名な「階段」の場面は史実ではないそうだが、戦艦ポチョムキンで反乱が発生し、やがて鎮圧されたという史実の、象徴的イメージであることには楡らない。

 この反乱には、もう一つべつの「嫌気」がもたらした要因があったらしい。それは、その年一月の、ペテルブルグにおける「血の日曜日」事件である。これまた旅順陥落という、日本海の近くのロシアの拠点が失われたこと、あるいは、そんな拠点を死守するために支払われた犠牲が大きかったことへの、庶民の「嫌気」である。

 「嫌気」などといった俗なことばで歴史を語れるのであろうか。語れると思う。そのことを、日本海海戦をはじめとする日露戦争の勝利に酔うた日本人の側から見ると、まさに「嫌気」とは正反対の感情が、四十年後の子どもにまで引き継がれた。たとえばわたしは、バルチック艦隊の敗軍の将の名を、いまでも「ロジェストベンスキー」とすらすらいえる。戦時下の歴史教育におけるもっとも輝やかしいページに出てくる名まえだからだ。

 ロシアでは、そんな「嫌気」を政治的にまとめるうごきが断続的につづき、十二年後のロシア革命にいたるのだが、そんな革命史の詳細は、いまは、いっさい省略しよう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

個人と地域、国と超国家の関係

ダラダラで過ぎていく

 6時に朝食をとったけど、全然、やる気がしなくて、また、寝始めた。8時に起きて、10時に起きて、11時に起きた。結局、11時半です。

 その前も、夜中の2時に起きて、4時に起きて、6時に起きていた。

 未唯が中途半端だから。7月7日に入籍で、豊川に行ったはずなのに、夕食を食べて、ふつうに部屋で寝ていた。

 こういう時は、何もせずに、考えるのに越したことはない。

4.8「歴史の進化」

 4.8「歴史の進化」の中で、個人と地域、国と超国家がどうなるかを調べています。ここでいう、超国家は宇宙に近いです。最終的には個人と超国家がイコールになる。存在と無の関係になってくる。

 その中間となる、地域と国家の関係をまず、片付けないといけない。地域から国家を作っていくという循環のベースがここに来ます。夫々に巻かれているベースのモノを、この考え方で再構成しないといけない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )