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中野美代子 「他者」性ゼロの日本海

『日本海ものがたり』より 日本海とはなにか

「他者」性ゼロの日本海

 さきに挙げた「ユーラシア大陸の内海概念図」において、黒海と地中海の関係は、オホーツク海と日本海の関係に似ていると述べた。ただし、それは、大戦末期のヤルタ会談においてソ連参戦をにおわせ、クリル列島すべての領有をもくろんだスターリンのあたまのなかのことである。この二組の内海ペアが、地形的な概念図としては似ていても、そもそも相対的にくらべられるはずはなかったのである。

 なぜなら、オホーツク海・日本海ペアは、つい十八世紀末まで、その輪廓すら正しく描かれていなかったのだから。いわば、「他者」性はほとんどゼロの内海ペアだったのだから。遠い古代から戦争だの交流だのに明け暮れていた黒海・地中海ペアとはまるきり異なるのは、いわばあたりまえのことだった。

天気予報の日本海

 現在は、どうだろうか。日本人は、一日にすくなくとも一回や二回、「日本海」ということばを耳にする。そう、天気予報で--。シベリアからの寒気団が日本海の、とくに対馬暖流の蒸気を吸いあげ、日本列島の脊梁山脈にぶっかって大量の雪を降らせ、反対に太平洋側はカラカラの快晴という、毎度おなじみの気象パターンである。

 この細長い列島は、そこで必然的に「表日本」と「裏日本」に分かれる。「おもて」には、たまに「他者」の訪いもあり、「うらぐち」には、ご用聞か小間使の出入りしかなかった。

 「裏日本」の自然や暮らしなどをくわしく活写した幕末の『北越雪譜』は、そんな「裏日本」のなかにも、さらに陽と陰の別があるという。

  越後の地勢は、西北は大海に対して陽気也。東南は高山連りて陰気也。ゆゑに西北の郡村は雪浅く、東南の諸邑は雪深し。是田阻の前後したるに似たり。我住魚沼郡は東南の田地にして(以下略)

 「陰陽の前後したるに似たり」とは、古代中国の神話における大地の陰陽のならびかたと正反対みたいだ、ということ。それはともかくとして、西北にひろがる「大海」すなわち日本海のかなたには目を向けず、せまいせまい北越の地のなかでの陰と陽の別だけを論じている。しかし、現在の日本人も、この『北越雪譜』の著者鈴木牧之と、ほとんどかわってはいないのではなかろうか。

 天気予報で頻出する「日本海」も、その結果としての雪の降りかただけが問題となる。

稀にやってきた怖るべき「他者」

 すでに見たように、古代には沃氾国あたりの漁民が遭難し、対馬暖流に乗って漂着したこともあったらしい。秋田につたわるなまはげの奇習も、そうした異人漂着のなごりかともいわれているが、たしかなことはわからない。しかし、日本海から、ほんとうに稀なことだが、そのような「他者」としての異人がやってくることはあった。

 八世紀から十世紀にかけて、中国では唐の時代だが、かつての沃氾国のあたりに励海国がさかえていた。日本との交易を求め、おそらくは主として敦賀港にやってきて、日本からも唐への留学僧を潮海経由で送ったこともあったが、日本はそれを八一一年に打ち切った。しかしその後も、潮海からの貿易船は、百年間ほどつづいていた。ここでも、せっかくの大陸への日本海ルートを、日本の側から断ち切っているのが注目される。

 それからしばらくは、日本海はまた静かになった。それだけに、ヨーロッパから見ると地図上の謎の海となり、十八世紀末にラペルーズが、十九世紀はじめにクルーゼンシュテルンが航行し、ようやく地図上に正しく描かれるようになった。

 そしていよいよ二十世紀になったとたん、ロシアが日本海全体に目をつけた。あのバルチック艦隊の使命は、日本海全体の領有だったのである。しかしさいわい、バルチック艦隊は、日本海にはいるまえに全滅してしまった。日本海海戦のことを、欧米では「ツシマの海戦」と呼んでいるが、このほうが正しいであろう。

 そして、現代。北朝鮮からの工作員が、とんだ「他者(!)」として、日本海をひそかにわたり来り、大勢の日本人を拉致し去った。この問題は、いまだに解決されていない。

日本海にもっと島があったら?

 日本海は、ほんとうに静かな海だった。戦いといえば日本海海戦ぐらいだが、これも、いま述べたように、ツシマ海戦だった。

 なぜ、こんなに静かな海だったのだろうか。島がないからだろう。もちろん佐渡島や隠岐島。あるいは北海道の利尻島・礼文島・天売島・焼尻島・奥尻島など、いずれも日本海にあるが、どれも本土から近い。日本海のどまんなかには、なんにもない。

 これが地中海となると、シチリア島・サルデーニャ島・コルシカ島・キプロス島をはじめ、ギリシアの周辺やらスペインの沖やら、島だらけだ。バルト海も、なかなか島が多い。

 島が多いと、その領有をめぐっての戦争が古代から絶えない。つまり、武皆って「他者」と向かいあい、甲乙を決しようとする。

 そんな歴史が皆無だった日本海--。幸運だったというほかはない。そのかわり、日本海の「他者」性はゼロになったのである。

ウラジオストクの日本人

 ところが、ただ一つ例外があった。さきに、一九一八年のシベリア出兵について述べたとき、それは「赤い」ングィエト政府を倒そうという内政干渉を目的としていたにもかかわらず、おもて向きは、日本人の居留民を保護するためと謳っていた。日本人の居留民が、ウラジオストクやニコラエフスクにそんなにいたのだろうか? いたのである。

 つぎの写真をごらんいただきたい。一九〇五年撮影のウラジオストクのまちである。かなりのにぎわいだ。おどろくのは、このホテルに、日本語で「セントラルホテル」とでかでかと書かれた看板が見えることである。漢字での「□(判読できず)旅館」という看板も見える。一九〇五年といえば、日露戦争のまっさいちゅう。ロシアがこのまちを中国から領有したのは一八六〇年だから、半世紀足らずで、ウラジオストクは、たいへんな発展をとげたわけだ。おまけに、ここを起点とするシベリア鉄道も、一九〇三年に完工しているから、日本人にとっても、ウラジオストクは、ヨーロッパヘの入口となった。そこで、日本人居留民の数は、ほぼ三千人だったというから、おどろく。そういえば、アムール川河口のニコラエフスクにも、日本人が四百人ちかく住んでいた。

 それだけの数の日本人が、雪はすくないが北海道よりはるかに寒い「他者」のまちに移り住んでいたとは!

 あのシベリア出兵は失敗だったが、当時すでに日本人がこちらに三千人、あちらに四百人もいたという事実は、「他者」性ゼロに見えた日本海に、かすかな希望も浮かんでくる。

 つまり、静かな日本海を、もっと生き生きさせること。そうなれば、日本海は太平洋の「支海」だという偏見もなくなるであろうし、「天気予報」だけだった日本海に、新しい「他者」性が生まれることだろう。
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