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未曾有の「関特演」大動員計画

『昭和陸軍全史3』より 独ソ開戦確実情報への対応とナチス・ドイツ 対ソ開戦準備と南部仏印武力進駐方針--「関特演」と「南方施策促進に関する件」

 田中ら作戦部は、「帝国国策要綱」で対ソ戦準備を公式に認められたことから、北方武力行使を念頭に満州への陸軍の大動員を計画・実施する。

 当時関東軍は、平時編制の一二個師団で、三五万の兵力をもっていた。田中らは、この関東軍を戦時編制にするとともに、朝鮮軍の二個師団と内地から派遣する二個師団をあわせて一六個師団で対ソ戦備を整えようとした。総兵力は、戦時編制一六個師団に、重砲隊・高射砲隊など軍直轄部隊と後方部隊を加え、八五万に達した。さらに馬一五万頭も動員され、それらの輸送用に船舶九〇万トンが徴用された。

 未曾有の陸軍大動員である。これら人員・物資の移動は極秘とされ、動員目的を秘匿するため、名称も「関東軍特種演習」(関特演)とされた。

 田中ら作戦部は、対ソ作戦期間を約ニカ月と想定し、戦闘予想地域が冬季に入る一一月までには大勢を決しなければならないと考えていた。そのためには九月初頭には武力発動が必要であり、その作戦開始の意志決定は、八月上旬から中旬までにおこなわれることが必須だと判断していた。

 また、武力介入の基準として、極東ソ連軍が対独戦への西方転用によって兵力が半減し、ことに航空機および戦車が三分の一に減少した場合とした。

 ちなみに独ソ開戦前の極東ソ連軍の兵力は三〇個師団、戦車二七〇〇輛、航空機二八〇〇機。これに対して関特演前の在満鮮日本軍戦力は、一二個師団、戦車四五〇輛、航空機七二〇機で、関特演による増強を加味しても、戦局の帰趨を決する戦車・航空機は圧倒的に劣勢だった。

 「対ソ武力行使は総じて、在極東ソ連総合戦力が半減することをもって武力発動の条件とする。

 すなわち八月上中旬どろにおいて、極東ソ連(樺太、カムチャッカ方面を含む)の地上軍(狙撃三〇個師団)が半減して一五個師団となり、航空(ニ八○○機)その他軍直属部隊(戦車二七〇〇両など)が、三分の一に減ずる情勢を判断し得るに至ったならば、九月初頭から武力発動に移りうるものと想定する。」(田中「大東亜戦争への道程」)

 もし対ソ開戦に踏み切るのなら、一気に極東ソ連軍を撃破する必要があった。かりに緒戦で大打撃を受けるようなことがあれば、北方武力行使が失敗するだけではなく、南方武力行使も不可能になる。その場合は、大東亜共栄圏も、国防の自主独立も夢想と消える。緒戦での勝利は絶対条件であり、それには、ノモン(ン事件の経験などから、師団数のみならず、戦車・航空機の比重が決定的な重要性をもつと考えられていたのである。

 対ソ武力発動は、八月上中旬までの意志決定と、この極東ソ連軍減少の基準がクリアーされるという、二つの条件によって事実上制約されていたといえる。

 当初作戦部は、二十数個師団を基幹とする案を考えていたが、陸軍省の同意がえられずに断念された。

 武藤ら軍務局は、もともと独ソ戦は長期の持久戦となるとみており、北方武力行使には消極的だった。また、「帝国国策要綱」の北方武力行使の条件についても、こう解釈していた。ドイツ軍によってソ連軍が決定的な打撃を受け、関東軍の現有勢力(三五万)のみで極東ソ連軍を撃破し、さらに占領地維持。も同兵力で可能な情勢となった場合だ、と(「石井秋穂大佐回想録」)。

 したがって、軍務局は、関東軍の現行一二個師団の戦時動員実施にも慎重だった。六月二九日に、田中作戦部長が主務課長である真田穣一郎軍務局軍事課長に、本格動員(戦時動員)実施を強く迫ったさいにも、真田は応じなかった。軍務局では、本格動員には国家レべルでの開戦意志決定が必要だと考えられていた。のみならず、「国策要綱」が想定している北方武力行使の条件(短期間でのソ連崩壊)が満たされる可能性に否定的な見方をしていたからである。

 ところが、武藤軍務局長が、七月上旬、たまたま眼病治療のため勤務を休んでいた間、田中作戦部長は、真田穣一郎軍事課長に再度圧力をかけ、在満鮮部隊一四個師団の本格動員と内地航空部隊、一部の軍直轄部隊の動員派遣に同意させた。だがそれ以上は真田ら軍事課は譲歩しなかった。

 やむなく田中作戦部長は、七月四日、東条英機陸相と直接交渉し、東条の了承をえた。翌七月五日、一六個師団を基幹とする総兵力八五万人の本格動員実施が陸軍内で決定された。北方武力行使に否定的な武藤軍務局長病休中のことだった。

 なお、陸軍省でも、重要ポストにあった冨永恭次人事局長は、対ソ主戦論で田中に積極的に協力して動いていた(西浦『昭和戦争史の証言』)。冨永は、東条の腹心の部下であり、田中とは陸士同期で、ことに親しい関係にあった。

 また、梅津美治郎関東軍司令官も、七月上旬、「この際北方問題の根本的解決を決行するを要する。……A「こそ対ソ国策遂行のため千載の好機である」、との意見を陸軍中央に寄せている(田中「大東亜戦争への道程」)。

 関特演の動員命令は、七月六日と一六日に分けて発せられた。こうして総兵力八五万、馬一五万頭、徴用船舶九〇万トンにのぼる大動員が実施されたのである。田中ら作戦部は、たとえソ連軍の崩壊が起とらなくとも、一定の条件が整えば、何らかのきっかけをつかんで対ソ武力行使を実施し、日独による対ソ挟撃を実行する考えだった。その条件は、極東ソ連軍の兵力が半減し、ことに航空機・戦車が三分の一の状態になることだった。

 それが、先に好機を「作為捕捉」すべきと田中が主張したさいの「作為」の具体的な意味であったといえよう。「帝国国策要綱」では、事実上独ソ戦によるソ連軍の崩壊が、北方武力行使の好機として想定されていたからである。ちなみに海軍は、そのような陸軍の謀略的措置により対ソ戦に突入していくことを警戒していた。

 だが、極東ソ連軍の西方対独戦線への移動は、田中作戦部長らの期待通りには進まなかった。七月中旬の段階で西送されたのは五個師団程度で、開戦前三〇個師団の一七パーセント、戦車・航空機その他の機甲部隊の西送は、三分の一程度に止まっていた。後述するように、対独戦線の状況が、ソ連にとって極めて厳しい状況に追い込まれていたにもかかわらずである。ソ連側も日本の参戦を強く警戒していたといえよう。

 また、参謀本部情報部は八月初めに、本年度中にドイツがソ連を屈服させるのは不可能だろうとする情勢判断をまとめた。

 それでも田中作戦部長は計画を断念せず、なお東条陸相と協議し、八月一〇日前後までに、対ソ武力行使を実施するかどうかを決定しようとしていた。

 しかし、参謀本部は、八月九日、年内の対ソ武力行使を断念する方針を決定した。

 七月二八日に実施した南部仏印進駐に対して、八月一日、アメリカが石油の対日全面禁輸措置を発動したからである。そのため、陸海軍・政府にとって、対米対応が第一義的な問題として浮上してきた。これが主因となって北方武力行使は延期されることになったのである。

 田中自身もまた、八月六日のメモに、「北方を今年やらず」と記している(「田中新一中将業務日誌」)。アメリカの対日石油禁輸によって、石油保有の現状から対ソ作戦を優先的に考えることはできなくなったと判断していた。

  「一、統帥部情報関係の判断によれば、ソ連の屈服を本年中に期待することはできない。またウラル以東にスターリン政権が亡命することも予期できない。

  要するに、独ソ戦関係の推移の関係からみれば、今年中に日本の対ソ武力発動を期待することは無理である。

  二、米国の資産凍結、石油禁輸の影響、日本の石油保有の将来判断から、今や対ソ作戦、しかも持久化するような今の状況では、これを優先的に考えることは到底できなくなった。

 従って八月上旬頃に予定した対ソ開戦の決定は、全く不可能となり、今年の秋はこれを放棄するほかはない。」(田中「大東亜戦争への道程」)

 ただ、「対ソ十六師団の警戒は益々厳ならしむ」とされ、関特演により動員された一六個師団は、ほぼそのままの状態で満州配置が継続された(戦争指導班『機密戦争日誌』、八月九日)。南進時の北方安全確保のためだが、また「先ず南をやり、[来年早春]反転して北方を討つ場合もあり得る」との想定も伴っていた(「田中新一中将業務日誌」)。
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