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販売店のコンサル

アインシュタインは参考文献なし

 アインシュタインは特殊相対性理論の発表に一つの参考文献も挙げていない。自分の理論を独自にたどり着いた。そレは思考実験で作られている。予測が当たることで、皆が信じるようになった。決して、阿後出しジャンケンではないことが証明された。

パートナーはなぜ、落ち込むのか

 落ち込むことで助かることがあるからでしょう。本来、落ち込む必要はない。その現象が自分に対して、何を示そうとしているかを分析すればいい。

絶対平和主義

 日本は米国と中国に物理的に勝てない以上は、絶対平和主義しか、日本の進む道はない。これは、徴兵制とか原発の開発だろうと、皆、同じです。その道がどうなるかはちょっとした想像力で分かるはずです。しっかりした道を求めないといけない。

パートナーの電話相談

 7時前に電話相談のメールが入りました。奥さんが帰ってきたのは、7時で、それからリクの散歩に出ていたので、8時にスタンバイするのは大変でした。忙しかった。

 「失敗ばかり」という感覚に入り込んでいる。この1ヶ月で学んだのは、「できない」を言うことです。何とかしようと気持ちが先走り、確認不足で、後で揉めています。今日もそうです。申請期限は6月です。期限を守らない方が悪いと、まず断るべきでした。最近思うのが、先任者を見習う点があったことです。

販売店のコンサル

 仙台の販売店の社長が私を探していたという話を山梨の販売店の社長がFBメッセンジャーで伝えてきました。仙台の社長とは、気が合った。珍しいことです。仙台の販売店は富山に比べると、活気がなさそうに見えます。

 会社を辞める前から、人との関係を断つようにしていました。年賀状も一切止めていました。母親が亡くなり、私と社会とのつながりを断つことを決めました。絶対的な存在だけが私の世界とつながるように勝手に決めました。

 全てを知ることが出来たら、仙台の販売店のコンサルをしようか。それとスタバのコンサル。
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アインシュタイン相対論

『20世紀物理学史』より

26歳のアルバート・アインシュタインは、1905年6月に特殊相対性理論を作り上げた当時、物理学者のコミュニティでは無名だった。『物理学年報』にアインシュタインが投稿した論文は、物理学に革命を起こした著作としての後年の地位はもちろんだが、それだけでなく、いくつもの意味で注目すべきものだった。たとえば、これには一つの参考文献も含まれておらず、そのため理論の源泉が曖昧になった。これは後世の科学史家によって詳しく調査されてきた問題である。アインシュタインは文献にそれほど通じておらず、自分の理論にまったく独力でたどり着いていた。ポワンカレの専門的でない著作のいくつかや、ローレンツの1895年の仕事については知っていたけれども、ローレンツによる(あるいはラーモアによる)変換方程式の導出については知らなかったのである。アインシュタインの論文に関するもう一つの奇妙な事実は、マイケルソン・モーリーの実験に言及していなかったこと、さらに言うならば、エーテル風の検出に失敗し、運動物体の電気力学に関する文献で日常的に議論されていた、そのほかの光学的実験に言及していなかったことである。しかしながら、アインシュタインはその論文を書いた当時、マイケルソン・モーリーの実験を知っており、そればかりかその実験はアインシュタインにとって特別な重要性をまるで持っていなかったという、説得的な証拠が存在する。アインシュタインは実験を説明するために自分の理論を発展させたのではなく、単純性と対称性についてのはるかに一般的な考察から研究を行った これらは主として、マクスウェルの理論への深い関心や、力学の法則と電磁気現象を支配している法則とのあいだには原則として違いが一切ありえないはずだという彼の信念に関連していた。アインシュタインの相対論への道にあっては、思考実験が実際の実験よりも重要であった。

当時としてはきわめて異例なことに、アインシュタインの論文の決定的に重要な第1部は、運動学であって動力学ではなかった。アインシュタインは二つの前提から出発した。第一のものが相対性原理で、「力学の方程式が成立するすべての準拠座標系に対して、電気力学と光学の同一の法則が成り立っであろう」と定式化された。もう一つの前提は、「光は常に、それを放出する物体の運動状態によらない一定速度Fで真空中を伝わる」というものであった。エーテルに関しては、アインシュタインはそれを表面的だとしてあっさり無視した。この公理的基盤からアインシュタインは、長さ、時間、速度、同時性といった、一見したところ基本的な概念についての考察に進んだ。アインシュタインの目的は、こうした基本概念を明確にすることだった。非常に単純な議論によってまず、同時性が絶対的には定義されえず、観測者の運動状態に依存することを示した。次にこの洞察を応用して、絶対時間と物体の絶対的な長さとの首尾一貫した概念が決して存在しないことを示した。静止系と、それに関して一様に運動しているもう一つの系とのあいだの(ローレンツ)変換は、純粋に運動学的に導き出された。

ローレンツやポワンカレのものとは反対に、アインシュタインの公式は現実の、物理的に測定可能な空間・時間座標に関係していた。ある系はほかの系と同じく実在的であった。変換方程式からは、速度の合成公式や運動物体の収縮、それに時間膨張すなわち時間の幅が観測者の速度に相対的であること、が帰結した。アインシュタインの変換時はいかなる時間とも同様にこの上なく実在的であり、この点において、ローレンツの局所時とはまったく違っていた。二つの速度の合成は最終速度を与え、そしてアインシュタインが注意したように、このことは光速が光源の速度と独立であるという直観に反する結果を含意している。

相対性理論の基礎は運動学の部において、より正確にはその二つの前提において与えられた。自分の論文の標題が「運動物体の電気力学について」であることをアインシュタインが正当化したのはようやく第2部においてである。アインシュタインは、彼によれば空間・時間座標と同じ意味で相対的な量である、電磁場に対する変換公式を導いた。しかし場の量は運動状態に相対的であったけれども、それらを支配する法則は違っていた。マクスウェルーローレンツの方程式はいかなる参照枠においても同じ形をしていると、アインシュタインは証明した それは相対論的に不変なのである。アインシュタインの理論によれば、多くの物理量は観測者の運動に相対的だが、ほかの量(たとえば電荷や光速)や物理学の基本法則は同じままである。そしてこうした不変性こそが、根本的なのである。この理由のため、アインシュタインは本来ならば自分の理論を、「不変理論」という多くの誤解を防いだかもしれない名前で呼ぶほうを好んだことだろう。「相対性理論」(relativity theory)という名前はプランクによって1906年に導入され、急速に受け入れられた。皮肉なことに、プランクは、アインシュタインの理論の本質はその絶対的な特徴に--相対的な特徴にではなく--あると考えていた.

アインシュタインの論文を読んだほとんどの人は、おそらくそれを当時流行の量子論に対する貢献とみなし、その運動学の部にはあまり注意を払わなかった。だがアインシュタインは電子論の理論家では決してなかったし、彼の理論は、それが基づいている前提の通り、まったく一般的であった電気的であるにせよそうでないにせよ、あらゆる種類の物質に対して結果は妥当すると主張されたのである、アインシュタインは次のように書くことで、同時代の電子論からの距離を示唆した。すなわち、自分の結果はマクスウェルーローレンツの理論から導かれるけれども、「重さのある質点に対してもやはり妥当する。なぜなら重さのある質点は、[その質点が]どれほど小さいにせよ、電荷の追加によって、電子にの言葉の我々の意昧での)にすることができるからである」(Miller 1981)。この種の「電子」は、電磁気学的世界観には居場所がなかった。質量とエネルギーのあいだの等価性は1905年にはよく知られていたが、それはもっと狭い、電磁気学的解釈においてであった。[それに対して]アインシュタインのE=mc2はまったく一般的だった。
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「婚活」--結婚はお金? それとも愛情?

『現代社会論』より 家族--なぜ少子高齢社会が問題となるのか 「少子化」--減りゆく子どもと変わりゆく家族 日本における結婚の歴史

もともと、日本の結婚は男女個人の間で行われるものではなく、男女が所属する一族や家の間で行われるものであった。そう聞くと、多くの人は意外に思うかもしれない。

本来のお見合いは、若い男女がお互いを見初めるためのものではなく、むしろ親同士の話し合いであり、ときに本人不在のまま行われることさえあった。花婿と花嫁は結婚式の当日にはじめて顔を合わせ、そのまま初夜を迎えることも稀ではなかった。ごく最近まで、結婚式の招待状が結婚する男女の名義ではなく、両家の家長である2人の父親の連名で出されてきたことを思えば、「結婚は家同士のもの」という感覚がそれほど古いものではないことがわかる。これに対して、恋愛のみに基づく男女関係は「野合」などと呼ばれ、恥ずべきものとされてきた。家柄や格を重んじる、しきたりに則った媒酌結婚に比べて、非文明的な愚行という意味である。

その理由は、結婚の目的は恋愛の成就でも個人の満足でもなく、先祖代々のお墓や家の財産の継承のためにその家の子どもを産み育てることに重点が置かれていたためである。すなわち、子どもを産めないこと、とりわけ男子を産めないことが問題となる一方で、恋愛感情は結婚の維持にとって重要ではなかった。仲人だけでなく、地域や親族共同体もまた、結婚を支援し維持する責務を真の撮り方から、グループ面接の練習まで、内定を勝ち取るための厳しい「シュウカツ」が誕生してきた状況によく似ている。

具体的には、高度経済成長期から低成長期、その後の不況期にさしかかると、高度経済成長期に出現した「誰もが結婚できる社会」はその前提条件を失っていくことになる。

第1に、は女性に結婚しなくても自分の生活を支えるだけの経済力をもたらすことになる。結婚して子どもを産めば仕事を辞めざるをえない社会では、結婚をあきらめるか、仕事をあきらめるに値する条件のよい相手が現れるまでは容易に結婚に踏み切れないのも当然である。

第2に、景気の後退は、結婚相手の男性によって結婚後の生活や豊かさの見通しが大きく異なるという競争的な状況を作り出す。相対的に経済力も展望も乏しい若い世代の男性と無理に結婚に踏み切るよりも、より条件のよい相手が現れるまで結婚を先延ぱしにするインセンティブが働くことになる。

第3に結婚後の生活形態もかってのように一様ではなく、とくに夫婦が共にキャリアを維持しようとすると、さまざまな生活上の不便が生じることになる。子どもをもっべきか、保育所はどこにするのか、仕事は続けるのか、どちらが育休を取るのか、といった、従来であれば固定的な家族規範に従っていればよかったさまざまな生活上の問題が、結婚相手の条件として積み上がっていくことになる。もう一度山田の言を借りれば、目青緒的安定」を求めれば「経済的不安定」を受け入れざるをえず、「経済的安定」を求めれば目青緒的不安定」を受け入れなければならないという状況が出現しているのである。

その結果、競争が激化した恋愛・結婚市場においては、資源をもつ者ともたない者との間で格差が広がり、二極化していく傾向にある。とりわけ、男性の稼ぎだけで妻と子どもを養っていく夫稼ぎ手+妻専業主婦という皆婚社会に一般化した結婚モデルが、現代ではますます難しいものになり、親の世代では当たり前だった、「普通の」結婚のカタチをめざすほど、ますます結婚できなくなるという悪循環は、「婚活疲れ」や「婚活ウツ」といった問題も生じさせている。

以上のように、歴史的には家の継承や経済的安定のための経済的なつながりであった結婚は、恋愛結婚が前景化した現在でも子育てを含む経済的協力関係としての側面が強く残っている。

私たちは、愛情のために結婚を不安定なままにおくべきなのだろうか、それとも、結婚を守るために愛情を切り離すべきなのだろうか。

実際、理想の結婚にこぎつけたとしても、離婚件数を婚姻件数で割った(粗)離婚率は1/3を超えており、離婚のリスクも年々増大している。今後も、恋愛と結婚によって安定した生活が得にくくなっていくとすれば、私たちはどのように子どもを育て、どのように年老いた親の面倒をみていけばよいのかを考えていく必要がある。

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地域の人口減少にビジネスで対抗する

『人口蒸発「5000万人国家」日本の衝撃』より

各地で起きている人口減少の大きな原因は、地元で魅力ある仕事を見出せない若者が大都市に流出していることだ。例えば東京圏は毎年約10万人の転入超過となっている。それを食い止めるには、「やりがいがあり、適切な収入が得られる安定した仕事」を地域で創り出すことが最も効果的だといえよう。「課題先進国」日本は、人口減少の危機を「世界に対応策を示すチャンス」ととらえ、各地で成果をあげている取り組みを参考に、地域の魅力アップに果敢に取り組んでいくべきだ。

▽福井県鯖江市【市民が街を変える】

 「シルバー民主主義」として第6章で指摘したとおり、近ごろは高齢者にかかわる問題ばかりが政治的に重視されがちだ。そんななか鯖江市は、若い世代を政治に参加させることで、シルバー民主主義に堕さない努力をしている。

 「平成の大合併」が吹き荒れた時、鯖江市もその嵐に飲み込まれる一歩手前まで進んだ。隣接する福井市との合併による、地場産業の「福井ブランド化」や「ツインシティ構想」が叫ばれた。しかし、2度の住民投票と合併賛成派市長のリコールを経て、合併案は白紙撤回。これを迷走と非難する声もあったが、「地方自治は民主主義の学校」を実践した形となった。 2004年のリコール後に新市長となった牧野百男氏は、この住民参加の経験を無駄にすることなく、様々な施策を打っていく。

 その代表例が、2008年に始めた「地域活性化プランコンテスト」だ。牧野市長と若手社会人によるブログ上での意見交換から発案され、2014年までに7回開催されている。コンテストでは市内外から学生を集め、具体的な課題に対しプランを提案してもらい、それを担当部局が実際の行政案に組み込むことを検討する。

 2013年度には、学生主体の同コンテストの大人版ともいえる「おとな版鯖江市地域活性化プランコンテスト」を初開催。そこで提案された「女子高生を新しい公共の担い手として情報発信してもらう」というプランを採択した。そして、住民自治に無関心な人が多い若者層を巻き込む起爆剤として「JK課」を設置した。 JK課では情報発信だけでなく、公共事業に関する高校生へのヒアリングや意見のとりまとめもしている。

 また、「市民主役条例」を2010年に制定。提案型市民主役事業化制度と銘打って、未婚の男女の出会う場をつくる「出会い交流サポート事業」、60歳以上の高齢者がいきがいを見つけることを目的とした「いきがい講座」など、事業主体を民間に委託し、さまざまな取り組みを続けている。2014年までに100件以上を市民主役事業として採用し、民間と行政の役割分担の見直しを進めている。実際に採用することで自治意識が高まる→事業提案が増える→採用数が増加→より多くの市民の自治意識が高まる、という好循環が生まれている。民間に委託することで効率化も進み、少子高齢化や財政難の圧力を緩和する効果も期待されている。

▽富山市【選ばれるまちづくり】

 自ら「起業家みたい」と称する市長がいる。富山市の森雅志氏だ。

 2002年の就任以来、「選ばれるまちづくり」をキーワードに、地域の魅力向上に取り組んでいる。同市は2008年から5年連続、転入する人の数が転出を上回る状況が続いている。

 富山市では、車がなくても生活できるよう、公共交通を強化。路面電車やJRを市民の重要な移動手段と位置づけ、増便などで利便性の向上を図っている。あわせて、それらの沿線周辺に移住する市民には補助金を出すことで、中心部に人が集まって暮らすまち(コンパクトシティ)への移行を推進している。

 「このままでは30年後に富山市は消滅する」。森氏は危機感に動かされ、自ら市民への説明会に出かけ、コンパクトなまちづくりへの理解と協力を求めた。その数は120回にもおよぶ。

 都市部の際限ない拡散という問題を第5章で検証した。これに対処する施策としてしばしば言及されるコンパクトシティには、公共交通の充実による交通弱者への配慮という側面もある。

 高齢者やシングルマザーなどの社会的弱者を筆頭に、すべての市民が安心して暮らせる環境を整えなければ、真に魅力あるまちづくりはできない。

 「一定の安心感を得られる地域社会をつくることができれば、若者の定住、Iターンが進む。シングルマザー、生活保護世帯、児童養護施設などへの支援を手厚くすることで、富山で暮らすことの安心感を生み出したい」と森氏は語る。

 2015年度には、市役所で働く女性たちの意見をもとに、数多くの「ひとり親支援事業」を立ち上げた。具体的には、従来の児童扶養手当、医療費助成に上乗せする、市独自の育児支援金を支給するーなどの施策だ。

 こうした市のまちづくりに対し、市民からは「20年後でも暮らせる」(市の郊外から中心部に引っ越した50代男性。朝日新聞2009年12月23日付朝刊)といった声が出ている。富山市は現在でも高校卒業後の転出が多いが、社会的弱者が住み良いまちをつくることは、転出者のUターンや、Iターンを増やすことにもつながると考えられている。

▽福岡市【女性に選ばれる街】

 出産適齢期の女性が減ることで自治体が消滅する恐れを指摘した「増田レポート」以来、若年女性の流出が注目を集めている。どうやって女性を地元に留めるかといった議論がなされているが、「引き留める」というニュアンスが女性の選択を抑圧する印象を与えるためか、不満の声も聞こえる。

 女性を引き留めるのではなく、女性に゛選ばれる。都市にならなければならない。そうした都市の例として、福岡市を見てみよう。札幌、仙台、広島など、他の地方中枢都市に比べ、福岡市は多くの20代女性に選ばれている(2010年時点で、各都市の20代男性の数=1としたとき、20代女性の割合は福岡1.09、札幌1.07、広島1.06、仙台1.03となっており、他都市と比べても高い。特に20代後半においては、福岡市では男性人口より女性人口の方が15%以上も高くなっている)。

 最大の理由として、仕事が多いことが考えられる。女性労働力率(15歳以上の女性人口に占める労働力人口の割合)が53.9%と高く、他の地方中枢都市を2%ポイント以上引き離している。医療や小売りといった女性の雇用を生みやすい産業の事業所が多いことからも、その状況がうかがえる。とくにファッション関連の小売業の事業所は数多く、札幌市の1.71倍、広島市の1.39倍、仙台市の1.32倍に上る。これは、女性の生活を豊かなものにする要因にもなっている。

 この点は第1章で述べたように、製造業が好調で将来的にも人口流入が続くと予測されているものの、女性の職場が少ないために女性の圏外への流出が懸念されている名古屋圏とは対照的だ。

 一方、福岡市役所も、係長級以上の役職に占める女性の割合を2018年度までに20%以上にするという数値目標を示すなど、女性が働きやすい環境づくりを進めている。
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生活インフラが消えていく……

『人口蒸発「5000万人国家」日本の衝撃』より 地方の生活インフラの崩壊 「生活インフラ」を維持する最小限の人口とは

【スーパーマーケット】

 生活インフラの中でも、食料品や衣料品、身の回りの生活必需品を扱うスーパーマーケット(以下、スーパー)は、生活に密接にかかわる施設だ。しかし、住宅街の小規模なスーパーなどには、閉店を余儀なくされる店が増えている。

 大きな原因の一つは、自動車が「生活の足」となっていることだ。

 1人1台に近い水準まで自動車が普及している地域では、ふだんの買い物も、品揃えの豊富な郊外のショッピングセンターまで出かける人が増えている。

 しかし2040年になると、車を運転しない高齢者が増加し、身近な中小規模のスーパーは、食品や日用品を手に入れる場としての重要性が増すと考えられる。そこで、ここではその存在可能性を分析する。

 2010年には中小規模のスーパーは全国に約2万店ある。今回の分析では、道路や地形は考慮せず、半径5キロの商圏人口が4500人を下回った場合に撤退の可能性が生じると仮定。 2040年の商圏人口を推計し、撤退可能性のある店舗の割合を都道府県別に割り出した(図表2-6)。

 都道府県別にみると、商圏人口を満たさず撤退する中小規模スーパーの割合が10%以上ある自治体は、2010年には島根県(16%)と高知県(13%)の2県のみだった。それが2040年には9の自治体(北海道、岩手、秋田、鳥取、島根、高知、長崎、大分、鹿児島の各県)に増える。

 一方、中小規模スーパーの商圏外に住む人口の増加率が高いのは、高知県(13.5%)、秋田県(9.9%)、鹿児島県(8.1%)。早くから人口減少が始まり、今後急速に減少が進む地域や、住民が広域に分散する地域において、商圏が成立しなくなる店舗が増えることがうかがえる。人口減少が商圏維持を不可能にし、商店の撤退が商圏内の人口減少をさらに加速させるという悪循環がみて取れる。

 商圏人口が4500人を割り込んでも、現実にはすぐにすべてのスーパーが撤退するわけではない。そこで、撤退する店舗は半数と仮定してランダムにその店舗を抜き出し、残った店舗の商圏人口の変化を市町村人口規模別に分析した。

 意外なことに、商圏外に住む人口の割合(%)は、人口規模1万人未満の市町村でも5ポイント程度しか増えないと予測される。逆にいえば、人口減少とともにスーパーが撤退するので、結果として不便を感じる住民が大きく増えるわけではないのだろう。ここで、分析の一例として、茨城県水戸市周辺におけるスーパーの施設数の変化予測を図表2-8に示した。

 スーパーの撤退後、住民たちが出資して店舗を運営するケースもある。京都府京丹後市の大宮町常吉地区では1997年、住民の手による「つねよし百貨店」が開業。地域のとれたて野菜や保存食を販売するとともに、子どもが遊び、高齢者が集うスペースを提供してきた。一時閉店したが、2012年に再開し、地区の拠点となっている。こうした動きは、全国の過疎地に広がっている。

【コンビニエンスストア】

 コンビニエンスストア(以下、コンビニ)は増加し続けている。TFA コンビニエンスストア統計によると、2015年1月には全国で5万店を超え、スーパーを圧倒している。

 商圏は都市部では狭く、徒歩5~10分、半径500メートルの範囲とされている。一方、地方では車で10~15分の範囲とされる。主な客層は、オフィス街であれば企業などの従業員、住宅街では地域住民、観光地であれば観光客と、地域によって多様だ。

 コンビニの存続条件を、半径500メートルの商圏に人口が3千人以上いることと仮定すると、2010年には全国のコンビニの95%以上がこの条件を満たしていたと推計される。

 先ほどのスーパーと同様に、2040年の人口推計を当てはめ、商圏人口が満たされない店舗の半数が閉店すると仮定すると、コンビニは全国で約3万5千店に減ると推計される。うち約75%の2万6干店あまりが、人口10万人以上の都市に集中する。2010年時点の集中度は約68%だったが、これがいっそう高まることになる。スーパーと同様に、コンビニの施設数の変化予測を図表に示した。

 一方、コンビニの商圏外に住む人口を推計すると、人口規模10万人以上では3ポイントの増加でしかないが、1万人未満では7ポイント、1万~2万人では9ポイントの増加と推計され、人口規模が小さいほど商圏から外れる人が増えることになる。

 コンビニは、もともと都市部の多忙な人にとって「近くて便利」な存在だったが、地方でも生鮮食料品や調理済み少量パックの惣菜、ご当地の味付けの弁当、おでんあるいは各種スイーツを置くなど、住民のニーズに応える店舗が増加。今では高齢者や一人暮らしの人にとって、なくてはならない存在になっている。公共料金の払い込みや、銀行ATMの利用、小荷物の集荷や受け取りなどで利用している人も多い。

 しかし今後は、コンビニが撤退する地域も出現することが予想される。また、すでにコンビニが廃業や撤退した地域では、人口減少による経営難が原因ではなく、後継者やアルバイトが確保できないことが主な要因となっている。特に地方では、コンビニの経営はフランチャイズ制度などにより地元の商店経営者が行っている場合が少なくなく、後継者不足が深刻な問題になるのだろう。

 今や、コンビニは究極の「生活インフラ」として、地域住民の日常生活を支える最後の拠点となっている。その撤退は、地域の生活インフラの崩壊に直結することが予想される。

【コミュニティバス】

 過疎地では、利用者の減少で公共交通機関の経営が苦しくなり、鉄道やバスの路線廃止、運行本数の削減が進んでいる。その結果、通学・通院など住民の日常生活に支障が生じている地域がすでに多く存在する。

 公共交通機関は、移動のみならず、住民たちのコミュニケーションを確保し、孤立を防止するためのインフラでもある。移動手段がない地域では、対策としてコミュニティバスの導入が進んでいる。

 コミュニティバスの普及は、1995年に東京都武蔵野市が導入したのがきっかけだったといわれている。過疎地のみならず都市部でも、住民の移動手段の確保は難しくなっていたのだ。

 コミュニティバスの明確な定義はないが、「地方自治体がまちづくりなど住民福祉の向上を図るため交通空白地域・不便地域の解消、高齢者等の外出促進、公共施設の利用促進を通じた『まち』の活性化等を目的として、自らが主体的に運行を確保するバスのこと」(「コミュニティバスの導入ガイド」2004年3月、国交省近畿運輸局)と解釈される。 2006年には道路運送法が改正され、需要に応じて運行する(デマンド型)乗合バスが誕生した。

 都市部では既存の路線バスとの競合が課題となっているが、過疎地ではいかに利用者を増やすかが課題だ。多くの地域では、利用者と行き先となる施設の関係者らが主体的に話し合ったり、バスに限らずタクシーなど使える車両を総動員するなどの工夫をしたりしている。
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