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官民一体による地域創生

『地域創生のデザイン』より 官民一体で挑む武雄市の地域創生

(1)人口5万人の地方都市で豊かな生活を実現するために

 武雄市の市政には、民間の力が活かされている。それぞれの分野で、多くの知見とノウハウをもった企業や組織を選定し、それらと連携することで、行政だけで行えるレベル、もしくは予算の範躊で行えるレベルを上回るサービス提供を目指してきた。地方の小都市で豊かな生活を送るためにはどうすればいいのか。人口5万人の都市では提供しにくい公共サービスや経済活動はどのようにすれば供給できるのか。

 武雄市では、医療、教育、福祉、文化という生活に密着する公共サービスの水準を高めることを目標に定め、民間のノウハウを取り込むことでこれを実現しようとしている。その際、官民一体として取り組むことで、民間が参入できるきっかけと場をっくり、知恵を出し合う場をっくり、官民のシナジー効果を生み出している。そして、地域に公共サービス分野の新しい雇用を創出することにも成功している。

 民間との協働により、公共サービスの質を高めつつ、同時に負債の削減にも成功し、この8年間で約100億円の借金を削減している。そして、固定資産税や水道料金の値下げなども実現している。生活に密着した医療と教育のレペルアップは、居住地選択にも影響を与え始めており、新武雄病院や武雄市図書館の周辺ではマンション建設などの動きも増えている。

(2)市民価値の向上

 武雄市市政や官民一体事業の基本理念は、「市民価値の向上」である。市民が求めているものは何か、それを実現するには何が必要なのかという問題意識を市政の根幹としている。そして、その答えは、「その道のプロとの連携」であった。

 官民連携事業を成功に導くには、計画段階から、その道のプロと密接かつ持続的な連携を必要とする。しかし、その際、注意しなければならない点は、「公平性」の観点である。公平性の確保と密接かつ継続的な連携。この両立は、難しい課題である。しかし、両者がしっかりと信頼関係で結ばれ、プロジェクトの成功に向けて、力を結集しなければより良いサービスは提供できない。連携相手の選定基準を「市民価値の向上」の実現に据え、選定過程を市民や議会にオープンにすることも重要となる。

 武雄市の種々のプロジェクトでは、立案の段階においてパートナーを決定し、パートナーとともに事業を構築していくプロセスデザインを通じて市民価値を創造している。事業実施に際しては、市民、議会の審査を受けつつ、修正や改良を行うという柔軟性も求められる。

(3)公共サービスに民間が活躍できる場づくりを

 官民一体事業成功のカギは、行政と民間パートナーとの協力関係である。武雄市における官民連携事業は、公共サービスに民間活力を投入するというレベルにとどまるのではなく、公共サービス分野において民間事業を成立させ、収益を上げ、さらには、雇用を生み出してもらうというスタンスを取っている。

 武雄市は、パートナー企業の事業遂行のために、関係部署との調整や法規制のクリアなど、事業環境の整備にも取り組んでいる。そうすることで、人口5万人の都市では成立しづらいサービスの供給を実現してきた。市民病院の民間移譲にしても、武雄市図書館にしても、レモングラスやパクチーの産地化にしても、補助金や交付金等といった税金投入を削減しただけでなく、民間企業から税金や賃料を得ることに成功し、その資金でさらに施設やサービスのレべルアップヘの投資を行うという好循環を創り出しているのである。

 武雄市における官民一体による公共サービス、すなわち市民価値の実現のためのプロとの連携と活躍の場づくり支援は、人口5万人クラスの地方都市での暮らしやすさを実現していくための一つのモデルである。

 2015年、安倍内閣は最重要課題として「地方創生」を掲げている。地方創生の時代は、アイデア勝負の時代でもある。市民の福祉向上に資するアイデアを持つ自治体に対しては、国も積極的に支援する方針である。裏を返せば、アイデアも知恵もない自治体は、増田レポートで指摘された「消滅自治体」への道を歩まざるをえない。人口減少が進む時代において、アイデアを生み出すためには、行政だけではなく、民間や非営利セクターをはじめ、あらゆる組織や個人の知恵を総動員しなければならない。そして、アイデアの実現にあたっては、最も市民価値を向上できる主体と連携を組まなければならないのである。
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ハンナ・アーレント『全体主義の起原』

『宗教学』より

全体主義の国家支配--秘密警察と強制収容所

 全体主義の政党は、陰謀論的世界観や強固な結束を武器に勢力を拡大させ、時には最終的に、国家をも手中に収めてしまう。しかしそれは、党にとって必ずしも肯定的な意味のみを持つわけではない。全体主義政党はこれまで、反体制的なスタンスによって支持を集めてきたのであり、その勢力が体制側に回ることは、運動のダイナミズムやラディカリズムを失うことにもなりかねないからである。

 その際に全体主義は、運動の勢いを持続させるために、国家の内部に巣くう「敵」の存在を盛んに喧伝し始める。アーレントはそれを「客観的な敵」と称している。「客観的な敵」とは差し当たり、ナチズムにとってのユダヤ人、スターリニズムにとっての反共主義者を意味するが、実際にはその内実が明確に定められているわけではない。全体主義の体制を維持するためには、常に何らかの形で敵を作り出す必要があり、指導者と党が名指しさえすれば、どのような人間も即座に「客観的な敵」になり得るのである。

 社会の暗部に巣くう敵を捜索・摘発するために、全体主義の国家では、「秘密警察」が高度に発達する。具体的には、ナチスにおける「ゲシュタポ」、スターリニズムにおける「GPU」がそれに当たる。秘密警察の組織は徐々に肥大化し、多数の人員が割かれるようになるが、潜在的にはすべての国民が監視の対象となるため、秘密警察のみで「客観的な敵」を完全に洗い出せるわけではない。ゆえに令体主義国家では、国民の相互監視と密告が日常的に行われるようになる。人々は今や、互いの一挙手一投足に「客観的な敵」の徴候を察知して疑心暗鬼となり、それを払拭するために、党や指導者への忠誠を自ら積極的に示そうとする。こうして全体主義の運動は、国民一人一人の内奥にどこまでも深く浸透してゆくのである。

 「客観的な敵」と見なされた人間は、秘密警察による逮捕・拷問を受けた後、強制収容所に隔離される。彼はその場で監禁や強制労働を課され、最終的には、生命を奪われることになる。

 これについてアーレントは、強制収容所で行われたことは、人間の「殺害」ではなく「抹消」であったということを強調している。これまでの人類史においては、どれほど過酷な戦争や処刑であろうと、人間はあくまで人間として殺害された。人が殺されたという事実そのものや、彼の死を追憶する権利を、誰も否認することはできなかったのである。しかし強制収容所で行われたことは、その人間の生の完全な抹消であった。「それらは、誰もがいつなんどき落ちこむかもしれず、落ちこんだら嘗てこの世に存在したことがなかったかのように消滅してしまう忘却の穴に仕立てられていたのである」。全体主義における前代未聞の大量粛清を可能としたのは、実に、人間の完全な抹消という手法と論理であった。

「生の無意味さ」を核として渦巻く暴風

 このように全体主義は、陰謀論の流布に始まり、秘密結社的な党派の結成、秘密警察と密告による徹底した監視、強制収容所における大量粛清に至るまで、幻想的世界観と悲劇的実践を限りなく追求していった。それでは、こうした運動を推進させる原因となったもっとも基本的な要素とは、果たして何だったのだろうか。

 それは、大衆の心に深く浸蝕した「自己の無用性」や「生の無意味性」の感覚である、とアーレントは指摘する。「強制収容所という実験室のなかで人間の無用化の実験をしようとした全体的支配の試みにきわめて精確に対応するのは、人口過密な世界のなか、そしてこの世界そのものの無意味性のなかで現代の大衆が味わう自己の無用性である。強制収容所の社会では、柵は人間の行為と何らの関係がなくてもいいし、搾取が何びとにも利益をもたらさなくてもかまわないし、労働が何らの成果を生まなくてもいいということが時々刻々教えられる。この社会はすべての行為、すべての人間的な感動が原則的に無意味である場所、換言すれば無意味性がその場で生み出される場所なのである」。

 社会の全面的な流動化によって微小なアトムと化し、生の実感を喪失した諸個人が、あたかも風に吹かれた砂塵のように舞い上がり、っいには渦を巻きながら、その内に自分自身を消失させてゆく--全体主義の運動は、以上のようなものとして理解することができるだろう。そしてこうした現象は、ナチズムとスターリニズムを終止符として、歴史から完全に姿を消したというわけではない。類似の大衆運動や政治体制は現代において少なからず存在し、また、オウム真理教が典型例の一つであるようにカルト的な宗教団体の内部にも同様の構造が見られることがある。全体主義の暴風がもたらす惨禍を未然に食い止めるためには、その運動の基本的なロジックを把握しておくことが、必要不可欠な第一歩となるだろう。
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「次の日本」をつくる戦略家が必要

『「瑞穂の国」の資本主義』より 二〇二〇までに克服すべき日本の課題

日本の戦後を振り返ると、松下幸之助氏や本田宗一郎氏、おそらく唯一ご存命な方ではスズキの鈴木修社長兼会長といった日本の製造業の創業者世代が、戦後の焼け野原から日本を復興させてきた。

ところがいま、多くの日本企業では、その次の世代に、新たな一時代を築き上げるようなカリスマ性を持つリーダーが欠落しているように見える。いわゆる強いリーダーの周囲にはイエスマンが集まるので、強いリーダーを失った企業はだいたい迷走してしまうのだ。

こうしたなかでリーマン・ショック以降、創業者世代から数えて三代目にあたる団塊世代の大量引退が進み、今後の日本が歩んでいくべき方向性を示す新たな価値観が生まれようとしているのが、日本の現状である。

そこで日本に足りないものは何かをあらためて考えてみると、日本にはいま、評論家や批評家は数多くいても、ストラテジスト、戦略家がいないという現実が見えてくる。

ストラテジストといえば聞こえはいいが、日本の「失われた二十年」を振り返ると、伊藤忠商事元会長の瀬島龍三氏や日本財団元会長の笹川良一氏、旧経済団体連合会の第四代会長を務めた土光敏夫氏のような、汚れ役や裏方もこなしつつ、良くも悪くも戦略を打ち立てていく人が、日本から消えてしまったような気がする。

国際社会は競争のなかで成り立っている以上、日本が今後、自存自衛を図るうえで最も大事なものは戦略論である。くわえて、物事には正負があるとの認識の下に、それぞれの立場やポジションでパワーゲームをどう読み解いていくかが肝心だ。

中国や韓国が、日本をあることでこう批判しているという報道が紙面に並ぶことがよくある。だが中国や韓国が口本を批判するのは、彼らにとって何らかのメリットがあるからだ。ということは、それが日本にとって必ずしもデメリットであるとは限らない。多くは、日本にとってメリットがあるということだろうから、毅然とした姿勢で反論すればよい。

ところが、日本の政治家の多くは戦略どころか、いい人に見られたいという思いが強いのか、人に嫌われることをしたがらないし、決断ができない。いい人が経営者になると会社がうまくいかなくなるように、あえて人に嫌われることをしなければ、競争の世界では勝てないのである。

こうした前提に立てば、これから日本が国際社会を生き抜く戦略を立てる人材を育てるエリート教育がぜひとも必要だと思われる。そして、それはけっして英語ができる人材を育てることではない。

「グローバル化=英語能力」などとバカなことを言う経営者もいるが、実際はどのような言葉であってもかまわないので、まず自ら第一言語で思考する、物事を考える能力を育てることが重要なのである。

戦後の形式張った日本語教育は、反論しない子供たち、ひいてはものを考えない大人たちを大量に生み出してしまった。しかし、あくまでも言葉は道具でしかない。「言葉ができる」ではなく、「考えることができる」ことが大事なのだ。自分の頭で、自らの立場でものを考えることができる人材を育てていくことこそが、いま必要なのである。

既製品が必要な世の中は、もう終わろうとしているのではないだろうか。戦前に生まれ育った人たちには、型破りな人材が多数いた。そのような人たちが日本を引っ張り、世界の中の日本に育て上げていったのだ。
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豊田市図書館の30冊

204『世界史で読み解く現代ニュース<宗教編>』

291.35『東京ディズニーランド&シーでアトラクションにサクサク乗れちゃう裏ワザ』

159『無脳力』

361.9『社会調査の考え方[上]』

289.1『山本五十六 戦後70年の真実』

141.6『情動の仕組みとその異常』情動学シリーズ

141.6『情動の進化』情動学シリーズ 動物から人間へ

749.13『校正という仕事』文字の森をゆき 言葉の海をわたる

541.66『磁石の発明特許物語』六人の先覚者

501.6『「エネルギー自治」で地域再生!』飯田モデルに学ぶ

440.76『全国プラネタリウムガイド』

290.1『地域分析ハンドブック』Excelによる図表づくりの道具箱

318.6『人口減少×デザイン』地域と日本の大問題を、データとデザイン思考で考える

304『同調圧力にだまされない変わりものが社会を変える』

596.65『パンケーキ プロフェッショナル テクニック』有名シェフの創作&新提案

910.2『社会人のための国語百科』ビジュアルカラー

596.7『人気カフェ・バリスタのユニーク ドリンク』「個性」あふれるドリンクレシピ117

007.3『ザ・プラットフォーム』IT企業はなぜ世界を変えるのか?

493.24『図解動脈硬化を予防する!』最新治療と正しい知識

159.4『30歳から伸びる女、30歳で止まる女』

159『世界を「仕事場」にするための40の基本

141.34『読んだら、きちんと自分の知識にする方法』

007.3『サイト別 ネット中傷・炎上対応マニュアル』

010.4『図書館の基本を求めてⅦ』『風』『談論風発』2012~2014より

007.3『ソーシャルメディアの罠』

188.77『本願寺白熱教室』お坊さんは社会で何をするのか

913.6『日本イスラム大戦Ⅳ』終わりなき戦い 2021

146.8『自殺をケアするということ』「弱さ」へのまなざしからみえるもの

915.6『巴里ひとりある記』

914.68『エッセイをどう書くの? こう書いた!』
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プラットホームという概念

プラットホームという概念

 国家はプラットフォームというけど、宗教の方がさらに大きなプラットフォーム。この指摘をしている本「ザ・プラットホーム」は先に進むことで、ドンドン視野が狭くなってくる。拡げていかないとダメです。それを行うのは、私なんでしょう。

新刊書争い

 3時には図書館に着いて、新刊書を争って、ゲット。先週の少なさを補完しないと。

 8冊をOCR化。まあまあですね。イスラムと仏教が進歩がみられた。これらは、皆のターゲット外だから、焦ることはない。それにしても、あの禿鷹どもは何を求めて来ているのかね。

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