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ゴータマ・ブッダの個人完結する目覚めと他者の欠落

『本願寺白熱教室』より 「葛藤する存在」が作り出す公共性--欲望から公共圏の可能性を考えよう

ゴータマ・ブッダは、六年間の出家修行の末、三十五歳のときに菩提樹のもとで宗教的な目覚めを完成したと伝えられている。

そのときの彼の言葉:「為されるべきことは為し終えられた」、あとは完全なる涅槃、すなわちこの身体が滅びるのを待つのみ、と言う。彼が目指していたいわゆる「解脱」、さまざまな苦しみからの解放や、「涅槃」、煩悩の止んだ平安の境地は、まさにこの時点で完成、完結したのである。

ここから私たちは、次のことを確認しておこう。ゴータマ・ブッダの宗教的な目覚めとは個人で完結するものであり、そこには他の人々、現代的に言えば「他者」への関心はない。だから、ゴータマ・ブッダの宗教的な目覚め、彼の解脱には、原理的に「他者」は関わりがないと言えよう。実践的な慈悲の思想は、彼の宗教的目覚めの必要条件には含まれていない、ということだ。

そもそも、彼の認識によれば、「怨憎会苦、愛別離苦(嫌なヤツにも会わなければならず、愛おしい人たちとは別れざるを得ない苦しみ)」であり、つまり「他者」との関わりは苦をもたらすだけである。だから、弟子たちには人間関係を断ち切り、「ただ一人、犀の角のように歩め」と勧めるのだ。

ところが不可解なことに、目覚めが完成したすぐ後、ゴータマ・ブッダは解脱の喜びを味わう瞑想を数週間にわたって続けるのだが、瞑想するゴータマ・ブッダの意識に天上界の神である梵天が登場し、人々に教えを説くよう懇願し、一方で悪魔たちは、彼に説法などせずに、そのまま完全なる涅槃を遂げるよう誘惑する。もちろん、梵天も悪魔たちも、現代的にはゴータマ・ブッダの心の葛藤だと解釈されているが。そして、彼は躊躇しつつも、とうとう教えを説くことを決心する。

しかし、そもそもおかしいではないか? 「他者」を遠ざけて、宗教的な目覚めを完成した人物が、目覚めの後に、なぜこのように葛藤するのだろうか?

この話は、伝統的に「梵天勧請」と言われる出来事の理由、必然性に関して多くの研究者がさまざまに推論してきたが、私は納得できる解釈に出会ったことはない。唯一、やや説得力ある解釈は、菩提樹のもとでの解脱の自覚から梵天勧請による説法の決意までのプロセス全体をゴータマ・ブッダの宗教的目覚めであるとする、中村元の解釈である。ただし、この解釈には文献的な根拠はない。いずれにせよ、なぜ彼が「他者」に教えを説きはじめたかは、相変わらず謎である(としておこう)。

本章では、この謎解きを一つの軸にしながら、新たな公共性の理論を構築してみたいと思う。人間ゴータマが「説きはじめる」ことを決断した結果、仏教が誕生し、やがて大乗仏教という新しい宗教運動が胎動することとなる。ゴータマ・ブッダの悟りの謎解きをしながら、その悟りが、その後の人類史に何を生んだのかを見ていこうと思う。
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信頼関係の難しさ

『ソーシャルメディアの罠』より コミュニケーションを問い直す

コミュニケーションにおける信頼関係の難しさについて触れておきたい。

難しさを説明するとき、それを阻むものを考えると、比較的イメージできる。では、コミュニケーションの大きな目的である信頼関係を阻むものとは、いったい何だろうか。

まず考えられるものは、相手をよく知らないことによる「無理解」が挙げられる。相手への先入観、思い込みによる勘違い、勝手な解釈による誤解、そしてそもそも相手への無関心が、「無理解」につながる。たとえば、大昔からよく言われるフレーズに「今どきの○○は」という決めつけが出てくる。このようなフレーズが使われる場面をイメージすると、そういってしまうことが言う側にとって楽なのである。ステレオタイプに単純化してしまうことは、一方にとっては実にわかりやすく、深く考えなくても済む。そのようなメリットは確かにあるだろう。しかし、これこそ、まさに「バカの壁」に他ならない。気をつけたいものである。

次に考えられるものとしては、相手に対する「悪意」が挙げられるだろう。相手に対して、嘘をつく、都合の悪いものを隠ぺいする、また意図をもって一定の方向へ誘導する。これらが、悪意のなせる技だと考えられる。先に述べた「同調圧力」やマスコミを絡めた「沈黙の螺旋」、さらにプロパガンダなどは、悪意の程度はさまざまだが、相手を自分の都合の良いようにコントロールしたいという思いに基づいている。インターネット上ではソーシャルメディアを通して、このようなことが比較的やりやすい環境が整っている。先に「激情化の罠」でも述べたが、インターネットが普及する以前よりも、「悪意」を形にし、容易に撒き散らしやすい道具立てや環境はすでにある。ちょっとした心の隙が、「悪意」に取り込まれないよう、十分注意しておきたいものだ。

さらに、「自己保身」や「自己愛」が考えられる。どちらも程度の問題であり、「自己愛」のない人間などいない。しかし、それらが過度になることによって、相手が見えなくなってしまう。そして、上から目線で相手と対したり、一方的に依存する関係になってしまったりと、アンバランスな関係を生みやすくしてしまう。Twitterでのつぶやきや、Facebookでのコメントには、実に「自己愛」がふんだんに盛り込まれているものが少なくない。本人にとって多少のストレス解消になるメリットは認めるとしても、信頼関係を損なうことは間違いないだろう。誰もが、気をつけておきたい点だ。

それでは、以上述べてきた阻害要因に対して、信頼関係につなげるためには、どのような姿勢や考え方が求められるのだろうか。

「無理解」に対しては、しっかりと向き合って対話するしかない。対話の大切さについては、詳しく後述したいと思うが、相手から多くの情報をいかに引き出せるかにかかっている。その意味で、対話には「聞く力」が試される。さらに発展的に捉えれば「取材力」ともいえるだろう。

同時に、自分のことを可能な限りオープンにすることも、対話には重要である。普段接している大学生を見ていて、相手に対して「探り」を入れることは割によくやるが、自分のことを相手ヘオープンに伝えることが、かなり苦手な印象を受ける。自分をオープンにすることが、相手もオープンにさせやすくなるといった経験が不足しているのかもしれない。いずれにしても、対話を通して双方のリアルな情報を、どれだけ共有できるかが信頼関係には重要である。

「悪意」に対しては、どうすればよいのだろうか。ただ、ひたすら相手に「善意」と「誠実さ」を期待しても虚しい気がしてしまう。結局のところ、「悪意」は自分に返ってくることを、お互いに理解するしかないのではないだろうか。堅実な経営を心掛けている多くの企業の場合、経営の透明性を高める努力をしている。単にオープンにするというより、誰がどこから見ても恥ずかしくない状態を常に維持する環境を仕組みとして作る。このことにより、「悪意」が入り込みづらくすることにつながると期待する。個々の人間の場合は、さしずめ匿名ではなく実名でコミュニケーションをする。立場を明らかにし、場合によっては顔出ししてコミュニケーションをすることで、かなり「悪意」が入り込める余地が縮小するのではないだろうか。「悪意」に関しては、モラルに訴えるのではなく、それができなくなる環境をいかに作れるかが、鍵のように思っている。

「自己保身」や「自己愛」に対しては、相手を利することが自分に返ってくるような相互利益を考えることが大切である。ゲーム理論の中で「囚人のジレンマ」といった考え方がよく紹介される。損得を考えると、結局のところ相手のことを考え、協力し合うことが、最も賢い選択であることが示されている。自分にしか目がいかず、相手が見えなくなってしまうことが、いかにお互いの利益を損ねてしまう可能性が高いか。それを、お互い学ぶしかないのかもしれない。

また、「自己愛」は他者への依存である場合も考えられる。信頼関係は、対等な関係であることが基本である。その前提を損なわない範囲で、お互い認め合える工夫を考えることも、ときに必要だろう。信頼関係を築くことは難しい。それを長く維持することは、さらに難しい。しかし、なぜ難しいのかをある程度理解し、常に意識しながらコミュニケーションを行う癖をつけることによって、阻害要因をかなり遠ざけることができるのではないだろうか。

最初から、信頼関係など無理だとシニカルに諦めてしまえば、どんなにコミュニケーションを重ねても、長続きのしない偏ったものになるに違いない。

この章で、考えてきたことを振り返るとき、コミュニケーションというもののスケールの大きさとともに、信頼関係という永遠のテーマがコミュニケーションと深く関わっていることに、改めて気づかされる。
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同調圧力の罠

『ソーシャルメディアの罠』より

同調圧力の罠から述べよう。冒頭で女子大生のコミュニケーション風景を眺めてみたが、その中で最も強く感じられるのが、この同調圧力である。

人間にとって、他人や仲間と同調することは、ときに必要である。仲間で何かを決めるとき、仕事である課題解決の方向を見出すとき、そのほかいろいろな場面で同調する。それが、協調であったり、妥協であったりと、意味合いはさまざまだが、相手の意見、場の主流となる考え方を受け入れることは少なくないだろう。

そこで、最初に社会心理学での「同調」といわれる考え方を、まずおさえておきたい。

同調とは、「判断、態度を含む広義の行動に関して、他者あるいは集団が提示する標準や期待にそって、他者あるいは集団の標準と同一あるいは類似の行動をとること」だ。そして、同調は「内心からの受容をともなったもの(内面的同調)」と、「外面だけの同調(外面的同調)」とが区別されるという。

また、同調行動が起こる要因には、他者の判断や行動を参考にしようとする「情報的影響」と他者からの賞罰を考慮することによる「規範的影響」の2つがあるそうだ。前者では「他者の情報源としての信憑性」が、後者では「他者との好意的関係またはそれへの希求」が同調を促進する。

このようにみてくると、同じ同調でも、内心から信用して同調する場合と、うわべだけで嫌われたくないから心ならずも同調する場合まで幅広い。女子大生がゼミの場で見せる同調傾向は、どちらかというと空気を読んで周りに合わせようとすることが多いため、規範的影響による外面的同調の色彩が強い。ただ、ゼミというオフィシャルな場であることや、人数が10名程度で、メンバー間でかなり結びつきの強さが認められることから、同調傾向がより強まるのも無理はないともいえる。

ただ、彼らのソーシャルメディアでの状況を考え合わせると、「規範的影響」がさらに強化され、リアルなゼミの場面での同調傾向をさらに強める関係が作られていることを感じる。それは、とくに彼らの世代が子ども時代を過ごしてきた環境を踏まえると、「いじめ」の与えてきた「規範的影響」は看過できないレペルにあり、大学生になってもそのような仲間関係であり続けているからである。

考えてみれば、LINEにしろFacebookにしても、同調傾向を強める方向に働く同調圧力を発揮するものばかりが目に付く。LINEの頻繁なやり取り、とくに「既読機能」を通したそれぞれの存在確認は、同調圧力に間違いなく機能している。Facebookの「いいね」機能による同調の強制、さらに申請・承認を迫る「友達機能」の頻繁な働きかけも、それらを無視することはかなり勇気が必要だろう。なぜなら、彼らが日々利用するソーシャルメディアの現実的な広がりは意外と狭く、そこをうまく乗り切っていかないと、リアルな日常場面にも直結するからである。

若者ばかりではない。社会人でも職場での関係、仕事を通した取引先との関係で、ソーシャルメディアを通して同調圧力をかけられる場面は少なくないだろう。「既読スルー」に関するLINEのフリーアンサーで、「すぐコメントを求められる。返事に迷う(とくに目上、先輩)」といったコメントに、同調圧力の強さを改めて感じる。「「いいね」が少ないとかわいそうな気がする」「「いいね」のやりとりも億劫になり、とりあえず登録しているだけ」のようなFacebookのコメントにも同調圧力の匂いを感じてしまう。

では、なぜ同調圧力がソーシャルメディアを通して機能しやすくなっているのだろうか。少し考えてみよう。

同調による関係を強めることによって、手に入れられるものとは何か。まず挙げられるのは、自己防衛だろう。いじめのことを考えてみればわかりやすい。味方として固まることによって、集団の中で身を守りやすくなる。他には、孤独の解消ではないかと考える。1人でいることは、ある意味で自己責任が常に問われることでもある。人とつながることによって、責任への負担感が相対的に減るとともに、一緒でいることの安心感が生まれる。

しかし、その反面、口を閉ざし、うわべだけの関わりになりがちである。そして、それが当たり前の行動スタイルになってしまえば、そこから抜け出すことは容易ではなくなる。

ソーシャルメディアを絡めた同調圧力は、世論にも少なからず影響を及ぼすだろう。マスコミ理論の中に「沈黙の螺旋理論」がある。これは、1980年代にノエル・ノイマンにより提唱された、以下のような考え方である。

 「ある争点に関する立場Aが立場Bに対し、ひとたび優勢であると認知されると、立場Aの人々は公共的な場でみずからの主張を訴えやすくなり、逆に立場Bの人々は訴えにくくなる。このことが立場AをBに比して現実の意見分布以上に優勢であると認知させるようになる。この過程が繰り返されると、立場Aに対する同調行動が広範に生じ、一方立場Bは沈黙を強いられる…」

少し引用が長くなってしまったが、同調行動が世論レべルに広がることを指摘しておきたいからである。ソーシャルメディアによる同調圧力が、従来のマスコミによる世間への働きかけに加え、ある考え方を補強するように働くとしたら、「沈黙の螺旋理論」も従来より一段と強いものになることが予想される。

ソーシャルメディアは、リアルな現実と当然のことながら無関係ではない。個人や狭い集団における仲間関係にとどまらず、広く世間へも影響を及ぼすだろう。昨今の企業不祥事を絡めた、Twitter上を中心とした企業叩きは、その影響力の大きさを物語る一例である。

いずれにしても、ソーシャルメディアは、すでに内在化された機能により同調圧力を高める方向に働くものであること、さらに社会にも広くその影響を及ぼしかねないものであることを、ユーザーは忘れてはならない。さもなければ、同調圧力の罠にまんまと陥り、周りに縛られ、たびたび振り回されるような関係の中で、生きていかざるを得なくなることが懸念される。
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考えられる体制

考えられる体制

 9時過ぎに駅前のスタバに考えるためにやってきた。あかりさんは7時半から4時までの勤務。パートだと、きついものがあります。Iさんは、4時間ベースでやっていた。

 考える体制に戻しましょう。どんな時でも考えられるための道具は作りました。どっから始めるかです。やはり、歴史編でしょうね。テーマとの交差です。

 一つ一つのレベルを上げるしかないのか。空間配置を楽しむことでしょうね。内容をどう変えたのかではなく、自分がスッキリしたかどうかが問題です。これは毎回、パートナーに言っていることです。

 同じ「国民国家」にしても、ジャンルだと、歴史認識から言えるけど、テーマの場合は政治経済から見ます。そのクロスによって、「国民国家」がどう変わるか。そこからどうして、本質を見ていくのか。そうなるた、やはり、細目をキッチリさせていかないといけない。

コンテンツの一致

 先ずは、三つのタブレットのコンテンツを同期化することです。あのタブレットは印刷物だから、3枚の紙切れがある状態です。

 キンドル・ペーパー・ホワイトは進化しないから、これで行うしかないでしょう。帰りに、エイデンに寄ってきたけど、何も変わっていないし、16GMしか置いていない。私はアマゾンで直接購入したものは、64GMの容量だけに拘った。これは正解でした。

空間配置をカタチにする

 ポイントは配置だということです。近傍系です。その近傍をどうつなげていくのかは、座標系から与えられる。同じ項目をジャンルとテーマで分けていきます。それに実体験です。それが自分の存在とどう関わるのかが、最終的なテーマなんでしょう。

パソコンの使用

 そうなると、パソコンを使うしかない。家でのパソコンに、もう一度、入り込みましょう。それよりも開始すること。8時からの作業開始、それだけを決めましょう。

 図書館へパソコンを持って行くのは、恰好づけだけです。人との接点はスタバだけにします。タブレットには、最新のプレゼンを入れ込んで考えるとしては精々、一時間です。

 家なら、夜の12時までできます。8時から24時まで。「7-11」+1=8-12

さあ!

 歴史から始めましょう。一番大きそうだから。寝る前には、その日までのモノを反映させて、そこで見る。成果を確認することで、一日を大切に!

ギリシャの状況

 玲子さんからメールがないから、スカイプでやり取りしている妹に電話して、状況を入手。

 ソホクリスはまた、シリア国境沿いのレバノンです。玲子は1週間入院。だから、メールが返ってこないのか。
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