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第二次世界大戦 対独戦略とヤルタでの悲哀

『物語 イギリスの歴史』より 第二次世界大戦と帝国の溶解

対独戦略とヤルタでの悲哀

 一九四一年後半に、イギリスはソ連とアメリカという巨大な同盟者を相次いで手に入れた。しかし戦争そのものは、しばらくは枢軸国(日独伊)側の優位が続いた。翌年二月には、イギリスが東南アジアに築いた拠点シンガポールが日本軍によって陥落させられた。日本軍の実力を侮ったチャーチルや現地総司令部の戦略ミスであった。さらに北アフリカでもソ連領内でも、ドイツ軍の猛攻が続いた。

 それも一九四二年半ばからは、連合国(米英ソ)側の反撃へと転じていく。ミッドウェー海戦での日本の敗北(六月)、スターリングラードの戦いの開始(八月)、北アフリカ戦線での戦況の好転(一一月)などで、今度は逆に枢軸国側が追いつめられていくのである。最初に陥落しだのはイタリアであった。一九四三年九月にイタリアは降伏した。

 一方で、チャーチルがイーデン外相(一九四〇年一二月就任)とともに進めた戦時外交が、「頂上会談」を用いた手法であった。すでにアメリカが大戦に参加する四ヵ月前に、大西洋上でチャーチル=ローズヴェルト会談が行われていたが、これを嚆矢に、カナダのケべックやモスクワをチャーチルが訪れることで、米ソ両国との連携が強化される。また、イタリア降伏後の一九四三年一一~一二月には、対日戦略を検討するカイロ会談(米英中)と対独戦略を検討するテヘラン会談(米英ソ)が開かれた。

 一九四四年六月六日、アメリカのドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワー将軍を最高司令官に「ノルマンディ上陸作戦」が成功を収め、こののちドイツ軍は東西から挟撃されることになる。八月にはパリが解放され、その他の西欧諸国も次々と連合軍により奪回された。翌年二月、クリミア半島の最南端で米英ソ三国の首脳によりヤルタ会談が行われた。ここではドイツの戦後処理問題が話し合われたが、もはやその主導権はアメリカとソ連という超大国により握られていた。チャーチルは、アメリカのローズヴェルト大統領とソ連のョシフ・スターリン首相の間に挟まれて、大国からこぼれ落ちていくイギリスの悲哀を肌で感じていた。彼は、ドイツの降伏後三ヵ月以内にソ連が対日参戦するという「ヤルタ秘密協定」の話し合いからも外されていたほどだった。

チャーチルの敗北--一○年ぶりの総選挙

 ヤルタ会談から三ヵ月後の一九四五年五月八日、ドイツ軍が連合国に降伏し、ヨーロッパにおける第二次世界大戦は終結した。この日、バッギンガム宮殿のバルコニーに、ジョージ6世とエリザベス王妃、さらに二人の長女エリザペス(のちの女王)と次女マーガレットの四人が、チャーチル首相を囲んで現れた。宮殿前には二五万人もの人々が集まり、五人はバルコニーから人々に向かって手を振った。エリザベス王女は三ヵ月前に婦人部隊に入隊したばかりで、軍服姿であった。将来君主になる女性王族が軍服で戦争に従事したのは初めてだった。

 残る敵国は日本だけとなったが、ドイツ及びヨーロッパの戦後処理問題を話し合うため、米英ソの三国首脳は空襲で廃墟と化したベルリン郊外のポツダムに集まった。ここでは四月に急逝した口-ズヴェルトに代わり、大統領に昇格したハリー・S・トルーマンとスターリンとが米ソの勢力圏をめぐって真っ向から衝突していた。ところが、チャーチルだけは会議でも上の空の状態に見えた。彼の頭のなかは、ヨーロッパの未来よりも、保守党政権が存続できるかどうかでいっぱいだったからだ。

 このたびの世界大戦にあたり、議会内では「ドイツ軍に勝つまでは総選挙を延期する」旨が合意を得ていた。ここに晴れてドイツを打ち破り、ポツダム会談のさなかの七月に、一〇年ぶりの総選挙の結果が明らかとなったのである。ヒトラーとの戦争のなかで強固な連立を組んでいた保守党と労働党はライバル関係に戻った。保守党側はチャーチルがお得意のVサインで微笑むポスターでヨーロッパ大戦での勝利を喧伝した。

 ところがふたを開けてみると、七月二六日に発表された選挙結果は、保守党が二一三議席に対し、労働党が三九三議席を獲得するという、労働党の圧勝に終わった。保守党が「世界大戦での勝利」という「過去」の栄光にこだわったのに対し、労働党が選挙スローガンに掲げたのは「ゆりかごから墓場まで」という戦後の社会福祉政策の実現という「未来」についてだった。それは一八六八年の第二次選挙法改正後最初の総選挙にも見られた、イギリス人に特有の冷徹で現実的な判断の表れだったのかもしれない。
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イギリスの歴史 ヘンリ5世によるフランス進攻

『物語 イギリスの歴史』より フランスと王位をめぐって

ヘンリ5世によるフランス進攻

 父王の突然の死に伴い、一四一三年四月にその父が亡くなったウェストミンスター修道院で、ハリー王子はヘンリ5世として戴冠式を挙行した。熱心なキリスト教徒でもあった彼は、この当時イングランドで広まりつっあった、ジョン・ウィクリフ(オックスフォード大学の神学者)を提唱者とする「ロラード派」を異端として徹底的に弾圧した。ロラード派は反教権主義者で、高位聖職者か教会の富を私物化することに反対だった(祈禧文を「もごもご唱える」のでこのあだ名が付いた)。

 国内の異端を弾圧した後は、ヘンリ5世の次なる標的はフランスとなった。一三六〇年に曽祖父エドワード3世がプレティニ=カレー条約を結んだにもかかわらず、フランス側はそのときに取り決められたジャン2世の身代金をまだ半分以上(一六〇万金エキュ)も支払っていなかった。ヘンリ5世はこれに加えてさらにいくつかの領土の割譲を迫り、父の死で立ち消えとなっていたシャルル6世の娘カトリーヌとの結婚話を復活させ、これまた高額の持参金(二〇〇万金エキユ)まで要求したのである。

 こうした国王の強硬な姿勢に議会の大半がついていけない状況であったが、自分は神に護られているとの強い信念を抱いていたヘンリ5世は、崇敬する曽祖父エドワード3世がかつて要求したフランスの王位継承権と、ジョン王以来失われて久しい大陸の領土を回復するために、一四一五年夏にはフランスヘと兵を進めた(この過程で国王の政策に反対する一派による暗殺陰謀事件もあった)。フランスに上陸したイングランド軍は、赤痢などに苦しめられながらも、北部に陣を取った。

 そして一〇月二五日、北フランスのアザソクール(英語名アジンコート)で六〇〇〇名にまで減少していたイングランド軍は、その数四万とも五万とも言われたフランス軍を相手に、長弓兵と地形を巧みに利用した戦術とでフランスの重装騎馬軍団を殲滅した。シャルル6世の甥でオルレアン公シャルルなど多くの貴族が捕虜となり、翌一一月にヘンリ5世はロンドンに凱旋する。すぐに開かれた議会では、それまでの国王に対する半信半疑の態度とはうって変わって、国王に終生一定額の羊毛・ワインの輸出関税や直接税(一〇分の一税や一五分の一税)の課税を認めると約束し、アザンクールの大勝利を祝った。

連戦連勝、フランスの屈服

 この勝利に驕らず、ヘンリ5世は一四一七年夏に再び大陸へと遠征に出かけた。今度はかなりの大軍も集まり、各地で連戦連勝が続いた。

 一四二〇年五月に、ヘンリ5世は同盟者であるブルゴーニュ公爵とフランス中北部のトロワで条約を結んだ。シャルル6世が存命中はヘンリ5世か摂政を務め、シャルル6世が亡くなった場合には、ヘンリ5世とその継承者がフランスの王位を引き継ぐ。さらにシャルル6世の娘カトリーヌ(英語名キャサリン)とヘンリ5世の結婚も正式に決まる。この条約にシャルル6世は同意せざるを得ず、フランス各地に証書か送られた。フランスの諸侯もこれを認めただけではなく、神聖ローマ皇帝やヨーロッパ各国の王侯らの大半もこの条約を承認したのである。

 いつしかヘンリ5世は、ノルマンディも含めたフランスの北部一帯を支配しており、それは敬愛する曽祖父エドワード3世でさえ及ばないような戦功と人々から褒め称えられた。

 一四二〇年六月二日、トロワでヘンリ5世とシャルル6世の娘キャサリンの華燭の典が盛大に執り行われた。花婿は三二歳、花嫁はまだ一八歳だった。二人の間には翌年一二月に男子か誕生した。父と同じく「ヘンリ」と名付けられた。この子は将来、生まれなからにして史上初めてのイングランド国王にしてフランス国王に即くのである。

 ところか幸せは長くは続かなかった。一四二二年八月、フランス中北部のヴァンセンヌに滞在中だったヘンリ5世が赤痢に罹ってあっけなくこの世を去ってしまったのである。まだ三四歳という若さであった。ジョンの「ノルマンディ喪失」以来、歴代イングランド国王はブリテン島内で亡くなるのか通例であったが、「獅子心王」と呼ばれたリチャード1世(一一九九年四月)以来、実に二二三年ぶりに海外で亡くなった王となった。

 ヘンリ5世もまた獅子心王と同じく武勇に優れた王であったか、フランス語しか話さなかったリチャード1世とは異なり、ヘンリ5世は常に英語を話し、家臣たちにもそれを推奨していた。文学や音楽にも造詣か深く、プディングのような独特の髪型で颯爽と戦場に登場する姿は、当時の騎士物語にとっても格好の題材となったばかりか、彼の服装は流行の先端となった。

ヘンリ6世=「アンリ2世」の即位

 イングランドの英雄ヘンリ5世の突然の死により、ここに生後まだ九ヵ月にも満たないヘンリ6世(在位一四二二~六一年、七〇~七一年)が即位した。戴冠式は、一定年齢に達するまで繰り延べとなった。さらに父王の死の翌々月、今度は母方の祖父シャルル6世まで亡くなった。この結果、彼は生後一〇ヵ月にしてフランス国王「アンリ2世」にも即くことになったのである。

 幼王の治世を支えたのは、ヘンリ5世の弟たちだった。ヘンリ4世の三男ベドフォード公爵ジョンは、幼王の後見人にしてフランス占領地域の統治を託された。四男のグロウスター公爵(ンフリは、同じく幼王の後見人にしてイングランドにおける「護国卿」となった。

 だが、ハンフリは他の王族や諸侯とも折り合いが悪く、叔父(ヘンリ4世の異母弟)でウィンチェスター司教のヘンリとも事あるごとに衝突した。イングランドの実際の行財政は国王評議会の手に委ねられ、議会からも承認を受けた。ハンフリは自らの摂政権を主張したか、ヘンリ(司教)が主導する国王評議会は護国卿の後見はあくまでも王領地の問題に限ると解釈し、両者の対立を抑えるために、大陸に遠征していたベドフォード公爵ジョンがわざわざ帰国して調整にあたらなければならないほどであった(一四二六年)。

 イングランド国内の調整か済むと、ジョンは再び大陸へと戻り、一四二八年一〇月からはフランス中部のオルレアン包囲戦が開始された。翌二九年春、「ロレーヌの乙女」ジャンヌ・ダルクがシャルル6世の遺児で「アンリ2世」の叔父にあたるシャルルと会見を行う。ジャンヌ・ダルクは彼女が一三歳のときに見た夢で天使のお告げがあったとおり、ランスで戴冠式を挙行すべきだとシャルルに進言した。伝説の乙女の登場にシャルルも意を決し、ジョンによるオルレアンの包囲を突破して、七月一七日に戴冠式を行った。

 「シャルル7世」としてランス大聖堂で戴冠した彼はトロワ条約の無効を宣言し、フランス全土の諸侯や騎士たちに援護を訴えた。対するベドフォード公爵ジョンの側も一四二九年一一月にウェストミンスター修道院でイングランド国王として戴冠したばかりのヘンリ6世を「アンリ2世」として正式なフランス王と喧伝し、翌年に捕らえたジャンヌ・ダルクを焚刑に処した(一四三一年五月)後、同年一二月にパリのノートルダム大聖堂でアンリ2世の豪華な戴冠式を行った。しかし、一〇世紀司ユーグ・カペーによる戴冠式以来、フランス国王はランス大聖堂で戴冠するのが習わしであり、フランスの諸侯は不満であった。
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自律した「大人」になるための教育

『まず教育論から変えよう』より キャリア教育になにが期待できるか

「夢追い」と「現実適応」のあいだで翻弄される子ども・若者たち

 キャリア教育については、まだまだ書きたいこともあるし、多様な論点や争点もありうるのだが、すべてを論じている余裕はない。ここでは、締めくくりとして、ここまでの視点を大転換してみよう。―そもそも、いま現在、キャリア教育を受けている子どもや若者たちにとって、「キャリア教育」とは、いったいなにものなのか、と。

 おそらく、キャリア教育の個々の取り組み(自分史の作成、適性検査の受検、社会人講話、職業調べ、職場体験やインターンシップ、職業人インタビュー、上級学校や大学の学部・学科研究、ライフプランの作成、などなど)にかんしては、「自分の将来について、真剣に考えるようになった」とか、「仕事の世界について興味がもてるようになった」とか、「職場体験で仕事の厳しさや働く人の苦労がわかった」とか、「自分の〝夢〟に向けて頑張ろうと思った」といった子どもたちの声を聞くことができるだろう。それはそれで、取り組みのねらいは、実現している(もちろん、それが、どれだけの範囲の子どもに届いたのか、実際に子どもや若者の進路選択に役立ったのか、といった点については、それこそケース・バイ・ケースなのであろうか)。

 だから、僕も、これまでのキャリア教育を全面否定するつもりはないし、そんなことをする必要もない。ただし、ここで問題としたいのは、そうしたキャリア教育の個々の取り組みの成否ではない。キャリア教育が導入されたことで、子どもたちの意識や行動には変化がみられたのか。彼らは、それ以前の子どもたちに比べれば、より入念に「将来への準備」ができるようになったのかが、問われなくてはいけない。

 この章の冒頭で、子どもと若者が、学校から仕事の世界に渡っていくための〝梯子〟が、なかば外されかけていると書いた。そのことを念頭におきながら、これまでのキャリア教育のあり方を全体としてふり返ってみれば、そこに、つぎのような構図が浮かびあがってくるのではないか。

 端的に言えば、このかんの取り組みは、「夢追い型」キャリア教育で、子どもたちをさんざんかきまわしつつ(ときには「夢」を焚きつけ、ときには「自分探し」の〝迷宮〟へと彼らを誘い)、その後は、「とにかく目標に向けて頑張れ!・」の号令しかかけることができなかった。当然、卒業という「出口」においては、「夢」はかなうこともあるが、実際にはかなわないことのほうが多い。そのさいには、結局のところ、現実原則が優先することになり、子どもたちには、なりふりかまわず、どこかの(空席のある)梯子にしがみつかせようとしてきたのではないのか。つまりは、心ならずも「適応型」キャリア教育論に道を譲ってきたということである。

 この意味で、「夢追い型」キャリア教育論と「適応型」キャリア教育論は、その理念的な側面は正反対の関係に立つが、しかし、実体はメダルの表裏の関係にあり、前者は、後者へと容易に転化してしまう可能性(危険性)を秘めてもいたのだ。

 そうだとすれば、だれがどう考えても、最大の被害者は、子どもたち・若者たちにほかならない。彼らは、思いきりアスピレーション(欲望)を煽られたあげくに、最終的には、なんの〝防備〟ももたされずに、「現実」へと突き落とされることになったのだから。

なにを大切にし、どう生きるのかのなかに仕事を位置づける

 では、本来、求められたはずのキャリア教育とは、いったいどんなものだったのか。

 もう一度、先の図に戻ろう。求められるのは、座標軸の原点に位置づくキャリア教育のかたちである。

 タテ軸に即していえば、社会適応や「現実」のがわに偏るのでも、子どもたちの「夢」や「やりたいこと」にだけ偏るのでもない、中庸のポジションが求められる。社会や職業世界についてのじゆうぶんな学習と、自己理解や「やりたいこと」についての探究をくり返し往復しながら、子どもと若者には、「現実」と「夢」のあいだにご斑り合い〃をつけることのできる判断力や行動力を身につけてもらう必要がある。

 ヨコ軸にかんしていえば、ワークキャリアに傾斜するのではなく、ライフキャリアにも目配りしたキャリア教育が求められる。「学校」から「仕事の世界」 への〝梯子〟が外されかけた状況とは、たしかに厳しい環境ではある。しかし、それは、これまでの社会の「標準」とは違うかたちで、学校から仕事の世界へとJ波る〃選択肢が生まれているということでもある。

 組織が個人のキャリアを開発してくれる時代は、終焉に向かいつつある。これからは、個人がみずからのキャリア開発をしていく時代である。そうした時代に対応するには、「職業人」であるまえに、まず自立した「大人」である必要がある。自分がなにを大切にし、どう生きていくのかという大きな展望(方向感覚)のなかに、みずからが働くことを位置づけることが求められている。キャリア教育は、そうしたことのできる個人の形成をめざし、そのための準備に資する幅広い教育であるべきであろう。
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黒死病による人口減少 オーストリアとドイツ

『ペストの歴史』より 黒死病による人口減少

ドイツ語圏では農村の状況が明らかではなく、情報は都市に片寄りがちである。黒死病はイタリアからアルプス山脈を越えてドイツ、オーストリアヘ達した。一三四八年六月、もっとも早期に黒死病が及んだミュールドルフでは、数カ月間に一四〇〇人の死者を出したが、バイエルン地方など南ドイツの状況はわからない。確実なのはウィーンで、ハンガリーから侵入した黒死病が一三四九年四月から大流行したことにある。死者の数は年代記によって一日二〇〇人から二一〇〇人までまちまちで決め手を欠くが、『ノイペルク修道院年代記』によると、住民の約三分の一だけが生き残ったという。

北ドイツと中部ドイツの都市部については断片的ながら職業上の状況が判明する。ブレーメンでは、市議会が死者のリストを作成したが、それによると、六九六六人が犠牲になった。人口が一万二〇〇〇から一万五〇〇〇しかいない同市では、それは死亡率が半分近くから五分の三を意味した。しかし、実際にはそれに未確認の貧民を加えねばならない。そうすると、七五〇〇人から八○○○人になるのである。重要なハンザ同盟都市ハンブルクでは、三四人のパン屋の親方のうち一二人が、四〇人の肉屋のうち一八人が、五〇人の都市行政官のうち二七人が、二一人の市議会メンバーのうち一六人が死亡した。一番重要な(ンザ同盟都市リューペックでは、三〇人の市議会メンバーのうち一一人が、五人の都市行政官のうち二人が、資産家全体の二七%が犠牲になった。その他、中小都市では、ヴィスマールが都市行政官の四二%を、リューネブルクが都市行政官の三六%を失った。そうした状況からゴットフリートは北ドイツでは死亡率を二五~三〇%としている。

さらに、中部ドイツでは、フランクフルトで一三四九年のある七二日間で、黒死病のために二〇〇〇人が犠牲になったし、リンブルクで二四〇〇人、マインツで六〇〇〇人、ミュンスターで一万一〇〇〇人、エルフルトで一万二〇〇〇人が死亡した。

そうしたなかで、例外的に黒死病による犠牲の少ないバイエルン地方のニュルンペルクは注目に値しよう。そこは近隣のヴュルツブルク、プラ(などと同様、最小限度の犠牲ですませることができた。ニュルンべルクはアルプスをはさんだイタリアとの交易の中継地のひとつで、十四世紀初頭には、人口が一万五〇〇〇から二万を数えたが、犠牲者は約一〇%ですんでいる。なぜ犠牲者を少数に押さえ込むことができたのか。ペネディクトヴはその理由として季節と天候をあげる。つまり、寒い季節と悪天候のため侵攻速度がにぶり、黒死病は停滞したからだという。しかし、ゴットフリートはその他の理由をあげる。それはニュルンべルクが公衆衛生に熱心であったからである。街路は舗装され、定期的に清掃されてごみひとつ落ちていなかった。豚の徘徊も許されず、市民は身ぎれいにしていた。多くの労働者の賃金に入浴料金が含まれていた。市内には一四の公衆浴場があり、厳しく管理されていた。市には専属の医師団がいて、民間には薬屋、外科医も少なくなかった。彼らの助言で、遺体は市壁の外へ埋葬されることになり、死者の衣服、寝台は焼却され、部屋は煉蒸された。そうした徹底した対策により、黒死病の魔の手からニュルンペルクは免れることができた、という。南ヨーロッパの都市のように、黒死病の直撃を受けなくてすみ、侵攻までに十分時間的余裕があり、もともと公衆衛生の素地があったための勝利であった。

以上がドイツの状況である。死亡率はイタリア、フランス、ブリテン諸島に比べて低く、北ドイツの都市部で二五~三〇%であったとされるが、ケリーは近隣諸国のそれとほぼ同じとする。

オランダについても言及しておこう。情報は断片的でまとまりを欠く。そこでは都市化がある程度進んでいたが、ゴットフリートはホラント地方について人口の三〇~三五%の減少であったとする。しかし、ケリーは南部地方について死亡率が一五~二〇%であったとしている。
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豊田市図書館の残されていた5冊

292.58『沈黙の山嶺(上)』第一次世界大戦とマロリーのエヴェレスト

292.58『沈黙の山嶺(下)』第一次世界大戦とマロリーのエヴェレスト

499.09『悪の製薬』製薬業界と真楽開発がわたしたちにしていること

953.7『失われた時を求めて 全一冊』プルースト

283.04『ルーブル美術館 女たちの肖像』描かれなかったドラマ
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グーグルによる「分化と統合」

「存在と無」から「存在の無」

 世界と「すべて」がつながっています。そして、「存在」と。存在がなくなることはすべてがなくなること。「すべてを無に帰る」という考え方と私の場合は異なります。「存在と無」が同じところに成り立っている。

 根本は「存在と無」です。そして、「存在の無」に変わる。これが未唯空間での結論です。私にとって、という観点と「内なる世界」に分岐することは同じです。

「すべてを知る」の出発点

 「すべて」と言えるかどうかを意識したのは、9.11の時に、マスードの存在です。そんな世界があるとは知らなかった。

 私の世界のすべてと言った時に、マスードが抜けていた。だから、アフガニスタンを調べて。色々なことを知らなかった。では、アフガニスタンに行けるか。サラリーマンの身でそんなところに行けるわけにはいかない。だから本を読んで、長倉さんの話を聞いた。っして、自分の中に入れ込んだ。全てを得るために。

「外なる世界」と「内なる世界」

 外側から見られた死と内側から見られた死、これは外なる世界と内なる世界いう概念と同じです。世界のすべてをその内に含んだ、唯一のもの。だから、私の圧倒的な勝利です。なにしろ、他者も含んでいるのだから。

 私は世界、というのが、ここでの結論です。だけど、著者は「そんなことは言わない方がいい」と言います。こんな当たり前のことに対しても、他人は他人であり、他者は他者です。

死の瞬間に「ざまあみろ」

 そんなことを言わなくて、黙っていればいい。死は必ず訪れる。焦る必要はない。だから、この最近、思っているのは、死の時には「ざまあみろ」と言いたい。この間の心臓手術の時も、そう感じた。「すべてがなくなるのに」、皆、それを知らない。言うことも言えない、この世界をなくすことができる!

死の話をしよう

 同じことを考えている人がいた。斎藤慶典『死の話をしよう』。それも池田晶子さんの関係者だった。池田さんのように、あっさりとしゃべって方がいい。何か、くどい。

 「先がないこと」を著者は一生懸命に語っていた。死とは。私にとっては、単に「先がなくなる」だけの話。

生活パターン

 だから、今日はタブレット一つとICレコーダー一つで出てきました。夏に向けて、奇抜な色のTシャツが欲しい。

 一週間ぐらい、家に居て。外へ出ない生活も試しましょう。来月の七夕あたりに。金を使わない、入院したような生活です。出掛けていると言っても、スタバだけです。それもなぜ、行っているかもハッキリしない。

 パソコンをやっていると目が疲れます。先に進まないkら、余計に疲れます。最近は座っているとお尻が痛い。

 土日のスタバは、無理ですね。あんなに混んでいては。朝だけにしよう。

「私は私の世界」

 「私は私の世界」をコミュニティとコミュニティにどう投影しましょうか。そこまで、踏み込むのが、新しい哲学であり、新しい数学である。それを作るのが、未唯空間であり、それを超えるのが、未唯宇宙。

グーグルカー

 「グーグルカー」はリアルなところには居ない。完全に空間上に浮かんでいます。3Dマップ上に居ます。それをコントロールするものとリアルなものを対比させています。これではリアルな会社は勝てるわけがない。発想が全然違います。大きな視点から見ています。ロボットの延長線上にはいない。ホンダのようなカタチでは見える範囲が狭すぎます。

 それでも、グーグルは車というものに、所有というものに拘っています。バーチャルならば、車という概念ではなく、公共というものを使ってしまえばいい。そのためには、人間を言うものを使っていくことです。そのために、「知」に拘って、グーグルを創り上げてきたのだから。

 グーグルマップにしても、自分たちグルグルで回って、映像を取り込むとか、衛星で大きな視点からのデータをつなげているけど、その地域の人間をコミュニティを介して、使っていくという発想は、グーグルにない。

 あくまでも、クルマ会社と同様に、1対2000万というレベルで物事を処理しようとする。そのためのビッグデータを使おうとする。そうではなく、ローカルを使っていくことの方が、結論に近い。その理由は、ローカルに幸せを求めるのが、一番の目的に適ったやり方です。

 それにしても、車の上にレーダーのようなモノを付けて、1分間に300から500回転させて、3Dマップを作り上げるという発想は自動車会社には当然、ないです。

グーグルによる「分化と統合」

 グーグルならば考えているのは、一台一台のオンデマンドサービスをつなげて、全体を見えるようにしていくことでしょう。数が増えれば増えるほど、楽になっていく世界でしょう。その意味では、未唯空間の第10章に近い形になります。一台一台のレベルが上がってくれば、全体が変わってくる。そのようになっています。

 今の車は一台一台が勝手な方向に、人間という勝手なモノがドライブしているから。増えれば、混沌が増すカタチになっている。従来からすると、減らないとダメだという発想になってします。そこに、「個別なところに「知」を入れることで、構造が逆転する。

 一台一台がインテリジェンスになって、それを複合したものをマップ化させて、それらの相互関係をコントールすることで、膨大な空間が出来上がります。「分化と統合」の世界になっていく。

 このイメージとして、極端なのがレースです。時速200から300Kmのものが高速に動いています。お互いのレベルが高いので、あたかも止まっているのと同じ感覚で車間を詰めることができます。セナとプロストの世界です。その代わり、全体なモノを個人が見ていくのか、そのレベルで違ってきます。
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