goo

図書館建設の決定的論争の瞬間

『選良たちの宴から住民の自治へ』より 教育と図書館のこと 住民運動の勝利

市長の答弁です。

 ご質問にお答えを申し上げます。市立図書館の現状がご指摘のように都市規模に比較して不十分だということは、私もそういうふうに思います。それで市立図書館を新たにどこかに建てるのか、いまの社会教育会館内(白川公園)にある図書館をもう少し充実することができるのか、……具体的に申し上げますと、県立図書館をあのままにしておくのかというふうなことも、県当局においても一つの懸案事項になっているようでございます。そういうときに市立図書館等の関係をどうしていったらいいかというふうなことも、市立の図書館を考える場合の現実的な一つの要素になっておるのでございます。

 それで現在の社会教育会館の内容というのは、いろいろなものが入っているのでございまして、これを将来どういうふうに考えていくかということも、われわれに与えられた問題でありまして、その社会教育会館の内容を将来どうしていくか、ということと関連して考えなければならないというふうに思うのでございます。

 したがって、新たな図書館を市でつくるのか、あるいは社会教育会館にはご承知のように中央公民館があるわけですが、その中央公民館を新たに建てて、むしろいまの社会教育会館を広く図書館として活用したらいいのか、いろいろな問題点を検討しておるところでございます。図書館の運営の内容については、私もあまり詳しいことを聞いておりませんけれども、図書の貸し出しということが、貸し出しといっても館内の部屋で読むようなスペースが限定されているということもありましょうけれども、館外に対する貸し出しが、現実の市立図書館の運営に相当なウエイトを占めていると聞いておりますが、そういうことでいいのか、これは教育委員会の現状認識あるいは将来に対する意見等を聞いて将来の検討課題であろうと考えております。

この答弁から見えてくるのは、市長の図書館構想がなんと貧弱なことか。いや、市政の喫緊の課題などとの認識はさらさらないということを、あれこれの事例にかまけて合理化しただけのことです。ここで終わったら質問者の勉強不足、馴れ合い議会のそしりは免れません。

さらなる追及が必要です、議長が発言を促します。

 さわだイチローくーん。

そのときです。答弁を求められてもいないのに、いきなり立ち上がり教育委員長が登壇するではありませんか。議長は慌てて訂正しました。

 教育委員長、広永政太郎くーん。

 市立図書館のことについて、市長さんからおっしやった直後で、はなはだ市長さんに失礼かと思いますが、(教育)委員長の責任として申し上げます。
 ご承知のように一応、マスタープランのなかにきちっと建設がうたってあるわけですが、石油ショック以来の財政硬直化によりまして、今日まで延び延びになっているわけです。委員会としましてもぜひこれは風格ある文教都市の建設という大きな柱からしても、七万冊というのは七人に一冊ですね。そういうことでは本当に「熊本市立」という名前に対して恥しいと思います。

 いままでの市立図書館のあり方というのは公会堂の日米文化センターの中にあったり、それから二の丸にあったときも実に貧弱で、本当に書架だけのもので……いまの建物も公園法にひっかかってああなっているんですが、どうしても独立した図書館がぜひほしいということで、より考えております。調査費もつけており、ぜひ、審議会をつくってですね、やっていただくように市長さんにもよろしくお願いしたいと思いますし、今後強力にやっていきたい。

議会の場をかりて教育委員長が市長に「物申す」異例の展開になりました。教育委員長が質問者の質問に応援演説? とは知る限り聞いたことがないできごとでした。

詰めの一押し

 議長はひときわ声を大きくした。

  さわだイチローくーん

  私が市長に言おうと思っていたことを、広永教育委員長さんが述べられました。もう少し付け加えておきます。ここにいま学校で教えている新しい国語、六年生の教科書です。市長も一度、読んでいただけるといいと思います。教科書の七八ページです。

  『都市には、たいてい、県や市で建てた公共の図書館がある。近ごろでは、町や村でも図書館を持つ所が多くなった。本を積んだ自動車が利用者の所を巡回する移動図書館というものもある。目の不自由な人たちのために点字の本を集めた図書館もある。多くの本を集めて、おおぜいの人が利用できるようにし、新しい文化をつくり出すための知識や情報をあたえる働きである』と記述しています。

  この国語を学ぶときの子供たちは、いまの市長答弁をどういう顔(市長)を描いて思い出すでありましょうか。議事録にも(市長に熱意がないこと)残しておく必要があると思います

 と、論戦にはこの「最後の詰め」が必要なのです。馬耳東風では済まされないことを、記録に残しておくことが大切なのです。一般には、担保する・担保が無いなどとも指摘されます。

 この論戦で、優柔不断の姿勢をとりつづけて一寸延ばしに先送りしてきた熊本市の図書館政策に、ピリオドが打たれました。

閉館時間と労働者の権利

 さて、これからが大変なことになります。

 請願を出しても陳情しても協力的でなかった同僚議員が、「俺の地元につくれ」の誘致合戦を繰り広げたのです。「選良の民」とやらは物忘れがひどく、あつかましい人のことを指すのでしょうか。別の見方をすれば、市民の図書館に対する要望がいかに強いかを反映していたのでしょう。

 執行部はもてあまして、早朝に総務局長が相談にみえたこともありました。

 二転三転して文教地区ということで現在地(大江地区)に落ち着くのですが、時間は午前九時から午後五時までとしたというのです。「なんで?」……職員・労働組合との軋轢がおぼろげながら浮かんできたのには驚きました。これでは勤務を終わってから図書館に寄ることはできません。「帰りに調べたいものをと立ち寄ることもできないではありませんか」、と何度も教育委員会に申し入れましたが、改善は進まず、幾年かしてからやっと現行の六時閉館となるのです。これも永く白川公園の片隅に、十分な閲覧室もないままに市民の利用を損ねているうちに、いつしかそれが当たり前の既定の事実になったのです。利用者の都合よりもいつしか職員の都合に合わせた運営が、「全体の奉仕者」に許される「権利」だと錯覚したのではないか、そのように考えないと理解ができないのです。本来的にいえば、市立図書館が無いに等しい折に、労働者の社会的役割からして、市民の使いやすい図書館建設を、スト権をかけてでも闘いとる、それほどに価値あるものであったはずです。賢い市民とともに育つ条件の確立は、今後ともに市政の大きな柱であることは変わらないところです。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

豊田市図書館の30冊

336.4『人事部はここを見ている!』

319.8『20世紀の平和思想』原典で読む 岩波現代全書

302.27『パレスチナ 戦火の中の子どもたち』

766.1『ヨハン・シュトラウスⅡ こうもり』オペラ対訳ライブラリー

159.4『電車のハシに座る人は成功できない』なぜ、あの人は「仕事ができる」のか?

493.24『血管の強化書』澄み切った血液は万病を治す

159.4『40歳からの仕事で必要な71のこと』

230.7『20世紀を考える』

336.2『マッキンゼーのエリートはノートに何を書いているのか』トップコンサルタントの考える技術・書く技術

007.35『最新 ICT知財戦略の基本がよ~くわかる本』ネット時代の知財マネジメント入門 ICT分野の知財を守り、戦略的に活用するために!

121.6『アウトテイクス』

312.1『政の言葉から読み解く戦後70年』歴史から日本の未来が見える

335.13『プロフェッショナルマネジャー・ノート2』

235.05『教養のフランス近現代史』

233『図説 イギリスの歴史』

182.1『日本仏教史』

203.8『地図で読む世界史』超図解 5大テーマで理解する教養として知っておきたい世界の歴史

538.6『ドローン完全ガイド』Drone 「種類」「仕組み」と、「用途」「安全性」を解説!

311.04『開かれる国家』境界なき時代の法と政治

293.89『わがまま歩き フィンランド』海外自由旅行の道具箱

493.12『<糖尿病>ヘモグロビンA1cを下げるコツがわかる本』糖尿病治療の決め手「ヘモグロビンA1c」が食べても下がる。「血糖値」ではダメ、「ヘモグロビンA1c」を下げよう!

468『オオカミがいないと、なぜウサギが滅びるのか』知のトレッキング叢書

913.68『太宰治賞2015』受賞作「変わらざる喜び」伊藤朱里 

161『宗教学大図鑑』

557.78『海図 面白くてためになる海の地理本』世界が見える! ニュースがわかる!

509.66『「トヨタ式」大全』世界の製造業を制した192の知恵

159『上機嫌で生きる』なぜかうまくいく人の幸せになるクセ

760.8『第東亜共栄圏とTPP』

689.1『新・観光立国論』モノづくり国家を超えて

210.04『新しい日本史』教科書で習った歴史はこんなに変わった! 「1192作ろう鎌倉幕府」はなぜ強化素から消えたのか?
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

人種戦争 「ジェノサイド」の全面展開にむけゴーサインが出された時期

『第二次世界大戦』より 個人的に「Think Globally, Act Locally」を感じる記述

議論を呼びそうな決定について文書を残したがらないヒトラーの性向もあって、歴史家だらけ「最終的解決」の発動がいつ決定されたのか、その正確な日時を割りだすため苦労してきた。かれらは補助的、副次的な周辺文書を洗い、そこでつかわれている婉曲表現や持ってまわった言い回しをなんとか読み解こうとあれこれ工夫した。だがそれは、不可能な作業であることがやがて明らかとなる。ひとつの民族集団を絶滅させるというこの運動は、国家のトップからの、記録に残らない形での奨励によるものではあったけれど、同時にそれは、さまざまな異なる殺戮集団が、それぞれの現場においておこなった実験や、互いに統制の取れていない試行錯誤を経ながら、徐々に形成されたものだからである。興味深いことに、それはドイツ陸軍の機動的組織運用を可能にした「訓令戦術」とある種の相似形をなしている。将軍から下りてくるのは大方針であり、それらを現場の個々の指揮官が臨機応変に任務化し、実戦に活かすからこそ、組織は有機体として動けるのだ。

「ジェノサイド」の全面展開にむけゴーサインが出された時期について、一部の歴史家は一九四一年七月もしくは八月であろうと、なかなか説得力豊かに論じている。この時期、ドイツ国防軍はいまだ、短期決戦によってソ連に勝利する目が残っていると信じており、余力があったからだと。いやいや、そうした決断がなされたのは秋になってからだと見る歴史家もいる。ドイツ軍のソ連侵攻のスピードが目に見えて鈍化し、ソ連奥地への強制移送という「地域内的解決策」がしだいに現実味を失ったのがこの時期だからだと。いやいや、もっと後だったという説を唱える歴史家もいる。その特則は、ドイツ陸軍がモスクワ郊外で行き足を完全に止め、ヒトラーがアメリカに対して宣戦布告をおこなった十二月の第二週だというのである。

ただ、それぞれの「アインザッツグルッペ」は自分たちの任務を微妙に異なるかたちで解釈しており、その事実に着目するなら、中央から統一的な指示はなかったのかもしれない。いずれにせよ、一九四一年八月以降は、いっさい例外なしの〝民族絶滅〟が通例となり、ユダヤ人は女性や子供も含めて、まとめて殺されるようになった。八月十五日にはミンスク付近で、一〇〇人のユダヤ人を一気に処刑するさまが、親衛隊全国指導者ヒムラー閣下列席のもとにお披露目されている。この派手な虐殺ショーは、ヒムラーの要請を受けて、「アインザッツグルッペB」が組織したものだったが、この手の経験が初めてであったため、当のヒムラーはあまりの凄惨さに目を逸らしてしまった。エーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキーSS大将はのちに、一〇〇人をまとめて射殺するなんて、あの時だけだったと強調している。「分遣隊員たちの目を目にてやってください」とバッハ=ツェレウスキーは当時ヒムラーにいった。「かれらがいかに震えているか! あのものたちは、残りの人生を棒に振ったのですよ。われわれがここで訓練している、忠良なる党員とはいかなるタイプの人間なのか。気が触れているか、さもなければ野蛮人かのいずれかです!」と。バッハ=ツェレウスキー自身も、悪夢と胃痛に心身を苛まれ、その後入院せざるを得なくなった。親衛隊でいちばんの医師をつけてやってくれ、とヒムラーは命じている。

祝察後、ヒムラーは訓示をおこない、諸君の行動は完全に正しいと請け合うとともに、ヒトラー総統も、東方地域の全ユダヤ人の一掃を命じられていると述べた。ヒムラーはさらに、かれらの仕事をシラミやネズミの駆除にたとえている。その日の午後、ヒムラーは「アインザッツグルッペB」の部隊長で、バッハ=ツェレウスキーの名代として銃撃の指揮を執ったアルトゥール・ネーベと話し合った。ネーべはそのさい、爆発物をもちいたやり方の実験を捉案し、ヒムラーは了承した。だが、実際にやってみると、この手法はスマートさに欠げ、辺り一面が修羅場と化し、大失敗であった。その次に試みられたのがガス・トラックで、車の排気管から出る一酸化炭素を二次利用するという案だった。処刑を担当するものにとって、もう少し「やさしい」方法を見つけてほしいとヒムラーは要請した。ヒムラーはまた、兵士たちの精神面の福祉に配慮を見せ、合唱の夕べなど、社会活動を試みてはどうかと各指揮官に提案している。だが、大半の兵土たちは、人殺しのあとは酒を飲んですべてを忘れる方を選んだ。

ユダヤ人の殺害方法がさらに過激化するのは、ドイツ国防軍がソ連人捕虜を手荒く扱い、公然と殺し始めるのと、ちょうど同じ頃である。九月三日、総合化学企業「IG・ファルべン」が開発した殺虫剤「ツィクロンB」がアウシュヴィッツにおいて初めて使用された。だがこの時、実験対象に選ばれたのはユダヤ人ではなく、ソ連人およびポーランド人の戦時捕虜だった。ドイツおよび西ヨーロッパから、東方地域へと移送されてきたユダヤ人が、警察関係者の手で、到着の直後に殺されるようになったのもこの時期である。あまりに厖大な人数を押しつけられたため、それしかやりようがなかったのだとかれらは主張した。たしかに、ドイツの東方占領地域--「ライヒスコミッサリアート・オストラント(バルト三国と白ロシアの一部)」ならびに「ライヒスコミッサリアート・ウクライナ」--を担当する行政官たちは、自分たちがどのような施策をとるべきか、皆目見当がつかなかったのである。なにしろ、ナチ党の対ユダヤ政策か確定するのは、翌一九四二年一月の「ヴァンゼー会議」以降なのだから。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

人種戦争 一九四一年六月~九月

『第二次世界大戦』より

一九三九年のポーランド侵攻のさい、ドイツ兵は村人たちの惨めな生き方を見て、身震いを覚えた。さらに一九四一年、ソ連領内を進軍しながら、ドイツ兵はいっそう激しい嫌悪感に襲われていた。まさに百聞は一見にしかずだ。「NKVD(内務人民委員部)」による捕虜の大量虐殺から、集団農場の原始的な衣食住に至るまで、ゲッベルス宣伝相が〝地上の楽園・ソ連邦〟と揶揄したとおりの実態がいま眼前に広がり、ドイツ兵がそれまでかかえていたさまざまな偏見が、いっそう深く、心に刻まれたのである。ゲッベルスは、悪魔のごとき天賦の宣伝屋だった。それゆえ、たんに他人を見下したり、憎んだりするだけでは不十分であると分かっていた。兵たちを思うまま刺戟する最も効果的な方法、それは憎悪に恐怖を掛け合わせることだった。そうしてこそ初めて、やはりこんな連中は、根絶やしにするしかないなという心理状態に、兵たちを追い込めるのである。強いイメージを喚起するため、かれが頻繁にもちいた「凶暴な」、「面従腹背の」、「ユダヤ・ボリシェヴィキの」、「獣のような」、「人間以下の」といった形容語句は、すべてこの目的を達成するための巧みな手段であり、かれはそれらを様々に組み合わせて、個々のもつ刺戟効果を増幅させていった。まさにユダヤ人こそが、この戦争を始めた張本人であるという、ヒトラーの〝テーゼ〟は、かくして大半のドイツ兵の心に、事実として、極めてすんなりと収まったのである。

大半とは言わないまでも、多くのドイツ人は、自国の東方に暮らすスラブ系諸民族に対し、先祖伝来の禍々しい記憶をかかえていた。そうした悪印象は、「ロシア革命」とその後の内戦にかんする、およそ信じかたいほど残酷な各種報道によって、当然ながら強化されてきた。ナチの宣伝工作は、ドイツの秩序と、ボリシェヴィキの無秩序やかれらの不潔さ、神の否定などを殊更に対比させ、そうした文化的特質が衝突を生んでいるのだと強調した。ナチとソ連の政権は、一見するとかなり似通っているが、両国のイデオロギー上、文化上の違いは、重大な問題でもささいな問題でも、実際には途方もなくかけ離れたものなのだ--というわけである。

夏の猛暑の期間、ドイツ軍のオートバイ兵はしばしば、ほとんど半ズボンとゴーグルだけで走り回った。白ロシアやウクライナにおいて、かれらの剥きだしの上半身は、老人たちにショックを与えた。ドイツ兵が〝イズバ〟--農家の伝統的な木造家屋--の周辺に群がったり、若い女性をしつこく口説いたりすることは、さらに大きな衝撃をもたらした。前線付近の村々に宿営するドイツ兵が起こした強姦事件は、数としては比較的少ないように見えるが、前線のはるか後方で、特に若いユダヤ人女性を対象にした同種の事件は、相当な件数にのぼっていた。

なかでも最悪の犯罪は、なんと公的な承認のもとに実施された。ウクライナ人、白ロシア人、ロシア人の若い女性がかり集められ、軍の慰安所に強制的に入れられたのだ。こうした奴隷制度のもと、彼女たちは非番の兵士から連続的レイプの対象とされた。抵抗すれば、野蛮な処罰と、時には射殺までが待っていた。〝ウレターメンシェン(人間以下のもの)″と性的関係を持つことは、ナチの「ニュルンべルク法」に背く行為ではあったが、そうした事実にもかかわらず、軍当局はこのシステムを、兵士の規律および肉体的健全さの両面に資する現実的解決策と見なしていた。彼女たちに対し、ドイツ国防軍の軍医たちは、少なくとも感染症にかんする限り、定期的検査を欠かさなかった。

ただ、ソ連軍の撤退により取り残され、一家の男性や牛馬、あるいは耕運機もなしに日々をしのいでいるソ連人女性に対しては、ドイツ兵もまた同情の念を禁じ得なかった。「女性が二人して手製の鍬を引っ張り、もうひとりの女性が把手を操りなから、畑を耕すのを見かけたこともあります」と信号部隊のある伍長は故郷への手紙に書いている。「トート機関員の監視のもと、全員女性で構成された一団が道路の補修にあたっていました。言うことを聞かせるため、つねに鞭がふるわれていました! 一家の男性がいまだ生きている家族は、ほとんどいませんでした。訊いてみると、答えの九〇パーセントは同じでした。『夫は戦争で死にました!』恐ろしいことです。ロシアにおける男性の喪失は、途方もなくひどいものです」

多くのソ連市民、特にウクライナの市民は、ドイツによる占領が恐怖に満ちたものになるとは、全く予想していなかった。ウクライナでは当初、かなり大勢の村人が「パンと塩」という伝統的シンボルを手渡して、ドイツ軍の兵士たちを歓迎したのである。スターリンによる農業集団化の強制と、一九三二年から三三年にかけての悲惨な飢饉(死者は三三〇万人と推計)のあと、共産主義者を憎む気持ちは広範囲におよんでいた。より年配で、より宗教心にあついウクライナ人は、ドイツの装甲車両に描かれた黒い十字のマークを見て、ああ、これこそ神なきボリシェヴィズムと戦う十字軍に違いないと考えたほどである。

そうした機微は、「アプヴェーア(ドイツ国防軍情報部)」から派遣されてきた将校たちにも、見事に伝わった。今後占領すべき土地の広大さを考えるならば、わが国防軍にとって最善の策は、ここで徴兵をおこない、一〇〇万ウクライナ兵からなる軍隊を創設することでありますと具申までした。だか、この提案はヒトラーによって却下されてしまう。スラブ系の〝ウンターメンシェン〟なんぞに武器を与えるなんて、とんでもない話であるという訳だ。さすがにドイツ陸軍も〝ヴァッフェンSS(武装親衛隊)〟も、総統閣下の意志には表だって逆らえず、結果、現場の判断で粛々とウクライナ人の徴兵が開始されたのである。一方、侵攻直前にドイツ軍を側面支援した「OUN(ウクライナ民族主義者組織)」の方はその後弾圧の対象とされ、ウクライナ独立というかれらの夢は、ベルリンによって粉砕された。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ヤン・キョンジョン 日本、ソ連、ドイツのために戦った元兵士

『第二次世界大戦』より

連合国軍がフランス北西部はノルマンディー地方に上陸した一九四四年六月、ひとりの若い兵半がアメリカの空挺部隊に投降した。当初、アメリカ側はこの兵士を日本人と考えたけれど、男はコリアンで、名をヤン・キョンジョンといった。

一九三八年、当時十八歳だったヤンは、大日本帝国によって兵隊にとられ、満洲の「関東軍」に配属された。一年後、かれは「ノモンハンの戦い」のあと、ソ連赤軍によって捕らえられ、収容所に入れられた。一九四二年、危機的状況にあったソ連の軍当局は、他の数千人の捕虜とともに、ヤン・キョンジョンを兵士として徴集、自国の軍隊に組み入れた。その後、一九四三年初め、ウクライナで「ハリコフの戦い」に参加したヤンは、今度はドイツ軍の捕虜となった。一九四四年、いまやドイツの軍服を着込んだヤンは、今度は〝東方兵〟としてフランスヘ送られ、コタンタンダ島の付け根、アメリカ軍が「ユタ・ビーチ」と名づけた上陸海岸の内陸部で、いわゆる「大西洋の壁」を補強する作業に従事させられた。イギリスの捕虜収容所で一定期間を過ごしたあと、ヤン・キョンジョンはかれの言う、縁もゆかりもない土地、アメリカ合衆国へとむかった。その後かれは、そこに根をドろし、一九九二年イリノイ州で生涯を閉じた。

六〇〇〇万人を超える人間が命を落とし、地球規模で展開された「第二次世界大戦」において、はからずも日本、ソ連、ドイツのために戦ったこの元兵士は、比較的幸運な部類に属すると言えよう。しかし、歴史の圧倒的な力を前にした時、ごく普通の庶民がいかに手も足もでない状況に陥るか--その無力さを、ヤン元兵士ぐらい体現する人物はおそらくいないのではないだろうか。

ヨーロッパは一九三九年九月一日にいきなり、なにかの弾みで交戦状態に入ったわけではない。むしろ一九一四年から四五年までをひとつながりと見なし、これを「三十年戦争」と名付け、「第一次世界大戦」こそが「そもそもの大破局」であったと位置づける歴史家がいるほどである。かと思うと、ボリッシェヴィキが起こした一九一七年のクーデターに始まる「長い戦争」が延々と続いたのであり、一九四五年に至る期間を「欧州内戦」と一括りにすべきだとか、いやいや、その戦いは、しつけ一九八九年に共産主義体制が終焉を迎えるまで続いたのだと主張する歴史家もいる。

ただ歴史とは、まっすぐな一本道をすすむものではない。国際戦略研究所の会長もつとめたイギリスの軍事史家サー・マイケル・パワードは、ヒトラーが一九四〇年に仏英に対して怒濤のごとく攻め入った西方の戦いをもっぱら重視し、先の大戦は多くの点て「第一次世界大戦」の延長戦だったと説得力豊かに論じているし、ドイツ出身のアメリカ人外交官ガーハード・ワインバーグは、先の大戦は、ヒトラーがその主要目的である、東方の〝レーベンスラウム(生存圈)〟を獲得しようと攻勢をかけた一九三九年のポーランド侵攻をもって嚆矢とすべしと力説している。なるほど、そうとも言える。だが、一九一七年から三九年にかけて、ヨーロッパの各国では、革命やら内戦やらがそれぞれ頻繁に起きており、実態はそうした見立てほど、すっきりしたものではない。たとえば、左派は毎度のごとく熱心に、「スペイン内戦」によって「第二次世界大戦」が始まったと確信をもって語り、右派は右派で「スペイン内戦」とは、共産主義と「西洋文明」のあいだで展開された、都合三度にわたる世界大戦の第一回戦だったといって譲らない。一方、欧米の歴史家は、一九三七年から四五年まで続いた「日中戦争」を大抵は等閑視し、この戦いが時の経過とともに〝世界大戦〟と渾然一体となった事実をつい見逃しがちである。さらに、アジアの一部の歴史家は、一九三一年の日本軍による満洲侵略をもって「第二次世界大戦」が始まったと主張している。

ことほど左様に、議論百出なのであるが、「第二次世界大戦」が種々雑多な戦いの混淆物であることは間違いあるまい。その大半は、国家対国家の戦いではあるけれど、他国を巻き込んだ左派と右派の内戦、か複雑に影響を及ぼし、時にその流れを左右することもあった。それゆえ、世界がこれまで経験した最も残酷、最も破壊的なこの戦いの起源を論じようとするならば、細部についてよくよく吟味することが大切なのである。

「第一次世界大戦」は参加各国にそれぞれ後遺症を残した。結果的に〝勝利〟をおさめたフランスとイギリスもともに疲弊し、たとえどんな代償を払おうと、もはやあのような経験は二度とごめんだと考えるほどに、その傷は深かった。大西洋の対岸から参加し、ドイツ帝国を敗北に追い込むうえで多大の貢献を果たしたアメリカ合衆国は、腐敗し汚れきった〝旧世界″とは今後いっさい縁を切りたいと願った。ヨーロッパの中央部は、「ヴェルサイユ条約」で画定された新たな国境線により細分化され、どの国も敗戦がもたらした屈辱と物不足にあえいでいた。負けた側はもちろんである。オーストリア=ハンガリー二重帝国の将校などは、まさに『シンデレラ物語』の逆を行くようだった。かれらはおとぎ話に出てくるような華麗な軍服を奪われ、平服姿のむさ苦しい失業者へと落ちぶれていった。ドイツ帝国軍のもとで戦った将兵の大半にとって、敗戦はよりいっそう苦いものに感じられた。なにしろドイツ陸軍は一九一八年七月まで、わが軍は断じて負けていないと確信を持っていたのだから。それがある目突然、確たる原因も予兆もないまま、祖国がいきなり瓦解し、それはやがてドイツ皇帝の退位へと至った。戦場で実際に戦っていたものたちからすると、ドイツ本国で一九一八年秋に発生した叛乱や争乱はすべて、ボリシェヴィキのユダヤ人がつくりだしたもののように感じられた。なるほど一連の騒動に、左翼の扇動家が一役買ったことは事実だし、一九一八年から一九年にかけて、最も目立ったドイツ革命の指導者たちはユダヤ系だったけれど、そうした社会不安の背後にある主因と言うべきものは、国民の厭戦気分と飢餓だった。ドイツの右翼が唱える、百害あって一利なしの陰謀説、いわゆる「背後からの一刺し」論は、右派の運動にありかちな、因果関係を取り違えた、合理性にかける思い込みというしかない。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )