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中野美代子 バルチック艦隊のその後

『日本海ものがたり』より ロシア人の海への渇望

バルチック艦隊のその後

 一九〇四年十月、『ハムレット』ゆかりのエーレスン海峡を越えたバルチック艦隊は、なおもカテガットとスカゲラックの両海峡を通り抜け、やっと北海に出た。外洋である。これでひと安心かと思ったら、そうでもない。またもやせまいドーヴァー海峡を抜けきらないと、大西洋に出た! という実感は湧かないだろう。

 おまけにイギリスは、一九〇二年に日英同盟を結んでいたから、日本海をめざすロシアの大艦隊には、ことのほか神経質だったはずである。

 そのバルチック艦隊は、自分たちを待ち伏せして魚雷をぶっぱなしてくるかもしれない日本の小艦艇にびくびくしていたが、そのびくびく状態が昂じて、イギリスのブリテン島の東岸の沖ドッガー堆で操業している漁船群に、いきなり発砲したものである。日本の水雷艇がまぎれこんでいるという怪情報にまどわされたのだ。イギリスの漁船群には、当然のことながら、おびただしい被害が出たし、のちに国際査問委員会もひらかれたが、バルチック艦隊は、十月二十三日の夜の惨劇のあと、そのまま去っていった。

 ジブラルタル海峡のアフリカ側タンジールに着いた。スペイン側のマロキ岬から海岸ぞいに北東に三〇キロほど行くと、細長い小さな半島が海につき出ていて、そこがジブラルタルという、いまでもイギリス領の基地のまちである。スペインから「返せ、返せ」といわれても、イギリスは絶対に返さない。幅一六キロしかない細長い半島なのに、高さ三〇〇~四〇〇メートルの岡がつらなっているので、二、三万の住民の住居は斜面にへばりついている。その岡の上には、十六世紀ごろモロッコから連れてきたバーバリ・マカクという、ニホンザルに似たサルの群れが野生化して暮らしている(ヨーロッパには野生のサルは分布していない)。イギリス人は、このサルをジブラルタル基地のシンボルとして保護してきた。第二次世界大戦後に急速に数が減ったとき、チャーチル首相の命令で、モロッコから再輸入したほどである。

 これほどまでにイギリスがジブラルタル海峡を死守するのは、古くは、たとえばバルチック艦隊を地中海からスエズ運河へと通行させないため、第二次大戦中はドイツ海軍、とくに潜水艦のうごきを監視するためであった。

 バルチック艦隊は、吃水の浅い二隻を除いてスエズ運河をあきらめ、アフリカ南端の喜望峰を迂回してインド洋に出ることになった。十一月から十二月にかけては、南半球の夏である。ただでさえせま苦しい艦内の船室は、寒い国の水兵たちにとっては、おそろしい炎暑の地獄だったろう。おまけにまだ、日本の水雷艇の幻影に悩まされっづけてもいた。

 こうして、「トラブル海」ならぬ「わざわいの海」を半年がかりでめぐってきたバルチック艦隊は、一九〇五年五月二十七日、日本海の入口である対馬海峡にたどり着いた。そこには、日本の連合艦隊が待っていた。

 このあとの経過については、語るまでもないだろう。

日本海の荒波が黒海へ

 日本海でのバルチック艦隊の壊滅的な敗北の報は、ほとんどのロシア人に「もう、こんな戦争はいやだ!」という思いを抱かせたはずである。それは、戦争にたいする批判にはちがいないが、もっと日常感覚における「つくづく嫌気がさした」という感じに近いのではないか。太平洋戦争の末期、日本人のほとんどが、口には出さずともひそかに感じていた、あの思いである。「アメリカ兵が上陸してきたら、この槍で突き刺すように」と、竹槍突きの練習をさせられたわたしにも、はっきりとそんな「嫌気」が宿していた。

 バルチック艦隊の水兵たちも、半年ほどの長い航海、、それもアフリカをぐるりとまわり、インド洋からマラッカ海峡など熱帯の海の航海だけでもうんざりなのに、日本の水雷艇の幻影におびやかされ、……となると、「嫌気」のたまりぐあいもハンパではなかったろう。

 この種の、かたちのない「嫌気」は、当時のことだからバルチック艦隊の水兵が黒海艦隊の水兵にメールしたわけでもなかろうに、ひと月あまりで、ったわってしまったらしい。六月二十七日、黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで、水兵のスープに蛆がはいっていたとかいうことから、反乱がはじまった。

 こちらの水兵は、バルチックの水兵とちがって元気があったから、たちまち艦長やら士官たちやらを殺したというから、すごい。この反乱ポチョムキン号が、オデッサに入港し、オデッサ市民の歓迎を受けたところを、コサック兵団に鎮圧されるという、一連のわれわれのイメージは、おそらくエイゼンシュテインの映画『戦艦ポチョムキン』(一九二五)の、あの「オデッサの階段」からつくりあげられたのであろう。もっとも、この有名な「階段」の場面は史実ではないそうだが、戦艦ポチョムキンで反乱が発生し、やがて鎮圧されたという史実の、象徴的イメージであることには楡らない。

 この反乱には、もう一つべつの「嫌気」がもたらした要因があったらしい。それは、その年一月の、ペテルブルグにおける「血の日曜日」事件である。これまた旅順陥落という、日本海の近くのロシアの拠点が失われたこと、あるいは、そんな拠点を死守するために支払われた犠牲が大きかったことへの、庶民の「嫌気」である。

 「嫌気」などといった俗なことばで歴史を語れるのであろうか。語れると思う。そのことを、日本海海戦をはじめとする日露戦争の勝利に酔うた日本人の側から見ると、まさに「嫌気」とは正反対の感情が、四十年後の子どもにまで引き継がれた。たとえばわたしは、バルチック艦隊の敗軍の将の名を、いまでも「ロジェストベンスキー」とすらすらいえる。戦時下の歴史教育におけるもっとも輝やかしいページに出てくる名まえだからだ。

 ロシアでは、そんな「嫌気」を政治的にまとめるうごきが断続的につづき、十二年後のロシア革命にいたるのだが、そんな革命史の詳細は、いまは、いっさい省略しよう。
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