『哲学論集』より 複雑現象の理論 さすがハイエク。何を言っているのかわからない
おそらくつけくわえるに値するであろう点として、以上の考察が、理論的科学の目的は「法則」を確立することであるという広範に支持されている見解に疑いを投げかける、ということがある。少なくとも、「法則」という語が普通理解されているように使用されているかぎりではそうである。たいていの人は、たとえば「科学的法則とは、それにより一つの現象が因果の原理に応じて、すなわち原因と結果として結合される規則である」というような「法則」の定義をたぶん受けいれるであろう。だが伝えられるところによると、マックス・プランクほどの権威が、真の科学的法則は一つの方程式で表現できるものでなければならない、と主張したというのである。
さて、ある構造体は、多数の連立方程式からなる体系により限定される複数(それでも無限個だが)の状態のうちどれか一つだけをとる可能性がある、という言明はなお完全に適切な科学的(理論的かつ反証可能)な言明である。もちろんこのような言明も、そう呼びたければ、「法則」と呼べないことはないだろう(それは言葉にたいする暴力だと感じる人がいてももっともだが)。しかしそのような語法の採用は、重要な区別を無視させることになりがちである。というのも、そのような言明が、普通の法則と同じように、原因と結果の関係を記述している、と述べるなら、誤解を招くことはなはだしいからである。それゆえ、普通の意味での「法則」観は複雑現象の理論にはほとんど妥当性をもたず、したがってまた科学的理論を「法則論的」あるいは「法則定立的」(あるいはドイツ語によりGesetzeswissenschaften[法則科学])と記述することもまた、単純現象の理論をそれに還元しうるところの二変数問題あるいはせいぜい三変数問題にのみ適切であるにとどまり、一定水準の複雑性を越えて初めて現れる現象の理論にはふさわしくないのである。仮にある複雑構造体を記述するそのような方程式体系の他の媒介変数すべてが定数であると想定するなら、もちろん残った一方の他方にたいする依存関係を「法則」と呼び、一方における変化を「原因」、他方における変化を「結果」と記述することも可能である。しかしそのような「法則」は、他の全媒介変数がとる値のうちただ一つの具体的組み合わせについてのみ有効であるにすぎず、それらの値のどれか一個にでも変化があればそのたびに「法則」が変化してしまうであろう。これは明らかにあまり有益な「法則」観ではない。問題の構造体の規則性にかんして一般的に妥当する唯一の言明は、媒介変数の値が連続的に変化可能なら、ある一変数の別の一変数にたいする依存関係を示す無限個の具体的法則をそこから導くことができる、多数の連立方程式全体以外にはないのである。
この意味で、なんらかの種類の複雑現象にかんして大変洗練されたきわめて有益な理論に到達したにもかかわらず、その種の現象が従う通常の言葉の意味での法則をわれわれは一つも知らないということを認めなければならない、ということが十分ありうるのである。このことは、社会現象について大いに当てはまると思う。つまりわれわれは、社会構造体のさまざまな理論をもっているけれども、社会現象の従う「法則」をなにか知っているのかどうかは疑わしい、と私は考えている。そうだとすると、事態は次のようになるだろう。法則発見の追求は科学的手続きの適切な保証ではなく、すでに限定したような単純現象の理論の一特徴に過ぎない。そして複雑現象の分野においては、原因・結果の概念同様、「法則」という語もまた、その通常の意味を奪うような修正をせずには適用できない。
「法則」つまり二変数関係の規則性を発見することが広く強調されるのは、ある意味で帰納主義の結果であろう。明示的な理論または仮説がつくられるまでは、二つの量の単純な共変動のみが五感を打つことになりがちだからである。もっと複雑な現象の場合には、事物が実際に理論どおりに振る舞うかどうかを突きとめるために、まずわれわれが当の理論をもたなければならない、という点がいっそう明白になる。もし、こんな風に理論的科学を、ある量の別の量への依存関係という意味での法則の追求と同一視しなかったならば、おそらく混乱の多くはなくて済んだはずである。たとえば、生物学上の進化論が、複数の段階または形態のあいだの必然的な継起の法則のごとき、なにか確固とした「進化の法則」を提示している、とする誤解は防げたかもしれない。もちろん進化論はそのようなことはなに一つしてこなかったし、それをしようとする試みはすべて、ダーウィンの偉大な業績の誤解の上に立っているのである。そして、科学的であるためには人は法則を生みださなければならない、という偏見がもっとも有害な方法論上の観念の一つであると分かるようなことが今後にあるかもしれない。このことが明白となる日もやがて来るだろう。単純な言明が意義をもつすべての分野では、「単純な言明の方が……より高く賞賛されるべきである」という指針は、ポパーの挙げている理由からしてある程度有益であろう。しかしそこでは単純な言明がすべて偽とならざるをえないことを示すことが可能で、その結果「法則」への偏愛が有害となってしまうような分野が、つねに存在しつづけるように、私には思われるのである。
おそらくつけくわえるに値するであろう点として、以上の考察が、理論的科学の目的は「法則」を確立することであるという広範に支持されている見解に疑いを投げかける、ということがある。少なくとも、「法則」という語が普通理解されているように使用されているかぎりではそうである。たいていの人は、たとえば「科学的法則とは、それにより一つの現象が因果の原理に応じて、すなわち原因と結果として結合される規則である」というような「法則」の定義をたぶん受けいれるであろう。だが伝えられるところによると、マックス・プランクほどの権威が、真の科学的法則は一つの方程式で表現できるものでなければならない、と主張したというのである。
さて、ある構造体は、多数の連立方程式からなる体系により限定される複数(それでも無限個だが)の状態のうちどれか一つだけをとる可能性がある、という言明はなお完全に適切な科学的(理論的かつ反証可能)な言明である。もちろんこのような言明も、そう呼びたければ、「法則」と呼べないことはないだろう(それは言葉にたいする暴力だと感じる人がいてももっともだが)。しかしそのような語法の採用は、重要な区別を無視させることになりがちである。というのも、そのような言明が、普通の法則と同じように、原因と結果の関係を記述している、と述べるなら、誤解を招くことはなはだしいからである。それゆえ、普通の意味での「法則」観は複雑現象の理論にはほとんど妥当性をもたず、したがってまた科学的理論を「法則論的」あるいは「法則定立的」(あるいはドイツ語によりGesetzeswissenschaften[法則科学])と記述することもまた、単純現象の理論をそれに還元しうるところの二変数問題あるいはせいぜい三変数問題にのみ適切であるにとどまり、一定水準の複雑性を越えて初めて現れる現象の理論にはふさわしくないのである。仮にある複雑構造体を記述するそのような方程式体系の他の媒介変数すべてが定数であると想定するなら、もちろん残った一方の他方にたいする依存関係を「法則」と呼び、一方における変化を「原因」、他方における変化を「結果」と記述することも可能である。しかしそのような「法則」は、他の全媒介変数がとる値のうちただ一つの具体的組み合わせについてのみ有効であるにすぎず、それらの値のどれか一個にでも変化があればそのたびに「法則」が変化してしまうであろう。これは明らかにあまり有益な「法則」観ではない。問題の構造体の規則性にかんして一般的に妥当する唯一の言明は、媒介変数の値が連続的に変化可能なら、ある一変数の別の一変数にたいする依存関係を示す無限個の具体的法則をそこから導くことができる、多数の連立方程式全体以外にはないのである。
この意味で、なんらかの種類の複雑現象にかんして大変洗練されたきわめて有益な理論に到達したにもかかわらず、その種の現象が従う通常の言葉の意味での法則をわれわれは一つも知らないということを認めなければならない、ということが十分ありうるのである。このことは、社会現象について大いに当てはまると思う。つまりわれわれは、社会構造体のさまざまな理論をもっているけれども、社会現象の従う「法則」をなにか知っているのかどうかは疑わしい、と私は考えている。そうだとすると、事態は次のようになるだろう。法則発見の追求は科学的手続きの適切な保証ではなく、すでに限定したような単純現象の理論の一特徴に過ぎない。そして複雑現象の分野においては、原因・結果の概念同様、「法則」という語もまた、その通常の意味を奪うような修正をせずには適用できない。
「法則」つまり二変数関係の規則性を発見することが広く強調されるのは、ある意味で帰納主義の結果であろう。明示的な理論または仮説がつくられるまでは、二つの量の単純な共変動のみが五感を打つことになりがちだからである。もっと複雑な現象の場合には、事物が実際に理論どおりに振る舞うかどうかを突きとめるために、まずわれわれが当の理論をもたなければならない、という点がいっそう明白になる。もし、こんな風に理論的科学を、ある量の別の量への依存関係という意味での法則の追求と同一視しなかったならば、おそらく混乱の多くはなくて済んだはずである。たとえば、生物学上の進化論が、複数の段階または形態のあいだの必然的な継起の法則のごとき、なにか確固とした「進化の法則」を提示している、とする誤解は防げたかもしれない。もちろん進化論はそのようなことはなに一つしてこなかったし、それをしようとする試みはすべて、ダーウィンの偉大な業績の誤解の上に立っているのである。そして、科学的であるためには人は法則を生みださなければならない、という偏見がもっとも有害な方法論上の観念の一つであると分かるようなことが今後にあるかもしれない。このことが明白となる日もやがて来るだろう。単純な言明が意義をもつすべての分野では、「単純な言明の方が……より高く賞賛されるべきである」という指針は、ポパーの挙げている理由からしてある程度有益であろう。しかしそこでは単純な言明がすべて偽とならざるをえないことを示すことが可能で、その結果「法則」への偏愛が有害となってしまうような分野が、つねに存在しつづけるように、私には思われるのである。