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消費者社会

『活動的生』ハンナ・アーレントより

現代社会は消費社会であると、しばしば言われる。すでに見てきたように、労働と消費とは本来、生活の必要によって人間に押しつけられた同一のプロセスの二つの段階にほかならない。そうである以上、現代社会が消費社会であるとは、現代社会が労働社会であることの言いかえにすぎない。ところで、この労働社会もしくは消費社会が成立したのは、労働者階級の平等解放によってではなく、むしろ労働という活動自体の自由解放によってである。しかも、労働のこの自由解放は、労働者の平等解放より数百年も前のことだった。われわれが現代生きている社会秩序にとって重要なことは、労働する人民が歴史上はじめて平等な権利で公的領域への参入を許されたことよりも、むしろ、公的領域において一切の活動が労働として理解されるに至ったことのほうである。すなわち、われわれが何をなそうと、その活動がことごとく、人間の活動的あり方一般の最下位のレペル、つまり生活の必要や十分な生活水準を確保することへと押し下げられた、ということのほうである。社会の公的判断からすれば、どんな職業であろうと、その主な任務は、相応の収入を確保することなのである。職業を選ぶさいに収入以外の目標に導かれた人びと、とりわけ自由業にたずさわる人びとの数は、激減しつつある。芸術家という職業--正確に言って、労働社会に唯一残存する「職人気質」の職業--は、労働社会が進んで特別扱いをするただ一つの例外なのである。

およそ真剣に受け止められるべき活動の一切を、生活の糧を手に入れる形式として、つまり「生計を立てる」(英語で言う to make a living)仕方として理解するこの同じ傾向は、労働社会に流布しているあれこれの労働理論にも現われている。その種の理論はほとんど異口同音に、労働を遊びの反対として定義する。真剣に受け止められるべき唯一の活動、文字どおりの意味で生命の真剣さであるのが、労働なのであり、労働を捨象したあとに残るのが、遊びなのだ、というわけである。この区別立て自体の基準は、つまり生命であり、個人の生命または社会全体の生命なのである。なるほど、昔からそうであったように、やむをえぬ欲求に隷属していないものはすべて、自由だと見なされる。だが、そのような自由な活動 artes liberales つまり自由学芸--のうち、遊びだけがあとに残った。じっさい遊びのうちにおのずと表われるのは、生命それ自体の自由といったようなものである。すなわち、社会的生産力の状態がそれをもはや必要としない地点に達した場合、遊んでもよいとされる「自由」な力の剰余である。この手の遊戯論は、労働社会では活動をどんなふうに査定することが自明となるかを概念的にはっきり示しているが、これはこれで、社会的な判断や予断を、それらに内属する極端な結論へと論理的に押し進めかねないレベルにまで高める、という帰結を伴う。この帰結にとって特徴的なことに、芸術家の営む「職人の仕事」つまり作品創造も、そうなるともはや無傷ではすまなくなり、労働に好都合な遊びという反対物に解消され、したがって世界にとっての意義を奪われてしまう。社会全体の営んでいる労働という生命プロセスの内部で、芸術家の「遊び」の果たす機能というのは、個人の生活においてテニスをやったり気晴らしに趣味を楽しむことが果たすのと同じ機能なのである。要するに、労働の自由解放は、労働という活動を、人間の他の一切の活動的生のあり方と等価で同権のものとして据えるのではなく、労働の圧倒的優位をもたらす、という帰結を招いたのである。「生命の真剣さ」とは、労働して生命を再生産し「生計を立てる」ことに存するが、この意味での真剣さの見地からすれば、労働しない活動はすべて趣味と化す

現代のこのような自己解釈は、われわれの耳にとても説得的に響くし、ほとんど自明に響くほどである。だからこそわれわれは、近代以前のすべての時代の人びとがこういった事柄についてどう考えていたか、じっくり考えてみたほうがよい。現代人にとっての自明事に優るとも劣らず、近代以前の人びとにとって自明であったことがある。「金を稼ぐ技術」というのは、何らかの謝礼つまり金銭報酬をすでにつねに伴った「技術」--たとえば医術、航海術、建築術--の本来の本質そのものとは、いささかも関係なかったということである。プラトンは、金を稼ぐことを、数ある技術のうちの一つ(techne mistharnetike つまり金銭獲得術)に数え上げたおそらく最初の人だったが、彼がそうしたのは、さもなければ、今日なら自由業と呼ばれる職業の本来の目的とは明らかにまったく異なる種類と考えられた金銭報酬を、説明できなかったからにほかならない。じっさい、金銭は、医術の対象たる健康や、建築術の対象たる建物の築造と、どんな関係があるというのだろうか。これらの技術を行使するためには、それらすべての技術に伴う副次的技術の知識を必要とするのは明らかである。この副次的技術によってひとは、曲がりなりにも金銭を得ることになるのだから。だが、この副次的技術が、その他の点では自由な職業に、必然的に内在する労働の要素だと見なされることは、決してなかった。話はむしろ逆で、[芸術家]が労働の必要から解放されるための技術だと考えられたのであって、金銭獲得術は、家政術と同じカテゴリーに属する。家政術とは、奴隷を支配するうえでの家長の心得であり、それというのも、奴隷が言いつけにみずから従い家政が円滑に機能する、などということはなかったからである。医術の目的が健康であるように、金銭獲得術の目的は、生計の心配からの自由なのである。金銭獲得術は、労働のあり方の一種であるどころか、その反対に、労働しないですますためには行使できなければならないものだった。金銭獲得術をせいぜい随伴するだけの他の技術のめざす目的が、生活の必要を心配することとかけ離れたものであることは言うまでもない。

労働の平等解放は、労働者階級の平等解放、つまり抑圧と搾取からの自由解放がそれに続いた以上、疑いの余地なく「進歩」であった。人間社会における暴力行使の減少を尺度として、進歩を査定した場合はそうである。だが、自由の増大を尺度として査定した場合にも、労働の平等解放が進歩であるといえるか、となると、とたんに怪しくなる。拷問を唯一の例外とすれば、人間によって行使される暴力で、力ずくで強制する必然性を伴った途方もない自然力に匹敵しうる暴力など、存在しない。ギリシア語で拷問を表わす語 anankai が、暴力を表わす語ぞでなく、必然を表わ寸語 ananke から派生したのも、そういう理由によるのだろう。あたかも、拷問においては、人間によって行使される暴力が、必然の強制力に達するかのような名付け方である。ともあれ、古代全般を通じて、拷問という「いかなる人間にも抵抗できない必然」が、どのみち必然に屈服せしめられていた奴隷にのみ課すことを許されたのは、そういう理由によ加・暴力の技術--ゲーテの言う「戦争、商売、海賊行為」の三位一体のことだが、これにはもう一つ、奴隷に対する主人の専制的支配が、同類として属していた--のおかげで、かつて征服者は被征服者の奉仕を確保することができた。有史以来近代まで人類史の圧倒的部分にわたって、必然は私的なものの内部に押し込められてきたが、それも暴力の技術のおかげだった。その結果として、自由が現われるための空間が残ったのである。この場合、暴力の技術を、かつてはまるで覚えがなかったような悪評に追い込む、という決定的転換をもたらしたのは、キリスト教ではなく、近代ならびに近代における労働の讃美であった。


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科学主義的アプローチの歴史主義

『科学による反革命』ハイエクより 科学主義的アプローチの歴史主義

第一の論点は、厳密にいって、あらゆる思考はある程度抽象的であるということである。先に見たとおり、もっとも単純な感覚作用も含めて、実在の知覚はすべて、一定の単一または複数の性質に従った対象の分類を含んでいる。所与の時間的・空間的限界内に発見できる同一の複合的現象は、この意味で多くの異なる側面から考察することが可能である。われわれが出来事を分類ないしひとまとめにするときの諸原理は、たんに一点のみならずさまざまな点でそれぞれ異なっているかもしれない。種々の理論科学は、現象の複数の側面のうち、相互に関連する命題のただひとまとまりに適合しうるものしか扱わない。このことは社会についての理論科学に劣らず、自然についてのそれにもあてはまることを強調しておく必要がある。なぜなら、実在する物の「全体」や総体を扱う自然科学の傾向と称されるものを、同一のことを社会の領域でおこなうための正当化として、歴史主義に傾斜した理論家たちがしばしば引きあいにだすからである。しかしながら、知識にかかわるいずれの学問も、理論的であれ歴史的であれ、現実世界の選択された側面しか扱えないのである。そして理論科学においては、選択の原理は、これらの側面を論理的に結びついた規則の集合のもとにおくことの可能性なのである。同一の物がある科学には振り子であり、別の科学には真録の塊であり、また別の科学には凸面鏡であるかもしれない。すでに見たように、振り子が化学的・光学的性質を備えているという事実は、振り子の法則を研究する際に、化学・光学の方法で研究しなければならないことを意味しない。ただし、これらの法則を特定の振り子に適用するときには、たぶん化学や光学の一定の法則を考慮しなければならないだろう。すでに指摘したとおり、同様に、すべての社会的現象が物理的性質を備えているという事実は、それを物理科学の方法で研究しなければならないことを意味しない。

しかしながら、諸規則の関連する集合をもちいて説明しうる複合的現象の諸側面の選択は、科学者がもちいるべき唯一の選択や抽象の方法ではない。研究が一般的に適用可能な規則の確立に向けられているのではなく、科学者の周辺世界での出来事から生じる特定の問題に答えることに向けられている場合には、彼はその特定の問題に関連する特徴を選択しなければならないであろう。だが重要な点は、所与の時と場所に見いだしうる無限に多様な現象からかぎられた数のものをやはり選択しなければならないということである。そうした場合、われわれはときに、科学者があたかもその見たとおりの「全体の」状況を考えているかのように語るかもしれない。しかしそれが意味するのは、一定の時空的限界内に観察しうる二切合切の尽くしがたい全体のことではなくて、問われた問題に関連すると思われる一定の特徴のことなのである。庭の雑草がなぜ特定のパターンで生長したのかと問うならば、どの理論科学も単独では答えをだせないであろう。しかしこのことは、それに答えるには、その現象が生じた時空間について知りうるいっさいを知っていなければならないことを意味しない。問われた問題は説明すべき現象を指ししめすが、われわれがその説明とかかわりのある他の現象を選択することは、理論科学の諸法則によってはじめて可能になるのである。科学的研究の対象は所与の時間・空間に観察可能なすべての現象の全体ではけっしてなく、つねにある選択された側面でしかない。われわれが問う問題に応じて、同一の時空間的状況はさまざまな研究対象をどんな数でも含みうるのである。事実人間の精神は、現実の状況のすべての異なる側面という意味での「全体」をけっして把握できないのである。

人間の歴史という現象にこれらの考察を適用すればとても重大な結果を招く。それが意味するのは他でもない、歴史的過程や時代は思考の単一で確定的な対象ではけっしてなく、問われる問題によってのみそうした対象になるということである。また、われわれがつねづね単一の歴史的出来事とみなしているものも、問われる問題に応じていくらでも多様な思考の対象となりうるのである。

この点についての混乱が、現在まさに流行中の学説、すなわち、すべての歴史的知識は必然的に相対的でわれわれの「立場」によって決定づけられており、時間の経過とともに崩れざるをえないとする学説が広まる原因となっている。この見解は、歴史的な時代や複合的出来事にたいして一般的にもちいられる名称、たとえばナポレオン戦争、「革命期のフランス」、あるいは共和政期などが確定的に所与の対象、すなわち生物学的標本や惑星が現れる際の自然的単位と同じ仕方で与えられるユニークな個体をあらわしているという信念の自然な帰結である。それら歴史的現象の名称は、実際にはある時代や場所ほどのものしか規定しておらず、その時代および言及する地域に生じた出来事について問いうるさまざまな問題の数にはほとんど限界がない。結局、対象を規定するのはわれわれが問う問題だけなのであり、もちろん、人がさまざまなときに、同一の時代についてさまざまな問題を問う理由は多数ある。しかしこれが意味するのは、歴史はさまざまなときに、同一の情報にもとづいて、同一の問題にさまざまな回答を与えるものだということではない。しかしこれだけが、歴史的知識は相対的だと主張する資格をわれわれに与えるのである。歴史的知識の相対性にかんする主張に含まれる真理の核心は、歴史家は異なるときに異なる対象に関心をもつものだということにあり、彼らが必然的に、同一の対象にたいして異なる見解をもつものだということではないのである。

もうしばらく、歴史家の研究する全体の本質にこだわろう。ただしいうべきことの多くは、一部の著者が理論的な一般化の対象とみなす全体について以前に述べたことの応用にすぎない。だから、ここまで述べたことは歴史家の研究する全体にもまったく同様にあてはまる。それはけっして全体としては与えられず、つねに歴史家によって、それだけが直接的に知覚できる諸要素から再構成されるのである。実在した政府、進行中だった交易、移動した軍隊、保存されたり流布された知識など、なにについて語るにせよ、彼はけっして、直接的に観察できる物理的属性の不変の集合に言及しているのではなく、つねに、ただ推測できるにすぎない、観察される要素の一部のあいだの関係の体系に言及しているのである。政府、交易、軍隊、知識のようなことばは単一の観察可能な事物をあらわすのではなく、関係の構造をあらわしているのである。それは、つねに変化している要素間の関係の恒常的体系についての図式的表現ないし「理論」によってしか記述できない。言いかえれば、これらの全体はそれを構成する理論を離れては、つまり、観察される要素間のつながりを再構成し、この特定の組み合わせの含意を追究できる心的技術を離れては存在しないのである。

それゆえ、歴史的知識における理論の位置は、歴史が言及するさまざまな全体を形成ないし構成することにある。つまり、全体に先だつのである。全体は部分を結びつける関係の体系を精査することによってしか見えてこないのである。しかしながら理論による一般化は、旧来の歴史家たちが間違って信じていた(そうだからこそ理論に反対した)ようには、歴史の関心である具体的全体、すなわち諸要素の特定の配置状態には言及しないしできない。全体の、つまり構造的結びつきのモデルは、理論がこれを既成の形で歴史家の使用に供するが(ただし、これらのモデルとて理論が一般化の対象とする所与の要素ではなくて、理論的な活動の結果なのであるが)、それは歴史家の考察する全体と同一ではない。社会についての理論科学のどれかIつが提供するモデルはどれも、必然的に一種類の要素から成っている。それは結びつきが一連の整合的な諸原理で説明できるがゆえに選択される要素であって、具体的な現象にかんする特定の問題に答えるのを助けるがゆえに選択される要素ではない。後者の目的のためには、歴史家たちはいつも、さまざまな理論分野に属する多くの一般化を利用しなければならないであろう。だから歴史家の仕事というものは、特定の現象を説明しようとするすべての試みと同様に、理論を前提としているのである。それは、具体的現象にかんするあらゆる思考と同様、特定の現象の説明にたいする一般概念の適用なのである。
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民主主義社会における企業

『経済学論集』ハイエクより 民主主義社会における企業--だれの利益のため?

私の主張は、もし企業の影響力を、それが有益な範囲に効果的に抑制したいと思うなら、企業の活動をこれまでよりも厳しく、株主によって経営者に付託された資本を有利に活用するという課題に専念するよう制限しなければならないということである。企業がその資源を、資本にたいする報酬の長期的極大化以外の特定の目的のためにつかうことを許し、ときには強制さえする現代の傾向が、彼らに望ましからざる社会的に危険な影響力を与えるもので、昨今流行している「社会的配慮」によって経営方針が導かれるべきだとする議論ももっとも望ましからざる結果を生みだす可能性がある、というものである。

しかしながらただちに強調しておきたいことは、企業が追求すべき唯一の目標はその投下資本にたいして長期的に最大の利益を確保することだといっても、この目的を追求するにあたって企業は、一般的な法規や道徳規範に縛られるべきではないといっているわけではない。特定の具体的な目標と、それを追求するための規則、そして規範の枠組みを区別することは重要である。この点でいえば、一般的に受けいれられているある種の上品さの規範や、たぶん慈善心さえ、厳密な法規と同じくらい企業を拘束するとみなさなければならない。しかしこうした規則や規範は企業がその具体的目標を追求するにあたってその行動を制約するが、だからといって企業は本来の目的となんの関係もない特定の目標実現のためにその資源をつかう権利があるということにはならない。

好ましくない意味での権力とは、他者のエネルギーと資源を彼らが共有しない価値を実現するために流用する能力である。資産をもっとも利益の高い用途にもちいることを唯一の課題とする企業は、価値を選ぶ権力をもたない。それが利用する資源は他者の価値を実現するためにもちいられるのである。経営者が、自分が大切だと考える価値を追求したいと考え、こうした「理想主義的」目標達成に身を任せるために世論の声援をほとんど必要としないのは、おそらくきわめて自然なことなのであろう。しかしまさにこのことのなかに、彼らが現実の、統御不可能な権力を手に入れる危険が潜んでいるのだ。潜在的権力の最大の集積、資源の最大の蓄積が単一の統御下に置かれても、その権力を行使する人びとがただ一つの具体的目的のためにのみそれを行使する権利を与えられ、それがどんなに望ましいことであろうと他の目的のために行使することを許されないかぎりにおいて、それは比較的無害である。この意味で私は、古風な経営倫理ではあるが、経営者は株主の信託を受けた人びとであり、企業の活動の果実をより高い価値実現のために利用すべきかどうかの決定は個々の株主に委ねるべきだとする考え方が、企業が恣意的かつ政治的に危険な権力を手に入れないようにする最重要な保障であると主張したい。

近年、いかに政策(とりわけ税制)、世論、そして企業内に生まれつつある伝統のいずれもがこれとは逆の方向に向かいつつあるか、そして改革を叫ぶ声の大半が企業はもっと計画的に「公益」のために行動すべきだと主張しているかについては、いまさら指摘するまでもないであろう。私にはこれらの要求は大きな誤りを犯しているように思われ、それが満たされると彼らが避けたいと願っている危険を減らすどころか、逆に悪化させてしまう可能性があると考えている。しかしながら企業は私的利益ばかりでなく公的目標をも追求すべきだという考えは、経営者側にさえ広く受けいれられるようになっており、公益のために商売をするという気取りは、「商人のあいだにそう普通にはみられないし、それを思いとどまらせるために多くの言葉を必要としないだろう」といったアダム・スミスの言葉がいまでも通用するのかどうか、疑わしいとせざるをえない。

企業が代表すべきと主張されうる利益集団は四つある。経営者、労働者、株主、そしていわゆる一般の「公益」集団である。経営者にかんしては簡単に済ますことができよう。すなわち、たぶん要注意点の一つではあろうが、企業が主として経営者の利益のために運営されるべきだと真面目に主張する者はたぶん一人もいないであろう。

「労働者」の利益のためという要求もほんの少しだけ考察すれば足りよう。つまり問題は労働者一般の利益ではなく特定の企業に雇用されている従業員の特殊な利益なのだということさえ明らかになれば、企業が自ら雇用する特定の閉鎖集団の人びとの利益のために運営されることは、「社会」の利益にもならないし、労働者一般の利益にさえならないことはほとんど自明であろう。企業にとってその従業員をできるだけ会社に引きつけておくことは有利なことかもしれないが、この傾向が強まることには重大な懸念がある。自分が雇われている会社への依存性が増大すると、企業の従業員への影響力が増大し、個人としてはこれから身を守る対抗手段は勤めを変える以外にないということになるからだ。

単に物的資源の集積を管理・運営するために雇われた一群の人びとの集団が、主として共通の経験と伝統で結ばれ、ときには人間的個性と呼べるようなものまでもった集団に、企業が成長することがあるのは、重要な、またおそらくは避けえない事の成り行きであろう。またある企業を他の企業と比べてとりわけ効率的にしている要因がすべて経営側にあるのではなく、その企業の運営に参加している人員の全体がもし突然交代させられたら一挙に壊されてしまうような調整された特徴に支えられているというのも否定しえない事実である。このように企業の業績達成能力はおろか、その存続自体が、しばしば人員の継続性の維持、すなわち、その企業に特殊な伝統や具体的作業に通じている生産ラインに至るまでの最小限の中核人員の維持、ということと密接に結びついている。「営業を続けている企業」が、操業が停止した後にもなお存続する物的構造物とは異なるのは、主として企業を運営する人びとのあいだで知識や習慣が相互に調整されていることによるのである。

にもかかわらず自由なシステム(つまり自由な労働システム)においては、資源の効果的な利用のために企業はまずは物的資本の集積体とみなされる必要がある。企業が最善に利用しなければならない唯一の生産手段はこの物的資本であって、経営者がさまざまな目的に応じて自由に配置替えできる人員ではない。個人としては結局のところ彼のエネルギーを最善に活用できるのはこの企業なのか、それともどこか別の企業なのかを自ら判断する自由を保持しなければならないのである。

要するに、企業は消費者の利益に奉仕するために運営されるべきものだとしたら、同時になんらかの永続的な、特定の勤労者集団の利益に奉仕することはできないのである。経営者が社会的利益のために意思決定を行うのは、その決定の主要な関連事項が、自らの完全支配下にあってその意思決定のリスクが永久的にそこに残る資源、つまり投下資本の最善活用という点にあり、かつまたその購入したり借用したりする他のすべての資源についても、それを他のだれよりも上手く活用できるからという理由でのみ行うという態度である場合に限られる。個人はどの企業のために働くかを選択する自由をもっている以上、企業の主たる関心事はその永久的資産の最善活用になければならないのである。

企業はそこに働く人びとの集団の利益のために運営されるべきであるという考え方は、サンディカリスト型の社会主義との関連で議論されたすべての問題を蒸しかえすことになる。ここでこの議論に深入りする紙面の余裕はないが、ただ、この問題の解決は、これらの人びとがその企業の物的資源の所有者になるばかりでなく、他の労働者を現行賃金率で雇用することができる立場に立つ場合にのみ可能になるということを指摘しておきたい。したがってその結果は、要するに企業の所有関係の変更に過ぎないのであって、賃金労働者階級の廃止につながるものではないということである。労働者が同時に資本家になった場合、その投資は自分たちに就業機会を与えるのと同一の範躊で考慮されることになるが、それが果たして労働者の真の利益につながるかどうかは、大いに疑問である。
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スタバのあとは「魔女展」

周りは魔女だらけ!

 金曜日は魔女に会いに名古屋市博物館へ

パートナーへのメール送信

 Re:失敗ばかり

  信州は8月切替ですか。メーカのSEはしっかりと実体を掴まえているのだろうか、心配になりますね。時間との関係で後ろにいくほど面倒になる。

  本当にイヤになるけど、すれ違いがないように双方に確認させることです。まだまだ、何か出てきそう。

  北陸からの帰りですよね。今日の名古屋は暑かった。身体には気をつけて。

 Re:Re:失敗ばかり

  24日の10時過ぎのメールを今、読みました。

  色々な経験を自分なりにどう活かしていくか。その時のつながりは大きなものになる。自分はそう思うようにしている。

2万冊への道

 あと、250冊で2万冊。ということは、週40冊ペースで、7週間後ですね。35週目は9月最初です。魔女の誕生月です。中野美代子とパートナー

未唯へ

 朝、歩くのが基本ですね。モスまで15分あるいて、朝食+未唯空間して、歩いて帰る。

今日の予定

 三週間ぶりにIさんに会いに名古屋まで。その後に、名古屋市博物館の「魔女展」へ。そのために、会社に行っていた時の同様に、6時34分のバスにした。8時から9時前までスタバに居て、そのあとに地下鉄で博物館。

 3時から豊田市図書館で30冊の新刊書

Iさんとの会話

 「いつもの時間に来ていただくと思っていたので、迎える準備が2時間ほど、できていなかった」「ありがとうございます」「魔女展に行くんですよね」「怖くはないけど、何となく、おどろおどろしい感じの」

 (周りは魔女ばっかだから)「ノーコメントですけど」「そうなんですね」「イラストが向こうのもので、日本のかわいらしい魔女とは違って」(ドイツの往復航空券が当たるかも)「当ててきてください」「私の運も差し上げます」

 (ピンクの名札を付けていた)「ピーチなんですよ。ピーチカラーの名札です」「黒い名札にピンクのシールを張っています」「昨日一日で汚れちゃった」「ペルーと書いてあって、ペルーが一番のお気に入りです」

 「桜川まで15分ぐらいで行きますよ」「御器所までで15分だから、16分ですね」「その後にちょっと、歩いたらすぐなんで」「マリー・アントアネット展に行ったことがあるんで」

 (運動しないといけない)「ふっくらとされました」「たまには桜通線の方まで歩いて」「休みの日は歩いていますけど」「ここでは、1.4Kmぐらいしか歩かないんで」「万歩計で測ったんです」

 「久しぶりに、いつもの朝に来ていただいてありがとう」

 「パイナップルをイメージしたタンブラー」「科学館の方でやっている企画にも出てきそう」「夏休み中なので、行けたら行こうかなと」「トリックアート展に行ったけど、人が一杯いたし」

 「プラネタリウムはまだ、ダメなんですか」「オープン当初はひどかったみたいだけど」「夏休みはムリですね」

 「盗難防止で一応、貼ってあるんです」「多分、取られていないと思うんですけど」

 「魔女展、楽しんできてくださいね」「私だったら、ドイツ、付いていきますけどね」「行ってみたい、ドイツ」「行きたいところ、一杯ですね」

 「もうさん、お待ちしていますね」「暑くなるので、水分、取ってくださいね」

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豊田市図書館の30冊

あと、250冊で2万冊。ということは、週40冊ペースで、7週間後ですね。35週目は9月最初です。魔女の誕生月です。

豊田市図書館の30冊 

 492『NHKきょうの健康「不調」スッキリ解消法』耳鳴り・難聴、めまい、手の痛み・しびれ、不眠

 596.21『寿司のこころ』寿司とは何か、その答えがここにある。

 288.3『JAF情報版 真田まるっとガイド』戦国の息吹薫る「真田旅」にいざ出陣!! 真田の歴史主要7エリアを完全網羅!

 141.6『[図解]他人を攻撃せずにはいられない人』「害になる人」--その避け方、言い返し方、つきあい方 職場、家庭の困った人から身を守る処方箋40

 778.25『チャップリンとヒトラー』メディアとイメージの世界大戦

 133.2『ホッブズ 物体論』近代社会思想コレクション13

 336.1『高収益事業の創り方』経営戦略の実戦1

 382.53『カルフォルニア先住民の文化』

 420.2『20世紀物理学史 上』理論・実験・社会

 420.2『20世紀物理学史 下』理論・実験・社会

 712.1『円空の生涯』

 159『こころのつかえがとれる31のヒント』何もかもがうまくいかないとき

 748『極限高地』チベット・アンデス・エチオピアに生きる

 293.48『愛しのプラハへ』新しいチェコ・古いチェコ

 334.31『人口蒸発「5000万人国家」日本の衝撃』人口問題民間臨調 調査・報告者

 361『現代社会論』社会学で探る私たちの生き方

 134.3『フィヒテ全集10 哲学評論・哲学的書簡』

 323.14『「憲法物語」を紡ぎ続けて』

 361.7『もう東京はいらない』地域力を高めた9つの小さな町の大きな話

 913.6『HERO』ヒーロー2014

 159ホン『強運を味方につける49の言葉』

 280.4『ガイアの夜明け 挑む100人』日経スペシャル

 336.4『理系社員のトリセツ』

 281.04『「その後」の関ヶ原』知れば知るほど面白い!

 114.2『死に方の思想』

 369.31『ゴーストタウンから死者は出ない』東北復興の経路依存

 146.8『場面別 傾聴術レッスン』プロカウンセラーが教える

 017.71『首都圏 大学図書館ガイド』オトナの知的空間案内 アカデミックな書籍探しだけではない 大学図書館の魅力満載のガイドブック

 369.7『パラレルキャリアを始めよう!』時間と場所を選ばない 「2枚目の名刺」があなたの可能性を拡げる

 501.6『大転換』新しいエネルギー経済のかたち レスター・R・ブラウン 枝廣淳子訳
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