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自律した「大人」になるための教育

『まず教育論から変えよう』より キャリア教育になにが期待できるか

「夢追い」と「現実適応」のあいだで翻弄される子ども・若者たち

 キャリア教育については、まだまだ書きたいこともあるし、多様な論点や争点もありうるのだが、すべてを論じている余裕はない。ここでは、締めくくりとして、ここまでの視点を大転換してみよう。―そもそも、いま現在、キャリア教育を受けている子どもや若者たちにとって、「キャリア教育」とは、いったいなにものなのか、と。

 おそらく、キャリア教育の個々の取り組み(自分史の作成、適性検査の受検、社会人講話、職業調べ、職場体験やインターンシップ、職業人インタビュー、上級学校や大学の学部・学科研究、ライフプランの作成、などなど)にかんしては、「自分の将来について、真剣に考えるようになった」とか、「仕事の世界について興味がもてるようになった」とか、「職場体験で仕事の厳しさや働く人の苦労がわかった」とか、「自分の〝夢〟に向けて頑張ろうと思った」といった子どもたちの声を聞くことができるだろう。それはそれで、取り組みのねらいは、実現している(もちろん、それが、どれだけの範囲の子どもに届いたのか、実際に子どもや若者の進路選択に役立ったのか、といった点については、それこそケース・バイ・ケースなのであろうか)。

 だから、僕も、これまでのキャリア教育を全面否定するつもりはないし、そんなことをする必要もない。ただし、ここで問題としたいのは、そうしたキャリア教育の個々の取り組みの成否ではない。キャリア教育が導入されたことで、子どもたちの意識や行動には変化がみられたのか。彼らは、それ以前の子どもたちに比べれば、より入念に「将来への準備」ができるようになったのかが、問われなくてはいけない。

 この章の冒頭で、子どもと若者が、学校から仕事の世界に渡っていくための〝梯子〟が、なかば外されかけていると書いた。そのことを念頭におきながら、これまでのキャリア教育のあり方を全体としてふり返ってみれば、そこに、つぎのような構図が浮かびあがってくるのではないか。

 端的に言えば、このかんの取り組みは、「夢追い型」キャリア教育で、子どもたちをさんざんかきまわしつつ(ときには「夢」を焚きつけ、ときには「自分探し」の〝迷宮〟へと彼らを誘い)、その後は、「とにかく目標に向けて頑張れ!・」の号令しかかけることができなかった。当然、卒業という「出口」においては、「夢」はかなうこともあるが、実際にはかなわないことのほうが多い。そのさいには、結局のところ、現実原則が優先することになり、子どもたちには、なりふりかまわず、どこかの(空席のある)梯子にしがみつかせようとしてきたのではないのか。つまりは、心ならずも「適応型」キャリア教育論に道を譲ってきたということである。

 この意味で、「夢追い型」キャリア教育論と「適応型」キャリア教育論は、その理念的な側面は正反対の関係に立つが、しかし、実体はメダルの表裏の関係にあり、前者は、後者へと容易に転化してしまう可能性(危険性)を秘めてもいたのだ。

 そうだとすれば、だれがどう考えても、最大の被害者は、子どもたち・若者たちにほかならない。彼らは、思いきりアスピレーション(欲望)を煽られたあげくに、最終的には、なんの〝防備〟ももたされずに、「現実」へと突き落とされることになったのだから。

なにを大切にし、どう生きるのかのなかに仕事を位置づける

 では、本来、求められたはずのキャリア教育とは、いったいどんなものだったのか。

 もう一度、先の図に戻ろう。求められるのは、座標軸の原点に位置づくキャリア教育のかたちである。

 タテ軸に即していえば、社会適応や「現実」のがわに偏るのでも、子どもたちの「夢」や「やりたいこと」にだけ偏るのでもない、中庸のポジションが求められる。社会や職業世界についてのじゆうぶんな学習と、自己理解や「やりたいこと」についての探究をくり返し往復しながら、子どもと若者には、「現実」と「夢」のあいだにご斑り合い〃をつけることのできる判断力や行動力を身につけてもらう必要がある。

 ヨコ軸にかんしていえば、ワークキャリアに傾斜するのではなく、ライフキャリアにも目配りしたキャリア教育が求められる。「学校」から「仕事の世界」 への〝梯子〟が外されかけた状況とは、たしかに厳しい環境ではある。しかし、それは、これまでの社会の「標準」とは違うかたちで、学校から仕事の世界へとJ波る〃選択肢が生まれているということでもある。

 組織が個人のキャリアを開発してくれる時代は、終焉に向かいつつある。これからは、個人がみずからのキャリア開発をしていく時代である。そうした時代に対応するには、「職業人」であるまえに、まず自立した「大人」である必要がある。自分がなにを大切にし、どう生きていくのかという大きな展望(方向感覚)のなかに、みずからが働くことを位置づけることが求められている。キャリア教育は、そうしたことのできる個人の形成をめざし、そのための準備に資する幅広い教育であるべきであろう。
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