未唯への手紙

未唯への手紙

未唯宇宙項目の見直し 6. 本と図書館 6.4~6.5

2015年07月20日 | 6.本
6. 本と図書館

 行動につなげる

  先を知る

   先を見る
    社会の先行き
    本を読む市民
    行動する人
    ネットで武装化

   全体を考える
    ミッションを共有
    館長、市長の役割
    事務局が関与
    本屋の問題意識

   本を活かす
    本が好きな人
    本のすごさ
    友の会での連携
    知の入口を示す

   図書館での行動
    図書館友の会
    シェアをカタチに
    市民の読書環境
    本屋とつながる

  知識社会

   本を書く
    主張をまとめる
    まとまった意見
    本との出会い
    覚醒の伝播

   問題意識を共有
    賛否両論を得る
    著者の問題意識
    自分の判断基準
    情報リテラシー

   力に変える
    本のDNAを抽出
    多様な考え方を習得
    未唯空間のエッセンス
    自分の意見を発信

   時空間を超える
    ライブラリを意識
    思考が本を超える
    私の世界の完結性
    未来を見ていく

  生涯学習

   見る、知る、考える
    見ることと知ること
    考えて、行動する
    自分という学習
    ポータルでつながる

   学習する
    本があるということ
    富良野で読書三昧
    ソーシャル・リーディング
    危機感がきっかけ

   学習の循環
    価値観を変えていく
    学校の領域
    企業の領域
    家庭の領域

   サファイア循環
    Local meets Global
    グローバルを取り込む
    Global meets Local
    ローカルを生かす

  教育を変える

   存在の力で覚醒
    生きている理由
    存在の力を入れ込む
    分化した好奇心
    本から得られるもの

   コラボ環境
    知恵を出し合う
    コミュニティを活用
    気づきを共有
    合意形成で行動

   共有ツール
    ライブラリを接続
    ウェアラブル環境
    進化するグーグル検索
    未唯宇宙と直結

   学校・会社・家庭
    図書館に中核機能
    持続環境教育(ESD)
    共有意識を拡大
    変革の連鎖

 図書館コミュニティ

  ポータル機能

   メッセージ共有
    ソーシャルウェブ
    関係者の意識合わせ
    ネットワークの整備
    行政にプッシュ

   市民の分化を支援
    ポータルからブログ
    分化で多様化に対応
    シェア環境の実験
    図書館チームを生成

   コンシェルジュ育成
    情報センターを意識
    コンシェルジュ
    市民にアプローチ
    専門家のつながり

   ソーシャルがベース
    SNSを取り込む
    社会一般のセキュリティ
    多くのコンテンツ生成
    マスコミを凌駕

  コラボ機能

   議論の場を提供
    図書館のアゴラ
    バーチャル空間
    同一価値観を保証
    チームで意思決定

   事例を展開
    事例を掘り起こす
    事務局で横展開
    クラウドで集約・拡散
    図書館全体で情報共有

   チームで活用
    意思決定の単位
    多数決論理の打破
    図書館クラウド
    メッセージで接続

   知の入口をめざす
    情報センターに改名
    メンバーの状況把握
    チームのテーマ
    知の出口で行動管理

  アウトリーチ
   範囲の拡大
    知りたい欲求
    出掛けていく
    危機感を表現
    幸せイメージを探る

   考え抜く
    環境社会の哲学
    考え抜いた意見
    まとまった意見
    本の魅力をアピール

   全体を考え、先を見る
    情報処理技術
    素早い理解力
    多方面から考える
    コミュニティで発酵

   地域を超える
    思いをまとめる
    本を書く環境
    行動する時
    クラウドで発信支援

  図書館空間

   知恵の現場
    花は花屋、恋はカフェ
    地域活性化とつなげる
    中核としての図書館
    町全体で未来を考える

   どこでも図書館
    旭川・富良野を調査
    八戸駅ビルに分室
    OPACと集配で図書館
    まちライブラリ

   分化と統合
    教育委員会の支配脱却
    図書館が分化
    クラウドで統合
    意識と知識を保証

   知のインフラ
    クラウドでコスト削減
    多様な運営形態
    市民参画と生涯学習
    教育の自由と格差是正

「れんこん残し」事件

2015年07月20日 | 1.私
「れんこん残し」事件

 「れんこん残し」事件で奥さんとの関係は最悪かも。歯がないと食べられないのに。何しろ、食べてると、お腹が張ってきて、気持ちが悪い。

 二年前は1カ月以上、食卓の上に残っていたが、今回は二日で無くなった。私の存在も含めて、諦めたんでしょう。

ツイッターが5万ツィート突破

 ツイッターが5万ツィート突破しました。だからと言って、何もない。それがどうした。それがいい。私はあたしの世界。

メールのケプラーの法則

 やはり、ケプラーの法則が効いています。8時過ぎても何も反応がない。7月13・14・15日と立て続きに電話あったから、次は早くても、1カ月後と思っています。だけど、無いと寂しい。

 今の感想は、「この宇宙はつまらない」。なぜなのかな。

 FBの内容は、「だからなんだ」というものばかりです。答まで考えろ。

星占いは当てにならない

 みずがめ座の運勢は98点で第一位です。だけど、どこにも出ていないから、何もない。どうしてくれるんだ。恋愛運・金運も満点。仕事運は4.5.総合運は満点なのに、何もない。

MIRAIがMIIRAに見える

 原子力船「むつ」が「みらい」になるそうです。何でもかんでもMIRAIです。豊田市もMIRAIです。私にはMIIRA(ミイラ)としか読めません。

「魔女展」

 今週は名古屋に行く予定です。ついでに、名古屋市博物館の「魔女展」が9時半からです。「私は魔女」と言えば、半額になるようなことが書かれていた。

 「魔女」が魔女の恰好していると思いますか。私みたいなのが、魔女なんですよ。本当は宇宙人なんだけど。それは内緒です。

グローバリゼーションとEUに反発するフランス

2015年07月20日 | 3.社会
『教養のフランス近現代史』より ヨーロッパ統合とフランス

1990年代に入り、フランス世論とヨーロッパ統合との関係は大きく変質した。フランスは、これまでヨーロッパ統合のリーダーとして、その歩みを主導してきた。世論はヨーロッパに無関心である一方、エリートが取り組む統合に対し、暗黙の同意を与えてきた。しかし、EUの成立に関わる1992年のマーストリヒト条約の批准をめぐる国民投票において、フランスでは51.04%という僅差での承認となった。これはフランスのみならず、ヨーロッパにも大きなショックを与えた。このマーストリヒト条約をめぐって、反対派は超国家的な「連邦JEUが国家主権を脅かし、共和国の原理を侵害する、という批判を加え、支持を集めた。

さらに2005年の欧州憲法条約をめぐる国民投票においてフランス人は「ノン」をつきつけた。世論の動向がEUの行方を左右するようになったのである。通常選挙においてヨーロッパのみならず対外政策そのものが争点となることはまれである。しかしこの投票では投票率そのものが69.34%におよび、初めてヨーロッパが選挙の争点として議論の対象となった。ヨーロッパヘの否定的見解とはいえ、ヨーロッパ公共空間が成立したという点では大きな変化であった。

その背後にあるのは、フランス世論のグローバリゼーションに対する嫌悪感、そして「リベラル」に対する反発である。フランスではもともと左翼が強いが、先進国のなかでも世論のなかで市場経済や資本主義に対する不信感が強い国である。また「自由/リペラル」という表現も、アメリカ的な進歩的・革新的といった意味でなく、むしろ保守反動といったニュアンスで使われる。なぜならフランスでは、国家による手厚い支援からなるフランスモデルが支持される一方で、レッセ・フェール(自由放任)的な市場原理において、国家の無為無策として否定的な文脈で理解されることが多いからである。フランスでは公共の利益は公的なるものし国家)により管理されるのが望ましく、市場や企業はおのおのの利益を優先レ市民の個々の利益は阻害される、と把握される傾向が強い。

またヨーロッパ支持派も反対に回ったことは無視できない。 EUの発足により、加盟国において施行される法律の半分以上はブリュッセルにおいて決定されるようになった(ヨーロッパナイゼーション)。そしてブリュッセルのユーロクラット(EU官僚)たちは、規制緩和、民営化、自由化といった市場志向の政策を各国に求めた。ヨーロッパ化された状況では、こうしたEUの政策を受け入れざるを得ない。実際、フランスの大企業の多くは、グローバリゼーションにおける勝ち組となっていた。その一方で、フランス経済の多数を占める中小企業、零細企業はこうした恩恵に浴しておらず、失業率は高止まり、また公共セクターの人々は規制緩和を恐れている。「プレカリテ/不安定さ」への不安が社会を蝕んでいるという背景がある。彼らはフランス経済り土会モデルを破壊していることに怒りを覚え、こうした「リベラルヨーロッパ」ではなく、「社会的ヨーロッパ」の実現を求めているのである。

フランス政治の問題の一つは、歴代の政権が、選挙キャンペーンでは反自由主義を唱えながらも、ヨーロッパの名の下で自由主義的な規制緩和・民営化・自由化をすすめ、同時に経済成長期の手厚い社会政策を維持する、という矛盾した政策を続けていたことである。その結果、フランスにおいてはグローバル経済や低成長経済への対策、そして高齢化社会における福祉国家のあり方といった本質的な議論は先送りされた。こうした政治家のレトリックと現実の政策の乖離・矛盾のなかから、グローバリゼーションを敵視し、フランスモデルを解体するEUという構図が、フランス世論に定着したのであった。

2007年に大統領に就任したサルコジ大統領は、「リベラル」な政策の重要性を説いた。さらに後を襲い2012年に大統領に就任した社会党のオランドは、新しい社会主義を語っている。所属政党のみならず、政治的なスタイルもおよそ異なる両者であるが、ケインズ主義からの決別や、企業支援、雇用の柔軟化、税制改革財政赤字の削減等、といった課題に直面しているという点では共通している。リーマンショック後の欧州危機から回復できるのか。フランスはどこまでグローバリゼーションとヨーロッパナイゼーションにフランスモデルを適応させ、独自性を貫くのか。歴史を読み解く知見は、未来を見据えるまなざしを与えてくれるであろう。

国民革命--モーラス主義から反ユダヤ政策へ

2015年07月20日 | 4.歴史
『教養のフランス近現代史』より 第二次世界大戦下のフランス

ヴィシーの国民革命の思想的起源は、フランス革命以来の反革命思想に遡る。もちろん、反革命、つまり王政復古の現実的可能性は19世紀末に消滅しているが、思想としての反革命は、20世紀初頭に、反ドレフュス派の一グループであったアクシオン・フランセーズの総帥、シャルル・モーラスによって新たな息吹を与えられている。彼の主著r君主制についてのアンケート』には、国民革命の原型が開陳されている。モーラスによれば、「共和国」政体の無能さは、内政、外政双方で明白であった。対外的には、共和国の「民主」的なシビリアン・コントロールで戦争を準備、遂行することができず、国内的には、無知な大衆の「普通選挙」によって金権政治が必然であり、そこには容易に外国資本の影響力が行使されてしまう。モーラスは、教会と軍、家族と農民に支えられ、職能組織代表によって構成された一種の身分制議会を諮問機関とした君主制を理想としていたが、ここで言う「君主」とは必ずしも、ブルボンやオルレアンの血統を意味していた訳ではなく、文字通りの単一の支配者であり、その意味でもペタンは、条件を満たしていた。

1940年の時点で、第三共和政はすでに70年を経過していたとはいえ、それまでの19世紀には大革命以来何度も体制変更を経験してきた。そもそも第三共和政自体、第二帝政が対独敗戦で崩壊し、パリ・コミューンという民衆蜂起を挟みつつ、成立している。ただ、この時は、対独敗戦以外、第二帝政が崩壊する理由に乏しかったが、1940年の時点では、すでに両大戦開期、特に1930年代に累積していた体制に対する不満が千載一遇の状況を捉えて一気に吹き出してきた、という状況であった。ペタンの授権法が可決されたとき、シャルル・モーラスが発した「神聖な驚き」という言葉は、これ以上ふさわしい状況で述べられることはないほどであったのである。

共和国は廃止され、議会も解散した。議会にかわって設立された「国民評議会」は、体制のもっとも復古的な、モーラス主義的な側面を代表していると言っていいだろう。国民評議会は、「君主」ペタンの諮問機関として設置された、いわば現代版の身分制議会であった。ペタンによって任命された213人の議員の内訳は、77人の旧議員以外は、すべてモーラスのイメージした職能別代表であった。職能別代表は、農業部門32人、工業部門38人で、残りの66人が知的エリート部門であり、アンリ・マシスに代表される、いわゆるヴィシー派知識人が席を占めた。この知的エリートという枠が存在することについては、エルネスト・ルナンのエリート論の反映であるという指摘もある。国民評議会はあくまで諮問機関であって、「政治的」な機関になることは是が非でも避けなければならなかったため、議員の集会は、全体会ではなく、専門部会ごとにしか開催されず、審議の経過も公表されることはなかった。議員の着席位置も、政治的なグループ形成を嫌って、アルファベット順という念の入れようであった。

「労働、家族、祖国」の中でも、ペタンみずから「国家や個人より優越する」と説いた家族の権利の尊重は、モーラス主義そのものでもあるが、家族保護政策自体は、出生率向上を目指した第三共和政末期の「家族法」の延長線上にあった。1939年7月29日の法を改良する形で, 1941年には出生手当受給資格が第1子にまで繰り上げられ、各種手当の支給条件が撤廃されている。ただし飴だけでなく鞭もあった。堕胎は厳罰に処せられ、特に堕胎幇助者は死刑の対象にもなったことは、映画『主婦マリーがしたこと』で描かれている。

他方、第三共和政の政策と完全な断絶が、政教分離の放棄、具体的には公教育の中立性の否定であり、宗教教育の復活であった。「(エミール・)コンブの専制」を諸悪の根源として、「ミサでは良いことしか学ばない」というペタンの言葉は象徴的であった。

社会経済政策に目を転じてみよう。ヴィシーにおいては、産業の「コルポラティスム的再編成」がスローガンであったが、実際に適用されたのは農業分野だけであった。これは農民を国の基本にすえたモーラスの思想に合致していたこともあるが、多分に現実的要請に基づくものでもあった。つまり国土の半分以上が占領下に置かれ、主要な産業地帯が占領下にあり、失業者が溢れているなかでは、帰農政策が実際的な意味を持ったのである。かくして1940年12月に創設された、農業コルポラシオンは、モーラスの「君主制アンケート」の寄稿者の理想をかなえることになった。その後次第に厳しくなる食料事情を乗り切る要請から、当初のコルポラティスムの理想に比べると集権的な構造にはなっていくが、それでも、この組織は「解放」後も生き残っている。

反ユダヤ主義にかかわる対独協力は、行政的対独協力に分類するのが適当であろう。本来、行政上の「協力」は、ハーグ陸戦条約の中に規定された、占領者に対する、被占領者の協力という範躊に属するが、これはあくまで通常の行政の円滑な運営のための規定である。しかし、フランス行政当局のユダヤ人移送(デポルタシオン)への関与、つまり人道に対する罪への加担が明らかになった1980年代以降、行政的協力にも注目が集まっている。

国民革命としてのユダヤ人迫害としては、ヴィシー政権が独自に、モーラスのスローガン、そして最近では極右国民戦線のスローガンにも使われている「フランスをフランス人に」を実行している。まず1940年7月22日の法によって、1927年にまで遡ってフランス国籍取得の当否が再検討され、8月27日には、反ユダヤ主義中傷を罰する1939年4月21日の法が廃止されている。そして10月には一連の法律でユダヤ人差別が本格化する。 10月3日の法律で、ユダヤ人は公職とジャーナリズムに就くことができなくなり、10月4日の法は知事に外国籍ユダヤ人の収監や居住地指定の権限を与え、10月7日には、アルジェリア在住ユダヤ人にフランス国籍を与えていたクレミュ法が取り消されている。

特筆すべきは、これら一連の反ユダヤ立法にはドイツ側の介入の形跡は一切ない、文字通りヴィシーのオリジナルであったということである。したがって、差別対象のユダヤ人の選定についてナチのそれとの差異があったとしても、これをナチに比べた寛容性というよりも、フランス独自の反ユダヤ主義の証左とみるべきであろう。フランス国籍を取得して長い年月が経っているユダヤ人家族や、退役軍人を反ユダヤ法の対象の例外にするのは、ヴィシーの論理からすれば自然の流れであった。確かに、1940年10月3日法のユダヤ人規定だけは、本人の宗教ではなく、祖父母のうち3人がユダヤ人であること、と定めているのは人種主義的規定であったが、全体としてはパクストンが指摘するように、カトリック的で国民的(同化志向の)反ユダヤ主義であったといえる。他方、ヴィシーの主権が及ばない、ドイツ占領地区の方では、別個の反ユダヤ政策が進行していた。ユダヤ人の資産を略奪して、非ユダヤ人に売却するという、アーリア化である・。これにはフランス側は、アーリア化の阻止ではなく、管財人をフランス人にすることに全力を注いでいる。1995年のシラク大統領の謝罪の後に設立された、ユダヤ人資産略奪調査のための委員会、通称マテオッリ委員会が調査したところでは、結果的にフランス側の抵抗はかなりの程度功を奏して、ドイツ側の手に渡る資産を最小限にとどめたということがわかっている。しかしながら、これは、ユダヤ人迫害からユダヤ人を守ったということではなく、ユダヤ人迫害における主導権を確保しようとしたに過ぎない。

さらにヴィシー政府は、1941年3月には占領地域内にも権限を行使できる、ユダヤ人問題を統括する役所を創設し、モーラス主義者で名高いグザヴィエ・ヴァラを初代所長に任命している。ヴィシー側のこの主権へのこだわりは、結果的にはやぶへびであった。当初は、フランス側の反ユダヤ姿勢に無関心ですらあったドイツ側が、1941年後半からは、この分野でも直接影響力を行使する方向に政策を転換している。そして、1942年春にはヴァラがナショナリスト過ぎるとしてドイツ側から排斥され、代わって正真正銘の人種差別主義者、ダルキエ・ド=ペルポワがユダヤ人問題の責任者になっている。そして、1942年1月のヴァンゼー会議で決定された「最終解決」の路線にヴィシーは従うことになる。占領地域内の収容所から、外国籍ユダヤ人を載せた最初の貨車が発ったのは1942年3月で、6月にはヒムラーが西ヨーロッパからアウシュヅィッツなどの絶滅収容所に移送するユダヤ人の数を決定している。フランスからは10万人が割り当てられ、結果的にフランスから送られたのは7万5,000人あまりであったが、特に悪名高いのが、7月16日のパリでの一斉検挙で、フランス警察が捕らえた1万3,000人は、いったん冬季競輪場に収容され、ドランシー等の一時収容所を経由してアウシュヅィッツに送られている。なお、フランス国内にも絶滅収容所の機能を持たされた収容所が存在していた。アルザスのナッツヴァイラーにあったシュトリュトホフ収容所はガス室も備えていた。

観光立国 移動と交流という思想

2015年07月20日 | 5.その他
『新・観光立国論』より 移動と交流という思想--観光を支える哲学 移動は人間を賢くする

日本で進んでいる少子高齢化で国を衰亡させない知恵として観光立国が重要であるという視点を提起してきたが、もう少し踏み込んで、観光を移動と交流という思想として考えておきたい。

そもそも「観光」という言葉は、日本では古くから頻繁に使われてきた言葉ではない。江戸時代末期の1854年、幕府はそれまでの鎖国から開国へと転じたが、それを機にオランダ政府からスンビン号という蒸気船を寄贈される。幕府はその船に「観光丸」という名前をつけたのである。この観光は中国の古典『易経』の「観国之光(国の光を観る)」からとつたもので、国・地域のすぐれたものを直視し、輝かせるという前向きの姿勢を意味していると解釈される。この観光丸以降、日本で「観光」という言葉が二般に使われるようになったのである。ちなみに、1860年に太平洋を渡った「咸臨丸」の咸臨も『易経』からとられた言葉である。

そもそも人類は移動によって進化してきたと言える。ホモ・サピエンスのアフリカ単一起源説が21世紀に入って検証されている。旧人に対する新人と言われるホモ・サピエンスは約6万年前にアフリカの地を離れ、ユーラシア大陸へと動き始めた。いわゆる「グレートジャーニー」と呼ばれる人類のアフリカからユーラシア大陸、最終的にはアメリカ大陸の南端まで至る移動の始まりである。極東の島である日本列島にたどり着いたのは、最近発掘された人骨などによって、およそ3万8000年前のことだろうと言われている。

移動してその地の環境に適応するという闘いを繰り返しながら、人類は進化してきた。例えば、北に移動した人類は寒さに耐えながら生き延びるために、アザラシやセイウチを食べるなど、食べ物を変えたり、毛皮を身につけたり、住む場所を工夫したりした。こうした環境に適応するためのさまざまな努力をすることによって、人類は知恵を育んできたのである。移動によって人類に活力がもたらされ、賢くなってきたことが、最近の人類史や生命科学の研究からも検証され始めている。適者生存、つまり、「強い者が生き延びたのではなく、適応した者が生き延びた」のである。

移動は人間を賢くするというのは、おそらく多くの人が自分の生活のなかでも実感していることだろう。例えば、地方から都会に出てきて、刺激を受けて、再び故郷に戻るというのは、人間を格段に賢くする。世界を旅してくると、自分が生まれ育った国である日本に対して、考えを新たにする。異なる自然に触れて季節の変化を感じ取る力を身につけ、自分が出会った人の心や言葉から受け取ったメッセージに対して考えを巡らせてみる。自分たちがいかに恵まれていたかに気づき、また、自分の知らないことが世界にはたくさんあることに気づく。そうした気づきのなかから人間は賢くなってい

私自身も航空機や新幹線に乗っている間に、すぐ前に自分が会ってきた人や見てきたものを思い出し、頭のなかで整理して、じっくりと考える習慣がある。そういう営みのなかで人間は刺激を受けて、知恵がついてきたことを実感するのである。観光立国というのは、観光産業を発展させて将来の日本を支えていこうといった経済の話にとど圭るのではなく、移動と交流を深めることによって、日本人の一人ひとりが自分を磨き、眼を開き、世界観を進化させることにもつながっていく。ここで、移動と交流という思想をぜぴ共有しておきたいのである。

海外から外国人がやってきたり、日本人が海外に行ったりすることを観光立国論と言いがちだが、日本国内における移動も日本人一人ひとりが知恵を磨き、賢くなっていくためには重要である。このとき、単に物見遊山に走り回って移動していればそれでよいというものではない。キーワードとしでは二地域居住論、もしくは多地域居住論(マルチ(ビテーション)と呼んでもよいが、いずれにしても2つ以上の地域に居住してその間を移動することは人間を賢くし、ひいては経済に活力を与えることにつながるはずである。だからこそ、二地域居住が重要になってくるのである。

先ほど触れた「食と農のツーリズム」で言えば、サラリーマンを定年退職したらすぐに鍬を持って農業を始めよう、という意味ではない。そんな話は絵空事で、農業はそれほど安易なものではないだろう。しかし、今、地方で少しずつ動き始めている農業生産法人や新しいスタイルの農家が、リタイアした人たちの多様な受け皿となっていくことが考えられる。長年、会社で経理を担当していた人が、どこかの農業生産法人の経理を支えたり、商社マンたった人が農業生産法人のマーケティングを手伝うということもあり得る話である。

田舎に移り住んで専従で農業に関わるのではなく、例えば1週間から10日間だけでも手伝えばよいというのであれば、十分に現実味のある話だろう。長野県、山梨県でも埼玉県、群馬県でもよいが、農業生産法人がそうした能力を持つ人たちが1週間でも参加できるようにし、同時に地方公共団体などが生活できる共有スペースをつくって提供し、二地域居住ができる態勢を整えるのである。そうすると、都心のマンションや団地に住んでいる人のなかには1か月のうち1週間程度、田舎に行って自分のやれる範囲で農業生産法人の手伝いをしてみようという人も出てくるに違いない。そうした参画型農業で食料の増産も構想できるはずで、実際すでに一部は現実に動き始めているのである。

二地域居住というと、別荘住まいを想像しがちで、金持ちの生活のように思われるかもしれない。しかし物見遊山的な観光ではなく、田舎の食や農業を支える営みに参画して、生産的な意味のある形で移動する試みと捉えると、観光が持つ移動と交流の意味が深まるはずである。つまり、目的として意味のある移動をシンボリックに表現したものが、二地域居住なのである。都心回帰が進んで都心のマンションなどに住む人が増え、高齢者が増えるほど、逆に地方回帰、田舎志向、自然回帰の願望が高まるだろう。その両方を満たしていく二地域居住を軸に、日本国内の人の移動と交流が描けるなら、ツアー観光客を増やすのとはまた異なる、社会的にも大変意味のあることが見えてくるぱずであ

しかも、移動をすれば人間は必ず消費する。自分自身の行動を考えてもわかるが、新幹線でどこかに行くとき、たいていは飲み物やお菓子、ときには駅弁の1つも買うのが人間の習性だろう。二地域居住が始まると最初のうちは月に1回、1週間ほど共同生活するために泊めてもらうという形で済むかもしれない。しかし、そのうち腰を据え、その地域に自分の活動拠点を確保するようになると、テレビなど家電製品を買ったり、ソファを置いたり、センスのよいカーテンをつけたりという形で、必ず消費活動につながっていく。

移動をすれば人間は消費する、というのは事実である。日本の消費を分析したデータはたくさんあるが、そこに特徴があるとすると、それは日本人の消費行動はスペースに制約されていることだろう。つまり、都会の狭苦しい3畳1間に住んでいる人にこれ以上買えと言っても、スペースがないために制約を受けるのである。多少なりとも貯蓄があって余裕のある生活をしている人でも、押し入れを開けたらなかにぎっしりと物が詰め込まれ、ガラガラと落ちてきそうな住環境にある人には、これ以上何かを買わせようとしても無理である。二地域居住はスペース制約を取り除くためにも、きわめて賢い消費を高める方法だと言える。移動と交流が消費を高めて経済に活力を与える理由の1つがここにある。

「荒れ野の四○年」ヴァイツゼッカー

2015年07月20日 | 4.歴史
『20世紀の平和思想』より 「荒れ野の四○年」ヴァイツゼッカー

五月八日は、ドイツの歴史のみならず、ヨーロッパの歴史に深く刻み込まれております。

ヨーロッパの内戦は終り、古いヨーロッパの世界は崩れ去っておりました。歴史学者ミハエル・シュチュルマー教授の言をかりれば「ヨーロッパは戦い尽した」のであります。停戦の直前、東西から進撃してきた米ソ両軍兵士のエルベ河畔での誓いは、さし当ってヨーロッパの一つの時代が終ったことのシンボルでした。

これらが古くからの歴史に根ざしていることは確かです。ヨーロッパの人間は世界中で大きな、それどころか決定的な影響力をもっていましたが、自らの大陸での互いの共存関係はしだいにぎすぎすしたものになってまいりました。ヨーロッパでは百年以上にわたってナショナリズムがあまりにも高まり、その衝突に苦しんできたのであります。第一次大戦が終るとヴェルサイユ条約など一連の平和条約が締結されました。しかし、これらには平和を樹立する力が欠けておりました。民族主義的な激情の炎が再び燃え上がり、社会の窮状と結びつくこととなったのであります。

災いへの道を推進したのはヒトラーで、大衆の狂気を生み出し、これを利用しました。脆弱なヴァイマル期の民主制にはヒトラーを阻止する力がありませんでした。そしてまたヨーロッパの西側諸国も無力であり、そのことによってこの宿命的な事態の推移に加担したのですが、(イギリスの元首相)チャーチルはこれを「悪意はないが無実とはいいかねる」と評しております。そしてアメリカは、第一次大戦のあとまた(孤立主義の立場をとって)内に引きこもり、三〇年代にはヨーロッパに対して影響力をもっておりませんでした。

ヒトラーはヨーロッパ支配を望みました。しかも戦争によってであります。ヒトラーはポーランドに戦争の手がかりを求め、これを発見いたしました。

戦争の始まる数か月前の一九三九年五月二十三日、ヒトラーはドイツ軍の将官を前に次のように言明しております。

血を流すことなくこれ以上の成果をあげることはできぬ。……ダンツィヒが当面の目標なのではない。

われわれの関心は、東方における生存圏の拡大であり食糧の確保である……

つまりポーランドに手を出さない、などというのは問題外である。残るは最初の好機をとらえてポーランドに攻撃を加える決心をするだけのことである

このさい正義やら不正、条約がどうのなどというのは、一切どうでもいいことである。

一九三九年八月二十三日、独ソ不可侵条約が締結されました。秘密の付属議定書には目前のポーランド分割についての規定がありました。

この条約が結ばれたのは、ヒトラーのポーランド侵入を可能にするためです。当時のソ連指導部はこのことを重々承知しておりました。独ソ条約がヒトラーのポーランド侵入、そして第二次大戦を意味することは、政治を考えている当時の人間ならだれもが知っていることでした。

だからといって第二次大戦勃発についてのドイツの罪がいささかも軽減されることはありません。ソ連は、自らの利益のために、他の民族の戦いを止むなしとしたのであります。しかしながら、大戦のイニシャティヴをとったのはドイツであって、ソ連ではありません。

暴力に訴えたのはヒトラーであります。第二次大戦の勃発はドイツの名と切り離すわけにはまいりません。この戦いの間、多くの民族がナチズムの統治の下に苦しみ、汚辱にまみれてまいりました。

苦しめられ、隷属させられ、汚辱にまみれた民族が最後に一つだけ残りました。ほかでもないドイツ民族であります。この戦いに勝利を収める力がないなら、ドイツ民族など亡びてしまうがいい--ヒトラーは繰り返しこう述べております。こうしてわれわれ自身が自らが始めた戦いの犠牲となる前に、まず他の諸民族がドイツを発火点とする戦いの犠牲となっておりました。

このあと、ドイツは戦勝国同士の申し合わせに従いさまざまな地域に分割されました。この間にソ連は、戦時中ドイツが占領していた東ヨーロッパ、東南ヨーロッパのすべての国に攻め入りました。ギリシャを例外として、これらの国はすべて社会主義国となりました。

ヨーロッパは二つの異った政治体制への分裂の道を辿りだしました。この分裂を固定したのが戦後の情勢であることは確かですが、ヒトラーが始めた戦いなしにはこの分裂もなかったでしょう。戦禍に遭った諸民族がドイツの指導者たちの始めた戦いを思い起こすとき、まっ先に考えるのはそのことに他なりません。

自らの国土が分割され、ドイツの領土が大きく失われたことをみるとき、われわれが考えるのもそのことであります。五月八日にあたって(東西にまたがる)ベルリン司教区のヨアヒム・マイスナー司教は「罪がもたらす絶望的な結果は常に分裂である」と説いておられます。

破壊も恣意的でしたが、人びとへの重荷も恣意的でした。罪なくして迫害された人たちの一方に、まんまと逃げおおせた罪人がおりました。住み慣れた環境の中で新しい生活を築く幸運に恵まれた人たちもいれば、父祖の地を追われた人たちもいました。

のちにドイツ連邦共和国となった地域に住むわれわれは、自由という貴重なチャンスを与えられました。(しかし東のドイツ民主共和国には)何百万もの同胞が今日に至るまで自由の恩恵に浴することができないでいます。

物質面での復興という課題と並んで、精神の面での最初の課題は、さまざまな運命の恣意に耐えるのを学ぶことでありました。ここのところで他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去ることをしないという、人間としての力が試されていたのです。またその課題の中から、平和への能力、そして内外との心からの和解への心構えが育っていかねばなりませんでした。このことこそ他人から求められていただけでなく、われわれ自身が心から望んでいたことでもあったのです。

かつて敵側だった人びとが和睦しようという気になるには、どれほど自分に打ち克たねばならなかったか--このことを忘れて五月八日を思い浮かべることは許されません。ワルシャワのゲットーで、そしてチェコのリディツェ村で虐殺された犠牲者たち--われわれは本当にその親族の気持になれるものでしょうか。

ロッテルダムやロンドンの市民にとっても、ついこの間まで頭上から爆弾の雨を降らしていたドイツの再建を助けるなどという気になるのは、どんなにか困難なことだったでしょう。そのためには、ドイツ人が二度と再び暴力ずくで敗北に修正を加えることはない、という確信がしだいに深まっていく必要がありました。